土佐藩人物録

土佐藩
   24万石 山内家 高知城
支藩:
土佐新田藩1万3000石 麻生山内家 高知城

土佐藩の領地は、戦国時代末期には長宗我部氏が統治していたが、関ヶ原の役で西軍に属した為に改易され、東軍であった山内一豊に与えられ、以後は山内氏が治めた。山内氏の直臣と長宗我部遺臣の間には格差(上士と郷士)があり、虐げられた郷士達の中から土佐勤皇党が生まれた。

※山内家一門人物録はこちらから。

あ行


麻田 勘七
あさだ かんしち
(生没年不明)
土佐藩(上士)

多くの藩士が門弟となった土佐の剣豪
生没年不明、麻田利太夫の次男として生まれる。
江戸に出て鏡心明智流桃井春蔵に剣術を学び、また千頭伝四郎に小野派一刀流を学び、高知城下鷹匠町に小野派一刀流の剣術道場を開く。藩校致道館の剣術指南役に推挙され、武市瑞山や佐々木高行ら、多くの土佐藩士が門弟となった。


変名:麻田直養
主な役職:致道館剣術指南役
剣術:鏡心明智流剣術、小野派一刀流剣術
墓所:不明


池 内蔵太
いけ くらた
(1841-1866)
土佐藩
(亀山社中(海援隊))

嵐に消えた若き海援隊士
天保12年、土佐郷士池才右衛門定穀の長男として生まれる。万延元年、江戸に出て安井息軒に師事し、様々な藩の志士と交流。武市半平太と共に土佐勤王党の結成に尽力する。文久3年、脱藩して長州藩を頼り、長州の尊皇攘夷運動に参加する。遊撃隊参謀となり、外国船砲撃を指揮した。その後、天誅組の反乱に参加し、天誅組が壊滅すると京都に潜伏する。元治元年に長州藩が軍を率いて禁門の変を起こすと、長州軍の忠勇隊に入隊。天王山陣営の大砲掛となり指揮役として活躍している。慶応元年、坂本龍馬が亀山社中を結成すると、それに加わる。しかし、長崎から薩摩藩へ小型帆船ワイルウェフ号で回航する途中で台風のため五島列島塩合崎沖で難破し溺死する。


変名:池定勝、細川左馬之助、細井徳太郎
主な役職:遊撃隊参謀
剣術:-
墓所:上五島江ノ浜郷、京都霊山護国神社


石田 英吉
いしだ えいきち
(1839-1839)
土佐藩
(亀山社中(海援隊))

龍馬の死後の海援隊をまとめた海援隊士
天保10年、土佐藩の医師の子として生まれる。家業を継ぐため大坂の適塾で緒方洪庵に師事し、医術を学ぶ。吉村寅太郎に心酔し、天誅組に加わって大和挙兵に参加。この戦いで敗れ長州に落ち延びる。その後、禁門の変に参加し負傷。再び長州に逃れ、高杉晋作の奇兵隊創設に貢献した。以後は坂本龍馬とともに亀山社中や海援隊の結成に参加し、長岡謙吉にとともに重きをなした。下関海戦では坂本の命によりユニオン号の指揮を任せられ、戦果を挙げた。坂本の死後、海援隊で長岡に従い、後進の指導にあたるなど組織をまとめた。維新後は秋田県令、千葉県知事をはじめ、多くの県知事職を歴任した。陸奥宗光が農商務大臣に就任した際には、英吉を次官に迎えている。明治29年、貴族院男爵議員をつとめたのち、明治34年に没した。


変名:伊吹周吉、伊吹慶良
主な役職:ユニオン号砲手長、秋田県令、千葉県知事、農商務次官、貴族院男爵議員
剣術:-
墓所:京都市左京区真如堂


板垣 退助
いたがき たいすけ
(1837-1919)
土佐藩(上士)

自由民権運動の父
天保8年、土佐藩士乾正成の嫡男として生まれる。尊王攘夷論に傾斜して土佐藩の上士としては珍しく武力倒幕を一貫して主張し、江戸で西洋式兵学を学び、軍制改革を進める。免奉行や側用役、大監察、参政など藩の要職を歴任した。慶応3年、京都の小松帯刀邸で、土佐藩の乾退助、谷干城、毛利恭助らと、薩摩藩の西郷吉之助、吉井幸輔らが薩土密約を結ぶ。戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍した。 甲府城攻略の際、甲斐国民衆の支持を得る為、旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して板垣退助と名乗る。明治2年、参与に就任。明治6年、征韓論争に敗れ下野。世論もこれを圧倒的に支持し、、板垣と土佐派の官僚が土佐で自由民権を唱える契機となった。明治7年に愛国公党を結成。明治14年、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して党首となる。明治15年、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷。襲われた直後「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言った言葉が、「板垣死すとも、自由は死せず」の言葉で広く伝わることになった。明治29年、第2次伊藤内閣に内務大臣として入閣。明治31年、大隈重信と憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣。明治33年、立憲政友会の創立とともに政界を引退。大正8年、死去。


変名:乾猪之助、乾正躬、乾退助、板垣正形、板垣無形
主な役職:土佐藩側用役、東山道先鋒総督府参謀、内務大臣
剣術:無雙神傳英信流抜刀術
墓所:高知市薊野東町薊野山、高知市洞ヶ島町安楽寺、東京都品川区品川神社


岩崎 弥太郎
いわさき やたろう
(1835-1885)
土佐藩

海運業で財を成した三菱財閥の創始者
天保5年、土佐の地下浪人岩崎弥次郎の長男として生まれる。21歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎に入門するが、安政2年、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄されるが、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業に手を染める機縁となった。出獄後、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入門し、後藤象二郎らの知遇を得る。東洋が参政するとこれに仕える。吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴くが、弥太郎のみ帰国する。この直後、井上は岡田以蔵らによって暗殺された。慶応3年、後藤象二郎に藩の商務組織土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。明治元年、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。明治2年、大阪商会は九十九商会と改称、海運業に従事する。明治6年に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、大阪堀江の土佐藩蔵屋敷に九十九商会を改称した三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となった。三菱商会では海援隊や士族出身の社員に対しても、出自に関係なく徹底して商人としての教育を施した。明治7年の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得る。明治10年の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げる。その後、銀行業も立ち上げ、三菱財閥の基礎を作り上げ、明治18年に病死した。


変名:岩崎敏、岩崎寛、岩崎東山、土佐屋善兵衛、岩崎彌太郎
主な役職:三菱商会総帥
剣術:-
墓所:東京都豊島区三菱重工巣鴨社宅付近


岩村 精一郎
いわむら せいいちろう
(1845-1906)
土佐藩

無能で横柄と評価された権令
土佐藩家老伊賀家家臣岩村英俊の三男として生まれる。藩校文武館で、蘭学や砲術を学ぶ。慶応3年、兄岩村通俊の鉄砲購入に随行して長崎へ行き、監察佐々木高行の添え書きを得て上京。中岡慎太郎の陸援隊に入隊する。坂本龍馬と中岡が近江屋で暗殺されると、紀伊藩士三浦休太郎を陸奥陽之助らと共に襲撃。その後、鷲尾隆聚の高野山出兵にも参加している。慶応4年の戊辰戦争では、東山道先鋒総督府の監察及び応接係として従軍。北越戦争では、小千谷の慈眼寺にて長岡藩家老河井継之助と会談。交渉は決裂し、結果として長岡藩は奥羽越列藩同盟に参加してしまい、新政府軍は手痛い損害を被ることになった。維新後は、有栖川宮家令、宇都宮県・神奈川県の権参事を務めた後、明治7年に佐賀県権令となり、大久保利通の内意を受けて佐賀の乱を鎮圧する。乱後は内務省に移り、江木康直の後任として愛媛県へ赴任。明治13年まで権令を務め、地租改正や民会施策などを実施。以後は、内務省大書記官、石川、愛知、福岡、広島の県令や知事を歴任。明治25年、貴族院議員となった。明治39年、死去。


変名:岩村高俊
主な役職:東山道先鋒総督府監察、有栖川宮家令、佐賀県権令、貴族院議員
剣術:小野派一刀流剣術
墓所:高知市真宗寺山累代墓地


岡田 以蔵
おかだ いぞう
(1838-1865)
土佐藩

京都を震え上がらせた暗殺者
天保9年、土佐郷士岡田義平の長男として生まれる。武市半平太に師事し土佐勤王党に加盟。文久2年、参勤交代の衛士に抜擢され、瑞山らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。京では勤王党同志と共に「天誅」活動に邁進。文久3年、八月十八日の政変で土佐勤王党は失速。その後、酒色に溺れて同志から借金を繰り返し、同志と疎遠になった後は一時期坂本龍馬の紹介で勝海舟の元に行っていたという逸話が残っている。元治元年、犯罪者として幕吏に捕えられ京洛追放、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送される。土佐藩では山内容堂による武市瑞山を含む土佐勤王党の弾圧が始まっており、以蔵は拷問に屈して自分の罪状及び天誅に関与した同志の名を白状し、土佐勤王党の獄崩壊のきっかけとなる。慶応元年、打ち首獄門となった。


変名:岡田宜振
主な役職:-
剣術:小野派一刀流剣術、鏡心明智流剣術、直指流剣術
墓所:高知市真宗寺山累代墓地


か行


河田 小龍
かわた しょうりゅう
(1824-1898)
土佐藩

龍馬に貿易の重要性を説いた狩野派絵師
文政7年、土佐藩士土生玉助の長男に生まれる。祖父の川田金衛門の生家河田家を継ぐ。幼少のころより島本蘭渓に画を学び、藩儒学者岡本寧浦の門下に入る。弘化元年、吉田東洋に従って京に遊学。京狩野家九代目の狩野永岳に師事した。嘉永5年、米国から帰国した中浜万次郎の取り調べに当り、藩の許可を得て、万次郎を自宅に寄宿させて読み書きを教え、自身も万次郎から英語を学んだ。万次郎の話を「漂巽紀畧五巻」として藩主に献上。同書が江戸に持ち込まれると、諸大名間で評判になり、万次郎は幕府直参として取り立てられることとなる。 また、坂本龍馬に「貿易によって異国に追いつく事」が日本のとるべき道であると説いている。
明治22年、京都府疏水事務所の庶務付属に採用され、琵琶湖疏水工事記録画の作成に当たった。明治27年、内国勤業博覧会外展覧会にて受賞している。明治31年、死去。


変名:河田篤太郎、河田維鶴小梁、松梁、皤山、翠竹斎、半舫斎
主な役職:-
剣術:-
墓所:京都市北区等持院


片岡 源馬
かたおか げんま
(1836-1908)
土佐藩(上士)

明治天皇が信頼した人情の人
天保7年、土佐藩士永野源三郎の次男として生まれ、那須橘蔵の養子となる。文久元年、武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加するが、山内容堂が勤王党弾圧を開始し、謹慎させられる。元治元年、長州藩を頼って脱藩し、京都や大坂、十津川などに潜伏して尊王攘夷活動を推進した。京都四条橋畔において中井庄五郎と共に歩いていたところ新撰組に遭遇。沖田総司、永倉新八、斎藤一と斬り合い負傷した。慶応元年、片岡源馬と改名。戊辰戦争では嘉彰親王を擁して越後にて柏崎軍監を勤める。維新後は新政府に出仕し、軍防局管轄軍曹を経て、東京府小参事、明治天皇の侍従をつとめる。明治35年、千島列島の調査探検を実施。明治39年、錦鶏間祗候に任じられ、貴族院勅選議員となる。明治41年、死去。


変名:片岡源馬、那須盛馬永野盛馬
主な役職:東京府小参事錦鶏間祗候貴族院勅選議員
剣術:一刀流剣術
墓所:東京都港区青山霊園


鹿持 雅澄
かもち まさずみ
(1791-1858)
土佐藩

土佐国学の第一人者
寛政3年、土佐郷士柳村尉平の長男として生まれる。儒学を中村隆蔵に、国学を宮地仲枝に学ぶ。家老福岡孝則に認められ、藩校教授館下役、同写本校正係に任ぜられ中士に抜擢された。古道を求め、歌作の参考にするため万葉集の研究を始め、著述「万葉集古義」は、土佐万葉学の集大成となった。国学塾古義軒を主宰し、子弟の教育にも力を入れ、土佐藩の国学の地位向上に努力した。歌人としても優れ「山斎集」にまとめられている。安政5年、死去。武市半平太や吉村虎太郎、佐々木高行らが門下生であった。


変名:柳村愿太、飛鳥井深澄、藤原太郎雅澄、山斉、古義軒
主な役職:教授館下役、教授館写本校正係
剣術:-
墓所:高知市福井町山本屋敷


後藤 象二郎
ごとう しょうじろう
(1838-1897)
土佐藩(上士)

大政奉還を建白した土佐藩参政
天保9年、土佐藩士後藤正晴の長男として生まれる。幼くして父を失い叔父吉田東洋に育てられた。安政5年、吉田東洋の推挙により幡多郡奉行となる。安政7年には、大坂藩邸建築のため普請奉行を拝命。文久元年、御近習目付となるが、東洋が暗殺されると失脚する。文久3年に江戸に遊学し、英語や航海術を学んだ。元治元年に、藩政に復帰。山内容堂の信頼を得て大監察や参政に就き、公武合体派の急先鋒として活躍する。慶応2年、薩摩や長崎、上海を視察して海外貿易を研究。長崎で坂本龍馬と親交する。慶応3年、龍馬の提案とされる大政奉還論を容堂に献策。また、薩摩藩の西郷隆盛らと会談し薩土盟約を締結した。しかし、倒幕目指す薩摩との思惑の違いから盟約は解消される。その後も大政奉還への努力を続け、容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出。慶喜は大政奉還を決断する。維新後は、大阪府知事や参議、工部大輔などの要職に就くが征韓論争に敗れて下野。愛国公党を結成し、民選議院設立を建白する。明治14年、自由党を結成して、大同団結運動を推進。黒田内閣や松方内閣で逓信大臣、第2次伊藤内閣では農商務大臣などを歴任。明治30年、死去。


変名:後藤保弥太、後藤良輔、後藤元曄、日曄、暢谷、雲濤、不倒翁、暘谷、雲濤、光海、鷗公
主な役職:土佐藩参政、大阪府知事、逓信大臣、農商務大臣
剣術:大石神影流剣術
墓所:東京都港区青山霊園


近藤 長次郎
こんとう ちょうじろう
(1838-1866)
土佐藩
(亀山社中)

亀山社中で無念の切腹を遂げた饅頭屋長次郎
天保9年、土佐の饅頭商人の子として生まれ、饅頭を売ってていた。幼少より聡明で、河田小龍や安積艮斎らに学ぶ。その才能を山内容堂に認められて、文久3年に名字帯刀を許され、神戸海軍操練所に入所する。慶応元年、坂本龍馬と共に亀山社中を設立。長州藩への小銃の売り渡しなどに貢献した。このとき、長次郎は長州藩主毛利敬親から謝礼の言葉を直々に受けている。その後、薩摩藩家老小松帯刀が費用を出し、イギリスへ留学する予定であったが、亀山社中の社中盟約書に違反したとして、仲間たちより追及を受けたのち責任をとって小曽根乾堂邸で切腹した。


変名:饅頭屋長次郎、近藤春宗、上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人
主な役職:-
剣術:-
墓所:長崎市寺町晧台寺


さ行


坂本 竜馬
さかもと りょうま
(1836-1867)
土佐藩
(亀山社中(海援隊))

明治維新の立役者となった幕末の風雲児
天保6年、土佐郷士に生まれる。嘉永6年、剣術修行のため1年間の自費遊学で江戸へ。剣術修行の傍ら軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学。帰国後は土佐勤王党に加盟。文久2年に脱藩。幕府政事総裁職の松平春嶽に拝謁、春嶽の紹介により勝海舟の門人となる。海舟が進めていた神戸海軍操練所設立のために奔走、神戸海軍塾塾頭に任ぜられる。神戸海軍操練所の廃止後は、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成する。慶応2年、薩摩と長州を斡旋して、薩長同盟を結ばせる。同年、寺田屋にて伏見奉行の捕り方百数十人に囲まれ、負傷するも脱出。しばらくの間西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏する。慶応3年、亀山社中を海援隊と改称。後藤象二郎らと共に大政奉還の成立に尽力した。大政奉還の一ヶ月後、陸援隊の中岡慎太郎とともに近江屋で談合中、十津川郷士と名乗る男達数人に襲撃され暗殺された。見廻組の犯行というのが定説となっている。


変名:坂本直陰、坂本直柔、才谷梅太郎
主な役職:亀山社中主宰、海援隊主宰
剣術:小栗流剣術、北辰一刀流剣術
墓所:京都霊山護国神社


佐々木 高行
ささき たかゆき
(1830-1910)
土佐藩(上士)

天皇親政運動を主導した土佐の三伯
文政13年、土佐藩士佐々木高順の
二男として生まれる。父が死去したことにより48石まで家禄が逓減し、幼少期は貧窮であった。剣術を麻田勘七に学び、国学を鹿持雅澄に学ぶ。同門であった武市半平太と交流。山内容堂の側近なり、慶応3年には上洛して、薩土盟約や大政奉還の建白などに貢献した。維新後は、参議、司法大輔、侍補を務め、明治4年からは、岩倉使節団の一員として欧米各国を巡る。その後、宮中や元老院で谷干城、元田永孚らともに「天皇親政運動」を主導して、伊藤博文ら政府要人の排除に動き「中正党」と称される。明治14年の政変による人事異動で、参議、工部卿に就任。明治18年、宮中顧問官、枢密顧問官を勤め、明宮、常宮・周宮の養育係主任も務める。明治23年には、吉井友実や千家尊福らと神祇院再興運動を進めるが採用されなかった。また、敬神、尊王、愛国思想の普及に尽くす。明治29年、皇典講究所の第2代所長に就任する。明治43年、死去。


変名:佐々木万之助、佐々木三四郎
主な役職:大監察、参議、司法大輔工部卿、宮中顧問官、枢密顧問官、皇典講究所所長
剣術:小野派一刀流剣術
墓所:東京都港区青山霊園


た行


武市 瑞山
たけち すいざん
(1829-1865)
土佐藩
非業の死を遂げた土佐勤王党の首領
文政12年、土佐郷士白札格武市正恒の長男として生まれる。小野派一刀流麻田勘七の門で剣術を学ぶ。安政3年、江戸に出て桃井春蔵に入門、塾頭を務める。安政の大獄から桜田門外の変と時勢が動き始めると、藩から剣術修行の許可を得て門弟2名を従え北九州地方を巡遊。文久元年、文武修行のため再び江戸に上った。同郷の大石弥太郎から勤王諸藩の有志を紹介されて交流。帰国後、200名余の同志を糾合して土佐勤王党を結成する。時に山内容堂の信任する参政吉田東洋が公武合体論の立場で藩政を指導しており、瑞山は挙藩勤王論を吉田に進言したが容れられず、勤皇諸藩の京都結集に遅れることを恐れた末、吉田の藩政改革に不満を持つ門閥派と結託し、文久2年、吉田東洋を暗殺する。藩主山内豊範を擁して同志らと入京。攘夷督促の副勅使姉小路公知の雑掌となり名を柳川左門と称して江戸下向に随行した。文久3年、藩命により帰国。八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主山内容堂によって投獄される。1年8ヶ月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。未だ誰も為しえなかったとも言われてきた三文字割腹の法を用いて法式通り腹を三度かっさばき、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。

変名:武市鹿衛、武市小楯、武市半平太、柳川左門
主な役職:土佐勤王党主宰
剣術:小野派一刀流剣術、鏡心明智流剣術
墓所:高知市仁井田瑞山神社


田中 光顕
たなか みつあき
(1843-1939)
土佐藩
(陸援隊)

維新烈士の顕彰に尽力した明治の能吏者
天保14年、土佐藩家老深尾家家臣である浜田金治の長男として生まれる。土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。文久3年、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、元治元年には同志を集めて脱藩。高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。第一次長州征伐後に大坂城占領を企図したが、新撰組に摘発されたぜんざい屋事件を起こして大和十津川へ逃れる。第二次長州征伐では長州藩の軍艦丙寅丸で幕府軍と戦う。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。慶応3年、中岡が坂本龍馬と共に暗殺されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。
維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、明治12年に陸軍省会計局長や陸軍少将に。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。明治42年、収賄疑惑の非難を浴びて政界を引退した。昭和14年、静岡県蒲原町の別荘にて97歳で没した。


変名:浜田辰弥、田中顕助、田中青山
主な役職:陸軍省会計局長、元老院議官、初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長
剣術:小野派一刀流剣術
墓所:
東京都文京区護国寺


谷 干城
たに たてき
(1837-1911)
土佐藩

軍人から政治家へ転身した西南戦争の英雄
天保8年、儒学者谷萬七の四男として生まれる。安政6年、江戸へ出て安井息軒、安積艮斎の弟子となり、帰国後は藩校致道館で史学助教授となった。文久元年、武市半平太と知り合って尊王攘夷に傾倒。慶応2年の長崎視察の際、後藤象二郎や坂本龍馬と交わる。慶応3年、中岡慎太郎の仲介によって、板垣退助や毛利吉盛とともに京都の小松帯刀邸で、薩摩藩の西郷隆盛や吉井幸輔と、薩土討幕の密約を結んで武力討幕を目指す。戊辰戦争では、板垣退助の率いる迅衝隊の軍監として北関東会津戦線で活躍。明治4年、兵部権大丞として新政府に出仕し、翌年には陸軍少将として熊本鎮台司令長官となる。明治7年の台湾出兵に際しては陸軍中将西郷従道の下に参戦。明治10年、西南戦争では西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献した。西南戦争の功績により陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長となった。しかし、明治14年に先の台湾出兵で戦死した将兵の遺体を、一部の地方官が乱暴に取り扱った事実を、政府や陸軍首脳部が放置していた事実を知って抗議し辞任する。その後、明治18年、第1次伊藤内閣の初代農商務大臣に就任するが、閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策を批判し、条約改正問題で辞任。後に貴族院議員となり地租増徴に反対するなど独自の政治運動を展開した。国粋主義、農本主義的立場から、薩長藩閥とも板垣退助ら自由民権派とも異なる保守的な中正主義で、土佐派の重鎮として重きをなした。明治44年に死去。


変名:谷申太郎、谷守部、谷隈山
主な役職:熊本鎮台司令長官、陸軍中将、農商務大臣、貴族院議員
剣術:神道無念流剣術
墓所:高知市中久万谷干城墓所


な行


長岡 謙吉
ながおか けんきち
(1834-1872)
土佐藩
(亀山社中(海援隊))

事務処理能力に優れた海援隊2代目隊長
天保5年、土佐の町医師今井孝順の子として生まれる。河田小龍の下で蘭学を学び、江戸や大坂に遊学して医学や文学を学んだ。安政6年には、長崎で二宮敬作に医学を学ぶが、藩からキリスト教に傾倒したと疑われ、帰国・蟄居を命じられた。その後、脱藩して亀山社中に参加する。坂本龍馬は長岡の才能を高く評価し、事務処理のほとんどを任せたとされている。慶応3年、大政奉還後の龍馬の構想をまとめた「船中八策」を成文化する。同年、龍馬が暗殺されると、海援隊の2代目隊長に選ばれた。慶応4年の戊辰戦争では、海援隊を率いて、瀬戸内海の小豆島や塩飽諸島などを占領している。維新後は、三河県知事に就任。大蔵省、工部省などにも勤務する。明治5年、死去。


変名:長岡敦美、今井純正、子行、懐山
主な役職:海援隊隊長、三河県知事
剣術:-
墓所:東京都港区
安養院


中岡 慎太郎
なかおか しんたろう
(1838-1867)
土佐藩
(陸援隊)

龍馬と共に凶刃に倒れた維新の影の立役者
天保9年、北川郷の大庄屋中岡小傳次の長男として生まれる。安政元年、間崎哲馬に従い経史を学び、翌年には武市半平太の道場に入門して剣術を学ぶ。文久元年、武市が結成した土佐勤皇党に加盟する。文久2、長州藩の久坂玄瑞らとともに、佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。文久3年、八月十八日の政変の後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、速やかに藩を脱藩。三田尻に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となる。元治元年、薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側で戦い、負傷する。、慶応2年、京都二本松薩摩藩邸において薩長の和解および薩長同盟を結実させる。慶応3年、坂本龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免される。その後、薩土同盟についても同様に奔走し、土佐の板垣退助と薩摩の小松帯刀・西郷隆盛との間で倒幕のための薩土密約締結に成功する。慶応3年、奇兵隊を参考に陸援隊を本格的に組織し始め、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。同年末、京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され、瀕死の重傷を負う。龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが、慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語った。


変名:中岡福太郎、中岡福五郎、中岡光次、中岡道正、中岡遠山、中岡迂山、石川清之助
主な役職:陸援隊隊長
剣術:小野派一刀流剣術
墓所:京都霊山護国神


那須 信吾
なす しんご
(1829-1863)
土佐藩

天狗と異名された吉田東洋暗殺の実行犯
文政12年、土佐藩の家老の家臣浜田光章の三男として生まれる。幼くして父を失ったため、郷士那須俊平の娘婿となる。田中光顕の叔父にあたる。信吾は当初医学を志し主家である深尾家典医主座・山崎燮堂に弟子入り剃髪し信甫と名乗る。坂本龍馬に深く傾倒し、文久元年に土佐勤王党に加わった。文久2年には安岡嘉助や大石団蔵らと共に尊王を無視して藩政改革、佐幕を唱える吉田東洋を暗殺した上で脱藩し、長州藩に逃亡する。文久3年、天誅組の変に参加し軍監を務めるが、鷲家村にて狙撃されて戦死した。武勇に優れた怪力の持ち主で、走ることにおいては馬より速いとまで噂されたという。身長は六尺(約180cm)近くあり、「天狗様」と称されたという。


変名:浜田虎吉、那須真吾、那須重民、石原武之進
主な役職:-
剣術:小野派一刀流剣術
墓所:高知県高岡郡梼原町六志士の墓


中濱 萬次郎
ながはま まんじろう
(1827-1898)
土佐藩

通訳として幕末日本に貢献したジョン万次郎
文政10年、土佐国中濱村の半農半漁の家の次男に生まれる。天保12年、漁に出て嵐に遭い遭難。米国捕鯨船に救助される。船長に気に入られ、そのままアメリカ本土に渡った。船長の養子となり、大学で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。卒業後は、数年間捕鯨船員として生活。嘉永3年、日本に帰る事を決意。薩摩藩に服属していた琉球に上陸し、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。薩摩藩は一行を厚遇し、薩摩藩主島津斉彬は、自ら海外の情勢や文化等について質問した。その後、万次郎らは長崎に送られて長期間尋問を受け、土佐藩の役人に引き取られ帰郷。帰郷後、士分に取り立てられ、藩校教授館の教授に任命される。嘉永6年、幕府に召聘され、直参の旗本となる。江川英龍の配下となり、軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書の執筆、航海術書の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付などを勤めた。万延元年、遣米使節団の1人として米国に渡る。文久2年、幕府軍艦操練所教授となり、帆船一番丸の船長に就任。慶応2年、土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教えた。明治31年、死去。


変名:ジョン万次郎、John Mung
主な役職:軍艦操練所教授開成館教授
剣術:-
墓所:東京都豊島区雑司ヶ谷霊園


は行


深尾 鼎
ふかお かなえ
(1827-1890)
土佐藩(上士)

容堂の右腕として活躍した土佐藩家老
文政10年、土佐藩士采女重愷の子として生まれる。土佐藩佐川領主深尾家に養子に入る。家臣の田中光顕らと意見を交わし尊皇攘夷を志すが、一時屏居を命ぜられる。のちに許され藩主山内容堂にもちいられた。慶応4年の堺事件では、事後処理を担当。同年京師詰を命じられ、土佐藩重臣として藩主を補佐した。明治2年、藩籍奉還後の諸政改革にも功績をあげた。明治23年に没。


変名:深尾重先
主な役職:土佐藩家老、佐川領10代目領主
剣術:-
墓所:不明


福岡 藤次
ふくおかとうじ
(1835-1919)
土佐藩(上士)

五箇条の御誓文を起草した土佐藩の参政
天保6年、土佐藩士福岡孝順の次男として生まれる。安政元年、吉田東洋に師事し、後藤象二郎や板垣退助らと共に薫陶をうけた。安政5年に大監察に登用され、後藤らと「新おこぜ組」を結成して藩政改革に取り組む。土佐勤皇党を弾圧するが、文久2年の東洋暗殺によって失脚する。文久3年、藩主山内豊範の側役に就任して、公武合体運動に尽力。藩営商社開成館など殖産興業政策を推進した。慶応3年、参政に就任。幕府を中心とする公議政体論を藩論とし、後藤とともに大政奉還を勧告し、武力討幕派の薩摩藩や長州藩に対抗した。維新後は、後藤や板垣らと共に徴士参与として新政府に出仕。越前藩由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。明治4年、議事政体取調所御用係を経て藩の少参事、権大参事を勤め。新政府に出仕して、土佐閥の一人として、司法大輔に任ぜられた。明治5年、江藤新平と共同で、法律で妾を持つことを禁止すべきとの建白書を提出する。その後、元老院議官、文部卿、参議、枢密顧問官、宮中顧問官などを歴任した。大正8年、死去。


変名:福岡孝弟、南蘋
主な役職:土佐藩参政、土佐藩権大参事、司法大輔、文部卿、参議、枢密顧問官宮中顧問官
剣術:-
墓所:東京都豊島区染井墓地


ま行


間崎 哲馬
まざき てつま
(1834-1863)
土佐藩

武市瑞山と並ぶ土佐文武の先覚者
天保5年、藩医間崎総之亮の長男として生まれる。神童の誉が高く、岩崎馬之助、細川潤次郎とともに「土佐の三奇童」の一人と称された。嘉永2年、江戸に出て安積塾の安積艮斎に学び、塾頭に抜擢される。3年後に帰国し、江ノ口村小川淵で私塾を開き、子弟の教育に力を注ぐ。門下には、吉村虎太郎や中岡慎太郎、能勢達太郎に沢村惣之丞らがいる。文久元年、再び江戸に出て清河八郎、山岡鉄太郎と親交を深める。武市半平太と意気投合して、土佐勤王党に参加。文久2年、勤王運動に伴う藩政改革を計画し、藩主の祖父山内豊資に宛てた中川宮朝彦親王の手書を得て帰国。これら勤皇運動が山内容堂の怒りにふれ、切腹させられた。平井収二郎、弘瀬健太と共に切腹し、土佐勤王党の獄の犠牲者第1号となっている。


変名:間崎則弘、間崎滄浪
主な役職:-
剣術:-
墓所:高知市東久万王子谷墓地


毛利 荒次郎
もうり こうじろう
(1834-没年不明)
土佐藩(上士)

薩土密約に参加した土佐の剣術指南役
天保5年、土佐藩士毛利源八郎の二男として生まれる。麻田直養に小野派一刀流剣術を学ぶ。江戸へ遊学して、北辰一刀流の玄武館へ入門した。文久元年、大坂住吉陣営にて剣術指南役を任ぜられる。文久3年、小目付役に任ぜられる。慶応3年、中岡慎太郎の仲介により薩摩藩士小松帯刀邸にて、乾退助らと共に、西郷隆盛、小松帯刀らが会談し、薩土密約を締結。明治元年、京都留守居役に任ぜられる。明治政府では、静岡県参事を勤める。明治10年頃に病死したと伝えられている。


変名:毛利恭助、毛利吉盛
主な役職:致道館剣道導役
剣術:小野派一刀流剣術、北辰一刀流剣術
墓所:不明


望月 亀弥太
もちずき かめやた
(1838-1864)
土佐藩

池田屋で新選組の凶刃に倒れた尊皇志士
天保9年、土佐郷士望月真澄の子として生まれる。文久元年、兄望月清平と共に武市半平太の尊皇攘夷思想に賛同して土佐勤王党に加盟。文久2年、尊攘派組織五十人組の一人として、江戸へ向かう旧藩主山内容堂に従って上洛する。文久3年、藩命を受けて幕臣勝海舟の下で航海術を学び、その後、勝が総監を務める神戸海軍操練所へ入所するが、元治元年、藩より帰国命令が出されたため脱藩して長州藩邸に潜伏。長州藩の過激尊皇志士達と交流を続けた。元治元年、池田屋事件に遭遇。かろうじて池田屋を脱出した望月は、幕府方諸藩兵によって取り囲まれて深手を負い、長州藩邸に辿り着いたものの中へ入る事を許されずに門前で自刃した。


変名:望月義澄、松尾甲之進
主な役職:-
剣術:小野派一刀流剣術
墓所:高知市横内、京都市左京区三縁寺


や行


吉田 東洋
よしだ とうよう
(1816-1862)
土佐藩(上士)

幕末土佐藩の藩政改革を実行した革新派
文化13年、土佐藩士吉田正清の四男として生まれる。文政6年、庶兄の早世によって嗣子となる。天保12年、父正清の死去により家督を相続する。天保13年に船奉行として出仕し、郡奉行に転じて民政に携わる。藩主山内豊熈の進める藩政改革に参与し、飢饉に備えた藩営備蓄の「済農倉」設立を進言する。弘化2年に病により無役となった。嘉永6年、藩主山内容堂によって大目付に抜擢され、参政として強力に藩政改革を主導した。安政3年、参勤交代に伴って江戸へ出府して藤田東湖や塩谷宕陰、安井息軒らと親交を結ぶが、酒宴における旗本殴打事件を引き起こして罷免される。帰郷後は高知郊外に少林塾を開き、後藤象二郎などの若手藩士に教授する。安政4年に赦免された吉田は、参政として藩政に復帰する。法律書「海南政典」を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易など、富国強兵を目的とした改革を遂行する。しかし、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立を生じさせる結果となり、文久2年、帰邸途次の帯屋町にて土佐勤王党の那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助によって暗殺された。


変名:吉田郁助、吉田官兵衛、吉田元吉、吉田正秋
主な役職:土佐大目付
剣術:-
墓所:高知市筆山吉田家墓所


吉村 虎太郎
よしむら とらたろう
(1837-1863)
土佐藩

賊軍とされた悲劇の天誅組総裁
天保8年、土佐の庄屋吉村太平の長男として生まれる。郡役人の間崎哲馬に学問を、また城下に出て武市半平太に剣術を学び尊攘思想に傾倒するようになる。文久元年、武市半平太が土佐勤王党を結成するとこれに加盟。文久2年、坂本龍馬や宮地宜蔵と共に脱藩。長州藩士久坂玄瑞を頼り、長州藩邸で越後の志士本間精一郎と合流した。しかし、薩摩藩士らの同士討ち事件「寺田屋事件」に連座して虎太郎と宮地は捕えられ、身柄は土佐藩に引き渡されて国元で、8ヶ月間禁獄される。やがて政情が尊攘派に有利になり、諸藩で安政の大獄、寺田屋事件の関係者などの赦免が行われるに伴い釈放された。文久3年、藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。
真木和泉らが三条実美ら急進派公卿と組んで影響力を持ちはじめ幕府へ攘夷実行を迫り、攘夷親征の為の大和行幸を計画すると、虎太郎は同志と共に京都東山の方広寺に集まり天誅組を結成する。天誅組は総勢38名からなり、土佐からは虎太郎をはじめ那須信吾ら最多の18名の同志が集まった。吉野天領7万石を管轄している五篠代官所を襲撃して五篠御政府樹立を宣言し、虎太郎は備前の藤本鉄石、三河の松本謙三郎と共に天誅組の総裁を務める。しかし、天誅組の挙兵の直後に八月十八日の政変が起こり政局は一変し、三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた。幕府の討伐軍に対抗するために吉村らは十津川郷士を募兵し高取藩を攻撃するが敗走。朝廷より天誅組を賊軍とみなす追討命令が出され、天誅組は壊滅。負傷して歩行困難となっていた虎太郎は駕籠に乗せられて運ばれていたが、津藩兵に発見され射殺された。


変名:吉村重郷、吉村寅太郎
主な役職:天誅組総裁
剣術:小野派一刀流剣術
墓所:高知市筆山吉田家墓所


ら行


わ行



トップページへ