【三百諸藩の幕末の動向】東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩
【その他リストなど】幕末明治の艦艇/御三卿・幕府直轄地拠点/幕末人物 墓所訪問
【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊地町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関~唐戸)/彦島


前田台場跡

下関市前田町1丁目


世外井上馨候遭難之地
山口市中園町


功山寺
下関市長府川端1丁目


功山寺挙兵

禁門の変により、朝廷は長州藩追討令、幕府は征長令を発する。同時に長州藩主毛利隆親、世子毛利定広は、官位剥奪された。同月、英仏蘭米の四ヵ国の連合艦隊が下関を攻撃。海岸線の各砲台か破壊されるなど、手痛い損害が出て惨敗した。
長州藩は幕府の征長軍の来襲に備える為、四ヵ国と講和を進める。その使節として晋作に白羽の矢が立つ。晋作は、筆頭家老宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗り、四ヵ国連合艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んで、キューパー司令官との談判に臨んだ。イギリス側の通訳のアーネスト・サトウはこの時の晋作の様子を「魔王」と表現している。
講和は連合国側の要求を受け入れて成立。晋作は何の反対もせずにほとんどの要求を受け入れたが、彦島の租借の件に関してだけは猛反対したと、交渉で通訳の任についていた伊藤博文が後に語っている。
度重なる敗戦を受けて、徹底恭順派と武備恭順派で意見が対立。井上聞多は、君前会議において武備恭順を提言して熱弁を振るうが、君前会議の帰り道に刺客に襲われて重傷を負った。同日、周布政之助が失政の責任を負って切腹し、徹底恭順を唱える保守派が実権を握った。

危険を感じた晋作は、萩を脱出して筑前に亡命。野村望東尼の平尾山荘に潜伏する。その間に保守派は三家老切腹、四参謀処刑、五卿の藩外退去など、幕府への徹底恭順を進めた。三家老切腹、四参謀処刑の報を知った晋作は、平尾山荘を辞して帰国の途につく。
下関に帰った晋作は、奇兵隊屯所を訪ね決起を促すが、時期が悪いと同意を得られなかった。なんとか遊撃軍と伊藤俊輔の力士隊の計80人の協力を得られた晋作は、功山寺にて挙兵する。長州藩の新地会所を襲い物資の調達を目論むが、新地会所から物資は運び出された後であった。有志により物資を調達した晋作は、集古隊、壮士隊、農兵隊、好義隊、盤石隊を指揮下に置き、三田尻の海軍局では「丙辰丸」など軍艦3隻を奪取した。

元治元年8月 下関戦争。
講和の使者として連合艦隊司令官との談判。
元治元年10月 長男梅之進誕生。
元治元年11月 平尾山荘に潜伏。
元治元年12月 功山寺にて挙兵。新地会所を襲う。
元治2年1月 三田尻で軍艦3隻を奪取。

下関戦争の講和では、宍戸刑部と名乗って大紋に鳥帽子で臨みます。「魔王」のような態度で談判しますが、連合国側からの要求をほとんど受け入れていたようです。しかし、300万ドルの賠償金は、長州が外国船に発砲したのは幕府の攘夷期限の命令を実行したのだから、賠償金は幕府が支払うべきと主張。連合国側も、300万ドルの大金を長州藩がが支払えるとは思っていなかったようで、請求先を幕府に移行した方が、捕りはぐれが無いと思ったのかその主張を呑んでいます。彦島租借の件は文献に残されておらず、唯一伊藤博文の証言で知られるだけです。
保守派(俗論党)に乗っ取られた藩政を奪回する為に、晋作はクーデターを起こします。伊藤博文は後年、このクーデターにいち早く参加したことを誇りに思っているようです。
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや。

まさに伊藤博文の言葉どおり、晋作はその短い晩年をひた走ります。



                    戻る 次へ

                 高杉晋作略歴に戻る


トップページへ