長府藩人物録(清末藩含む)

長府藩(長門府中藩)
       5万石 長府毛利家 長府陣屋、勝山御殿
支藩:
清末藩 1万石 清末毛利家 清末陣屋

長府藩は、毛利元就の四男穂井田元清の子で、毛利輝元の養子となった毛利秀元を藩祖とする。政治的・経済的要所であった下関を領地とし、攘夷戦や四境戦争を宗藩である長州藩と行動を共にした。
清末藩は、第4代長府藩主毛利綱元が、叔父の毛利元知に1万石の分知を与えて立藩した支藩で、長州藩から見れば孫藩に当たる。


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あ行


阿曽 沼次郎

あそ ぬまじろう
(1850-1916)
長府藩

北海道の基幹道に大きな影響を与えた測量技師
嘉永3年、長府藩士阿曽沼荒太の長男として生まれる。長州藩校明倫館に入学して兵法を学び、戊辰戦争では報国隊士として北越戦争や会津戦争に従軍した。戦争後、上京して慶應義塾に入門し、測量術を学ぶ。明治4年に工部省に入り、館潔彦らとともに日本最初の三角測量を東京府下で担当。次いで内務省地理局量地課や、勧農局地質課に在籍し、倉田吉嗣、関野修蔵、大川通久、神足勝記らと共にドイツ人技師と共に地質調査のための地形測量を行った。他、フォッサマグナ地域の地磁気偏角調査等も行っている。明治20年、北海道庁が開庁されると、初代長官として就任した岩村通俊に招かれ、福士成豊の事業を引継ぎ、基線測量、三角測量を基礎とする地図作成事業を10年弱を費やして、縮尺1/200,000地形図を陸地測量部による輯製20万分1図に先駆けて完成させた。その後は殖民地区画図作成に従事。現在の北海道の基幹道に大きな影響を与えた。 明治33年には、油田の調査事業にあたった。大正5年に死去。


変名:
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


有川 恒槌

ありかわ つねつち
(1846-1864)
長府藩

禁門の変に散った長府藩攘夷派の急先鋒
弘化3年、長府藩士有川乃右衛門の長男として生まれる。藩校敬業館に学ぶ。文久2年、藩の尊皇攘夷派の同士と共に脱藩するが、翌年長府藩主毛利元周の上京時に、脱藩の罪を許され帰藩。藩主と共に賀茂行幸に参加した。同年、泉十郎や福原和勝らと共に精兵隊を結成するが、久坂玄瑞を師事して上京。元治元年の禁門の変に参加し、鷹司邸にて戦死した。


変名:有川紀綱
主な役職:−
剣術:−
墓所:京都市上京区 相国寺、下関市長府 功山寺


泉 十郎

いずみ じゅうろう
(1839-1866)
長府藩

隊内政争によって切腹させられた攘夷派剣客
天保10年、長府藩士萩野十郎左衛門の三男として生まれる。江戸に出て千葉周作に剣を学ぶ。文久3年、長府藩の青年武士達を集めて精兵隊を結成。文久元年、京都を追われた三条実美ら七卿を護衛する。慶応元年に報国隊を創設し都督となる。しかし、同隊の軍監で保守派の熊野九郎と対立。保守派要人の暗殺をくわだてたとして、切腹を命じられた。


変名:野々村勘九郎、荻野十郎、泉茂次
主な役職:長府藩寺社奉行、長府藩町奉行、目付役、報国隊都督
剣術:北進一刀流剣術
墓所:下関市長府 功山寺


印藤 聿

いんどう のぼる
(1831-1911)
長府藩

坂本龍馬と長府藩のパイプ役を果たした明治の実業家
天保2年、長府藩士下村又三郎高輔の三男として生まれる。藩校敬業館に学ぶ。嘉永6年、長府藩士印藤吉郎佐衛門の養子となる。安政2年より藩主警衛や近習雇従役を努めた。文久3年の下関攘夷戦では、その指揮を担当。報国隊が結成されると軍監となる。慶応3年、藩領の埋め立てを進言し、水田や塩田を築いた。明治4年、家督を長男にに譲って帰商。明治6年、塩浜問屋を設立。明治10年、旧長府藩失業士族の救済の為、「豊永組」や「士族就産義社」を士族授産事業として立ち上げる。その後、実業家として数々の企業に関連し、また学校や警察等の公共機関に多額の寄付で大きく貢献した。明治36年、衆議院議員に当選。明治44年に死去。


変名:下村百合平、印藤弁介、因藤聿蔵、豊永長吉
主な役職:報国隊軍監、長府藩小参事兼会計掛、赤間関米商会所頭取、衆議院議員
剣術:今枝流剣術、宝蔵院流槍術
墓所:下関市長府 功山寺


か行


梶山 鼎介

かじやま ていすけ
(1848-1933)
長府藩

昭和まで生きた報国隊軍監
嘉永元年、長府藩士
の子として生まれる。慶応元年、報国隊士に入隊し藩内保守派のひとり林郡平を同士ら3人で暗殺。一時流刑となっていたが許され、下関で活動していた坂本龍馬と親交する。戊辰戦争では、報国隊軍監として活躍。明治4年、元長府藩主毛利元敏と共に、岩倉使節団に同行して欧米に留学。帰国後は陸軍参謀局に配属。その後内務省地理局長や朝鮮弁理公使などを歴任する。明治27年には、衆議院議員となった。昭和8年、死去。


変名:梶山喜代三郎
主な役職:報国隊軍監、内務省地理局長、朝鮮弁理公使、衆議院議員
剣術:-
墓所:下関市長府 功山寺


桂 弥一

かつら やいち
(1849-1939)
長府藩

維新に散った同士たちの功績を世に伝え残す
嘉永2年、長府藩士桂助左衛門の四男として生まれる。乃木希典とは集童場で机を並べてた。報国隊に入隊し、北越戦争に小隊長として従軍。その後、病気を患ったために軍人の道を諦める。健康を回復してからは、東京の農場試験場に勤め、牧畜の技術を習得。明治28年、長府に戻り自営牧場を営みながら、乳牛の飼育や米の品種改良などの農業一般の向上に尽くす。同時に幕末維新の志士たちの顕彰事業を続け、功山寺境内の尊攘堂(現在の長府博物館)や万骨堂などを建設する。昭和14年、死去。


変名:桂季澄、桂常槌、桂勇次郎、桂彌市、桂彌一
主な役職:-
剣術:-
墓所:


河崎 董

かわさき ただす
(1822-1871)
長府藩

宗藩において軍制改革を行った長府藩士
文政5年、長府藩士羽仁源左衛門の子として生まれる。長州藩に出仕して長州藩士来原良蔵と協力し、軍制改革を進めた。嘉永6年のペリー来航の際には、江戸大森付近を警護した長州守備隊に加わる。その後、藩命で下曽根流蘭式銃陣を習得し、藩邸士卒に教授する。文久3年に帰藩して、下関攘夷戦に参加。慶応2年の幕長戦争では、山口や萩で軍監としてその要職を務めた。維新後は隠居して、明治4年に死去した。


変名:河崎頼房、河崎寅吉
主な役職:密偵
剣術:-
墓所:東京都府中市 多磨霊園


熊野 直介

くまの なおすけ
(1847-1868)
長府藩

北越戦争に散った若き報国隊参謀
弘化4年、長府藩士
熊野吉右衛門の長男として生まれる。文久3年、長府藩主毛利元周に従い江戸に遊学。元治元年、福田扇馬とともに集童場を開き場長となる。慶応元年、報国隊参謀となり、奇兵隊とともに小倉口で幕府軍と戦った。戊辰戦争にも従軍。北越戦争の今町の戦いで戦死した。


変名:熊野則之、熊野陳太郎
主な役職:集童場場長、報国隊参謀、長府藩記録所預、当職手元役
剣術:今枝流剣術
墓所:上越市大字大貫 金谷山官軍墓地


興膳 五六郎

こうぜん ごろくろう
(1829-1875)
長府藩

兄の仇を討った長府藩の密偵
文政12年、長崎の豪商末次興善の後裔興膳竜三郎の五男として生まれる。家族と共に長府藩に迎えられ、長兄の槇平が典医となった。五六郎は、長府藩横目付佐竹小十郎の陪臣となり、京都に潜伏して藩の密偵の任務に就いた。元治元年、次兄の昌蔵が暗殺された事を知ると、その下手人を探し出し藩に仇討を願い出て黙認される。城下の旅宿小串屋に、下手人の田村内蔵之助が泊まっている事を知った五六郎ら興膳兄弟は、見事にこれを討った。仇討後は、再び密偵の任務に戻り、京都情勢の情報収集に奔走した。維新後は東京へ移り住み、明治8年に没した。


変名:-
主な役職:密偵
剣術:-
墓所:東京都府中市 多磨霊園


興膳 昌蔵

こうぜん しょうぞう
(?-1863)
長府藩

竹島開墾を初めて唱えた蘭方医
江戸時代初期の長崎の豪商末次興善の後裔興膳竜三郎の次男として生まれる。父がシーボルトに師事して西洋医学を学ぶと、兄の槇平と共にそれを学んだ。安政2年、海軍伝習所で通訳として働く。安政4年、父が郷里の山城国で医者として開業すると、兄弟と共にこれに従う。しかしうまくいかず、再び長崎に戻るべく一家で山陽道を下るが、道中の長府藩に認められ、典医として長府に一家で身を置いた。昌蔵は「竹島開墾案」を長州藩に建白し、吉田松陰などもこれを支持した。文久3年、関門海峡に停泊中の英国船に、長州藩士福原清介と共に小舟で近づく。この行為が内通と疑われ、奇兵隊士松尾甲之進、田村内蔵之助に暗殺された。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:下関市長府 大乗寺


さ行


佐竹 小十郎

さたけ こじゅうろう
(生没年不明)
長府藩

興膳兄弟の仇討に力を貸した長府藩横目付
長府藩の横目付。長府藩に迎えられた興膳家の興膳五六郎を雇い、京都情勢を探らせた。五六郎が兄の仇討を願い出た際にはこれを助け、仇討後には長州藩の検視方に有利な証言をしている。


変名:-
主な役職:横目付
剣術:-
墓所:-


下村 文次郎

しもむら もんじろう
(1839-1866)
長府藩

地元の勇士をあつめて吾住隊を組織した安岡の独眼竜
弘化4年、長府藩医上里幽斎の長男として生まれ、安岡在住の長府藩士下村重次郎の養子となる。藩校敬業館で文武を学び、特に武道に秀でていたとされる。砲術指南役河崎董に師事して西洋砲術を学ぶが、射撃訓練中に銃の雷管が暴発して左目を失明してしまう。その後、地元安岡で農商の子弟達に銃砲の技を教え、民兵「吾住隊」を組織。吾住隊を率いて下関攘夷戦に参戦し、民兵ながら十分に訓練された部隊は、藩内で評価される事となる。幕長戦争がはじまると、吾住隊は長府報国隊の傘下に入り、六番小隊となって司令に就任。小倉戦争の初戦である田ノ浦上陸戦で、第一陣として活躍する。しかし大里の戦いで、小倉藩二番手渋田見舎人の軍勢と乱戦になり、流れ弾に当たり戦死した。


変名:-
主な役職:吾住隊隊長、長府報国隊六番小隊司令
剣術:-
墓所:下関市長府 功山寺


た行


友田 瞎斎

ともだ かつさい
(生没年不明)
長府藩

政情の変化によって追放された軍学者
文化年間、長府藩士小野義成の子として生まれる。大阪の儒学者篠崎小竹に学ぶ。長府藩の軍政に参加し、軍学者としてその才能を発揮。嘉永年間には、長州宗藩にも出仕して政務にあたる。長井雅楽の公武合体論を強く支持するが、政情が一転すると政治犯となり、文久2年に蓋井島に流された。島では本土の吉見の庄屋と詩文の交換をするなどして過ごすが、藩内攘夷派の手によって暗殺される。


変名:小野小介、友田義清
主な役職:馬廻役
剣術:-
墓所:-



な行


西 運長
にし ゆきなが
(1826-1875)
長府藩

藩正規軍を率いた長府藩家老
文政9年、長府藩士児玉邦行の三男として生まれる。文政13年、長府藩家老西義定の養子となる。文久3年、外国船砲撃の際は海防掛として攘夷戦に参加。元治元年、蛤御門の変に関する陳情のため上京。慶応元年、三条実美ら五卿の筑前への渡海に尽力。第二次長州征伐では、小倉戦争にて中軍大隊長として活躍した。維新後、豊浦藩大参事に任命される。明治8年、死去。


変名:西図書、西小豊後、西雪江、穂田運長
主な役職:長府藩家老、長府藩海防掛、長府藩中軍大隊長、豊浦藩大参事
剣術:-
墓所:下関市長府侍町 日頼寺


乃木 希典
のぎ まれすけ
(1849-1812)
長府藩

軍神となった日露戦争の英雄
嘉永2年、長府藩士乃木希次の三男として生まれる。慶応元年、第二次長州征討が開始されると長府報国隊に参加し小倉口で戦う。明治9年、秋月の乱が起きると、これを挟撃して反乱軍を潰走させた。明治10年、西南の役では小倉歩兵第十四連隊長として、熊本鎮台への救援に急行中、植木付近での薩摩軍との遭遇戦で連隊旗(軍旗)を喪失。明治20年から約一年間、川上操六とともにドイツへ留学。帰国後、軍紀確立を主張する報告書を提出。明治27年、日清戦争では歩兵第1旅団長として出征。金州、旅順を攻略。さらに北上して蓋平、太平山、牛荘、田庄台に転戦した。明治29年、台湾総督に就任。明治37年、日露戦争では旅順攻略のために新設された第三軍司令官として参戦。多くの戦死者を出しながら、旅順を攻略。敵将ステッセルとの水師営の会見は、日本武士道の精華として賞賛された。 その後、奉天会戦で勝利に貢献。戦後は学習院院長として皇族の教育を担当する。大正元年、明治天皇の大喪の日、妻静子とともに殉死した。



変名:乃木無人、乃木源三、乃木頼時、乃木文蔵、源希典、乃木静堂、乃木秀顕、石樵、石林子
主な役職:台湾総督、第三軍司令官、学習院院長
剣術:一刀流剣術
墓所:東京都港区 青山霊園


乃木 希次
のぎ まれつぐ
(1805-1877)
長府藩

乃木希典の父にして長府毛利家の教育係
文化2年、長州藩医乃木希建の四男として生まれる。文化13年、深川三十三間堂の通し矢を射、これを賞した11代藩主毛利元義の命により藩医を解かれ、禄高80石の御馬廻に編入される。後に12代藩主毛利元運の娘、銀姫の守役となり、安政5年の銀姫と長州藩養嗣子定広との婚礼一切を取り仕切る。しかし、政務に関する建白書を提出したことで藩主の忌諱に触れ、閉門100日と50石への減禄を命じられる。閉門が解かれて後、100石を給されて再仕し、藩校の敬業館で藩主毛利元周の養子毛利元敏とその実弟毛利元功に礼法及び武芸を授ける。元敏、元功兄弟が長州藩藩校の明倫館に移った際に同行している。慶応元年、藩首脳部と対立して切腹した泉十郎の処置に立腹した長府藩報国隊の桂弥一が脱藩して吉田駐屯の奇兵隊に投じた際、説得して帰藩させている。明治7年、東京の乃木家と同居。明治10年、東京で死去した。


変名:乃木喜十郎、乃木十郎
主な役職:長府藩諸礼法師範
剣術:一刀流剣術
墓所:不明


は行


林 郡平

はやし ぐんぺい
(?-1865)
長府藩

報国隊士に殺された佐幕派の論客
長府藩きっての論客として知られ、佐幕論を展開する。これが尊皇派の報国隊士達に恨まれる事となり、報国隊士梶山鼎介ら3名に暗殺された。


変名:-
主な役職:剣術指南役、郡代、目付
剣術:-
墓所:不明


日原 昌造

ひのはら しょうぞう
(1853-1904)
長府藩

忠孝論を執筆した明治の教育者
嘉永6年、長府藩士の子として生まれる。藩校敬業館で学んだ。北越戦争に従軍した。明治4年、大阪開成所で小泉信吉に師事。小泉の帰京に伴い上京。福澤諭吉に認められ、慶應義塾の教員となった。明治8年には、愛知県師範学校校長に就任。次いで静岡師範学校校長となる。明治10年、文部省の「文部省百科全書」の翻訳に参加。「光学及音楽」の翻訳を担当した。三菱商業学校などで教鞭をとったのち、明治13年に横浜正金銀行へ入行し、小泉と共にロンドンへ渡英。約4年間を英国で過ごし、「倫敦通信」を時事新報上で執筆した。次いで「修身要領」の編纂に参加した。明治37年に死去。


変名:豊浦生
主な役職:愛知県師範学校校長、静岡師範学校校長
剣術:-
墓所:不明


福原 和勝
ふくはら かずかつ
(1846-1877)
長府藩

幕末明治の内戦を戦った有能なる軍人
弘化3年、長府藩士村上通虎の三男として生まれる。福原俊親の養子となった。若年ながら武芸に秀で、藩主毛利元周の護衛等も務めた。元治2年の英米仏蘭連合艦隊の攻撃に、藩内の青年を集め、上陸した陸戦隊と交戦。 同年、長府藩校の集童場創設に尽力した。慶応元年、熊野則之とともに藩主に隊の編成を願い出て、「長府藩報国隊」を結成、その初代軍監となった。四境戦争では小倉口に出陣。戊辰戦争にも参戦し、旧幕府側の抵抗の鎮圧にあたった。明治2年には英国に留学し、明治5年に帰国。将来を嘱望され、明治6年、兵学権頭となり、陸軍教導団司令長官心得に就任。翌年の佐賀の乱では佐賀征討総督幕僚参謀として参戦。またその翌年には初代の清国公使館付武官となった。明治10年、西南戦争が勃発。別働第3旅団参謀長として従軍。熊本県玉名郡立岩村で狙撃され負傷。搬送先の久留米にて死去した。



変名:村上百合勝、福原俊行
主な役職:長府藩報国隊軍監、陸軍教導団司令長官心得、佐賀征討総督幕僚参謀、別働第3旅団参謀長
剣術:ー
墓所:下関市南部町 専念寺


船越 清蔵
ふなこし せいぞう
(1805-1862)
長府藩

毛利の始祖を非難したため殺された陽明学者
文化2年、清末藩士船越孟正の子として生まれる。藩校育英館で学び、長崎で蘭学を学んだ。また蝦夷地にも遊歴している。京都で塾を開いて尊皇攘夷思想を論じた。京都で清蔵と会った久坂玄瑞は、吉田松陰に清蔵を紹介。松陰は、清蔵と手紙でやり取りし、清蔵の長州藩登用を進言する。しかし、安政の大獄で松陰が処刑されたために実現していない。万延元年、長府藩に仕官して儒臣となり、周防国右田村に塾を開いた。文久2年、長州藩主毛利敬親の御前で歴史を講義。毛利家の始祖である大江広元を非難する論を述べる。これに激怒した藩士が密かに毒を盛り、その帰路の絵堂で急死した。


変名:船越守愚、小出勝雄、豊浦山樵
主な役職:-
剣術:-
墓所:豊浦郡菊川町岡枝、京都 霊山護国神社


ま行


三吉 周亮
みよし かねすけ
(1842-1903)
長府藩

若くして家老を務めた坂本龍馬の理解者
天保13年、長府藩家老三吉家に生まれる。若くして家老職を務める。満殊艦購入-艦長に家老格三吉周亮が任じられる第一次長州征討に際し、長州本藩の恭順派台頭により、山口より逃れてきた三条実美ら五卿を功山寺に匿う。元治元年、高杉晋作による功山寺でのクーデターに対し、諸藩とつながりのあった周亮は藩主より切腹を命じられるが、福岡藩家老加藤司書のとりなしにより中止となって諸隊鎮撫を命じられるが、動くことはなかった。下関に滞在した坂本龍馬と交際し、長府藩における龍馬の理解者の一人であった。慶応3年、長府藩が英国から購入した軍艦満珠艦の艦長に就任。維新後は、新川県参事、鳥取県権令、豊岡県権令を歴任。明治36年、死去。


変名:-
主な役職:長府藩家老、満珠艦艦長、新川県参事、鳥取県権令、豊岡県権令
剣術:-
墓所:下関市長府 功山寺


三吉 慎蔵
みよし しんぞう
(1831-1901)
長府藩

寺田屋事件で龍馬を救った槍の名手
天保2年、今枝流剣術師範小坂土佐九郎の次男として生まれる。安政4年、長府藩士三吉十蔵の養子となり、藩主毛利元周の近習扈従役として江戸に随従している。文久3年、下関の外国船砲撃事件により大砲鋳造掛締方・精兵隊諸事肝煎に就任。慶応2年、長府藩士印藤肇の仲介で坂本龍馬の知遇を得る。長府藩より京都の情勢を探るよう命じられ、薩長同盟を取り纏めつつあった龍馬と共に下関を出発。伏見の旅籠寺田屋に入るが、伏見奉行配下の捕り方に踏み込まれる。慎蔵は槍を振るって応戦し、包囲された寺田屋を奇跡的に脱出。傷を負った龍馬を材木小屋に隠すと単身薩摩藩邸に走り、救援を要請して龍馬の命を助けた。その後、薩摩の軍艦で龍馬と慎蔵は大阪を出港。慎蔵は下関で下船し、長府藩に情勢の急転を報告した。なお慎蔵は寺田屋事件での功績によって長州藩主・毛利敬親から刀の下賜、長府藩主から20石の加増を受け、同藩目附役に任ぜられている。第二次長州征討が始まると慎蔵は長府藩の報國隊軍監に就任。高杉晋作の指揮のもと長州藩の奇兵隊と共に幕府軍と交戦し、これを破った。維新後、豊浦藩権大参事。廃藩置県後は宮内省御用掛として北白川宮家の家扶となり、のち家令を務めた。晩年は故郷の長府で暮らす。明治34年、死去。


変名:小坂友三郎、三吉友三郎、三吉時治
主な役職:大砲鋳造掛締方、精兵隊諸事肝煎、報國隊軍監、豊浦藩権大参事、宮内省御用掛
剣術:今枝流剣術、宝蔵院流槍術
墓所:下関市長府 功山寺


無敵 幸之進
むてき ゆきのしん
(1849?-1868)
長府藩

無敵という苗字を贈られた餅屋の息子
下関の商人の子として生まれる。慶応2年の小倉戦争の際に、長府報国隊に入隊。石を投げるのが得意であったため、赤坂の戦いでは石を投げて奮戦する。その戦功により苗字帯刀を許され、投石幸三郎と名乗る。その後の戦闘でも勇猛に戦い、その戦いぶりが小倉口総督高杉晋作の耳にも入り、「無敵幸之進勝行」という名を贈られた。戊辰戦争にも従軍し、長府報国隊として北越戦争に参加する。小千谷会談を経て開戦を決意した長岡藩は、軍事的要所である朝日山を攻撃。無敵は駐屯する榎峠で応戦するが戦死した。


変名:大島屋幸吉、投石幸三郎、無敵勝行
主な役職:-
剣術:-
墓所:小千谷市船 岡山官軍墓地、下関市 桜山神社

毛利 元功
もうり もといさ
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毛利 元周
もうり もとちか
(1827-1968)
長府藩

本家と共に攘夷戦を戦った長府藩主
文政10年、第11代長府藩主毛利元義の嫡男元寛の二男として生まれる。父元寛が文政10年に世を去ったため叔父元運が嗣子に立ち家督を継いでいたが、元運に子がなかったため元周を養子とする。嘉永5年、第13代長府藩主となり、長府藩は他の長州支藩同様、尊皇攘夷運動の一翼を荷う。藩内に砲台を構築し、異国船対策に奔走。それまでの長府藩の政庁であった櫛崎城が海に面しているという理由で、文久4年から勝山御殿に政庁を移した。英米仏蘭四国連合艦隊来襲の攘夷戦においては萩本藩、清末支藩とともに参戦。明治元年家督を嫡男元敏に譲って隠居し、同年死去したとされている。


変名:毛利万次郎
主な役職:13代長府藩主
剣術:ー
墓所:下関市長府 覚苑寺


毛利 元敏
もうり もととし
(1849-1908)
長府藩

詩歌に優れた長府藩最後の藩主
嘉永2年、第12代長府藩主毛利元運の六男として生まれる。慶応4年、先代藩主で従兄の元周が隠居したため、その養嗣子として跡を継いだ。宗藩である長州藩が、下関を直轄領としようとしたために対立したが、後に和解し他の長州支藩とともに戊辰戦争を戦う。明治2年の版籍奉還で藩知事となり、藩を豊浦藩と改名。明治4年の廃藩置県で免官されて東京へ移る。同年の岩倉使節団に同行してアメリカへ留学。明治17年には子爵となり、勲二等、従二位に叙せられている。詩歌に優れていたことから明治天皇に気に入られ、宮中御歌所寄人に任じられている。歌集には「松の下葉」などがある。明治41年、長府にて死去。


変名:毛利宗五郎
主な役職:14代長府藩主、宮中御歌所寄人
剣術:ー
墓所:下関市長府 功山寺


や行


結城 香崖

ゆうき こうがい
(1817‐1880)
長府藩

学問の興隆に尽くした敬業館学頭
文化14年、長府藩軍学指南友田家の子として生まれる。学問に優れ、藩校敬業館の教諭で儒学者の結城確所の養子となった。大阪の篠崎小竹や江戸の昌平校に学び、学問の知識を深める。帰郷すると藩校敬業館の学頭となり、世子毛利元敏にも講義した。維新後は隠居して後進の指導にあたる。明治13年、死去。


変名:結城恂介、結城剛、結城壁、結城快軒
主な役職:敬業館学頭
剣術:-
墓所:下関市長府 覚苑寺



ら行



わ行



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