徳山藩人物録

徳山藩
     3万石 徳山毛利家 徳山陣屋(徳山城)

長府藩は、周防国都濃郡周辺を領有し、毛利輝元の次男毛利就隆を藩祖とする。第3代藩主毛利元次の時代に宗家と領地争いをおこして改易されるが、次代で再興する。以後は宗家との関係も良好で、宗家の斡旋で城持格にもなっている。長州藩第14代藩主毛利元徳は徳山毛利家の出身であった。幕末は宗藩である長州藩と行動を共にし、四境戦争を戦った。


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あ行


浅見 安之丞

あさみ やすのじょう
(1833-1865)
徳山藩
(徳山七士)

政変により殉死した徳山七士の一人
天保4年、徳山藩士浅見栄三郎の長男として生まれる。安政元年、鳴鳳館の句読師に挙げられ、大島流槍術の指南役も兼ねた。文久3年、御親兵に選ばれ、石清水八幡宮行幸の日には三条西季知の警護に当たる。八月十八日の政変後、急いで帰国してこれを報じ、次いで世子毛利元功の学業指導を命ぜられた。元治元年、鳴鳳館の訓導役に転じたが、保守派が政権を握ると、本城清、信田作太夫と共に捕らえられ入獄。元治2年、新宮の浜に連れ出され処刑された。


変名:浅見正虔、浅見伯恭、浅見烟渓
主な役職:鳴鳳館槍術指南役、鳴鳳館訓導役
剣術:大島流槍術
墓所:不明


飯田 忠彦
いいだ ただひこ
(1799-1860)
徳山藩

「大日本史」の続編を完成させた国学者
寛政10年、徳山藩士生田十郎兼門の次男として生まれる。藩主毛利広鎮に近侍していたが、女性問題を咎められた事から出奔。幼少の頃から念願であるった『大日本史』の続編編纂のための史料集めに奔走した。天保5年、有栖川宮の家来であった太田左兵衛という人物の紹介によって、忠彦は同家に取り立てられた。嘉永4年、全291巻の清書が完成した。安政5年、日米修好通商条約の勅許を江戸幕府が要請した際に、有栖川宮熾仁親王は意見書を朝廷に提出。この意見書は幕府の注目するところとなり、起草に関わったとされる忠彦は、京都町奉行より出頭を求められ、そのまま拘禁される。いわゆる安政の大獄である。忠彦は刑死を覚悟したが、忠彦自身が具体的な政治活動を行っていなかったことや、有栖川宮から抗議がなされたことなどから、京都に戻され押込100日の刑を受けた。安政7年、桜田門外の変が起こると、事件への関与の疑いで伏見奉行に捕らえられる。忠彦は冤罪で捕らえられた事に憤激し、所持していた脇差で喉を突き自害した。


変名:松尾恒憲、飯田要人、飯田持直
主な役職:有栖川宮家家来無席
剣術:-
墓所:京都市左京区龍源寺


井上 唯一

いのうえ ただいち
(1842-1864)
徳山藩
(徳山七士)

政変により殉死した徳山七士の一人
天保13年、徳山藩士井上九郎左衛門の次男として生まれる。文久2年の四ヶ国連合艦隊下関砲撃事件の際には、長州藩世子毛利元徳に従って出陣。徳山藩主毛利元蕃の前衛を務める。文久3年の七卿落ちの時にはその護衛役を務めて山口に赴き、奇兵隊に入隊。久坂玄瑞に従って京摂の間を奔走。禁門の変後の徳山藩の内訌の際には、尊攘派の一員として活躍したため、元治元年に俗論派に捕らえられ、浜崎の獄舎で処刑された。


変名:井上彦太郎、井上和彦、井上和暢
主な役職:徳山藩海防局長、徳山藩会計局長
剣術:大島流槍術
墓所:不明


江村 彦之進

えむら ひこのしん
(1832-1864)
徳山藩
(徳山七士)

政変により殉死した徳山七士の一人
天保3年、徳山藩士江村忠韶の次男として生まれた。弱冠の頃、徳山略記を編集して、藩主に呈した。嘉永6年、黒船が浦賀に来航すると、しばしばその対策を建言し、その建言が立論適切で藩主の意に適ったため、藩校鳴鳳館の句読師に試用された。安政6年、兄の本城清を誘って九州、山陽、山陰諸藩を遊歴し、帰国後は明倫館に入学、楫取素彦、土屋矢之助、周布政之助らと交わって国事を論じた。文久2年、白石正一郎を訪ね、薩摩藩の状況を探った後、萩の同士とともに攘夷実行に奔走し、朝議の攘夷決定を見て帰藩。帰藩後、学館訓導役となり、藩政に参じて海防局長、会計局長となって、諸般の制度を改革し、軍備拡張・財政整理に活躍する。元治元年、禁門の変が勃発。保守派によって職を奪われ、斬首された。


変名:江村厚、江村季徳、江村風月
主な役職:徳山藩海防局長、徳山藩会計局長
剣術:-
墓所:不明


か行


河田 佳蔵

かわだ かぞう
(1842-1864)
徳山藩
(徳山七士)

政変により殉死した徳山七士の一人
天保13年、徳山藩士林正愛の次男として生まれる。徳山藩士河田鉄蔵の養子となる。江村忠純、本城清らに学び、剣術を浅見栄三郎に学んだ。文久2年、藩主毛利元蕃に従って京都に入り、周旋方となる。翌文久3年、帰藩して萩詰めの留守居役及び両人役補助に任じられ、また先鋒隊の元締役を兼ねた。元治元年、幕府に恭順の意を示した保守派の富山源次郎の居宅を襲撃するが、失敗したため逃亡。各地で長州征伐の情報を収集し、徳山藩に戻るが城下の至る所で厳しい検問が行われている事を知り、岩国の知人に身を匿ってもらおうとしたが拒まれ、岩国藩の検問にあって捕らえられる。徳山藩に引き渡され、処刑された。


変名:林佳蔵、河田政佳、河田月波
主な役職:徳山藩京都周旋方、先鋒隊元締役
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:不明


児玉 源太郎
こだま げんたろう
(1852-1906)
徳山藩

明治の名将にして日露戦争の英雄
嘉永5年、徳山藩士児玉半九郎の長男として生まれる。明治元年初陣。下士官として箱館戦争に参加した。明治7年の佐賀の乱には大尉として従軍。熊本鎮台准参謀時の明治9年には神風連の乱鎮圧、同鎮台参謀副長時の明治10年には西南戦争、熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。日露戦争では、満州軍総参謀長として満州に渡り、遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐、また12月初頭には旅順攻囲戦中の第三軍を訪れている。奉天会戦勝利の報に大本営がウラジオストクへの進軍による沿海州の占領を計画した際、児玉は急ぎ東京へ戻り戦争終結の方法を探るよう具申している。目先の勝利に浮かれあがっていた中央の陸軍首脳はあくまで戦域拡大を主張したが、日本軍の継戦能力の払底を理解していた海軍大臣山本権兵衛が児玉の意見に賛成したこともあり、ようやく日露講和の準備が始められることとなった。日露戦争後、参謀総長に就任。また南満洲鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任10日後、就寝中に 脳溢血で急逝した。


変名:児玉忠精
主な役職:台湾総督、内務大臣、満州軍総参謀長、参謀総長、南満洲鉄道創立委員長
剣術:ー
墓所:府中市多磨町多磨霊園


児玉 次郎彦
こだま じろうひこ
(1842-1864)
徳山藩
(徳山七士)

政変により殉死した徳山七士の一人
天保13年、徳山藩士浅見栄三郎正欽の次男として生まれる。兄は浅見安之丞。体躯強大で剣技、銃術に秀で、和漢の歴史に通じた。安政3年、妻の実家である児玉家の家督を継ぐ。久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らと親交した。文久2年、河田佳蔵らと同じく京都に入って周旋方となり、京都留守居役となる。藩校鳴鳳館の助訓役兼寮長となり、尊攘の大義を説いて後進の子弟を教育。元治元年、大坂で禁門の変の報を聞き、切歯して帰国したが、河田佳蔵らが保守派の富山源次郎の暗殺に失敗すると、次郎彦もまたその一味と目され保守派によって暗殺された。


変名:児玉忠炳、児玉青山、児玉品山
主な役職:徳山藩京都留守居役、鳴鳳館助訓役兼寮長
剣術:ー
墓所:周南市大字徳山
興元寺


さ行


信田 作太夫
しだ さくだゆう
(1825-1865)
徳山藩
(徳山七士)

政変により殉死した徳山七士の一人
文政8年、徳山藩士信田十左衛門の子として生まれる。安政元年、柳川藩に遊学し、加藤善右衛門に槍術を学び、日ならずしてその塾頭となる。後に福山藩に聘せられて、槍術を指南する。文久2年、遠藤貞一郎と共に、勅使姉小路公知を護衛。翌年の春に京都周旋方となる。禁門の変後に帰藩したが、元治元年に保守派が政権を握ると、本城清、浅見安之丞と共に捕らえられ、獄に繋がれる。元治2年、本城、浅見と共に新宮の浜で処刑された。3人の死は、牢屋における病死として徳山藩主や萩藩に報告されていた。


変名:信田徽胤、信田秋琴
主な役職:京都周旋方
剣術:大島流槍術
墓所:不明



た行



な行



は行


本城 清

ほんじょう きよし
(1825-1865)
徳山藩
(徳山七士)

政変により殉死した徳山七士の一人
文政8年、徳山藩士江村忠韶の次男として生まれる。外叔本城太仲の養子となって本城姓を称した。弘化元年、藩主毛利元蕃の近侍となり、江戸に往来した。安政元年、興譲館の訓導役となり、次いで在職のまま江戸に出て安積艮斎の門に入り、数ヶ月ならずして塾長にあげられ、安政4年、帰藩。安政6年に弟の江村彦之進と共に九州、山陽、山陰諸藩を遊歴した。元治元年、保守派が政権を握ったために免職させられ、幽閉。次いで士族の籍を除かれ、浅見安之丞、信田作太夫と共に獄に繋がれる。元治2年、浅見、信田と共に新宮の浜で処刑された。


変名:江村清、本城斐、本城仲章、本城素堂
主な役職:興譲館訓導役、代官役
剣術:−
墓所:不明


ま行


毛利 元功
もうり もといさ
(1851-1900)

徳山藩

藩主名代として徳山藩兵を率いた10代徳山毛利家当主
嘉永4年、第12代長府藩主毛利元運の八男として生まれる。安政6年、嫡子のいなかった徳山藩主毛利元蕃の婿養子となった。慶応3年、藩主名代として藩兵を率いて上京。鳥羽伏見の戦いで戦功を挙げた。慶応4年、英国留学の勅許を得て渡英。明治4年には、留学中に家督を相続した。明治6年に帰国。東京に移り住んで公共事業に着手。明治17年に華族に列した。明治33年、死去。


変名:毛利平六郎、毛利就右
主な役職:10代徳山当主
剣術:ー
墓所:周南市徳山大成寺徳山毛利家墓所

毛利 元徳
もうり もとのり
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毛利 元蕃
もうり もとみつ
(1816-1884)
徳山藩

教養人としても優れていた徳山藩最後の藩主
文化13年、第8代徳山藩主毛利広鎮の七男として生まれる。天保8年に父の隠居により徳山藩主となる。藩政においては、洋学や国学の奨励を行なって文治政策に努め、軍備においても洋式軍隊の編成を積極的に行なうなどしている。嘉永6年、黒船来航により、長州藩とともに浦賀の警備を任じられる。幕末期の動乱の中では、本家の毛利敬親の補佐を務める。元治元年7月、禁門の変により、萩藩主毛利敬親と世子元徳、長府藩主毛利元周、清末藩主毛利元純らと共に官位を奪われた。第2次長州征伐では、徳山藩主力は小瀬川口に出陣し、幕府軍撃退に貢献。慶応4年の戊辰戦争においても、鳥羽伏見の戦いや東北、箱館戦争などで軍功を挙げた。同年、版籍奉還により徳山藩知事となる。明治4年、廃藩置県に先んじて藩知事を辞任し、その所領を本家の萩藩に返還。同年、婿養子の元功に家督を譲っている。その後は随風堂と号し、居を東京に移して悠々自適の生活を送った。教養人としても優れ、省耕集・随風堂遺稿・随風集など著作が多数ある。明治17年、病死した。


変名:毛利徳太郎、毛利就軌、毛利広篤、毛利元蕃、岐陽、烙庵、随風堂
主な役職:9代徳山藩主、徳山藩知事
剣術:ー
墓所:周南市徳山大成寺徳山毛利家墓所


や行


ら行


わ行



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