賀茂別雷神社(上賀茂神社)

京都市北区上賀茂本山339


奇兵隊結成の地
下関市竹崎町3丁目8番13号


教法寺
下関市赤間町3-16


奇兵隊結成

文久3年、江戸を発って帰郷途中、京都に滞在する。京都では、孝明天皇が攘夷祈願のために上賀茂神社・下鴨神社へ行幸。晋作はこれを見物している。その後、晋作は頭を剃って出家し「東行」と名乗って、10年の暇を藩に願い出た。周布政之助は、京都藩邸で世子毛利定広に晋作が切った頭髪を見せ、晋作の暇請を報告する。定広はその頭髪をみて溜息をついたといわれている。当の晋作は、着流しに坊主笠をかぶり腰に短刀を吊るして、酒の入ったひょうたん片手に傍若無人に京を横行。狂人の如くふるまっていた。周布は晋作に萩に帰る事を進め、晋作は大阪から海路で萩に向かった。萩に帰ると、頭髪が伸びるまでは松陰の遺書を読んで、草堂で生活すると松本村の奥地に閑居する。しかし、晋作は2ヶ月足らずで藩に呼び出されることになる。下関で攘夷を決行していた長州藩は、外国船から反撃にあって砲台を破壊されてしまう。この危機に対して、藩主及び藩首脳陣は、晋作に下関防御を命じた。晋作は下関に直行して、小倉屋店主白石正一郎邸に入る。外国の侵略から長州を守るためには、士民問わずすべての者が戦いに参加するべきであると、身分を問わぬ有志あるものを募集し「奇兵隊」を結成。自らも奇兵隊総督となった。馬関総奉行手元役、政務座役にも任命され、奇兵隊も町人・農民や下級武士の次男・三男が続々入隊する。しかし、もともと下関の防備についていた藩正規軍の撰鋒隊と、奇兵隊の間に確執が発生。撰鋒隊士は奇兵隊を「百姓兵」「烏合の衆」などと罵り、奇兵隊士は外国船に敗退した撰鋒隊を「腰抜け侍」と罵り、両隊の感情的な対立が深刻化していた。奇兵隊は前田砲台、撰鋒隊は壇ノ浦砲台を担当しており、世子毛利定広が両砲台を視察することとなっていた。最初に奇兵隊が銃隊の訓練や剣術試合などを披露し、続いて撰鋒隊が披露する事となっていたが、時間が押して日が暮れたため撰鋒隊の披露は中止となる。怒った撰鋒隊士は視察を仕切っていた奇兵隊士宮城彦輔の陰謀であるとして、宮城を激しく罵倒。宮城ら激昂した奇兵隊士数十人は、撰鋒隊の屯所である教法寺に押し入り、病臥中の隊士蔵田幾之進を斬殺する。その報復として撰鋒隊士らは、奇兵隊用人奈良屋源兵衛を殺害した。藩はこの同士打ちの責任を奇兵隊士宮城彦輔にあるとして切腹を命じる。晋作も結成後、たった3ヶ月で奇兵隊総督を罷免されてしまう。河上弥市と滝弥太郎の二人がその後任となり、奇兵隊の本拠も小郡に移動させられた。

文久3年3月 賀茂行幸を見物。髪を剃って「東行」を名乗る。
文久3年4月 萩に帰郷。草庵で生活。
文久3年6月 下関防備を命じられる。奇兵隊結成。
文久3年8月 教法寺事件。
文久3年9月 奇兵隊総督を罷免される。

晋作は賀茂行幸の際、随行した将軍徳川家茂にむかって「征夷大将軍!」と野次を飛ばしたとされています。その後、いきなり坊主頭にして10年の暇をもらい、着流しで街をうろつき酒に溺れます。まさに狂人にでもなったのかと疑う行動です。これは忠臣蔵の大石蔵之助が、酒に溺れたフリをしたというのを真似したのでしょうか?また、坊主頭にしたのは、後のザンギリ頭にするための準備であったとする説もあります。とはいえ実際に晋作は、世捨て人になるつもりだったようです。しかし、時代は晋作を必要とします。関門海峡で攘夷を行っていた長州藩は、外国船の圧倒的な破壊力に驚き、下関防備を晋作に一任します。ここで晋作の偉業の一つ。「奇兵隊」が結成されます。身分を問わず有志を集めるという画期的な軍隊は、後の明治軍制の大元といえるでしょう。この奇兵隊の結成以降、長州には多数の諸隊が結成されることとなります。・・が、残念なことに隊士らの不祥事により、晋作は総督を罷免されてしまいます。この頃、晋作が奇兵隊を率いて大阪城を攻撃し、天誅組と合流するという噂が流れたそうです。もし、本当にそんなことがおきたら面白いでしょうね。


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