佐賀藩人物録

佐賀藩(肥前藩)
      35万7000石 鍋島家 佐賀城
支藩:
蓮池藩 5万2000石 鍋島家 蓮池陣屋
   
小城藩 7万3000石 鍋島家 小城陣屋
   
鹿島藩 2万石    鍋島家  鹿島城

「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という文言で有名な葉隠は、佐賀藩士の精神的支柱となっている。幕末には、第10代藩主鍋島直正が改革を行い、最も近代化された藩となる。しかし、鎖国藩と呼ばれるように、他藩士との交流を禁じていたために、時流に乗ることができず、大政奉還まで静観を続けた。戊辰戦争では、近代化した兵器と軍制で新政府軍に貢献。多くの人材を派遣し、薩長土肥の一つに数えられた。


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あ行


朝倉 尚武
あさくら なおたけ
(1842-1874)
佐賀藩

明治の法整備に貢献した人材を数多く育てた教育者
天保13年、佐賀藩士の子として生まれる。幼少より弘道館に学び特に兵学に優れた。戊辰戦争では佐賀藩兵の軍監付属や、小隊長として奥羽戦線で活躍した。明治4年に帰郷すると、同年編成された佐賀藩兵一番大隊長に任命され、さらに上京して陸軍少佐を拝命し兵部省に勤めたがほどなく辞職した。征韓論に伴う明治6年政変により江藤新平、副島種臣などが野に下ると、共に佐賀に戻った。さらに中島鼎蔵や山田平蔵らと征韓事務所を設け、同志を募り佐賀征韓党を結成。佐賀の乱では征韓党の参謀長を務め、佐賀城占拠後に江藤新平から迎撃作戦の立案を委任されたとされている。三瀬峠では小銃10挺の貧弱な武装と寡兵ながらも山岳地帯を生かした切り込み戦法で勇戦し、官軍の山田顕義に「ここの佐賀兵を指揮しているのは、おそらく朝倉尚武に違いない」と言わしめた。本隊の江藤が敗退し、薩摩の西郷隆盛に助力を請うため佐賀を脱出したため、江藤の後を追い薩摩へ向かうが市来にて捕えられ斬首された。


変名:枝吉経種
主な役職:佐賀藩兵一番大隊長陸軍少佐、征韓党参謀長
剣術:-
墓所:佐賀市中の館町乾亨院


枝吉 神陽
えだよし しんよう
(1822-1862)
佐賀藩

明治の法整備に貢献した人材を数多く育てた教育者
文政5年、佐賀藩士枝吉南濠の長男として生まれる。幼児期より神童と賞され、20歳の時には江戸の昌平黌に学び、ほどなく舎長に推された。早くから儒教や朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩の哲学である「葉隠」をも否定していた。佐賀に帰郷してからは弘道館の教諭や什物方などを務める。嘉永3年には「義祭同盟」を結成。天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に向かわせようとした。この義祭同盟からは実弟の副島種臣のほか、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇ら明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出し、後世「佐賀の吉田松陰」とも称された。また、水戸の藤田東湖と「東西の二傑」と並び称される。文久3年、コレラを患った妻を看病するうち自身もコレラを発祥して死去した。、死去。


変名:枝吉経種
主な役職:弘道館教諭義祭同盟主宰
剣術:-
墓所:佐賀市西田代本行寺


石井 龍右衛門
いしい りゅうえもん
(1825-1882)
佐賀藩

枝吉神陽と共に称される佐賀の教育者
文政8年、佐賀藩士北島武兵衛の次男として生まれる。後に佐賀藩士石井林太夫の婿養子となる。藩校弘道館に学び、弘道館教諭に就任するが、体調を崩して辞任する。その後、私塾純粋社を主宰し、若手藩士たちの指導にあたった。枝吉神陽とともに、幕末の佐賀藩における国学の指導者として君臨し、枝吉とともに「佐賀の吉田松陰」とも称され、若手藩士たちの人望を集めた。


変名:北島才作、石井只右衛門、石井成徳、石井鉄、石井松堂
主な役職:弘道館教諭義祭同盟主宰
剣術:-
墓所:佐賀市西田代本行寺


石井 貞興
いしい さだおき
(1842-1877)
佐賀藩

佐賀の乱で生き残り西南戦争まで戦ったラストサムライ
天保13年、佐賀藩士櫛山弥左衛門の長男として生まれる。伯父である石井忠克の養子となった。少年の頃から勉学に勤しみ、枝吉神陽、石井松堂に師事し、経学を修め、槍術や馬術にも秀でていた。明治2年、東京に上り昌平坂学問所に学び、さらに薩摩藩の造士館にも学んだ。造士館では、桐野利秋と昵懇の間柄となる。その後、佐賀藩に帰国し、江藤新平の知遇を得て少参事に任ぜられ、藩の重職として活躍する。しかし、間もなく辞任し、士族土着説を唱えて隠遁し、田畑を耕す生活を送った。明治6年、佐賀県庁に復帰し、県庁を牛耳る。その後、新政府に不満を持つ県庁内の旧佐賀藩士を糾合し、旧主鍋島家の資産を軍資金として流用して、征韓党を結成。佐賀の乱を起こした。佐賀城陥落の直前に脱出して鹿児島県に逃れ、旧知の桐野利秋のもとで匿われる。明治10年の西南戦争では、西郷軍に従軍する。敗戦後に熊本県の山中に身を隠すが、逮捕されて斬首された。享年36。墓所は佐賀市長瀬の東光寺にある。


変名:石井乙次、石井大作、石井竹之助
主な役職:佐賀県少参事佐賀県大属
剣術:-
墓所:佐賀市長瀬東光寺


石井 忠亮
いしい ただあきら
(1840-1901)
佐賀藩

日本に電話をもたらした「逓信四天王」の一人
天保11年、佐賀藩士の子として生まれる。蘭学を学び、佐賀藩の海軍設置に貢献し、三重津海軍所の教官を務める。明治元年に開催された、日本初の観艦式では、旗艦電流丸に座乗し、6隻からなる受閲艦隊の総指揮官を務めた。戊辰戦争では、政府軍に属して佐賀藩海軍の陽春丸船将として箱館に出征した。工務省に移籍し、ヨーロッパ各国の電信事情を視察。明治13年には電信局長に就任した。明治16年には上海に出張し、現地の電話交換局を視察。日本においても早急なる電話事業開設の必要性を感じ、帰国後、工部卿佐々木高行に対し、国営電話事業の開設を建言する。この結果、国営の電話事業が始まった。明治18年、ドイツで開催された万国電信会議には、日本政府代表として出席。明治20年には逓信省電信局長から元老院議官に抜擢された。明治22年には和歌山県知事に転任する。明治24年に辞職し、晩年は和歌山県で余生を送った。


変名:-
主な役職:陽春丸船将電信局長、逓信省電信局長、元老院議官、和歌山県知事
剣術:-
墓所:和歌山市和歌浦雲蓋院


石井 忠躬
いしい ただみ
(1837-1883)
蓮池藩

官軍から高い評価を受けた青年家老
天保8年、蓮池藩第8代藩主鍋島直与の四男として生まれる。家老石井清慎の養子となり、若くして蓮池藩の執政に就任し、兄の第9代藩主鍋島直紀を補佐した。戊辰戦争では、藩主の名代として蓮池藩兵の指揮をとる。蓮池藩兵の規律の良さは、忠躬の指揮によるものと高い評価を得る。維新後、蓮池藩大参事に就任するが、間もなく辞任。陸軍大尉として、藩の軍事、警察部門の責任者に転任した。しかし、朝廷の長崎巡見使の警衛のために出動した際、忠躬は独断で西洋式の兵制を用いて藩兵が脱刀していたことが問題となり罷免される。晩年は、義弟鍋島直彬が沖縄県令となると、直彬に従って沖縄に赴任。久米島や宮古島の役場長として離島経営に従事した。


変名:鍋島総若、鍋島総之助、石井久馬、石井靭負
主な役職:蓮池藩家老蓮池藩大参事
剣術:-
墓所:佐賀市本庄町常照院


石井 富之助
いしい とみのすけ
(1835-1897)
佐賀藩

近代軍制の確立に貢献した直良沈毅の軍人
天保6年、佐賀藩士石井英勝の子として生まれる。幼少より秀才で、国学から蘭学まで精通し、将来有望なる秀才として期待された。明治元年、戊辰戦争では新政府の軍務局判事試補に抜擢され、箱館戦争では海軍参謀補助として活躍する。明治政府では、正七位兵部権少丞に任ぜられ、長州藩の大村益次郎や山縣有朋の副官として近代軍制の確立に貢献した。その後、海軍大丞、兵部少丞を歴任する。明治9年、病気により辞任して隠遁した。


変名:石井藹吉
主な役職:軍務局判事試補海軍参謀補助、七位兵部権少丞海軍大丞、兵部少丞
剣術:-
墓所:東京都港区賢崇寺、佐賀市高木瀬東本通寺


伊東 玄朴
いとう げんぼく
(1801-1871)
佐賀藩

幕府に蘭方をもたらした近代医学の祖
寛政12年、佐賀藩士執行重助の子と生まれる。後に佐賀藩士伊東家の養子となる。鳴滝塾で、シーボルトより蘭学を学ぶ。佐賀藩にて牛痘種痘法を実践し、安政5年には大槻俊斎、戸塚静海らと江戸にお玉が池種痘所を開設。第13代将軍徳川家定の脚気治療には、漢方医の青木春岱や遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海とともに幕府奥医師に挙用される。玄朴は奥医師の蘭方の拡張を計り、伊東寛斎と竹内玄同の増員に成功。さらにコレラ流行を利用し、松本良甫、吉田収庵、伊東玄圭ら蘭方医も増員した。文久元年より、西洋医学所の取締役を務め、蘭方医としては初めて法印に進み、長春院と号し名実ともに蘭方医の頂点に立った。文久3年、松本良順の弾劾により失脚した。


変名:伊東長春院
主な役職:幕府奥医師幕府法印
剣術:-
墓所:東京都台東区
天龍院


江藤 新平
えとう しんぺい
(1834-1874)
佐賀藩

佐賀の乱を起こして処刑された初代司法卿
天保5年、佐賀藩士の江藤胤光の長男として生まれる。枝吉神陽の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響をうける。嘉永3年、枝吉神陽が義祭同盟を結成するとこれに参加。文久2年に脱藩し京都で活動。桂小五郎や姉小路公知らと接触する。明治元年の王政復古の大号令にて、新政府が誕生すると京都に派遣される。戊辰戦争では東征大総督府軍監に任命。江戸城が無血開城がされると京都へ戻り、大木喬任と連名で江戸を東京と改称すべきと献言。彰義隊問題では大村益次郎らとともに討伐を主張し、軍監として上野戦争に出陣し、彰義隊を瓦解させた。明治4年、制度取調専務として国家機構の整備に従事し、岩倉具視に30項目の答申書を提出。明治5年、司法卿や参議など数々の役職を歴任。警察制度整備や司法制度整備に功績を残す。明治6年、征韓論問題から発展した政変で下野。明治7年に愛国公党を結成し民撰議院設立建白書に署名し帰郷する。佐賀で憂国党の島義勇と反乱を計画。県庁として使用されていた佐賀城に駐留する熊本鎮台部隊半大隊を攻撃。その約半数に損害を与えて遁走させた。東京、大阪の鎮台部隊が到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して迎え撃つが敗走。江藤は反乱軍を解散して逃亡し、鹿児島で西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られる。続いて高知の林有造、片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも断られた。このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。しかしその途中、捕縛され佐賀へ送還される。佐賀裁判所において除族の上梟首の刑を申し渡され、処刑された。


変名:江藤恒太郎、江藤又蔵、江藤胤雄、江藤胤風、江藤南白、平胤雄
主な役職:東征大総督府軍監、司法卿参議
剣術:-
墓所:佐賀市西田代本行寺


大木 喬任
おおき たかとう
(1838-1922)
佐賀藩

法整備に尽力した明治六大教育家の一人
天保3年、佐賀藩士大木知喬の長男として生まれる。藩校の弘道館で学び、嘉永3年、枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが失敗する。明治元年に新政府が樹立されると、大隈重信、副島種臣、江藤新平らとともに出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを歴任。東京奠都に尽力した。明治4年に民部卿、文部卿として学制を制定。明治5年に教部卿を兼任。明治6年、参議兼司法卿。神風連の乱や、萩の乱の事後処理にも当たった。戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈と対立。大久保利通の側近となり、民部大輔として戸籍法制定を行い、のち民部卿に任命されるが、大隈の巻き返しで民部省は大蔵省に統合された。民法編纂総裁として法典編纂に関わる。明治32年に死去。


変名:大木幡六、大木民平
主な役職:民部卿、文部卿、教部卿、司法卿、民法編纂総裁、枢密顧問官、枢密院議長
剣術:-
墓所:神埼郡吉野ヶ里町西往寺、東京都港区青山霊園


大隈 重信
おおくま しげのぶ
(1838-1922)
佐賀藩

早稲田大学創始者にして初の政党内閣の首相
天保9年、佐賀藩士大隈信保の長男として生まれる。国学者枝吉神陽に学び、神陽が結成した尊皇派の義祭同盟に参加。文久元年、弘道館教授に着任し蘭学を講じる。長崎で宣教師フルベッキに英語を学ぶ。維新後は、徴士参与職、外国官副知事、大蔵卿、参議などを歴任。秩禄処分、地租改正などを推進した。明治14年の政変で官職を辞し、翌年立憲改進党を結成し総裁となる。同年東京専門学校(現早稲田大学)を創立。明治21年には第1次伊藤内閣の外務大臣に任命される。続いて黒田内閣でも外相となった。明治22年、玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を切断するとともに辞職した。 明治31年、板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣を組閣。一旦政界を引退するが、大正3年、2度目の内閣を組織して第一次大戦に参戦。大正5年、総辞職して政界を引退した。大正11年、胆石症のため死去。


変名:大隈八太郎
主な役職:外務大臣、内閣総理大臣
剣術:-
墓所:東京都文京区護国寺、佐賀市赤松町龍泰寺


か行


香月 経五郎
かつき けいごろう
(1849-1874)
佐賀藩

斬首となった佐賀の乱最年少の首謀者
嘉永2年、佐賀藩士香月三之允の長男として生まれる。慶応3年、佐賀藩が長崎に設立した英学校致遠館で頭角を現す。明治維新後は江藤新平と共に東京に出て、山中一郎と共に「藤門の双璧」と謳われた。明治2年、大学南校に入学。翌年には文部省によって選抜され、アメリカに留学した。明治4年の岩倉使節団には旧藩主鍋島直大の通訳を務め、直大と共にイギリスに渡って、オックスフォード大学で経済学を学んでいる。征韓論に伴う明治6年政変により江藤新平が職を辞すと、これに同行し帰郷。佐賀の乱では江藤と共に本陣に備えたが、新政府軍に敗れて敗走。敗走後も江藤に同行し、鹿児島、四国へと向かったが土佐にて捕えられ斬首された。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:佐賀市高木瀬東極楽寺


さ行


佐野 常民
さの つねたみ
(1823-1902)
佐賀藩

日本赤十字社の創始者
文政5年、佐賀藩士下村三郎左衛門の5男として生まれる。天保2年、佐賀藩医佐野常徴の養子となる。藩校弘道館に学び、天保8年、江戸へ遊学。弘化3年、京都で広瀬元恭の時習堂に入門し、嘉永元年には緒方洪庵の適塾で学び、さらに華岡青洲が開いた春林軒塾に入門する。嘉永2年、伊東玄朴の象先堂塾に入門。戸塚静海にも学んでいる。嘉永4年、長崎にて家塾を開く。嘉永6年には佐賀に帰り、佐賀藩の精煉方頭人となる。安政2年に長崎の海軍予備伝習に参加。同年、幕府が長崎海軍伝習所を開設し、佐賀藩からは、常民ら四十八名が第一期生として参加する。安政5年、三重津海軍所の監督となり、幕府が注文した蒸気鑵を製作した。慶応3年、パリ万国博覧会に参加し、会場で国際赤十字の組織と活動を見聞する。オランダでは、軍艦日進の建造を発注。西欧諸国の軍事、産業、造船術などを視察して翌年に帰国する。明治3年には兵部少丞に就任し、日本海軍の基礎創りに尽力する。明治4年、初代燈台頭に就任し、洋式燈台の建設にあたる。明治5年、博覧会御用掛に就任し、日本の産業の近代化をめざすべく、日本初の博覧会を湯島聖堂で開催した。明治6年、ウィーン万国博覧会事務副総裁に就任して、ウィーン万博に派遣される。明治10年に西南戦争が起こり、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社の知識を元に、博愛社設立請願書を政府に提出するが不許可となるが、熊本で有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を得る。博愛社総長に東伏見宮嘉彰親王が就任した。明治20年、博愛社を日本赤十字社と改称し、初代社長に就任した。明治35年、死去。


変名:下村鱗三郎佐野栄寿左衛門、
主な役職:兵部少丞燈台頭博覧会御用掛ウィーン万国博覧会事務副総裁、日本赤十字社社長
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


島 義勇
しま よしたけ
(1822-1874)
佐賀藩

佐賀の乱で斬首された北海道開拓の父
文政5年、佐賀藩士島市郎右衛門の長男として生まれる。文政13年、藩校弘道館で学ぶ。諸国を遊学し、佐藤一斎、藤田東湖、林桜園らに学ぶ。帰国後、藩主の外小姓、弘道館目付となる。枝吉神陽の義祭同盟結成にも参加した。安政3年より藩主鍋島直正の命で、箱館奉行堀利煕の近習となり、蝦夷地と樺太を探検調査する。戊辰戦争では、海軍軍監となり、東上して下野鎮圧軍大総督軍監となり、新政府の東北征討に従った。明治2年、新政府において鍋島直正が蝦夷開拓督務になると、蝦夷地に通じているということで蝦夷開拓御用掛に任命された。銭函に開拓使仮役所を開設し、札幌を「五州第一の都」とする構想を描き、碁盤の目のような整然とした町並みを目指し工事が進められる。しかし、厳冬酷寒の雪国での都市建設は多額の費用と労力と困難を要し、初代開拓長官鍋島直正の後を受けた東久世通禧開拓長官と衝突。志半ばで解任された。明治7年、憂国党の党首となり、江藤新平と共に佐賀の乱を起こすが敗れ、鹿児島まで逃亡。島津久光を頼るが受け入れられず、捕らえられて斬首となった。


変名:島団右衛門、島国華、島楽斉、桜陰
主な役職:下野鎮圧軍大総督軍監蝦夷開拓御用掛、大学少監、秋田県権令
剣術:-
墓所:佐賀市金立町来迎寺



副島 種臣
そえじま たねおみ
(1828-1905)
佐賀藩

正義人道の人と国際的に支持された政治家
文政11年、佐賀藩士枝吉忠左衛門の二男として生まれる。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。嘉永3年、兄の枝吉神陽を中心に結成された楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年、京都に遊学し、漢学・国学などを学ぶ。兄神陽の命を受けて、公卿の大原重徳に将軍制廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出して、久邇宮朝彦親王から佐賀藩兵の上洛を求められるが、藩主鍋島直正に退けられ、帰国を命じられて藩校での国学教諭に任命された。安政6年、副島利忠の養子となる。元治元年、長崎に設けた藩学校致遠館の英学生監督となって英語を学ぶ。慶応3年、大隈重信と共に脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。明治維新後は、新政府の参与や制度取調局判事となる。明治2年に参議。明治4年には外務卿となり、マリア・ルス号事件などで活躍する。明治6年には、宮古島島民遭難事件の特命全権公使兼外務大臣として北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交渉にあたった。同年、征韓論争に敗れて下野し、明治7年には板垣退助らと共に愛国公党を結成。しかし、民撰議院設立建白書を提出はしたものの、自由民権運動には参加しなかった。明治12年より宮内庁に仕える。明治25年には第1次松方内閣において内務大臣を務める。明治38年に死去。


変名:枝吉竜種、副島次郎、蒼海、一々学人
主な役職:宮中顧問官、枢密院副議長、内務大臣
剣術:-
墓所:佐賀市本庄町高傳寺、東京都港区青山霊園



た行




な行


中島 鼎蔵
なかじま ていぞう
(1849-1874)
佐賀藩

斬首となった佐賀の乱最年少の首謀者
嘉永2年、佐賀藩士中島祐衛門の次男として生まれる。佐賀藩の儒学者として知られた武富い南や草場佩川に学ぶ。江藤新平や副島種臣に従って尊王攘夷運動を展開する。戊辰戦争では、佐賀藩隊の一員として奥羽戦線に赴き、戦後は功績を認められ左院に配属した。征韓論に伴う明治6年の政変により江藤新平が職を辞した後は、鼎蔵も職を辞し佐賀に帰り、朝倉尚武らと同志を募り佐賀征韓党を結成。佐賀の乱では佐賀征韓党の一番小隊を指揮したが、敗色が濃厚となると江藤と共に佐賀を脱出した。その後、潜伏先の土佐にて捕えられ、斬首となった。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:-


永田 暉明
ながた てるあき
(1838-1823)
蓮池藩

地元に尽くした佐賀市長
天保9年、蓮池藩士永田某の子として生まれる。慶応元年、江戸に遊学。尊皇攘夷運動を展開する。明治4年の廃藩置県後は、蓮池大参事となり、神埼郡長、県会議員を経て、明治29年には佐賀市長となる。明治37年、芙蓉詩社を起こして後進を指導した。


変名:永田碧桐、永田有終
主な役職:蓮池大参事、神埼郡長、県会議員、佐賀市長
剣術:-
墓所:-


中牟田 倉之助
なかむた くらのすけ
(1837-1916)
佐賀藩

近代日本海軍の礎を築いた日本海軍初代軍令部長
天保8年、佐賀藩士金丸孫七郎の次男として生まれる。嘉永元年、中牟田家の養子となる。藩校弘道館で儒学、数学を学び、藩命で蘭学寮へ入る。安政3年、佐賀藩主鍋島直正の推薦で、長崎海軍伝習所へ入所。卒業後、三重津海軍所で佐賀藩海軍方助役を務めた。文久2年、幕府の上海派遣団に抜擢され、上海に渡航。同じく長州から抜擢された高杉晋作と親交する。慶応4年の戊辰戦争では、奥州方面へ出陣し、北越戦争に参戦。明治2年には、新政府軍艦朝陽丸の艦長に任命され、箱館戦争に参戦した。しかし旧幕府軍艦蟠龍丸との戦闘で、朝陽丸は撃沈され、中牟田は重症を負うが奇跡的に救助されて一命を取り留めた。明治5年、海軍大佐に昇進。海軍兵学寮校長を務め、草創時の海軍兵学校教育にあたる。明治10年の西南戦争にも参加し、海軍中将に昇進。その後、海軍大学校長や枢密顧問官を歴任。明治38年、退役した。大正5年、死去。


変名:中牟田武臣
主な役職:朝陽丸艦長海軍兵学寮校長海軍軍令部長海軍大学校長
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


鍋島 直紀
なべじま なおとら
(1826-1891)
蓮池藩

蓮池藩最後の藩主
文政9年、第8代蓮池藩主鍋島直与の長男として蓮池館で生まれる。弘化2年、父の隠居により家督を継ぐが、元治元年頃までは隠居した父直与が実権を握っている。安政元年より幕命で5年間の公務猶予が許された代わりに、長崎防備の強化を命じられ、そのための出費で財政が悪化。元治元年の第1次長州征伐では幕府方として藩兵を出し、京都にも出兵している。慶応4年、戊辰戦争では新政府軍として、弟の石井忠躬を名代に任じ秋田戦争に出兵した。明治2年の版籍奉還で蓮池藩知事に任じられ、明治4年の廃藩置県で藩知事を免官されて東京へ移る。明治24年、死去。


変名:鍋島統丸、鍋島統太郎
主な役職:第9代蓮池藩主
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


鍋島 直虎
なべじま なおとら
(1856-1925)
小城藩

佐賀の乱に連座した小城藩最後の藩主
安政3年、佐賀藩第10代藩主鍋島直正の七男として生まれる。小城藩主鍋島直亮に男児が無かったため、その婿養子となる。元治元年、直亮の死去により小城藩第11代藩主となる。戊辰戦争では、新政府軍として出兵し、秋田戦争などで武功を挙げる。明治2年、版籍奉還により藩知事となる。明治4年の廃藩置県で免官されている。明治6年、兄の鍋島直大や弟の鍋島直柔と共にロンドンへ遊学。明治7年、佐賀の乱が起こると、旧小城藩士の多くが反乱に同調したため、直虎は連座して処罰されることとなり、身分や地位を全て剥奪されるが、後に許され外務省御用掛となり、明治23年には貴族院議員となった。大正14年、死去。


変名:鍋島欽八郎
主な役職:第11代小城藩主、外務省御用掛貴族院議員
剣術:-
墓所:小城市鷺原星巌寺


鍋島 直大
なべじま なおひろ
(1846-1921)
佐賀藩

イギリスに留学した佐賀藩最後の藩主
弘化3年、佐賀藩第10代藩主鍋島直正の次男として生まれる。文久元年、父の隠居により第11代藩主に就任。戊辰戦争では、最新式の装備を持った佐賀藩兵を率いて各地を転戦。下総野鎮撫府に任命され、下総の防衛に当たった。明治4年には弟の直虎・直柔とともにイギリスに留学。明治11年に帰国し、翌年外務省御用掛となり明治13年、駐イタリア王国特命全権公使に任命された。明治15年、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員等を歴任。明治天皇や大正天皇の信頼も厚く、明治44年には皇典講究所第4代所長に就任した。大正10年、死去。


変名:鍋島淳一郎、鍋島直縄 、鍋島茂実
主な役職:第11代佐賀藩主、駐伊王国特命全権公使、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


鍋島 直正
なべじま なおまさ
(1815-1871)
佐賀藩

佐賀藩の財政再建と軍備の近代化に成功した賢君
文化11年、佐賀藩第9代藩主鍋島斉直の十七男として生まれる。天保元年、父の隠居により17歳で第10代藩主に就任。すぐに財政破綻状況にあった藩の改革に乗り出す。借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、磁器、茶、石炭などの産業育成に力を注ぎ、財政を改善させた。また、教育改革、農村復興などの諸改革を断行。役人の削減とともに藩政機構を改革し、出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に政務の中枢へ登用した。独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置し、反射炉などの科学技術を導入。アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関の独自開発にまで達した。また天然痘を根絶するために、オランダから牛痘ワクチンを輸入し、天然痘の根絶に繋がる。嘉永6年、ペリーが来航すると米国の武力外交には攘夷論を唱え、品川台場建設に佐賀藩の技術を提供した。一方で貿易の重要性を認識し、英国の親善外交に対しては開国論を主張する。文久元年、隠居して家督を次男・直大に譲って閑叟と号した。鳥羽伏見の戦いて、薩長側が勝利に終わって以降は新政府軍に加わり、上野戦争から五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀藩兵を送り出し、薩長土肥の一角を担う事となった。明治4年、藩邸にて病没。


変名:鍋島貞丸、鍋島斉正、鍋島直正、鍋島閑叟
主な役職:第10代佐賀藩主、蝦夷開拓総督
剣術:-
墓所:佐賀市大和町春日山


鍋島 直彬
なべじま なおよし
(1844-1915)
鹿島藩

沖縄県令となった鹿島藩最後の藩主
天保14年、第8代鹿島藩主鍋島直永の三男として生まれる。嘉永元年、第10代藩主鍋島直賢が本家の鍋島直正によって強制的に隠居させられたため、その養子として家督を継ぎ第13代藩主となった。藩校徳譲館を弘文館と改名して文武を奨励する。幕末は佐賀藩と行動を共にし、直正の命令で朝廷との交渉役を務めた。明治2年の版籍奉還で鹿島藩知事に任じられ、明治4年の廃藩置県で藩知事を免官されて東京に移る。明治9年、侍従に任じられ、明治天皇の側近として仕えた。明治12年、初代の沖縄県令に任じられる。当時の沖縄で毎年流行するコレラに対し、生物の飲食禁止やコレラ流行地域での集会を禁止し、徹底した防疫対策をとった。また、沖縄に不足していた教職員を派遣し、教育の普及を推奨した。しかし、旧琉球王府官吏や地方役人の非協力的行為や妨害等で、2年あまりで、直彬は県令を辞職した。明治23年の第1回帝国議会選挙では貴族院議員に選出される。大正4年、死去。


変名:鍋島熊次郎
主な役職:第13代鹿島藩主、宮内御用掛、文学御用掛、沖縄県令、貴族院議員
剣術:-
墓所:鹿島市古枝町普明寺


成富 椿屋
なりとみ ちんおく
(1814-1907)
鹿島藩

皇太子御前で画を披露した長崎派の画家
文化10年、蓮池藩士成富某の子として生まれる。画を中島藍皐や木下逸雲に学び、書を大徳寺の僧鉄に学ぶ。さらに長崎に遊学して南宋画も修めた。有田にも滞在し、陶画の下絵、絵手本などを多く残している。明治33年、皇太子殿下佐賀市行啓の時、御前において松鶴の画を揮毫した。地元の淨国寺が火災で焼失し、再建資金捻出のために絵を寄進した。淨国寺ではその絵を売って建設資金としたため蓮池の分限者が買い求めた。


変名:成富鵬明
主な役職:-
剣術:-
墓所:佐賀市蓮池町浄国寺


は行



ま行


前山 清一郎
まえやま せいいちろう
(1823-1896)
佐賀藩

裏切り者とされた佐賀藩の名参謀
文政6年、佐賀藩士前山某の子として生まれる。弘道館の教授補となり、慶應2年には藩の兵制改革により備えられた遊兵隊800の指揮官に就任した。戊辰戦争では大総督府応援参謀を拝命。仙台で幽閉されていた奥羽鎮撫総督九条道孝を奇策を持って救出した。奥羽戦線各地を転戦し成果を上げ、佐賀藩士としては最高の賞典禄450石を与えられている。明治2年、佐賀藩大参事となり、翌年より兵部省博多分営長を務めたが、同年末には辞職し郷里に戻った。明治7年の佐賀の乱では、中立党を組織して政府軍とともに江藤新平、島義勇率いる征韓党、憂国党と戦った。乱の平定後は、明治政府より論功行賞の報奨金を受けたが、佐賀では裏切り者と敵視されて故郷を離れ、千葉県で開拓に従事した。


変名:前山長定
主な役職:大総督府応援参謀佐賀藩大参事、兵部省博多分営長
剣術:-
墓所:-



や行


山口 尚芳
やまぐち なおよし
(1839-1894)
佐賀藩

明治政府の近代化に貢献した官僚
天保10年、佐賀藩士山口尚澄の子として生まれる。藩命により長崎に遊学し、蘭学を学んだ。また、同藩の大隈重信、副島種臣らと共に、長崎英語伝習所で英語を学んだ。帰藩後は、翻訳方兼練兵掛として勤務。薩摩や長州の志士達と交流し、薩長連合にも尽力した。明治元年、新政府に出仕し外国事務局御用掛、外国官判事、大蔵大丞兼民部大丞、外務少輔などを歴任。明治4年、岩倉遣欧使節団員となり、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文とならぶ副使に任命されて、各国を歴訪した。征韓論争では、大久保、木戸らととも征韓に反対の立場を取る。このため、佐賀の乱では、政府軍の側に立って乱の鎮圧に当たる。その後、元老院議官、元老院幹事、会計検査院初代院長、高等法院陪席裁判官、貴族院議員などを歴任した。明治27年、死去。


変名:山口範蔵
主な役職:元老院議官、元老院幹事、貴族院勅撰議員、
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


山田 平蔵
やまだ へいぞう
(1844-1874)
佐賀藩

斬首された佐賀の乱首謀者の一人
弘化元年、佐賀藩士山田嘉一左衛門の長男として生まれる。藩校弘道館で学んだほか、石井又右衛門に関口流柔術の教えを受けた。戊辰戦争においては遊兵隊長として仙台に赴き、前山精一郎が仙台城から救出した奥羽総督九条道孝と参謀醍醐忠敬の護衛を務めた。明治4年の廃藩置県の際には佐賀県の聴訟課に勤務し、さらに石井貞興や西義質と共に鹿児島に遊学し桐野利秋や村田新八の知遇を得た。佐賀の乱では先頭に立って戦うが、敗色が濃厚となると西郷隆盛に決起を促すため江藤新平らと共に鹿児島へ脱出。しかし、西郷に断られたため一行は四国に向かったが、宇和島から日向に引き返して鹿児島で自首したが、首謀者たちと共に斬首となっている。


変名:-
主な役職:-
剣術:関口流柔術
墓所:-


山中 一郎
やまなか いちろう
(1848-1874)
佐賀藩

将来を有望視されていた江藤の門下生
嘉永元年、佐賀藩士山中四三郎の長男として生まれる。幼少時から秀才の誉れ高く、藩校弘道館では寮監となったほか、江藤新平や副島種臣に学び、江藤の弟子として香月経五郎と並び藤門の双璧と呼ばれた。また、慶應4年には佐賀藩が長崎に設立した英学校致遠館に入学した。明治4年には藩命によりドイツやフランスに留学し政治経済を学んだ。明治6年に帰国してから政府に提出した海外視察御届では高い評価を受けたが、その年に発生した明治6年政変により江藤新平が職を辞したためこれに同行し佐賀に戻った。佐賀の乱では長崎で武器の調達にあたったほか、斥候掛長として敵情を偵察したりなどした。敗走する江藤に同行し、鹿児島や四国へと向かったが、土佐にて捕えられた。乱後の裁判にて斬首。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:-


ら行


わ行



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