松下村塾門下生人物録

松下村塾門下生

幽閉中の吉田松陰が、叔父の玉木文之進の松下村塾を受け継ぐ。このわずか2年8ヶ月あまり存在した私塾から、明治維新の原動力となる人材が輩出される事となる。だが、門下生の多くは明治維新を見ることなく、幕末の動乱の中で罷業の死を遂げている。


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あ行


赤禰 武人
あかね たけと
(1838-1866)
長州藩

裏切り者として処刑された悲劇の奇兵隊総督
天保9年、柱島の医師松崎三宅の次男として生まれる。安政3年、吉田松陰の松下村塾に学ぶ。安政4年、長州藩士赤根雅平の養子となる。文久2年、江戸にて尊王攘夷運動を展開。御楯組に加盟して、英国公使館焼討に参加した。文久3年、高杉晋作が奇兵隊を結成するとこれに入隊。後に第3代目の総督となっている。元治元年、長州藩政が俗論派によって掌握されると、晋作は奇兵隊に決起を促すが赤根はこれに反対。元治元年、晋作が功山寺挙兵が成功すると、奇兵隊内での立場を失って出奔するが、上方で幕府に捕縛されてしまう。大目付永井尚志や新撰組参謀伊東甲子太郎らは、長州鎮撫工作に赤禰を利用することを画策。長州尋問のために広島に赴く永井の随員となった。赤禰は広島から長州に潜入し、かつての同志らと接触して主戦論の転換を図るが失敗。生誕地である柱島に潜伏していたところを、捕縛され処刑された。


変名:松崎文平、松崎幹之丞、赤禰幹之丞、赤禰貞一、柴屋和平
主な役職:第3代奇兵隊総督
剣術:-
墓所:下関市吉田東行庵、岩国市柱島西栄寺


有吉 熊次郎
ありよし くまじろう
(1842-1864)
長州藩

久坂玄瑞らと共に鷹司邸内で自刃した若き志士
天保13年、長州藩士有吉忠助の次男として生まれる。明倫館に学んだのち、16歳の時に松下村塾に入門する。 安政5年、松陰の間部詮勝暗殺計画に血盟。松陰が野山獄に再投獄された際、その罪状を問うために周布政之助ら重役宅に押しかけた塾生8名の中の一人。文久2年、高杉ら同志と武州金澤で外国公使を刺殺を計画。事前に藩主世子の毛利元徳に伝わったため謹慎を命ぜられる。謹慎中に御楯組を結成。同年、英国公使館焼き討ちに参加。 文久3年、京都での尊攘運動に邁進するが、八月十八日の政変により帰国。元治元年の池田屋事件で新選組に襲撃されるが、長州藩邸に逃げ込み事件の生き証人としてその悲報を国許に伝える。同年、急進派の藩士らと上京、禁門の変において重傷を負い、久坂、寺島らと共に鷹司邸内で自刃する。


変名:有吉良明、有吉良朋、藤原良明
主な役職:-
剣術:-
墓所:霊山護国神社、山口市朝日山招魂社


飯田 正伯
いいだ しょうはく
(1825-1862)
長州藩
桂小五郎らと共に松蔭の遺骸を埋葬した師より年上の門下生
文政8年、長州藩藩医の家に生まれる。 弘化2年頃、熊本に遊学して医学者鳩野宗俊に師事する。安政元年には相模警備の医員となってる。 安政5年に吉田松陰の松下村塾に入り、主に兵学を学んだ。安政の大獄で松陰が刑死すると、桂小五郎や伊藤博文らと共に松陰の遺骸を引き取る。その後は長州藩の分析掛として召抱えられ、主に銃などの兵器の管理・調整を任された。ところが万延元年7月、軍用金調達を名目にして浦賀の富豪を襲って金品を強奪したため、罪人として幕府に捕縛され、獄中において、文久2年に病死した。

変名:-
主な役職:長州藩分析掛
剣術:-
墓所:萩市下五間町常念寺


飯田 俊徳
いいだ としのり
(1847-1923)
長州藩

日本の鉄道の発展に尽力した技術者
弘化4年、長州藩大組飯田家の子として生れる。吉田松陰の松下村塾に学ぶ。塾生の中では最年少であった。 奇兵隊にも所属し、滝弥太郎と2中隊を引率して豊前田ノ浦へ渡海、砲台を設営する。慶応3年12月、藩命でオランダへ留学する。維新後に帰国。鉄道局に入局。 後に工技生養成所を設立し、多くの日本人技術者らを育て上げることになる。その翌年には、日本人のみの手で施工されたトンネル・鉄道の山岳トンネルとして初の逢坂山トンネル建設の総監督となり、京都~大津間にて着工、2年を要して完成させた。その後も、数々の鉄道敷設に尽力した。明治23年には鉄道庁部長となる。3年後国有化問題で退職し、晩年は愛知県豊橋市に隠居した。


変名:飯田吉次郎
主な役職:鉄道庁部長
剣術:-
墓所:萩市下五間町常念寺


生田 良佐

いくた りょうすけ
(1837-1861)
長州藩

将来を有望視されたが失明し早去した松蔭門下生
天保8年、大野毛利家の家臣で弘道館の学頭を務める生田箕山の次男として生まれる。幼少から聡明で、妙円寺の勤王僧である月性の指導を受ける。安政5年、吉田松陰の松下村塾に入門。間部詮勝暗殺計画に賛同したために藩に捕らえられ、弘道館に監禁された。松陰没後の安政6年11月に許されて出獄し、藩校明倫館に入学したが、5ヶ月後に眼病にかかって失明し、その後は闘病生活を続けながら文久元年に死去。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:山口県萩市下五間町常念寺


伊藤 博文
いとう ひろぶみ
(1841-1909)
長州藩
(長州ファイブ)

風雲の幕末を生き抜いた初代内閣総理大臣
天保12年周防国熊毛郡の貧農の家に生まれる。伊藤弥右衛門に家族ぐるみで養子となり足軽となる。松下村塾に学び、のち高杉晋作らと尊王攘夷運動に挺身、文久2年のイギリス公使館焼打ちに参加。翌年藩命によりイギリスに留学、元治元年ロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知って急ぎ帰国、藩主らに開国への転換を説くが受け入れられなかった。同年功山寺挙兵に参加。軍事クーデターに成功し、以後藩主流派として藩政改革に参画、おもに対外交渉の任にあたった。
明治4年、岩倉遣外使節団に特命副使として参加。大久保利通の死後内務卿を継ぎ、政府の中心的位置を確保。明治18年内閣制度を創設し初代内閣総理大臣に就任。大日本帝国憲法の制定を指導。枢密院議長、貴族院議長、内閣総理大臣、初代韓国統監等を歴任。明治42年ハルビン駅頭で韓国の独立運動家安重根により暗殺される。明治天皇の信任は厚く、明治期を通じて元老中第一の実力者として内外政策に大きな影響力を行使した。


変名:林利助、伊藤俊輔、伊藤舜輔、越智斧太郎、伊藤春輔、花山春輔、デポナー、花山春太郎、吉村荘蔵、林宇一、伊藤俊介、伊藤博文、伊藤春畝
主な役職:力士隊総督、外国事務局判事、兵庫県知事、大蔵少輔兼民部少輔、工部卿、内務卿、宮内卿、内閣総理大臣、宮内大臣、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監
剣術:-
墓所:東京都品川区伊藤家墓所


入江 九一
いりえ くいち
(1837-1864)
長州藩

志半ばで倒れた松門四天王の一人
天保8年、長州藩の足軽入江嘉伝次の長男として生まれた。安政5年、松下村塾に入門。松陰から高く評価され高杉晋作や久坂玄瑞、吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えらる。同年、師匠の松陰が幕府による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中の間部詮勝暗殺計画を企んだ。このとき高杉と久坂、吉田らは猛反対したが九一は賛成した。松陰が安政の大獄で処刑された後も師匠の遺志を受け継いで間部暗殺計画を実行に移そうとする。しかし、幕府に察知されて弟の野村靖と共に投獄される。文久3年、足軽から武士の身分に取り立てられる。その後は京都で尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となる。元治元年の蛤御門の変では久坂らと協力して天王山に布陣して奮戦したが敗れ、脱出を図るが敵の銃撃を受けて負傷、その場で切腹して果てる。


変名:入江弘毅、入江万吉、入江杉蔵。入江子遠、河島小太郎
主な役職:小普請、奇兵隊参謀
剣術:-
墓所:京都霊山護国神社、山口市朝日山招魂場、下関市桜山神社、京都市鞍馬通上善寺


大賀 大眉

おおが たいひ

(1827-1884)
長州藩

幕末に兵糧としてのパンを製造した多才な商人
文政10年、酒造業を営む大賀家に生まれる。実家を継いで商いに精を出していたが、安政4年に松下村塾に出入りして、孟子の講義を受ける。松陰による一連のテロ計画では、兵糧米を用意する担当になっていた。文久3年に高杉晋作が奇兵隊を設立すると、その屯所に度々訪れて支援を行っている。慶応元年、戦死した奇兵隊士を祀る桜山招魂場の建設に尽力した。萩の泉流山窯の古窯を復興して、自ら磁器を焼きながら志士の集会所として場所を提供。慶応2年、兵糧用としてパンの製造を建白して許可される。維新後は大阪鎮台の御用商人となって、軍需品の取引で成功。砂糖や製靴などの生産業も経営した。明治17年、死去。


変名:大賀幾介、大賀春哉
主な役職:-
剣術:-
墓所:萩市北古萩町梅蔵院


岡部 繁之助

おかべ しげのすけ

(1842-1919)
長州藩

晋作を京都から連れ戻した岡部兄弟の弟。
天保13年、長州藩士岡部藤吾の次男として生まれる。藩校明倫館に学び、松陰から兵学を教授されている。安政3年、松下村塾で再び松陰の教えを請う。松陰の死後は、尊王攘夷運動に邁進する
元治元年、世子近侍となり、遊撃隊の説得に失敗して脱藩した高杉晋作を、世子の命により京都から連れ戻している。慶応3年、干城隊世話役。維新後は工部省に出仕。明治4年に造船大属、明治6年に制作寮七等出仕、明治7年に制作寮六等出仕となっている。大正8年、死去。


変名:-
主な役職:世子近侍、干城隊世話役
剣術:-
墓所:不明


岡部 富太郎
おかべ とみたろう
(1840-1895)
長州藩

四境戦争や戊辰戦争で活躍した松蔭門下生
天保11年、長州藩士岡部藤吾の長男として生まれる。藩校明倫館に学び、松陰から兵学を教授されている。安政4年に吉田松陰の松下村塾に入門。年少者達に剣術の指導を行った。松陰再投獄の際には、藩重役に迫り暴徒として謹慎させられた8人のうちの一人である。慶応2年の幕長戦争では、勇力隊を率いて芸州戦争に参加。戊辰戦争では干城隊に編集されて、中隊長として北越戦争などで活躍する。明治7年の佐賀の乱では、武力を用いずに説得しようとする方針が、新政府に睨まれ投獄されている。その後許され、山口、大阪、兵庫等に在官する。明治28年、死去。


変名:岡部利濟、岡部子揖、岡部巨川
主な役職:大組隊副長参謀、勇力隊総督、干城隊中隊長
剣術:-
墓所:不明


尾寺 新之丞
おてら しんのじょう
(1833-901)
長州藩

松蔭の遺骸を埋葬した門下生の一人
天保4年、長州藩士尾寺儀右衛門の長男として生まれる。明倫館で吉田松陰より兵学を学び、松陰が松下村塾を開くとそこに入門。安政の大獄で松陰が江戸伝馬町で刑死すると、桂小五郎、飯田正柏、伊藤俊輔らと遺骸を引き取り回向院に埋葬する。万延元年、幕府の海軍所に入り蒸気機関の操作や仕組み等を修める。慶應元年、奇兵隊に入隊。第二次長州征伐では、小倉戦争に参加した。維新後は、司法省や教部省に勤め、明治13年には伊勢神宮の神官に任命される。明治34年、死去。


変名:尾寺信
主な役職:明倫館都講伊勢神宮神官
剣術:ー
墓所:不明


か行


久坂 玄瑞
くさか げんずい
(1840-1864)
長州藩

晋作と共に松蔭門下の双璧とうたわれた英才
天保11年、長州藩医久坂良迪の三男として生まれる。幼くして秀才と呼ばれ、兄の影響で国事に関心を持つ。吉田松陰に師事して松下村塾に学び「高杉晋作の識、玄瑞の才」と並び称される。幕政を批判し他藩の志士と交わる。長州藩が長井雅楽の幕府寄りの公武合体政策、航海遠略策を採択したため、これを激しく弾劾し同志と長井暗殺を企てるが未遂に終わる。攘夷運動の先頭に立ち、朝廷に入説。攘夷督促の勅使東下には自らも江戸へ赴き、イギリス公使館焼打事件を高杉らと起こす。文久3年、攘夷実行の下関外国艦隊砲撃事件に参加し、八月十八日の政変による長州藩勢力の京都追放後も京都に潜入して桂小五郎らとともに失地回復に努めた。元治元年、禁門の変に参加。指導部にあって自重、後続の軍を待つ作戦を主張したが、進発論に押し切られ、一軍を指揮するうちに膝に弾丸を受けて鷹司邸内にて自刃した。


変名:久坂秀三郎、久坂通武、久坂実甫、久坂誠、久坂義助
主な役職:政務座役
剣術:ー
墓所:京都霊山護国神社、萩市椿東椎原護国山墓地、山口県萩市椿東東光寺
   山口市朝日山招魂場、下関市桜山神社


国司 仙吉

くにし せんきち

(1846-1915)
長州藩

秋田県教育行政の功労者
弘化3年、長州藩士国司六郎右衛門の長男として生まれる。藩校明倫館に学び、安政4年に松下村塾に入門した。吉田松陰からは「塾童第一の才」と高く評価されている。文久3年、若殿様御前詰に就任。慶応元年、杉民治らが主唱した東光寺組に参加し、後に干城隊に入隊した。同年、手廻組に加えられて小姓役となる。慶応2年には御楯隊に入り、大村益次郎の三兵学科塾に学ぶ。明治6年、秋田県権令に就任。教員養成の伝習学校を設けるなど、秋田県の教育行政に尽力する。明治8年、工部省へ転出。明治18年、工部省廃止に伴い非職となり、木更津で事業を起こす。大正4年、死去。


変名:国司千吉郎
主な役職:若殿様御前詰小姓役、秋田県権令
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


久保 清太郎

くぼ せいたろう

(1832-1878)
長州藩

初期山口県政の立役者
天保13年、
長州藩士久保五郎左衛門の長男として生まれる。玉木文之進の松下村塾に学ぶ。安政2年、江戸藩邸大番手に就任。安政4年に帰郷し、吉田松陰の松下村塾に通う。富永有隣の出獄にも尽力した。文久2年、久坂玄瑞らと上京し、長井雅楽の弾劾書に署名しているが、翌年以降は藩政事務方に従事した。明治3年、山口藩権大参事に就任。廃藩置県後は、山口県少参事となる。明治5年、名東県参事となり、後に権令に就任。明治7年には、度会県権令。明治9年に退官した。明治11年、死去。


変名:久保久清、久保松太郎、久保断三、淞東
主な役職:舟木代官、上関代官、筑前伊崎代官、山口藩権大参事、山口県少参事
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


倉橋 直之助

くらはし なおのすけ

(1840-?)
長州藩

土佐藩主山内豊範に嫁いだ喜久姫の御用掛
天保11年、
長州藩士倉橋久右衛門の子として生まれる。安政3年に松下村塾の門を叩いた。13代長州藩主毛利敬親の養女喜久姫の御用掛や侍講に任命されるなど、藩主の信任が厚かった。維新後は浜田県に出仕しているが、以後の消息は不明。


変名:-
主な役職:喜久姫御用掛侍講
剣術:-
墓所:-


さ行

斎藤栄蔵
さいとう えいぞう
斎藤栄蔵 → 境二郎


境 二郎
さかい じろう
(1836-1900)
長州藩

島根県会開設に尽力した島根県令
天保7年、長州藩士斎藤貞順の次男として生まれる。後に同藩士境與三兵衛の養子となる。藩校明倫館に通い、山鹿流兵学師範であった吉田松陰の講義を受けている。嘉永6年、江戸に遊学。鳥山新三郎の蒼龍軒塾に学び、そこで留学中の松陰と再会し親交を結ぶ。安政3年、松陰の孟子講義に早くから参加。最初期の門下生の一人でとなった。文久元年、長府藩世子の近侍に任じられる。慶応元年、尊攘事蹟編集局が設置されるとその局員となった。明治2年、山口藩権大参事に就任。明治5年、島根県典事に任命される。昇進して島根県権令となり、県会開設に尽力した。明治11年には島根県令となり、主に基幹道路の改修問題に取り組んている。明治16年、退官。明治23年、品川弥二郎らの賛同を得て松下村塾の保存会を発足。松陰神社の前身となる祠も建設している。明治33年、死去。


変名:斎藤栄蔵、境建直、境子彦
主な役職:明倫館文章掛、山口藩権大参事、島根県令
剣術:-
墓所:萩市川島善福寺


佐々木 梅三郎
ささき うめさぶろう
(1840-1918)
長州藩

兄と共に学んだ最初期の門下生
天保11年、長州藩士佐々木四郎兵衛の3男として生まれる。生家が杉家の隣であったことから、幼少の頃より松陰と親しく接していた。安政3年、松陰の孟子講義に早くから参加。最初期の門下生の一人であった。安政5年、兄の亀之助と共に、永代家老益田家の郷塾育英館との交流のために派遣されている。その後の詳細の記録は残っていないが、明治20年頃に兄と共に北海道に移住した記録が残っている。


変名:小川梅三郎、小川嘉春
主な役職:御蔵元順番検使、山口県会計局検使
剣術:-
墓所:-


佐々木 亀之助
ささき かめのすけ
(1835-1914)
長州藩

義勇隊や南園隊で活躍した佐々木三兄弟の長男
天保6年、長州藩士佐々木四郎兵衛の長男として生まれる。明倫館学び、当時同校の兵学教授であった吉田松陰の講義を受けている。安政3年に松下村塾に入門し、明倫館で学びながら松下村塾に通った。文久3年、家老浦靱負の家臣秋良郭之助と農民有志に呼びかけ義勇隊を結成。元治元年には、京都進発を見越して南園隊を組織する。幕長戦争では石州口で戦っている。維新後は阿武郡第七区で戸長を勤めるが、明治20年頃に北海道へ移住。入植者初代総代人となっている。


変名:佐々木祥助
主な役職:義勇隊総官、阿武郡第七区戸長
剣術:-
墓所:-


佐々木 謙蔵
ささき けんそう
(1838-?)
長州藩

消息不明の佐々木三兄弟の次男
天保6年、長州藩士佐々木四郎兵衛の次男として生まれる。兄の亀之助、弟の梅三郎に誘われ、安政3年に松下村塾に入門。後に渡辺家の養子となる。文久から元治にかけて兄弟と共に国事に奔走したが、その後の消息は不明。


変名:渡辺謙蔵、渡辺益
主な役職:御使番役
剣術:-
墓所:-



品川 弥二郎
しながわ やじろう
(1843-1900)
長州藩

日本最初の軍歌「トコトンヤレ節」を作詞した産業組合設立運動の父
天保14年、長州藩足軽品川弥市右衛門の長男として生まれる。安政5年、松下村塾に入門し吉田松陰の教えを受けるが、安政7年に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走。イギリス公使館焼き討ちなどを実行した。元治元年の禁門の変では、八幡隊長として参戦。敗走して本願寺の僧侶に助けられる。慶応元年、桂小五郎と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」は、品川が作詞したとされている。
明治3年、普仏戦争の視察目的で渡欧。帰国後は、内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。明治24年、第1次松方内閣の内務大臣に就任するが、次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行なって死者を出して辞職。その後政治団体国民協会を組織し、産業組合の設立にも貢献している。また、志半ばで倒れた志士たちを顕彰するため、京都に尊攘堂を建立して京都帝国大学に寄贈している。明治33年、肺炎のため死去。


変名:品川省吾、品川弥吉、扇洲、橋本八郎、松本清熊
主な役職:内務大書記官、農商務大輔、駐独公使、枢密顧問官、内務大臣
剣術:-
墓所:京都市東山区霊山墓地


杉山 松助
すぎやま まつすけ
(1838-1864)
長州藩

池田屋事件に遭遇した尊皇志士
天保9年生まれ。安政5年の吉田松陰による間部詮勝暗殺計画をはじめとした過激な尊皇攘夷運動に参加。久坂玄瑞らと共に活動を続ける。藩主より功績が認められて藩士の身分を許される。八月十八日の政変後も、寺島忠三郎と共に京都に留まり藩の威信の回復を謀るが、池田屋事件に遭遇。脱出して深手を負いながらも長州藩邸に辿り着いたが、重傷だったため助からず、翌日藩邸において死亡した。


変名:杉山律義、杉山千之允、乃美松助、杉山寒翠
主な役職:-
剣術:ー
墓所:萩市浜崎新町泉流寺



た行

高杉 晋作
だかすぎ しんさく
高杉晋作略歴へ


高洲 滝之允

たかす たきのすけ
(1835-1866)
長州藩

石州戦争で戦死した松蔭門下生第1号
天保6年、長州藩士高須又左衛門の子として生まれる。安政3年、近所の杉家で吉田松陰が、家族を相手に孟子の講義を受けている事を知ってそれに参加する。これが後の松下村塾となり、滝之允は門下生第1号となった。慶応2年の幕長戦争では、精鋭隊として石州戦争に従軍したが、数少ない長州側の戦死者となっている。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:-


高橋 藤之進

たかはし ふじのしん
(1846-1865)
長州藩

若くして獄中の松陰の講義を聴いた司獄の弟
天保6年生まれ。兄は野山獄の司獄福川犀之助。安政元年、吉田松陰が野山獄で孟子の講義を始めると、兄と一緒に囚人達に混じって聴講する。幼少の身で獄に近づく事に気をかけた松陰は、友人の土屋矢之助を紹介して門人となる。松陰が獄を出て松下村塾を開くと、土屋の塾に在籍しながら松下村塾に通った。安政5年、松陰の紹介で岩国の二宮小太郎に学ぶ。後に遊撃隊の参謀となったが、若くして病没している。


変名:福川藤之進、高橋貫之助、高橋一貫
主な役職:遊撃隊参謀
剣術:-
墓所:光市室積村峨嵋山護国神社


玉木 彦助

たまき ひこすけ
(1841-1865)
長州藩

内訌戦で戦死した玉木文之進の長男
天保12年、長州藩士玉木文之進の長男として生まれる。従兄の吉田松陰とは仲がよく、幼少より教えを受けたとされ、松下村塾初期よりの門下生として孟子の講義を受けた。文久3年、世子毛利元徳の近侍となる。元治元年に長崎留学し、帰国後は御楯隊に入隊する。長州内訌戦では、高杉晋作に従って藩正規軍と戦うが負傷し、自刃した。


変名:玉木正弘
主な役職:-
剣術:-
墓所:山口市小郡海善寺、防府市桑山招魂場

玉木 文之進
たまき ぶんのしん
長州藩人物録へ


中谷 正亮

なかたに しょうすけ
(1828-1862)
長州藩

沢山の塾生を松下村塾に誘った塾生年長者
天保12年、長州藩士中谷章貞の長男として生まれる。幼少より国学者福原冬嶺に学び、明倫館でも優秀な成績であった。吉田松陰とは互いを尊敬しあう仲で、松陰が野山獄に投獄されてからも度々訪ねて激論を交わしている。松陰が松下村塾を始めると、久坂玄瑞や高杉晋作など多くの志士を誘った。久坂と松陰の妹杉文の縁談を、取りまとめたとも云われる。松陰の刑死後は、塾生たちをまとめる役となった。長井雅楽の公武合体策に反対し、弾劾書を提出するなど尊王攘夷運動に邁進。文久2年、藩命により江戸へ赴くが、急病となり死去した。


変名:中谷中兵衛、中谷茂十郎
主な役職:-
剣術:-
墓所:東京都世田谷区松蔭神社


寺島 忠三郎
てらしま ちゅうざぶろう
(1843-1864)
長州藩

久坂玄瑞とともに自刃した松蔭門下生
天保14年、長州藩士寺島太次郎直一の次男として生まれる。安政5年、吉田松陰の松下村塾に入門。松陰は彼を「些の頑骨あり、愛すべし」と評した。文久2年、上京し尊皇攘夷運動に参加。高杉晋作らと共に御楯組を結成。品川御殿山で建設中の英国公使館の焼討ちを決行する。文久3年、攘夷実行期限決定後は桂小五郎と供に京都に残り、攘夷親政を工作などに奔走するが、八月十八日の政変により長州藩は京都を追放され、忠三郎は京都に潜伏し情報収集を続けた。翌年の元治元年、池田屋事件をへて蛤御門の変が勃発。長州藩兵は会津藩、薩摩藩ら連合軍と激突するが、敗退。忠三郎は鷹司邸にて久坂玄瑞とともに自刃した。


変名:寺島昌昭、寺島子大作間忠三郎
主な役職:物頭
剣術:ー
墓所:京都霊山護国神社、山口市朝日山招魂場


時山 直八
ときやま なおはち
(1838-1868)
長州藩

北越戦争で戦死した奇兵隊参謀
天保9年、長州藩無給通士時山茂作の子として生まれる。藩の槍術師範岡部半蔵に宝蔵院流槍術を学ぶ。山縣有朋とは同門。安政5年、吉田松陰の松下村塾に入門する。翌安政6年には、江戸に遊学して、藤森弘庵、安井息軒などに師事する。文久元年、公武一和に基づいた「航海遠略策」が藩論となると、長井雅楽を補佐する。文久2年には、諸藩周旋掛に任命される。元治元年、禁門の変に参加。帰国後に奇兵隊に入隊し、下関戦争に参戦した。長州内訌戦、小倉戦争と転戦。戊辰戦争でも、奇兵隊参謀として北越方面に出征する。立見鑑三郎率いる桑名藩兵と、長岡藩兵が陣取る越後朝日山を攻撃するが、顔面を狙撃されて戦死した。山県有朋はその報を聞き、竹馬の友の死を悼んだといわれている。


変名: 時山松太郎、時山養直、萩野鹿助、玉江三平、白水山人、海月坊、梅南、漂流坊、玉江浪人
主な役職:諸藩周旋掛、奇兵隊参謀
剣術:宝蔵院流槍術
墓所:萩市山田楞厳寺、下関市桜山神社、下関市吉田東行庵、小千谷市朝日山

富永 有隣
とみなが ゆうりん
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な行


中谷 正亮

なかたに しょうすけ
(1828-1862)
長州藩

沢山の塾生を松下村塾に誘った塾生年長者
天保12年、長州藩士中谷章貞の長男として生まれる。幼少より国学者福原冬嶺に学び、明倫館でも優秀な成績であった。吉田松陰とは互いを尊敬しあう仲で、松陰が野山獄に投獄されてからも度々訪ねて激論を交わしている。松陰が松下村塾を始めると、久坂玄瑞や高杉晋作など多くの志士を誘った。久坂と松陰の妹杉文の縁談を、取りまとめたとも云われる。松陰の刑死後は、塾生たちをまとめる役となった。長井雅楽の公武合体策に反対し、弾劾書を提出するなど尊王攘夷運動に邁進。文久2年、藩命により江戸へ赴くが、急病となり死去した。


変名:中谷中兵衛、中谷茂十郎
主な役職:-
剣術:-
墓所:東京都世田谷区松蔭神社


野村 靖
のむら やすし
(1842-1909)
長州藩

松陰思想の普及に努めた明治の功臣
天保13年、長州藩士入江嘉伝次の二男として生まれる。兄には入江九一がいる。吉田松陰の松下村塾に入門して尊皇攘夷に傾倒。老中間部詮勝の暗殺計画が露見し、兄と共に投獄される。文久2年には、イギリス公使館の焼き討ちに参加。第二次長州征伐でも活躍した。明治維新後は宮内大丞、外務大書記となり、岩倉使節団の一員として渡欧。明治27年には、第2次伊藤内閣の内務大臣に就任し、明治28年に東京府を廃止して東京15区を東京都として独立させて政府の支配を強化し、他の地域を多摩県として再編成させる東京都制および多摩県設置法案を提出したが、帝国議会や東京市民の反感を買って廃案となり、責任を取って辞任。しかし、翌年には第2次松方内閣の逓信大臣に就任した。晩年は皇室の養育掛長をつとめ、明治42年、死去。


変名:入江和作、野村靖之助、野村欲庵、香夢庵主
主な役職:宮内大丞、外務大書記、内務大臣、逓信大臣
剣術:ー
墓所:東京都世田谷区松蔭神社





ま行


前原 一誠
まえばら いっせい
(1834-1876)
長州藩

萩の乱首謀者であり崇高な精神を持った理想家
天保5年、長州藩士佐世彦七の長男として生まれ、養子となり前原氏を相続する。天保10年、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事。安政4年、吉田松陰の松下村塾に入門。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちに藩の西洋学問所博習堂に学ぶ。文久2年に久坂らと共に直目付長井雅楽の暗殺を計画する。その後、高杉晋作のクーデターに参加。干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。四境戦争では小倉口の参謀心得として幕府軍と戦った。明治元年、戊辰戦争では北越戦争に従軍し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。維新後は越後府判事や参議、兵部大輔を務める。やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷。明治9年、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こすが、即座に鎮圧されて捕らえられ、萩にて処刑された。


変名:前原八十郎、前原彦太郎
主な役職:干城隊頭取、越後府判事、参議、兵部大輔
剣術:ー
墓所:萩市土原弘法寺


増野 徳民

ましの とくみん
(1841-1877)
医師

松陰に愛された「三無」の一人
天保12年、玖珂郡本郷村の村医者増野寛道の長男として生まれる。安政3年、寄宿生として松下村塾に入門。松陰に無咎の名を与えられ、吉田稔麿(無逸)、松浦松洞(無窮)と共に「三無」と称された。尊皇攘夷運動に参加するが、文久2年の久坂玄瑞らによる長井雅楽暗殺計画の失敗以降、医者の道を志して故郷に帰る。慶応2年の幕長戦争では、芸州戦争へ軍医として従軍している。維新後も故郷で医業を営み、診療にかたわら子供たちを集めて学問を教えた。明治10年、病死。


変名:玉木正弘
主な役職:-
剣術:-
墓所:岩国市本郷建立寺


松浦 松洞

まつうら しょうどう
(1837-1862)
長州藩

松陰の肖像を描いた松下村塾最初の殉難者
天保8年、萩城下の魚屋松浦正之助の次男として生まれる。幼少より絵を学び、画家羽様西崕やに支持。絵師を志して京都で小田海僊に学ぶ。安政3年、萩に戻ると漢学を習得する為に松下村塾へ入門する。漢学のために入門したが、尊皇攘夷思想に影響を受けた。松陰の肖像を描いた他、烈婦登波、月性、秋良敦之助、木原松桂、西田直養、伊藤静斎、竹院などの肖像も手掛けている。安政5年、江戸に出て儒学者吉野金陵に指示。松陰に江戸の情報を手紙で報告している。渡米の計画を練るが失敗。翌年萩に帰る。安政6年の安政の大獄で、松陰の江戸移送が決まると松陰の肖像を描く。その後は尊王攘夷運動に邁進し、文久2年に長井雅楽の暗殺を計画するが、某人物(不明)の反対で計画を中止する。この件で憤りを感じ、京都の粟田山で切腹した。


変名::松浦亀太郎、松浦知新、松田知介、松田亀太郎、浦無窮字、無窮
主な役職:-
剣術:-
墓所:京都市北区上賀茂定信院、京都霊山護国神社、萩市椿東上野通心寺


や行


山縣 有朋
やまがた ありとも
(1838-1922)
長州藩

日本陸軍の基礎を築いた日本軍閥の祖
天保9年、長州藩中間山縣有稔の長男として生まれる。安政5年、吉田松陰の松下村塾に入門。山縣が入塾したとされる時期から数か月後に松陰は入獄したため山縣の在塾期間は極めて短かったが、彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。文久3年、高杉晋作の奇兵隊創設とともにこれに参加し頭角を現す。高杉は身分に囚われずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤や山縣などが世に出るきっかけを与えた。 同年12月、高杉が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には赤禰武人とともに奇兵隊軍監に就任し、赤根が出奔した後は事実上実権を握った。慶応元年に四代目総監に就任し、長州征討で高杉と共に活躍。戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。明治6年、陸軍卿に就任。徴兵令の制定を推進。軍制の確立に尽くす。参謀本部長、内務卿をへて、明治18年には第1次伊藤内閣の内相に就任。民権運動を抑圧するとともに、中央集権的な地方制度の確立につとめる。明治22年、第1次山県内閣を組織。第2次伊藤内閣の司法相、陸相、枢密院議長、日清戦争時の第1軍司令官などを歴任。明治31年、第2次山県内閣を組織。日露戦争時は参謀総長として作戦指揮にあたる。大正11年、小田原の別邸で逝去。葬儀は国葬とされた。


変名:山縣辰之助、山縣小助、山縣小輔、山縣狂介
主な役職:奇兵隊総監、内務大臣、司法大臣、陸軍大臣、内閣総理大臣、参謀総長
剣術:宝蔵院流槍術
墓所:東京都文京区護国寺


山田 顕義
やまだ あきよし
(1844-1892)
長州藩

近代日本の法典整備にも力を尽くした日本の小ナポレオン
天保15年、長州藩士山田七兵衛顕行の長男として生まれる。安政4年、松下村塾に入門。文久2年、上京し毛利定広の警護を務める。同年、高杉晋作、久坂玄瑞らとともに御楯組血判書に名を連ねる。文久3年、孝明天皇の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行。石清水八幡宮への行幸にも同様に随行する。八月十八日の政変では、長州藩兵として堺町御門の警備を担当し大砲掛となるが、三条実美ら7卿の長州亡命に同行。帰国後は遊撃隊御用掛に任命され、大村益次郎から西洋兵学を学んだ。元治元年、禁門の変で長州勢は敗北。山田は長州へ落ち延びる。その後、太田市之進、品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦。高杉晋作の功山寺挙兵にも参加した。慶応2年、第二次長州征伐では、晋作から丙寅丸の砲隊長に任命され、周防大島沖で幕府軍艦を奇襲した。慶応3年、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総監に就任。慶応4年、陸軍参謀兼海軍参謀として官軍を率い、戊辰戦争の勝利に貢献した。維新後は、明治7年に佐賀の乱。明治10年に西南の戦争に征討軍の将として参加。その戦術は「用兵の妙 神の如し」と評された。明治新政府では、東京鎮台司令長官、司法大輔、陸軍中将、参議、工部・内務・司法の各卿などを歴任。明治18年、初代の司法大臣として入閣し、法典編纂に貢献し、法典伯と称される。明治24年、病気のため辞職するまで、伊藤、黒田、山県、松方の四代の内閣で司法大臣を務める。明治25年、帰郷途中に生野銀山で急逝。


変名:山田市之允、山田顕孝
主な役職:整武隊総監、陸軍参謀兼海軍参謀、京鎮台司令長官、司法大輔、参議
工部卿、内務卿、司法卿、司法大臣
剣術:柳生新陰流剣術
墓所:東京都文京区護国寺

吉田 松蔭
よしだ しょういん
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吉田 稔麿
よしだ としまろ
(1841-1864)
長州藩

志半ばで新選組の凶刃に倒れた松門四天王の一人
天保12年、長州藩足軽吉田清内の嫡子として生まれる。無駄口を利かず、謹直重厚な人物であった。久坂玄瑞、高杉晋作、そしてこの吉田稔麿を称して松陰門下の三秀といわれ、入江九一を入れて松門四天王ともいわれた。文久3年6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月に屠勇隊を創設。池田屋事件では吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいて、吉田は奮闘の末、討ち死にする。最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした、とされている。また別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もある。


変名:吉田栄太郎、吉田風萍軒
主な役職:屠勇隊総督
剣術:柳生新陰流剣術、宝蔵院流槍術
墓所:京都霊山護国神社、萩市椿東椎原護国山墓地、
   山口市朝日山招魂場、下関市桜山神社
、京都市左京区三縁寺


ら行



わ行



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