長州藩人物録

長州藩(萩藩・山口藩・周防山口藩)
     36万石  毛利宗家 萩城(指月城)、山口政治堂
支藩:
長府藩5万石 長府毛利家 長府陣屋、勝山御殿
   
徳山藩3万石 徳山毛利家 徳山陣屋
   
岩国藩6万石   吉川家 岩国城
孫藩:
清末藩1万石 清末毛利家 清末陣屋

長州藩は、周防と長門を領国とした外様大名。関ヶ原の役後に、領地を1/3厳封され辛酸を舐めたことから、江戸時代を通じて倒幕が極秘の国是であったとも伝えられ、多くの攘夷志士を育てる土壌となった。


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あ行


青木 研蔵
あおき けんぞう
(1815-1870)
長州藩

種痘で伝染病の予防に勤めた蘭方医
文化12年、周防の村医青木玄棟の次男として生まれる。日田の広瀬淡窓に学び、兄青木周弼と共に長崎へ遊学する。さらに江戸へ出て蘭学者伊藤玄朴にも学んだ。嘉永2年には種痘法伝習の命を受け、長崎の楢林宗建に学んで牛痘苗を萩に持ち帰り、兄とともに藩内初の種痘を実施。安政2年、藩医学校の好生館に西洋学所が設立されると、西洋学師範掛となる。文久3年には、藩世子毛利元徳の侍医となる。元治元年、好生堂教諭役、医学館長、藩主毛利敬親の侍医に昇進。明治2年には、明治天皇の大典医となる。明治3年、天皇に従って東京深川の閲兵式に参列し、帰途に家屋倒壊事故に遭遇し死去した。


変名:青木吉次郎、青木子祐
主な役職:長州藩御側医、大典医
剣術:-
墓所:那須塩原市青木旧青木家那須別邸


青木 周弼
あおき しゅうすけ
(1803-1864)
長州藩

大村益次郎を藩へ召し抱えるよう願書を提出した蘭方医
享和3年、周防の村医青木玄棟の長男として生まれる。長州藩医能美洞庵に医学と儒学を師事。江戸で坪井信道に蘭語、臨床医を学び、その縁で宇田川榛斎にも師事。弟の青木研蔵と共に、長崎にシーボルトにも教授を受けた。天保10年に長州で藩医となり、天保13年、周防医学所の教授蘭学掛になった。また、医学校の好生館設立に尽力、安政元年には御側医に昇進した。弟研藏とともに藩内で種痘をし、コレラ治療に貢献した。村田清風とも交流を持ち、晩年は江戸で西洋医学所頭取就任の要請を固辞した。文久3年、萩にて死去。高杉晋作の疱瘡を治療したのは、この青木周弼と云われている。


変名:青木邦彦、青木月橋
主な役職:教授蘭学掛、御側医
剣術:-
墓所:那須塩原市青木旧青木家那須別邸


青木 周蔵
あおき しゅうぞう
(1844-1914)
長州藩

条約改正に奮闘した外務大臣
天保15年、長州の村医三浦玄明の長男として生まれる。蘭学者青木研藏の養子となる。長崎での医学修行を経て、明治元年にドイツ留学。医学から政治、経済学に転科する。明治6年、外務省入省。翌年には駐独公使となる。明治8年にはオーストリア・ハンガリー帝国公使も兼任する。明治10年に独貴族令嬢エリザベートと結婚。翌年には、オランダ公使も兼任している。明治19年に帰国し、条約改正議会副委員長となる。第1次伊藤内閣で外務大臣となった井上馨のもとで外務次官となり、井上外交を支えた。明治22年、第1次山縣内閣の外務大臣に就任。明治24年の第1次松方内閣でも外務大臣を継続した。明治27年、駐英公使として外務大臣陸奥宗光とともに日英通商航海条約改正に成功。明治31年、第2次山縣内閣でも外務大臣に就任。大正3年、死去。


変名:三浦團七、青木月橋
主な役職:外務省次官、駐独公使、駐英公使、外務大臣
剣術:-
墓所:那須塩原市青木旧青木家那須別邸


青山 清
あおやま きよし
(1815-1891)
長州藩

条約改正に奮闘した外務大臣
文化12年、椿八幡宮宮司青山長宗の長男として生まれる。文久2年、京都粟田山で吉田松陰慰霊祭を松下村塾門下生らと斎行。慶応元年、高杉晋作の呼びかけにより建立された桜山招魂社で、招魂祭を斎行する。慶応3年、山口で製造された錦の御旗に祝詞をあげる。維新後、東京招魂社の祭事掛などを務め、明治7年、明治天皇の御親拝に奉仕。明治12年、靖国神社の初代宮司に就任した。明治24年、死去。


変名:青山長清
主な役職:椿八幡宮宮司、初代靖国神社宮司
剣術:-
墓所:不明

赤禰 武人
あかね たけと

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有吉 熊次郎
ありよし くまじろう

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飯田 正伯
いいだ しょうはく
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飯田 俊徳
いいだ としのり
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生田 良佐
いくた りょうすけ
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石川 小五郎

いしかわ こごろう
(1837-1861)
長州藩

来島の後を継いで遊撃隊の総督となった血気盛んな攘夷過激派
天保11年、長州藩士石川左衛門淳介の子として生まれる。文久2年、先鋒隊に入隊 。文久3年の朝陽丸事件では、幕府使節団暗殺の首魁とされている。元治元年、御楯隊に入隊。禁門の変では、戦死した来島又兵衛から指揮権を引き継いで遊撃隊の指揮を執り、のちに遊撃隊総督となる。慶応元年、高杉晋作による功山寺挙兵では、遊撃隊を率いて参加。第二次長州征伐では芸州口を守った。慶応3年、グラバーの協力でイギリスに渡り、工部少輔・駐英公使として明治4年まで滞在する。帰国後は侍従長に就任するが、明治6年にはイタリア、オーストリアに赴任。在任中にヴィンチェンツォ・ラグーザを工部美術学校彫刻科の講師として日本へ招く事に成功している。明治16年、司法大輔。明治17年より明治26年まで再び公使としてイギリス在住。明治27年に枢密顧問官となり、死去まで務めた。


変名:河瀬真孝、河瀬安四郎
主な役職:遊撃隊総督、工部少輔、駐英公使、枢密顧問官
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園

伊藤 博文
いとう ひろぶみ

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井上 勝
いのうえ まさる
(1843-1910)
長州藩
(長州ファイブ)

鉄道の父となった長州ファイブの一人
天保14年、長州藩士井上勝行の3男として萩城下に生まれる。野村家の養嗣子となるが、のちに復籍する。江戸や長崎で、兵学、洋楽を学ぶ。文久3、外遊許可を藩に申請し、長州ファイブとしてイギリスに留学。5年半のユニヴァーシティ・カレッジでの勉学後、明治元年に帰国する。帰国後は新政府に出仕し、新橋駅 - 横浜駅間の鉄道や東海道線、日本鉄道会社など、鉄道庁長官として鉄道事業の発展に尽力した。井上は早くから鉄道国有化の必要を唱え、鉄道局長時代の明治14年に工部卿佐々木高行に対し、民営鉄道の利益優先主義と競合は鉄道発展にマイナスとなるとする「私設鉄道に対する鉄道局長論旨」を提出する。明治24年、鉄道庁長官として「鉄道政略に関する議」を政府に提出する。幹線鉄道を国有化すべきとする主張は、後の鉄道敷設法を生み、鉄道国有法につながっていった。明治26年に鉄道庁長官を退官した。明治29年、汽車製造合資会社を大阪で設立。明治42年、ヨーロッパ視察の旅に出るが、病によりイギリスにて死去。


変名:野村弥吉
主な役職:鉄道長長官、鉄道院顧問
剣術:-
墓所:東京都品川区東海寺大山墓地


井上 聞多
いのうえ もんた
(1836-1915)
長州藩
(長州ファイブ)

幕末明治を駆け抜け政財界大きな影響を持った元老
天保6年、長州藩士井上五郎三郎光亨の次男として生まれる。藩校明倫館に入学した後、江戸で岩屋玄蔵や江川英龍に師事して蘭学を学ぶ。尊皇攘夷運動に参加し、江戸遊学中の文久2年には御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加する。文久3年、周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、伊藤博文らとともに長州ファイブの一人としてイギリスへ密航するが、下関での外国船砲撃事件では伊藤とともに急遽帰国して和平交渉に尽力した。第1次長州征伐では武備恭順を主張したために俗論党に襲われ、瀕死の重傷を負ったが、美濃の浪人で医師の所郁太郎の手術を受けて一命を取り留めた。その後、高杉晋作らと協調して功山寺で決起。再び藩論を開国攘夷に統一した。慶応3年の王政復古の後は、九州鎮撫総督の参謀となり、長崎へ赴任。のちに長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事した。明治維新後は大蔵省に入り、主に財政に力を入れた。明治6年、江藤新平らに予算問題や尾去沢銅山の汚職事件を追及され辞職。後に伊藤の強い要請のもと復帰し、外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣を歴任。明治16年、鹿鳴館を建設。不平等条約改正交渉にあたる。また、三井財閥の最高顧問になるほど密接な関係をもった。伊藤博文暗殺後は、西園寺公望や松方正義などと共に元老として、政官財界に絶大な影響力を持った。大正4年、静岡県興津町の別荘・長者荘で死去した。


変名:井上勇吉、志道聞多、井上惟精、井上馨
主な役職:九州鎮撫総督参謀、外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣
剣術:-
墓所:東京都港区長谷寺

入江 九一
いりえ くいち
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岡部 富太郎
おかべ とみたろう
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大村 益次郎
おおむら ますじろう
(1824-1869)
長州藩
陸軍の基礎を作り上げた軍略の天才
文政8年、周防国の医師の家に生まれる。洋学・兵学に明るく、近代兵器と西洋的組織・陣法を備えた中央集権的軍隊を構想。緒方洪庵の適塾で学ぶ。宇和島藩に出仕。西洋兵学、蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。安政元年から翌安政2年には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行う。長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され、蘭学を教える。安政3年江戸で鳩居堂を開塾。蕃書調所教授手伝、講武所教授として幕府に出仕。万延元年、長州藩に迎えられて慶応軍制改革に参画し、慶応2年の第二次長州戦争では、石州口方面の実戦指揮を担当。その戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なもので、旧態依然とした戦術に捉われた幕府側をことごとく撃破するなど、彼の軍事的才能が遺憾なく発揮されたものであった。戊辰戦争では事実上の新政府軍総司令官として指揮を行った。明治2年、新政府の兵部大輔となり軍制改革を提案、藩兵の親兵化構想と衝突。守旧派・草莽志士に怨まれ、同年京都で襲撃され約2ヶ月後に没する。

変名:村田宗太郎、村田蔵六、村田良庵、大村永敏
主な役職:軍学指南役、有栖川宮東征大総督府補佐、兵部大輔
剣術:-
墓所:山口市鋳銭司町

尾寺 新之丞
おてら しんのじょう
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か行


桂 小五郎
かつら こごろう
(1833-1877)
長州藩
逃げの小五郎と云われた維新の三傑の一人
天保4年、萩城下の藩医の家に生まれる。七歳で隣家桂九郎兵衛に乞われてその養子になるが、養子になってからほどなく養父・養母が死んだ為少年の身で桂家の当主になる。十二歳で藩校明倫館に通い、そこで吉田松陰に山鹿流兵学を学ぶ。嘉永5年、剣術修行の為江戸留学し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て練兵館塾頭を務める傍ら、長州開明派の中で頭角を現す。蛤御門の変後の俗論派による粛清時には行方をくらますが、高杉晋作の軍事クーデター後、高杉晋作・大村益次郎たちによって、長州正義派政権の統率者として迎えられる。慶応2年、土佐藩の坂本竜馬らの斡旋をうけた桂は長州の代表として、秘密裏に薩長同盟を結び、倒幕へと進んでいく。維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けてた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。海外視察も行い、帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼された。

変名:和田小五郎、木戸貫冶、木戸準一郎、木戸孝允
主な役職:外国事務掛、参与、参議、文部卿、内務卿
剣術:神道無念流剣術
墓所:京都霊山護国神社


桂 太郎
かつら たろう
(1848-1913)
長州藩
3度の総理大臣を経験したニコポン宰相
弘化4年、長州藩士桂與一右衛門の長男として生まれる。
万延元年、藩の正規軍である選鋒隊に入隊。元治元年、世子毛利元徳の小姓役となる。慶応2年の幕長戦争では、大村益次郎が指揮する石州口の戦いに参加した。戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督参謀添役や第二大隊司令として各地を転戦するが、庄内藩との戦いで苦戦を強いられた。明治3年、ドイツに留学。明治6年に帰国して、陸軍に入隊した。山縣有朋の引き立てにより、順調に昇進。日清戦争には、名古屋第3師団長として出征している。その後、台湾総督を経て陸軍大臣となり、明治34年に内閣総理大臣に就任する。西園寺公望と交互に組閣して、「桂園時代」を築き上げる。在任中、日露戦争や韓国併合などの事件が起きている。大正2年、脳血栓により死去。

変名:桂清澄
主な役職:奥羽鎮撫総督参謀添役、名古屋第3師団長、陸軍大臣、内閣総理大臣
剣術:-
墓所:東京都世田谷区若林


楫取 素彦
かとり もとひこ
(1829-1912)
長州藩

草創期の群馬県政を担った初代県令
文政12年、長州藩医松島瑞蟠の次男として生まれる。天保11年、小田村家の養子となり、藩校明倫館に学んだ。大番役として江戸藩邸に勤め、朱子学者安積艮斎や儒学者佐藤一斎に教受。吉田松陰と親交し、松下村塾にも時々訪問して塾生達とも交流した。元治元年、俗論党の台頭により野山獄に投ぜられ、翌年出獄する。幕長戦争では、幕軍との交渉で正使宍戸璣の副使となる。維新後の明治5年に足柄県参事となり、明治7年に熊谷県権令、明治9年には、新設された群馬県令となった。元老院議官、高等法院陪席裁判官、貴族院議員、宮中顧問官等を歴任し、貞宮多喜子内親王御養育主任も拝命。大正元年、死去。兄に松島剛蔵、弟に小倉健作がいる。


変名:松島久米次郎、松島内蔵次郎、小田村伊之助、小田村文助、小田村素太郎、楫取希哲、
士毅、耕堂彜堂、晩稼、棋山、不如帰耕堂
主な役職:明倫館都講役、群馬県令、元老院議官、高等法院陪席裁判官、貴族院議員、宮中顧問官
剣術:-
墓所:防府市桑山大楽寺墓地


来嶋 又兵衛
きじま またべえ
(1817-1864)
長州藩

禁門の変で憤死した長州藩の猛将
文化14年、喜多村政倫の次男として生まれる。天保7年、来島又兵衛政常の婿養子となり、以後江戸で剣術修行に励む。嘉永元年に帰国し、家督を継ぐ。同年、手廻組に加えられ藩世子の駕籠奉行となる。その後、藩の要職を歴任した。文久3年、高杉晋作が奇兵隊を創設すると又兵衛は遊撃隊を組織し互いに連携して国事にあたった。元治元年の禁門の変では、積極的に出兵を主張。風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら兵を率いて上洛し激戦を繰り広げた。この禁裏内の戦闘で、当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した川路利良の狙撃で胸を撃ちぬかれ、助からないと悟った又兵衛は甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら槍で喉を突いた。


変名:来嶋政久、喜多村亀之進、喜多村光次郎、来島光次郎、森鬼太郎、森喜太郎
主な役職:所帯方頭人、遊撃隊総督
剣術:大石神影流剣術、大島流槍術、鏡心明智流剣術
墓所:京都霊山護国神社、光市室積峨嵋山護国神社、美祢市西厚保町高岡墓地


久坂 玄機
くさか げんき
(1820-1854)
長州藩

攘夷を唱えた長州尊攘のさきがけ
文政3年、長州藩医久坂良迪の長男として生まれる。儒学・蘭学を学び、弘化4年より大坂の緒方洪庵に学んだ。嘉永元年、萩に帰国。藩の医学館の都講役となり、藩内に牛痘接種を実施する。蘭学に精通していたが攘夷の志があり、海防僧月性とも親交があった。海外の事情にも明るく、安政元年、藩主より海防策の提出を求められ、無休で策を書き上げその疲労がたたって急死した。久坂玄瑞は実弟。


変名:久坂権太郎、久坂真又静、久坂天籟、久坂真
主な役職:適塾塾頭、医学館都講役
剣術:ー
墓所:萩市椿東椎原護国山墓地

久坂 玄瑞
くさか げんずい

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国司 親相
くにし ちかすけ
(1842-1864)
長州藩
禁門の変の責任をとり切腹した三家老の一人
天保13年、長州藩士高洲元忠の次男として生まれる。6歳の頃、国司迪徳の養嗣子となり、家督を継いで大組頭となった。家柄も然ることながら、親相は若い頃から聡明だったため、次第に頭角を現してゆき、文久2年には長井雅楽の切腹検視役正使も務めている。同年、久坂玄瑞らと共にアメリカ船ペングローブ号を砲撃し、下関海峡を封鎖。朝廷からも褒勅の沙汰を賜わった。この功績により、国司は下関防備総奉行に任じられる。しかし八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、国司は家老に昇格した上で、同じく家老の益田親施や福原元僴らと共に京都における長州藩の影響力を取り戻そうと挙兵。禁門の変を引き起こしたが、薩摩、会津連合軍の前に大敗。戦乱を起した敗軍の責を負わざるを得なくなった。藩主父子が国司に与えた軍令状が発見されたことも重なり、朝廷から毛利敬親の追討令が発せられ、長州藩は朝敵となった。 やがて、第一次長州征伐が始まり、総大将徳川慶勝、参謀西郷隆盛が、広島へ36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍する。西郷隆盛は、禁門の変の責任者である三家老国司、益田、福原の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、長州藩はそれを受諾。国司は徳山澄泉寺にて切腹した。

変名:高洲丑之介、国司徳蔵、国司熊之助、国司信濃、国司朝相
主な役職:上席家老
剣術:ー
墓所:厚狭郡楠町天龍寺


神代 直人
こうじろ なおと
(?-1869)
長州藩

大村益次郎を殺したテロリスト
長州藩士神代一平の長男として生まれる。
大楽源太郎の西山塾で学び、欧化反対論者となる。高杉晋作が軍制の欧化を進めているとして暗殺を計画するが、晋作の脱藩により失敗。慶応元年、長府藩の報国隊に入隊するが、隊内の抗争による煽りを受けて脱走した。明治2年、軍制改革を指導していた大村益次郎を暗殺。豊後国姫島に潜伏していたが、小郡に戻って藩へ連絡。捕縛方が到着する前に自ら腹を切った。


変名:-
主な役職:-
剣術:不明
墓所:不明


さ行


佐久間 佐兵衛
さくま さへえ
(1833-1864)
長州藩
(四参謀)

(甲子殉難十一烈士)

野山獄に消えた四参謀の一人
天保4年、長州藩士中村儀右衛門の子として生まれる。幼くして父を亡くし、伯父赤川又兵衛に養われ赤川直次郎と称した。水戸へ遊学し、水戸学藤田派の学者会沢正志斎に師事する。帰郷後、佐久間家を継いで佐久間佐兵衛に改め、藩校明倫館の助教となった。元治元年の禁門の変には、福原越後の参謀として参戦。傷ついた越後に代わり軍を指揮するが敗走。俗論派が藩の政権を握ると、捕らえられて野山獄で斬首された。


変名:赤川直次、赤川直次郎、佐久間義済
主な役職:-
剣術:-
墓所:萩市東椿東光寺


宍戸 佐馬之介
ししど さまのすけ
(1804-1864)
長州藩
(四参謀)

(甲子殉難十一烈士)

野山獄に消えた四参謀の一人
文化元年、長州藩士林隆州の三男として生まれる。長州藩士宍戸藤兵衛の養子となる。江戸に出て伴信友に国学を学んだ。文久2年、家老益田右衛門介の手元役となる。元治元年には、大阪藩邸の留守居役に任じられた。元治元年、禁門の変では、竹内正兵衛と共に敗走する兵をまとめて天王山に布陣した。その後、真木和泉らと別れ長州に帰国すると、俗論派に捕らえられて野山獄にて処刑された。


変名:宍戸山三郎、宍戸九郎兵衛、宍戸真澂、宍戸忠美、橘廂、鳰浮巣翁、宍翁
主な役職:-
剣術:-
墓所:萩市東椿東光寺

品川 弥二郎
しながわ やじろう
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白井 小四郎
しらい こしろう
(1838-1868)
長州藩

少年を助けようとして死後称えられた長州藩士
天保9年、長州藩士白井某の子として生まれる。高杉晋作が結成した奇兵隊に入隊。戊辰戦争では、二本松戦争に長州藩の部隊長として参戦する。二本松城松坂門入口を付近を部隊と共に馬に乗って進んでいると、潜んでいた二本松少年隊の生き残り成田才次郎が抜刀して走りこんできた。白井は瞬時に少年であると見抜いて、手を出さないよう兵を制す。しかし、成田は白井の脇腹を一突きにしてしまう。白井は落馬しつつも、この少年を殺さぬように部下を制しますが、混乱の中で部下に聞こえず成田少年は、白井の部下によって射殺される。白井も間もなく絶命した。大正5年、二本松少年隊の生き残りが当時の様子を語り、白井の行動が称えられ、政府より香華料が納められた。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:二本松市竹田真行寺


杉山 民治
すぎ みんじ
(1828-1910)
長州藩

松下村塾を再興した松陰の兄
文政11年、長州藩士杉百合之助の長男として生まれる。幼少より叔父の玉木文之進に学び、藩校明倫館に進む。嘉永6年、江戸湾警備のために相模に赴任するが、安政元年に実弟の吉田寅次郎(松陰)が、黒船密航未遂事件を起こし、連座して帰国を命じられた。翌年に許され郡奉行所勤務となる。松陰の松下村塾には多大な支援を行い、助力を惜しまなかった。安政6年、安政の大獄で松陰が捕縛されると、連座して免職となる。万延元年、家督を継いで再び藩に出仕した。慶応元年、民政方御用掛に就任する。明治元年には当島宰判と浜崎宰判の民政主事助役を担当。明治4年の廃藩置県の後に、山口県権典事に就任した。明治11年、退官。明治13年頃に、松下村塾を再興。修善女学校の校長にもなって子女教育にも尽力する。明治43年、死去。


変名:杉梅太郎、杉修道、杉学圃
主な役職:民政主事助役、山口県権典事、松下村塾主宰、修善女学校校長
剣術:ー
墓所:萩市椿東椎原護国山墓地


杉 百合之助
すぎ ゆりのすけ
(1804-1865)
長州藩

良き理解者であった松陰の父
文化元年、長州藩士杉七兵衛の長男として生まれる。最下層の藩士であったため、農業もしながら生計を立て7人の子供を育てている。天保3年に記録御次番役、翌年に呉服方に任命される。天保6年、弟の吉田大助が死去したため、吉田家の家督を次男の寅之助(松陰)に相続させた。安政元年、松陰が黒船密航未遂事件を起こし、野山獄に入獄。出獄後は生家預かりとなり、百合之助宅に蟄居する。蟄居中の松陰に家族や近親者と共に「孟子」や「武教全書」の講義を受けている。安政2年、松陰が松下村塾を主宰するとこれを助けた。安政6年、安政の大獄で松陰が捕縛されると、役を罷免され家督を長男の梅太郎に譲る。文久3年、復職して当職内用方と盗賊改方を兼務。慶応元年、死去。


変名:杉常道、杉伯兪、恬斎
主な役職:記録御次番役、呉服方、当職内用方、盗賊改方
剣術:ー
墓所:萩市椿東椎原護国山墓地

杉山 松助
すぎやま まつすけ
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周布 政之助
すふ まさのすけ
(1823-1864)
長州藩

長州攘夷派書生達に慕われた長州藩重臣
文政6年、長州藩士周布吉左衛門の五男として生まれる。父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子であったため、家禄を68石に減ぜられ、わずか生後6ヵ月で家督を相続した。来原良蔵や松島剛三らと嚶鳴社を結成し、弘化4年に祐筆椋梨藤太の添役として抜擢された。政之助は天保の藩政改革を行った家老の村田清風の影響を受けており、この抜擢は村田の政敵である坪井九右衛門派の椋梨との連立政権を意味していた。財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力し、また桂小五郎や高杉晋作ら吉田松陰の門下を中枢に登用したが、相州防備の藩財政の悪化により失脚。しかし政権を握った坪井派が京都と長州の交易を推進したことが藩内の会所において疑心暗鬼をうみ失敗したことで再び藩政に復帰。文久2年頃に藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策に藩の経済政策の責任者として同意したが久坂玄瑞ら松下村塾の藩士らに説得され藩論統一のために攘夷を唱えた。元治元年の禁門の変や第一次長州征伐に際して事態の収拾に奔走したが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなった。同年、責任を取り山口矢原にて切腹した。


変名:周布兼翼、麻田公輔、松岡敬助
主な役職:家老
剣術:ー
墓所:山口市周布町船田墓地
萩市椿東東光寺東京都港区青山霊園 長門市三隅下 向島山頂


世良 修蔵
せら しゅうぞう
(1835-1868)
長州藩

奥州諸藩から恨まれ殺された主戦派
天保6年、大島の漁師の子として生まれる。木谷良蔵の養子となり、明倫館、時習館に学ぶ。さらに江戸で儒者安井息軒の三計塾に学び、塾長代理をつとめた。長州藩において下関戦争敗戦後に奇兵隊が組織されると、後に3代目総督となる同郷同門の赤根武人の招聘を受けて奇兵隊に入隊して書記となる。さらに慶応元年の第二奇兵隊発足に伴い軍監に就任した。慶応2年、赤根が佐幕派に内応したとの疑惑を受けて脱走すると世良も関与を疑われ謹慎処分となったが、同年4月に発生した第二奇兵隊の倉敷浅尾騒動事件を受けて隊内の安定のため復職している。幕府による第二次長州征伐が行われると第二奇兵隊を率いて抗戦し、同年6月の大島口において松山藩を中心とした幕府軍相手に勝利を収める。慶応4年、鳥羽・伏見の戦いでも新政府軍の勝利に貢献。その後、薩摩の大山格之助と共に新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀となる。仙台藩、米沢藩らによる会津救済嘆願では、あくまで武力討伐するという強硬姿勢を貫き、次第に仙台藩士らから穏便な会津処置の障害と見られるようになった。さらに大山格之助宛てに記した密書(奥羽皆敵と書かれていた)を読んだ仙台藩士は、世良の暗殺実行を決意。瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、阿武隈川河原で斬首された。


変名:木谷修蔵、大野修蔵
主な役職:第二奇兵隊軍監、奥羽鎮撫総督府下参謀
剣術:ー
墓所:白石市陣馬山、福島市宮町福島稲荷神社



た行


大楽 源太郎
だいらく げんたろう
(1832-1871)
長州藩

攘夷を貫き通し時代に取り残された教育者
天保3年、長州藩士山県信七郎の子として生まれる。天保14年、大楽助兵衛の養嗣子となる。太田稲香、月性、広瀬淡窓らに学び、勤皇思想を身に付け、久坂玄瑞らと知己となる。安政4年に月性とともに上京し、京都において梁川星厳、梅田雲浜、頼三樹三郎、西郷吉之助らと交流を深めるが、翌5年から始まった安政の大獄を受け急遽帰藩。藩命により蟄居を命ぜられる。その後脱藩して水戸に赴き、大老井伊直弼の襲撃を計画するが、未然に発覚して再び禁固に処せられる。赦免後、久坂玄瑞、高杉晋作らと協力して積極的に尊王攘夷運動を推進。元治元年には佐幕派絵師の冷泉為恭を斬り、禁門の変では書記として参陣。長州藩の敗戦を受けて再度山口へと逃れ、慶応元年、高杉の功山寺挙兵に呼応して宮市に忠憤隊を組織した。慶応2年には、故郷台道に私塾敬神堂を開設、明治2年までに多くの門人を育てた。しかし、大村益次郎暗殺事件が勃発。犯人の神代直人、団紳二郎らが門下生であったことから首謀者の嫌疑を受け、幽閉を命ぜられる。翌明治3年、多くの門下生が山口脱隊騒動を起こすと、再び首謀者の嫌疑を受け藩庁から出頭を命ぜられる。ここに至りついに山口より脱走し、豊後姫島に潜伏した後、豊後鶴崎において河上彦斎と語らって二卿事件を企てるが失敗。さらに久留米に走って応変隊を頼るが、新政府からの追求を受けた同隊隊士の川島澄之助らの手によって、斬殺された。


変名:大楽奥年、大楽弘毅
主な役職:忠憤隊隊長、敬神堂主宰
剣術:ー
墓所:防府市大道大楽家墓所、久留米市寺町遍照院


高杉 小忠太
だかすぎ こちゅうた
(1814-1891)
長州藩

優秀な藩の管理職であった晋作の父
文化11年、長州大組藩士高杉春豊の次男として生まれる。長州藩士武藤又左衛門の養子となるが、兄が死去し、旧姓に復して家督を継いだ。天保5年より、第11代藩主毛利斉元の小姓として仕える。天保7年に毛利斉広が第12代藩主になると近侍となり、天保8年に毛利敬親が第13代藩主になると小納戸役に任じられた。文久2年に上洛し、直目付、学習館御用掛に任じられて朝廷や幕府の交渉役を務める。元治元年、第1次長州征伐の余波を受けて失脚する。慶応2年に息子の晋作が、クーデターを成功させると直目付として復帰した。明治2年、大監察となって藩政を掌握。明治3年には権大参事となり、諸隊の脱退騒動を鎮圧する。明治4年に退隠し、以後は主家毛利氏の歴史編纂事業に務めた。明治10年に東京へ移り、明治24年に死去した。


変名:高杉弥四郎、武藤弥四郎、高杉小左衛門、高杉丹治
主な役職:奥番頭、直目付、学習館御用掛大監察、権大参事
剣術:ー
墓所:東京都港区瑞聖寺、下関市吉田東行庵

高杉 晋作
だかすぎ しんさく
高杉晋作略歴へ



竹内 正兵衛
たけうち しょうべえ
(1819-1864)
長州藩
(四参謀)

(甲子殉難十一烈士)

野山獄に消えた四参謀の一人
文政2年、長州藩士八谷正左衛門の子として生まれる。検使役や代官役等を経て所帯方頭人となり、財政整理に尽力。文久2年、大坂藩邸の監吏となり、尊攘運動を賛助した。文久3年、帰国して下関攘夷戦に参戦した。元治1年、佐久間佐兵衛と共に福原越後の参謀として上京するが、禁門の変で敗走。俗論派が藩の政権を握ると、捕らえられて野山獄で斬首された。


変名:竹内勝愛、竹内清喜、松永鼎
主な役職:-
剣術:-
墓所:長門市三隅下八谷家墓地、萩市東椿東光寺


玉木 文之進
たまき ぶんのしん
(1810-1876)
長州藩

松下村塾を開設し幼き松蔭を教育した松陰の叔父
文化7年、長州藩士杉七兵衛の三男として萩で生まれる。文政3年、家格では杉家より上にあたる大組士玉木十右衛門の養子となって家督を継いだ。天保13年に松下村塾を開いて、幼少期の松蔭を厳しく教育。また乃木希典も玉木の教育を受けている。天保14年に大組証人役として出仕。安政3年には吉田の代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任して名代官と謳われたという。安政6年に郡奉行に栄進するが、同年の安政の大獄で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走。しかし松陰は処刑され、その監督不行き届きにより万延元年に代官職を剥奪されている。文久2年に郡用方として復帰し、文久3年からは奥阿武代官として再び藩政に参与し、その年のうちに江戸行相府に昇進。藩内では尊王攘夷派として行動し、厚狭毛利家の毛利親民の参謀を兼ね、慶応2年の第2次長州征伐では萩の守備に務めた。その後、奥番頭にすすむが明治2年には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に務めている。明治9年、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼や門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で先祖の墓の前で自害した。


変名:玉木正一、玉木正?
主な役職:松下村塾主宰、大組証人役、代官、郡奉行、郡用方、奥番頭
剣術:ー
墓所:萩市椿東椎原玉木家墓地


坪井 九右衛門
つぼい くえもん
(1800-1863)
長州藩

藩政改革を実施した俗論党の首領
寛政12年、長州藩士の佐藤家に生まれる。幼少時に坪井家の養子になり、江戸方右筆から同相談人兼手元役に進んで藩政に加わり、建白書を提出して天保の改革に有力者として参加する。弘化元年、村田清風が退くと政権を担い、公内借捌の法により藩士の負債を軽減させたが、かえって藩財政の赤字が増大したことにより、責任を追及されて隠退する。その後、周布政之助による改革を経て、安政2年に椋梨藤太とともに藩政に復帰し、藩政改革に着手する。産物取立政策を実施し、のちに萩を訪れた梅田雲浜の意見を受け入れ、上方との交易を開始する。その後、攘夷派の反対にあって羽島に流され、結党強訴の罪名により野山獄で処刑された。


変名:坪井正裕、坪井子寛、坪井顔山
主な役職:江戸方手元役、撫育方、産物方
剣術:ー
墓所:萩市上五間町光源寺

寺島 忠三郎
てらしま ちゅうざぶろう
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時山 直八
ときやま なおはち
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富永 有隣
とみなが ゆうりん
(1821-1900)
長州藩

国木田独歩の小説のモデルにもなった偏屈者
文政4年、長州藩士富永七朗右衛門の嫡男として生まれる。幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明。9歳で藩校明倫館に学び、13歳で藩主嫡男に『大学』を講じた。他人と打ち解けなかったために、同僚、親族らに憎まれ、嘉永5年に冤罪で見島に流され、翌年には萩野山獄に移された。そこで同じく幽閉中であった吉田松陰と意気投合し、安政4年に出獄。松陰の松下村塾で講師を務めた。安政の大獄で松陰が捕らえられると、故郷の吉敷郡に帰って定基塾を開いて尊王論を説いた。慶応2年の四境戦争では、鋭武隊を率いて石州・芸州口で幕府軍と交戦。明治維新後は、開国政策への不満から、大楽源太郎とともに脱隊騒動を起こして敗北、各地を逃亡。明治10年に逮捕されて、2年後大審院において有罪判決を受けて国事犯として石川島監獄に収容された。明治17年に特赦により釈放され、2年後に熊毛郡城南村に住む実妹の元に身を寄せて帰来塾を開いて後進の指導にあたった。国木田独歩の小説「富岡先生」は、晩年の有隣がモデルである。


変名: 富永徳、 富永悳彦、富永弥兵衛
主な役職:松下村塾講師、定基塾主宰、鋭武隊隊長、帰来塾主宰
剣術:ー
墓所:山口市陶郷上正護寺


な行


長井 雅楽
ながい うた
(1819-1863)
長州藩

攘夷の愚を説き時代の先を見据えた開国論者
文政2年、長州藩士大組士中老長井次郎右衛門泰憲の長男として生まれる。藩校明倫館で学び、藩主毛利敬親の小姓、奥番頭となった。敬親から厚い信任を受け、敬親の世子である毛利定広の後見人にもなっている。安政5年には直目付となる。雅楽は開国論者であり、文久元年に公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論となされた。その後、朝廷や幕府にこれを入説して歓迎され、藩主敬親と共に江戸に入り老中久世広周、安藤信正と会見。正式に同策を建白して公武の周旋を依頼された。しかし、当時藩内であった尊皇攘夷派とは対立関係にあり、安政の大獄では、吉田松陰の江戸護送を制止も弁明もしようとしなかったのも、松陰が攘夷を唱えていたためと推測された。このため、松陰の門徒らに命を狙われることとなる。文久2年、藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。同年、再度入京したが、すでにこの頃は尊攘激派の台頭が著しく、久坂らの朝廷工作によって長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、藩から帰国謹慎を命ぜられる。文久3年、雅楽は藩から切腹を命じられ、本人も藩論が二分され、内乱が起きることを憂い自害した。



変名:長井与之助、長井与左衛門、長井隼人、長井右近、長井時庸
主な役職:直目付
剣術:ー
墓所:萩市大字北古萩町海潮寺


中村 九郎
なかむら くろう
(1819-1864)
長州藩
(四参謀)

(甲子殉難十一烈士)

野山獄に消えた四参謀の一人
文政11年、長州藩士中村儀右衛門の長男として生まれる。安政五年、藩命により上京。梁川星巌、梅田雲濱、頼三樹三郎らに影響を受ける。帰国後、右筆や参政などの官職を歴任。元治元年の禁門の変には、国司信濃の参謀として参戦するが敗れて敗走する。俗論派が藩の政権を握ると、捕らえられて野山獄で斬首された。


変名:中村清旭、中村喜八郎、中村道太郎、中村九郎兵衛、白水山人
主な役職:-
剣術:-
墓所:萩市東椿東光寺


楢崎 弥八郎
ならさき やはちろう
(1837-1864)
長州藩

(甲子殉難十一烈士)

政変により刑死した甲子殉難烈士
天保8年生まれ。万延元年に江戸へ出て、安積艮斎、大橋訥庵などに影響を受け、尊皇攘夷に傾倒。文久3年、政務座役に任命される。元治元年、俗論派が藩の政権を握ると、捕らえられて野山獄で斬首された。


変名:楢崎清義、楢崎節庵
主な役職:政務座役
剣術:-
墓所:萩市東椿東光寺


根来 帯刀
ねごろ たてわき
(1816-1892)
長州藩

高杉晋作の反乱軍が襲った萩藩新地会所の奉行
文化13年、長州藩寄組根来煕行の長男として生まれる。弘化4年、大組頭となり藩政に参画するが、嘉永7年に病気を理由に辞職。文久元年、再出仕。文久2年からは江戸留守居役に任じられて長井雅楽の公武合体運動を助けた。しかし長井が失脚したことが影響し、藩主の世子である毛利元徳の近侍となる。文久3年には帰国を命じられてしばらくは逼塞した状況にあったが、まもなく復帰して家老に任じられて上京し、京都留守居役の宍戸真澂と共に朝廷工作などを行なった。第1次長州征伐後、高杉晋作らが台頭すると根来はこれに協調して藩政を主導し、明治3年には山口藩大参事に任じられた。明治17年、家督を子の根来親保に譲って隠居し、明治25年に死去した。


変名:根来長五郎・根来帯刀・根来勢之祐、根来親祐
主な役職:長州藩家老
剣術:ー
墓所:不明

野村 靖
のむら やすし
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乃美 織江
のみ おりえ
(1822-1906)
長州藩

池田屋殉難士を見殺しにした藩邸留守居助役
文政5年、長州藩士乃美八郎右衛門の子として生まれる。文久2年に上京して目付役、京都留守居役となる。文久3年に帰国するが、八月十八日の政変の後、上京して再び京都留守居役となる。しかし、対馬藩邸を本拠地に「志士の総管」としてそれまでも長州藩の実質的な京都留守居役として活動していた桂小五郎が、正式に長州藩京都留守居役に抜擢されることになったため、留守居助役へ降格された。元治元年の池田屋事件の際に、河原町の長州藩邸の邸門を閉ざした責任者であった。翌日、長州藩邸のすぐ近くで死亡していた吉田稔麿を自ら発見し、長州藩に報告した。同時に、「桂小五郎が殺された」と時期尚早に長州藩に誤報を知らせ長州藩内を過剰に激昂させてしまう失態を犯した。更に桂が生きていると対馬藩邸から秘かに伝えられるや否や、今度は「桂小五郎は屋根伝いに逃げたらしい」と、またもや誤報を藩に報告し、桂を非常に苦しい立場に追いやってしまった。明治維新後は、山口藩大属、萩部支庁、兵庫伊弉諾神社宮司などを務めた


変名:乃美宣、乃美幸之進、乃美半兵衛
主な役職:長州藩京都留守居役、山口藩大属、萩部支庁、兵庫伊弉諾神社宮司
剣術:ー
墓所:不明


は行


広沢 真臣
ひろさわ さねおみ
(1834-1871)
長州藩

外交政務に奔走した長州の功臣
天保4年、長州藩士柏村安利の四男として生まれる。弘化元年、波多野直忠の婿養子となって波多野金吾と称した。藩校明倫館に学ぶ。嘉永6年の黒船来航時には大森台場警衛のために出張。安政6年には藩の軍政改革に参画するなど、尊攘派として活躍した。以後、藩世子毛利定広と共に入洛し、桂小五郎や久坂義助のもと、京都詰の事務方として尽力した。元治元年、藩内の政権闘争で主戦派が恭順派に敗れた、それに連座して投獄されたものの、主戦派でなかったために処刑を免れる。慶応元年、高杉晋作がクーデターによって藩の実権を掌握すると、政務役として藩政に参加することとなる。同年、藩命によって広沢兵助と改名した。慶応2年の第二次征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟と交渉した。また、坂本龍馬や五代才助と会談して「商社示談箇条書」を作成するなど奔走し、慶応3年には大久保利通らと共に討幕の密勅の降下にも尽力するなど倒幕活動を推進した。維新政府の発足後は、参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀を務め、その後、内国事務掛や京都府御用掛を歴任。明治2年、復古功臣として木戸や大久保と同じ永世禄1,800石を賜り、民部大輔や参議の要職を務めた。明治4年、刺客の襲撃によって暗殺された。


変名:柏村季之進、波多野金吾、広沢藤右衛門、広沢兵助
主な役職:参与、海陸軍務掛、東征大総督府参謀、内国事務掛、京都府御用掛、民部大輔
剣術:ー
墓所:東京都世田谷区松蔭神社 山口市赤妻町赤妻神社
 


福田 侠平
ふくだ きょうへい
(1829-1868)
長州藩

心酔していた晋作の隣に眠る奇兵隊軍監
文政12年、長州藩士十川権右衛門の次男として生まれる。のちに福田貞八の養子となり、福田姓を名乗る。文久3年、下関で高杉晋作が奇兵隊が結成するとこれに志願して入隊。元治元年には書記役として英仏蘭米四カ国連合艦隊との戦闘に従軍、同年参謀へと昇格し、翌慶応元年には山縣有朋とともに軍監を兼務することとなる。20歳代の若い指導者が多い奇兵隊の中で、総督である高杉よりも10歳も年上の福田は良き相談役であるとともに、若い志士たちの軽挙を諫める思慮深い一面もあった。このことから、高杉晋作が最も信頼した男とも言われていた。しかし、功山寺挙兵に際してはこれを暴挙として高杉の馬前を遮って止めようとしたが、最終的には高杉に同調し、奇兵隊士を集めてこれに参戦した。その後、絵堂・大田の戦い、第二次長州征討では小倉口の戦いを歴戦し、戊辰戦争においては北越戦線から陸奥へと転戦する。明治元年、戊辰戦争に勝利して凱旋。下関に滞在し、明治政府の成立を祝って大酒をしていたところ、2日後に倒れそのまま急逝した 。高杉に芯から心酔していたらしく、その遺体は遺言により高杉の墓の隣に葬られた。


変名:十川侠平、福田悠々、福田公明
主な役職:奇兵隊軍監
剣術:ー
墓所:下関市吉田東行庵


ま行


前田 孫右衛門
まえだ まごえもん
(1818-1865)
長州藩

(甲子殉難十一烈士)

野山獄に散った長州正義派の政務官僚
文政元年生まれ。明倫館に学び、代官や奉行を歴任。吉田松陰や松下村塾門下生らと親交があった。文久2年に上京して直目付に就任して軍備の整備に当たる。元治元年の禁門の変の後、俗論派が台頭すると他の要職に就いていた者達と共に謹慎処分を受ける。その後野山獄にて処刑された。


変名:前田利済、前田致遠、前田岩助、前田陸山
主な役職:当職手元役、直目付、用談役
剣術:ー
墓所:萩市東椿東光寺

前原 一誠
まえばら いっせい
松下村塾門下生人物録へ


槇村 正直
まきむら まさなお
(1834-1896)
長州藩

維新京都を救った豪腕知事
天保5年、長州藩下士羽仁正純の二男として生まれ、槇村満久の養子となる。幕末期は蜜用聞次役として活躍。明治元年、桂小五郎の推挙もあり、京都府に出仕。権大参事、大参事、参事などを歴任。小野組転籍事件を起こして勾留され、罰金30円の判決を受ける。その後、京都府権知事、京都府知事となり東京奠都後の京都復興に尽力した。また、府令をもって「撃剣の稽古をなす者は国事犯嫌疑者として監禁する」として、剣術の禁止なども行う。明治14年、元老院議官となり行政裁判所長官、貴族院議員を歴任した。男爵の爵位を授爵し華族となる。明治29年に死去。赤禰武人を捕らえたのは彼だといわれている。


変名:羽仁半九郎、槇村半九郎
主な役職:蜜用聞次役、京都府参事、京都府知事、行政裁判所長官、貴族院議員
剣術:ー
墓所:東京都府中市多磨霊園


松島 剛蔵
まつしま ごうぞう
(1825-1865)
長州藩
(甲子殉難十一烈士)

功山寺挙兵に伴い俗論派に処刑された甲子殉難烈士
文政8年、長州藩医松島瑞蟠の長男として生まれる。江戸遊学し、坪井信道に師事。世子毛利元徳の侍医となった。その後、長崎で長崎海軍伝習所のオランダ人に航海術を3年間学び、軍艦教授所を創立する。安政4年、長州藩初の西洋式軍艦製造に伴い、初代長州藩海軍総督兼丙辰丸艦長に就任。万延元年、丙辰丸で江戸航海に出発、高杉晋作もこれに乗り込み、外洋を航海し江戸に入る。江戸で、桂小五郎に水戸藩士西丸帯刀、野村彝之介らを紹介し、「丙辰丸の盟約」を丙辰丸艦内で結ぶ。文久2年、高杉晋作、久坂玄瑞らの御楯組に参加。御殿山に建設中だったイギリス公使館を襲撃する。文久3年、下関戦争に参加。庚申丸を指揮し、外国船を砲撃した。同年、米国軍艦の猛烈な反撃で庚申丸は沈没。この戦闘の際に負傷している。元治元年、第一次長州征伐で俗論派が藩政権を握ったために野山獄に投獄される。同年、高杉晋作が功山寺で挙兵すると、俗論派に処刑された。


変名:-
主な役職:初代海軍総督、丙辰丸艦長、庚申丸艦長
剣術:-
墓所:萩市椿東東光寺


椋梨 藤太
むくなし とうた
(1805-1865)
長州藩

正義派を弾圧した俗論派の首魁
慶応元年、萩に生まれる。天保14年、政務役坪井九右衛門の添役となる。嘉永元年、右筆明倫館用掛となる。嘉永6年、政敵の周布政之助と交代で政権を掌握。第一長州征伐後は、周布を自害に追い込むなど一時的に優位な立場に立ち、政敵である正義派の面々を大量に処刑していったが、この粛清に危機感を募らせた高杉晋作による功山寺挙兵によって形勢が逆転し、椋梨は政務座から排斥された。桂小五郎が禁門の変のあと潜伏していた但馬国出石から無事帰って来ると、長州の藩論は再び武備恭順・尊王・破約攘夷・倒幕路線に統一される。その後、津和野藩領内で捕らえられ、萩の野山獄において処刑された。


変名:椋梨景治
主な役職:家老
剣術:-
墓所:萩市大字江向徳隣寺


村田 清風
むらた せいふう
(1783-1855)
長州藩

幕末長州藩の財政の基礎を築いた長州藩重臣
天明3年、長州藩士村田光賢の長男として生まれる。藩校明倫館で優秀な成績を修め、学費免除のうえ、明倫館書物方となる。文化5年、藩主毛利斉房の小姓として仕える。以後、斉房から5代後の毛利敬親の頃まで藩の要職を歴任する。天保9年、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を掌握し、藩主毛利敬親のもとで天保の改革に取り組む。藩の負債8万貫の返済の為の倹約の徹底。武士の負債整理と士風の一新。四白政策(紙・蝋・米・塩)の振興などを行う。さらに軍備の改革と充実のために江戸に武器庫を建設、萩では海岸防備等の訓練を実施する。その結果、藩政は一新。士気は大いに高められ、後に長州藩が雄藩となる基礎を築きあげる。しかし、改革の途中で中風に倒れて隠退。その後、清風を尊敬する周布政之助の要請で再び藩政に携わったが、安政2年、持病である中風が再発して死去した。


変名:村田亀之助、村田四郎左衛門、村田織部、村田順之、村田松斎、村田梅堂
主な役職:明倫館書物方、表番頭、江戸仕組掛
剣術:-
墓所:長門市三隅大歳山


や行


山尾 庸三
やまお ようぞう
(1837-1917)
長州藩
(長州ファイブ)

工業の父となった長州ファイブの一人
天保8年、村役人山尾忠治郎の三男として生まれる。江戸へ出て桂小五郎や村田蔵六と出会い影響を受ける。文久3年、正式に長州藩士として認められた後、藩船癸亥丸の船長井上勝と共に海軍の修業のため、外国へ密留学するよう命じられる。その後に井上馨、伊藤博文、遠藤謹助が加わり、長州ファイブとしてイギリスに密留学する。5年半の間イギリスで造船技術などの工学を学び、明治元年に帰国。工部権大丞・工部大輔、工部卿など工学関連の重職を任された。また、新たに創設された法制局の初代長官も務めている。明治6年、のちの東京大学工学部の前身となる工学寮を創立。身体障害者の人材教育に熱心に取り組み、明治13年に楽善会訓盲院を設立した。大正6年、東京の自宅で死去。


変名:山尾富士太郎
主な役職:工部権大丞、工部大輔、工部卿、法制局長官
剣術:神道無念流剣術
墓所:東京都品川区海晏寺

山縣 有朋
やまがた ありとも
松下村塾門下生人物録へ


山県 太華
やまがた たいか
(1781-1866)
長州藩

松陰と国体論争を繰り広げた明倫館学頭
天明元年、長州藩士吉田半右衛門の長男として生まれる。亀井南冥に古文辞学、林家に朱子学を学ぶ。文化7年、藩校明倫館の学頭助役に就任。文化9年には藩主毛利敬親の側儒に取り立てられた。明倫館二代目学頭であった山県周南の跡を継ぎ、山県を名乗る。嘉永2年、明倫館の新舎建設や式目作法改正に尽力した。嘉永5年、隠居。安政2年、吉田松陰よりその著書「講孟余話」の批評を乞われ、その主張を批判したことから、松陰との論争に発展している。慶応2年、死去。


変名:吉田半七、山県禎、山県文祥、山県大華
主な役職:明倫館学頭
剣術:-
墓所:萩市北古萩町保福寺

山田 顕義
やまだ あきよし
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山田 宇右衛門
やまだ うえもん
(1813-1867)
長州藩

幕末長州藩の行政に尽くした政務首座
文化10年、長州藩増野茂左衛門の三男として生まれる。
文化14年、幼くして大組山田三郎右衛門の養子となり、家督を継ぐ。吉田大助に山鹿流兵学を学び、吉田松陰の後見人にもなった。安政元年、相州警衛総奉行手元役として浦賀に赴任。翌年、外艦応接掛として相島へ渡る。その後、徳地代官や遠近方、政務座役を歴任。文久2年に学習院用掛として上京し、尊王攘夷運動に参加した。帰郷後も、奥阿武代官、郡奉行、表番頭格などを務めた。慶応元年、兵学教授や政務座となり、兵備を拡張して幕府の長州征伐に備えた。幕長戦後、民政方改正掛となって、桂小五郎らと藩政改革に乗り出すが、病死した。


変名:増野吉十郎、山田又三、山田頼毅、山田星山、治心気斎
主な役職:相州警衛総奉行手元役学習院用掛、政務首座
剣術:-
墓所:山口市古熊 古熊墓地


山田 亦介
やまだ またすけ
(1809-1865)
長州藩

(甲子殉難十一烈士)

政変により刑死した甲子殉難烈士
文化5年、長州藩大組頭山田市郎右衛門の嫡男として生まれる。長沼流兵学を学び、弘化2年には当時15歳の吉田松陰に教授している。嘉永5年、古賀?庵の海防憶測を出版した罪で隠居となり、知行も削減される。安政5年には軍艦庚申丸の製造に関わり、銃士隊の編成も進言する。元治元年、禁門の変後に長州藩内の主導権を握った俗論党によって、萩の野山獄にて処刑された。


変名:山田憲之、山田公章、山田卯七郎、山田愛山、含章斎
主な役職:編輯局総裁、政務座右筆
剣術:-
墓所:萩市東椿東光寺


大和 国之助
やまと くにのすけ
(1835-1865)
長州藩

(甲子殉難十一烈士)

政変により刑死した甲子殉難烈士
天保6年、長州藩士山県某の子として生まれ、大和七兵衛の養子となった。浦賀の警備や兵庫の警衛に出陣。御楯組にも参加した。帰国後は藩主毛利敬親や七卿らの雪冤に奔走。その後、世子の奥年寄を兼ねて更に直目付まで進む。元治元年、俗論派が長州藩の実権を握ると、謹慎・蟄居させられる。その後、野山獄にて処刑された。


変名:大和弥八郎
主な役職:世子奥年寄、直目付
剣術:-
墓所:萩市東椿東光寺


吉田 松蔭
よしだ しょういん
(1830-1859)
長州藩

長州の若き書生達を育てた狂気の教育者
文政13年萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年、6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進の指導を受ける。西洋兵学を学ぶために嘉永3年に九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山に師事する。嘉永5年、親交のあった宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するために脱藩。帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受ける。嘉永6年、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれ、外国留学を決意。長崎に寄港していたロシア軍艦に乗り込もうとするが、同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗。安政元年にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された。その後密航の罪で自首し、下田で取調べを受け伝馬町の牢屋敷に送られた後、長州へ檻送され野山獄に幽囚される。安政2年に出獄を許され杉家に幽閉の処分となる。安政4年に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾し、高杉晋作、久坂玄瑞等名だたる長州志士の面々を教育した。
安政5年、老中間部詮勝の暗殺を計画するが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らの反対で計画は頓挫。松陰は捕らえられて野山獄に幽囚される。やがて安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供。斬刑に処された。


変名:杉虎之助、吉田大次郎、吉田寅次郎、吉田矩方、吉田義卿、二十一回猛士
主な役職:松下村塾主宰
剣術:ー
墓所:小塚原回向院、東京松陰神社、萩市椿東椎原護国山墓地

吉田 稔麿
よしだ としまろ
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ら行


わ行


渡辺 内蔵太
わたなべ くらた
(1836-1865)
長州藩

(甲子殉難十一烈士)

政変により刑死した甲子殉難烈士
天保7年生まれ。嘉永4年頃、藩校明倫館へ入学。安政五年、御手廻組小姓となる。文久2年、世子毛利定広の小姓に転じる。同年、攘夷派書生らと共に外国公使暗殺を計画するが、事前に発覚し謹慎を命ぜられる。謹慎中に同志達と御楯組を結成。品川御殿山の英国公使館の焼討ちに参加した。文久三年には世子御納戸役に進む。その後、政務座役となり世子の帰国に随従。藩論の統一に努めた。元治元年、幕府による第一次長州征伐に際し、藩内で主導権を握った俗論党によって野山獄に送られ刑死した。


変名:渡辺久之助、渡辺広輔、渡辺介亭
主な役職:世子御納戸役、政務座役
剣術:神道無念流剣術
墓所:萩市大字北古萩町海潮寺、萩市東椿東光寺



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