松下村塾
萩市椿東1537 松蔭神社境内


昌平坂学問所(湯島聖堂)
東京都文京区湯島1-4-25


松陰先生終焉之地(伝馬町牢屋敷跡)
東京都中央区日本橋小伝馬町十思公園

松下村塾

安政元年、吉田松陰は弟子の金子重之輔と二人で小船で黒船に乗り込み、密航する計画を企てるが、船員達はそれを拒否して二人を陸に戻す。松蔭は下田町隣村の名主に自首し、下田で取調べを受けた後、伝馬町の牢屋敷に送られた(この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている)。
その後、長州へ檻送され野山獄に幽囚された。翌年、出獄を許され幽囚(自宅謹慎)処分となった。
松陰の叔父玉木文之進は、自宅で私塾(寺子屋)を開き、松下村塾と名付けていた。松蔭が謹慎処分を受けていた頃は、外叔である久保五郎左衛門が引き継いで、子弟を教育していた。
松陰は自宅に設けられた幽囚室で、近隣の者を相手に孟子の講義をはじめ、それが評判となり萩城下に広がった。久保五郎左衛門もこの講義を聴き、自然とこの講義が松下村塾となっていった。当初はたった3畳という狭い幽囚室で行なわれていたものの、受講するものが増えると杉家の納屋を改築して塾舎とした。
松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れる。

一方、晋作は19歳にもなると、剣術修行だけでなく明倫館の授業にも本腰をいれ、成績優秀者が選ばれる居寮生となっていた。しかし、勉強をしてみると明倫館の授業では何かが違うと感じたのか、幼馴染の久坂玄瑞に誘われて松下村塾の門を叩いた。松蔭は晋作の非凡な才能を見抜き、久坂と競わせることにより、その才能を鍛えた。晋作は松下村塾で久坂と共に、双璧と呼ばれるまでに頭角を現した。しかし、晋作の松下村塾在籍は、わずか1年余りであった。藩は晋作に江戸への遊学を命じ、晋作は大橋訥庵の大橋塾や、幕府直轄の昌平黌(昌平坂学問所)で学んだ。

松蔭と離れた晋作であったが、安政の大獄が始まり松蔭は捕らえられて、江戸へ連行される。伝馬町牢屋敷に幽閉された松蔭に、晋作は差し入れ等に尽力した。しかし、晋作は藩からの帰郷命令により萩に帰らされてしまう。その後、松蔭は取り調べで老中間部詮勝の暗殺計画を自供。死罪となった。
晋作が松蔭の死を知らされたのは、萩に帰ってからのことであった。


安政元年 吉田松陰、密航失敗。野山獄に幽閉される。
安政2年 吉田松陰、野山獄を出所。謹慎処分となる。
安政4年 吉田松陰、松下村塾の主宰となる。晋作、松下村塾入門。
安政5年 晋作、江戸へ遊学。
安政6年 松陰、安政の大獄により投獄され処刑。晋作、萩へ帰郷。

吉田松陰の松下村塾出身者は、高杉晋作以外にも久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義など蒼々たるメンバーです。しかし、松門四天王と呼ばれる高杉、久坂、吉田、入江は皆、明治維新を見ずにこの世を去ってしまいます(高杉(病死)、久坂(禁門の変)、吉田(池田屋事件)、入江(禁門の変))。吉田松陰の松下村塾は、わずか2年余りの短い期間でしたが、その短い期間の中で塾生達に実学を教えました。松下村塾時代のエピソードは、明治の元勲達によって色々と語られ、現在に伝えられています。

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