外国人人物録

外国人

幕末期、鎖国してきた日本に大勢の外国人たちがやってきた。彼らは自国の国益のため、またはビジネスのために多くの日本人と関わることとなった。彼らの進んだ技術や思想は、幕末の日本人に多大なる影響を与えた。その中には日本を愛し、日本のために尽くした者もいた。



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あ行


Thomas James Waters
とーます うぉーとるす
(1842-1892)
アイルランド技師

銀座煉瓦街の建設に携わったアイルランドの建築家
元治元年頃、香港から鹿児島に渡り、薩摩藩の紡績所などの建設に携わった。その後、長崎でグラバーのもとで働く。明治元年、貨幣司に雇用され、大阪造幣寮(泉布観)を建設する。大隈重信らの信任を得て上京し、明治3年から大蔵省に出仕。銀座大火後の銀座煉瓦街の建設に携わった。鉱山技術者の弟とともにアメリカ合衆国コロラド州に渡り、コロラド銀山を発見して成功を収めた。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:-


Rutherford Alcock
らざふぉーど おーるこっく
(1809-1897)
イギリス外交官
日本国内を娯楽として旅行した初めての外国人
安政6年、初代駐日総領事として来日。高輪東禅寺にイギリス総領事館を開いた。万延元年12月、米国駐日公使通訳ヘンリー・ヒュースケンが攘夷派に襲われ死去。外国人の安全を保証できなため、外交団が横浜へ引き移ることを幕府に提案。米国公使らの反対もあったが、仏国公使と共に横浜へ移る。文久元年、英国公使館を攘夷派浪士が襲撃。ラザフォードは無事であったが、一等書記官と長崎駐在領事が負傷した。これを機に英水兵の公使館駐屯が認められ、イギリス艦隊の軍艦が横浜に常駐するようになる。文久2年に一時帰国し、2年後の元治元年春に日本に帰任する。四国艦隊下関砲撃事件では主導的な役割を果たすが、これを認めなかったイギリス外相により帰国が命じられた。駐日公使はかつて清で彼の部下だったハリー・パークスに引き継がれた。後に、ラザフォードの外交政策が評価されたため、日本への帰任を要請する声もあった。しかし、当時のアジア駐在外交官の中では最も地位が高いとされた清国駐在公使に任じられる。その後は王立地理学会や政府委員会委員などを歴任。1897年にロンドンで死去した。日本在任中、富士山に登頂したり、熱海の温泉地を訪れたり娯楽として日本国内を旅行した初めての外国人として記録されている。

変名:-
主な役職:イギリス駐日総領事、特命全権公使
剣術:-
墓所:-




か行


Andre Cazeneuve
あんどれ かずぬーぶ
(生年不明-1874)
フランス軍人

旧幕府軍とともに、箱館戦争を戦ったフランス軍人
慶応3年、フランス軍事顧問団の一員として来日。フランス軍事顧問団は幕府伝習隊を調練する。ナポレオン3世が幕府に贈呈したアラビア馬の飼育調教の指導係とし、小金牧の将軍の乗馬を育成する区画に厩舎を建て、飼育する予定であったが、幕府の崩壊により中止。戊辰戦争が勃発すると、カズヌーブはフランス陸軍の職を辞し、幕府側で戦い続ける事を選んだ。彼はブリュネ等と共に箱館戦争に参戦し、四列士満の一隊の隊長を務めた。しかし、松前での戦闘で脚踵を負傷、ブリュネらとともに戦線離脱して横浜に戻るが、駐日公使ウートレーによりサイゴンへ追放される。その後、再び来日して、明治政府にナポレオン3世が幕府に贈呈したアラビア馬の活用を進言。幕府崩壊後にバラバラになり、私物化されていたアラビア馬の捜索を開始するが、明治7年、病に倒れ福島県の浪江町で逝去した。


変名:-
主な役職:フランス軍事顧問団員、列士満隊長
剣術:-
墓所:不明


Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke
ぶぃれむ ほいせん ふぁん かってんでぃーけ
(1816-1866)
オランダ軍人

幕府に近代海軍教育を行ったフランス軍人
安政4年、幕府がオランダに発注した軍艦ヤーパン(後の咸臨丸)を長崎に回航し、幕府が開いた長崎海軍伝習所の第1次教官ペルス・ライケンの後任として第2次教官となる。勝海舟などの幕臣に、航海術・砲術・測量術など近代海軍教育を精力的に行った。2年後の安政6年、長崎海軍伝習所は閉鎖となり帰国。1861年にはオランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任した。カッテンディーケの教育を受けた勝海舟の立案によって、元治元年には西洋式の海軍士官養成機関・海軍工廠である神戸海軍操練所が設立された。


変名:-
主な役職:長崎海軍伝習所第2次教官
剣術:-
墓所:-


Woodthope Clark
うっどそーぷ くらーく
(1834-1867)
イギリス商人

生麦事件で負傷したイギリスの商人
アメリカの商社のハード商会の社員で、文久2年に横浜支局へ派遣される。交友のあった商人チャールス・リチャードソン、ウィリアム・マーシャル、ボラディル夫人の4人は、東海道で乗馬を楽しんでいたが、武蔵国橘樹郡生麦村で島津久光の行列と遭遇。先頭を騎馬で歩いていたリチャードソンが薩摩藩士に斬り付けられた、クラークも肩を斬られる重傷を負ったため、アメリ領事館の本覚寺へ避難する。後に到着したマーシャルとともに治療を受けた。肩に後遺症を残すことになったが、事件後も横浜で引き続き仕事に従事し、同地で没した。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:横浜市中区外国人墓地


Thomas Blake Glover
とーます ぶれーく ぐらばー
(1838-1911)
スコットランド商人

倒幕派を支援した死の商人
1859年に上海へ渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。同年、開港まもない長崎に移り、2年後にはジャーディン・マセソン商会の長崎代理店として「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。当初は生糸や茶の輸出を中心として扱ったが、八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して薩長土ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。亀山社中とも取引を行った。また、薩摩藩士らの海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。元治2年には、大浦海岸において蒸気機関車を走らせる。本業の商売にも力を注ぎ、慶応2年には大規模な製茶工場を建設。明治元年には肥前藩と契約して高島炭鉱開発に着手。さらに、長崎の小菅に船工場を造った。明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで明治3年、グラバー商会は破産。グラバー自身は高島炭鉱の実質的経営者として日本に留まった。明治14年、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たる。また明治18年以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒の基礎を築いた。晩年は東京で過ごし、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された。明治44年に死去。


変名:-
主な役職:グラバー商会社長
剣術:-
墓所:長崎市坂本国際墓地



さ行


Philipp Franz Balthasar von Siebold
ふぃりっぷ ふらんつ ばるたざーる ふぉん しーぼると
(1796-1866)
ドイツ医師

鳴滝塾を創設し蘭学を広めた医師
1823年に来日。鎖国時代の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。文政7年には鳴滝塾を開設。蘭学教育を行い全国から集まってきた多くの医者や学者に講義する。文政11年に帰国する際、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから国外追放処分となる。帰国後は蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、全7巻の『日本』を随時刊行。一方で日本の開国を促すための運動を展開。1853年にはアメリカのペリー艦隊に日本資料を提供。安政5年、日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除され、安政6年に再来日。対外交渉のための幕府顧問となる。文久2年に官職を辞して帰国。1863年にはオランダの官職も辞してヴュルツブルクに帰郷。1866年、ミュンヘンで死去した。


変名:-
主な役職:鳴滝塾主宰
剣術:-
墓所:ミュンヘン旧南墓地




た行



な行


は行


Harry Smith Parkes

はりー ぱーくす

(1828-1885)
イギリス外交官

日米修好通商条約を締結した初代駐日公使
1828年、イングランドの鉄工場主の長男として生まれる。少年期に両親が死去したため、マカオに渡り中国語を学んで公的な仕事に従事する。慶応元年、四国艦隊下関砲撃事件での行動が、本国政府の意に沿わないとして解任されたオールコックの後任公使に任命される。当時、将軍も朝廷も関西に居たため、英米仏蘭の連合艦隊を兵庫沖に派遣し、威圧的に幕府や朝廷と交渉。条約勅許と関税率の改正を勝ち取った。慶応2年、米仏蘭と共に幕府と改税約書に調印。第二次長州征伐では、フランス公使レオン・ロッシュと共に調停をはかるが失敗している。慶応3年、夫人を伴い富士山登頂。パークス夫人は、外国人女性としては始めての富士登頂者となっている。明治元年の神戸事件では、米海兵隊や仏水兵と共に警備隊を率いて備前藩兵と交戦した。戊辰戦争では局外中立を宣言。 明治天皇への謁見に御所へ向かう途中、二名の暴漢に襲われるが無事であった。明治2年、榎本武揚率いる箱館政府を仏蘭と共に交戦団体と認めず、米・伊・独と対立した。明治4年、休暇のためにアメリカ経由で帰国。休暇中に本国で対日外交について政府に意見具申している。明治6年、日本に帰任。日本に対して西洋文明の導入を推進するなど、日本の近代化と日英交流に貢献。明治16年に清国公使となり、駐韓公使を兼ねる。1885年、北京でマラリアのため死去。


変名:-
主な役職:駐日英国大使、駐清英国大使、駐朝鮮英国大使
剣術:-
墓所:ロンドン市 聖ローレンス・ホィット教会


Townsend Harris
たうんぜんと はりす
(1844-1922)
アメリカ外交官

日米修好通商条約を締結した初代駐日公使
1804年、ニューヨーク州サンディ・ヒル生まれ。16歳から父母と兄のもとで陶磁器の輸入販売に従事し、民主党の支持者として政治にも関わり、1846年にはニューヨーク市教育委員会の委員長に就任する。自力でアジア貿易を目指して中国沿岸・東インド・フィリピンや南太平洋を旅して人脈を広げた。1854年には、中国の沿海港湾都市、寧波の領事に任命されたが、彼はペリーによって開かれた日本でのポストを熱望していたため、任用を受けず、帰国して大統領フランクリン・ピアスに運動して翌年に駐日総領事に任命された。安政3年、下田に着任し柿崎の玉泉寺に住居を構えた。安政4年、大老井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結されたため、初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して江戸の元麻布善福寺に公使館を置く。文久元年、病気を理由に辞任の意向を示し、幕府は留任を望むものの、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9か月の滞在を終えて帰国した。1876年、74歳で死去。


変名:-
主な役職:駐日米国弁理公使
剣術:-
墓所:ニューヨーク市グリーンウッド墓地


Henry Conrad Joannes Heusken
へんりー ひゅーすけん
(1832-1861)
アメリカ通訳

兇刃に倒れたアメリカ人通訳
1832年、アムステルダムの石鹸製造業者のヨアンネス・フースケンの子として生まれる。家族とともにアメリカに渡り帰化。安政3年、タウンゼント・ハリスに雇われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務めた。蘭語、仏語、独語を話せたため、各国公使との調停にも重宝された。米英仏露蘭葡の修好通商条約以降、その他の国との調印は断固として断られていたが、ヒュースケンの粘り強い交渉により、プロセインも条約締結することとなる。万延元年、プロイセン王国使節宿舎の芝赤羽接遇所から米公使館のある善福寺への帰途途中、薩摩藩士伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに暗殺された。


変名:ヘンドリック・フースケン
主な役職:米国総領事館通弁官
剣術:-
墓所:東京都港区光林寺


Eugene Miller Van Reed
ゆーじん ぶぁんりーど
(1835-1873)
アメリカ商人
ハワイの日本人移民の先駆けを行った米商人
アメリカに滞在していた浜田彦蔵と知り合い日本に対する関心を深め、神奈川にあった米国総領事館の書記生として日本に来日した。一旦アメリカに帰国した後、慶応2年にハワイ王国総領事の資格を得て再来日をし、幕府と国交締結交渉を行うが失敗。そのまま横浜に滞在して貿易商を開業して、東北地方諸藩との取引を行った。慶応4年、幕府に対して日本人のハワイ移住に関する許可を獲得。江戸幕府解体後に設置された明治政府の横浜裁判所に募集した移民に対する旅券下付を総領事の資格で申請を行う。これに対して裁判所は日本とハワイに国交がないことを理由に彼の総領事としての資格を否認。更に王政復古後の幕府の許可であることを理由に許可自体も無効とした。これに対して彼は無効処分の取り消しか、賠償金4,000ドルを要求する一方で、英国船に141名の日本人を乗せて移民を強行した。このときの移民が、後の日系アメリカ人成立のさきがけとなった。また、グアムへの移民の斡旋も行っている。明治4年、アメリカ合衆国の仲介で正式に日本とハワイの国交が結ばれると、ヴァンリードの資格が問題となったが、ハワイ王国から全権の資格を得ていたアメリカ公使ロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグの計らいで領事業務に限定することを条件に総領事としての立場を認めることとなった。翌年にはハワイ王国から改めて総領事に任命された。ホノルル滞在中に病没。

変名:-
主な役職:ハワイ王国総領事
剣術:-
墓所:不明


Francois Leonce Verny
れおんす ぶぇるにー
(1835-1873)
フランス技師
日本の近代化を支援したフランス人技師
元治元年、近代的造兵廠の建設のため来日。駐日公使レオン・ロッシュらと横須賀製鉄所の起立原案を提出した。慶応元年、造兵廠建設に必要な物品の購入や技術者を手配するために、日本を発ちフランスに一時帰国する。慶応2年に帰国後、工事開始。ヴェルニーは責任者として建設工事を統率し、フランス人住宅や警固の詰所、各種工場や馬小屋、日本人技術者養成のための技術学校などの各種施設が建設される。慶応4年、戊辰戦争が勃発し、新政府軍が箱根まで進出してきたため、横浜居留地へ退去するようフランス人に指示が出たが、横須賀にとどまる。その後、神奈川裁判所総督東久世通禧と副総督鍋島直大によって横須賀製鉄所が接収された。予算難の新政府は工事の中断を検討したが、ヴェルニーらの反対によって建設の継続が決定。同年、観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台の建設にも関わった。またアジア最大の造船能力を誇る長崎造船所の建設にも携わった。

変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:-


Guido Herman Fridolin Verbeck
ぐいど ぶぇるべっく

(1811-1863)
アメリカ宣教師

日本の近代化に貢献したアメリカ宣教師
安政6年、宣教のため来日。長崎に上陸するが、キリシタン禁令のため布教活動ができず、塾を開き英語などを教えた。文久3年の薩英戦争では上海に避難して、元治元年に戻り、幕府の長崎伝習所の英語講師として雇われた。慶応2年、長崎の佐賀藩校 致遠館に招かれ、英語、政治、経済などについて講義。明治3年、大学南校と改称した開成学校の教頭を務め、規則や教育内容の充実に努める。教え子であった大隈重信に日本の近代化について進言し、それが岩倉具視の目に止まって、欧米視察のために使節団が計画された。明治6年、キリシタン禁令が廃止されると、以後は布教活動を進める。明治学院の開学時には、理事と神学部教授に選ばれて、旧約聖書注解と説教学の教授を務めた。明治31年、心臓麻痺のために急死。


変名:グイド・フルベッキ
主な役職:大学南校教頭、明治学院理事、旧約聖書翻訳委員
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園



Arthur Fortant
あるてゅーる ふぉるたん
(生没年不明)
フランス軍人

旧幕府軍とともに、箱館戦争を戦ったフランス軍人
慶応3年、フランス軍事顧問団の一員として来日。フランス軍事顧問団は幕府伝習隊を調練する。戊辰戦争が勃発すると、フォルタンはフランス陸軍の職を辞し、幕府側で戦い続ける事を選んだ。彼はブリュネ等と共に箱館戦争に参戦し、四列士満の一隊の隊長を務めた。新政府軍の総攻撃が迫ると、フォルタンらフランス人は箱館港に停泊中のフランス船に逃れる。その後の明治3年、フォルタンは、マルラン、ブッフィエと共に兵部省に雇われた。


変名:-
主な役職:フランス軍事顧問団員、列士満隊長
剣術:-
墓所:不明


François Bouffier
ふらんそわ ぶっふぃえ
(1844-1881)
フランス軍人

旧幕府軍とともに、箱館戦争を戦ったフランス軍人
慶応3年、フランス軍事顧問団の一員として来日。フランス軍事顧問団は幕府伝習隊を調練する。戊辰戦争が勃発すると、ブッフィエはフランス陸軍の職を辞し、幕府側で戦い続ける事を選んだ。彼はブリュネ等と共に箱館戦争に参戦し、四列士満の一隊の隊長を務めた。新政府軍の総攻撃が迫ると、フォルタンらフランス人は箱館港に停泊中のフランス船に逃れる。その後の明治3年、ブッフィエは、フォルタン、マルランと共に兵部省に雇われた。ブッフィエは日本女性と結婚し、2人の息子をもうけた。


変名:-
主な役職:フランス軍事顧問団員、列士満隊長
剣術:-
墓所:横浜市中区横浜外国人墓地


Jules Brunet
じゅーる ぶりゅね
(1838-1911)
フランス軍人

旧幕府軍とともに、箱館戦争を戦ったフランス軍人
1838年生まれ。エコール・ポリテクニーク理工科学校を卒業後、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を卒業し、陸軍砲兵少尉に任官した。その後砲兵中尉としてメキシコ戦争に出征し、レジオンドヌール勲章を受けた。フランスは開国した日本との関係を深めるために、対日軍事顧問団を派遣することを決めた。ブリュネはシャルル シャノワーヌ参謀大尉を隊長とする軍事顧問団の副隊長に選ばれ、慶応2年に日本に到着した。軍事顧問団は横浜大田陣屋で幕府伝習隊を訓練したが、幕府は王政復古により消滅してしまう。フランス軍事顧問団は勅命によって新政府から日本からの退去を命令されたが、シャノワーヌ隊長以外の軍事顧問団は残留を選択してフランス軍籍を離脱し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流する。ブリュネらフランス人は、蝦夷共和国の創設を支援し、陸軍奉行の大鳥圭介を補佐して箱館の防衛を担当した。新政府軍の総攻撃が迫ると、フランス人らは箱館港に停泊中のフランス船に逃れる。ブリュネは裁判のためフランスに送還されたが、フランス軍籍を離脱時の置き手紙が新聞に掲載されたことで世論の支持もあり、普仏戦争の勃発後に軍への復帰が許された。1898年には、陸軍参謀総長にまで登りつめている。日清戦争では日本軍を支援し、明治政府から勲二等旭日重光章を授与された。1911年、パリ近郊の自宅で死去。


変名:-
主な役職:フランス軍事顧問団副隊長
剣術:-
墓所:パリ東墓地


James Bruce
じぇーむす ぶるーす
(1811-1863)
イギリス外交官

日英修好通商条約を調印したイギリス使節団の代表
安政5年、日本と通商条約を結ぶために来日。先に日米間において、日米修好通商条約が1ヶ月前に調印されていたこともあり、日英の交渉は比較的スムーズに条約は調印された(日英修好通商条約)。関税自主権の制限や治外法権承認(領事裁判権)など、日本に不利な不平等条約が継続・強化された。このとき、ビクトリア女王の名で、英国艦隊の1隻であったエンペラー号を幕府に寄贈している。1861年にはインド総督に任命されたが、着任の翌年には心筋梗塞で死去している。


変名:-
主な役職:第8代エルギン伯爵、イギリス使節団代表
剣術:-
墓所:-


James Curtis Hepburn
じぇーむす かーてぃす へぼん
(1815-1911)
アメリカ医師、宣教師

ヘボン式ローマ字を考案した医療伝道宣教師
安政6年、宣教医として来日。宗興寺に神奈川施療所を設けて医療活動を開始する。文久3年、横浜に男女共学のヘボン塾を開設。箕作秋坪の紹介で眼病を患った岸田吟香を治療し、その縁で当時手がけていた「和英語林集成」を岸田吟香が手伝うようになる。慶応3年、日本最初の和英辞典『和英語林集成』を出版。日本語を転写する方法として英語式の転写法を採用。第3版まで改正に努め、辞典の普及に伴い、ヘボン式ローマ字の名で知られるようになる。明治4年、ヘボン塾の女子部が洋学塾として独立。洋学塾は、後にフェリス女学院の母体となった。明治5年、横浜の自宅で第一回在日宣教師会議を開催し、同僚の宣教師らと福音書の翻訳を開始。明治7年、横浜に横浜第一長老公会を創設。明治13年頃には、旧約聖書の和訳を完成させた。明治20年、私財を投じて明治学院(現明治学院高等学校・同大学)を設立し、明治学院初代総理に就任した。明治25年、妻の病気を理由に帰国。明治38年には、勲三等旭日章が贈られた。


変名:-
主な役職:明治学院初代総理
剣術:-
墓所:神戸市北区神戸外国人墓地


Matthew Calbraith Perry
ましゅー かるぶれいす ぺりー
(1794-1858)
アメリカ軍人
太平の眠りを覚ました黒船艦隊の司令官
1809年、海軍に入隊。米英戦争に2人の兄とともに参加する。ブルックリン海軍工廠の造船所長となり、アメリカ海軍2隻目の蒸気フリゲート艦フルトン号を建造し、海軍大佐に昇進した。1840年には同海軍工廠の司令官となり代将に昇進。米墨戦争が勃発すると、ミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副指令として参加、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮、後には本国艦隊の司令官に昇進した。1852年、東インド艦隊司令長官に就任。フィルモア大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊は嘉永6年、浦賀に入港。幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸。大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。太平天国の乱がおこり、米国での極東事情が変化する中、嘉永7年に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、日米和親条約を調印した。またその後、那覇に寄港して、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。帰国した後は遠征記などを記す。1858年ニューヨークで死去。

変名:-
主な役職:東インド艦隊司令長官
剣術:-
墓所:ロードアイランド州アイランド墓地


ま行


William Marshall
ういりあむ まーしゃる
(1827-1873)
イギリス商人

生麦事件で負傷したイギリスの商人
開国によって開放された横浜に在住し、主に絹輸入業に成果を挙げた。文久2年、妻クレメンティナの実妹にあたるマーガレット・ボラディルが来日しマーシャルを訪ねてきたため、ビリヤード仲間のウッドソープ・クラークを誘って川崎大師へ観光する事を計画。クラークが誘ったチャールズ・リチャードソンを加えた4人で川崎大師へ乗馬で向かった。しかしその道中で島津久光の行列と遭遇、先頭の馬に乗っていたリチャードソンが薩摩藩士に斬り付けられ、自身も脇と背中を斬られる軽傷を負った。マーシャルは義妹のボラディル夫人を逃がし、重傷を負ったリチャードソンを助けて逃走しようとするが、リチャードソンが落馬してしまったために救出を断念し、アメリカ領事館であった本覚寺へ逃れた。そこで先に到着していたクラークとともに治療を受けた。事件後も横浜で引き続き商業に従事し、同地で没した。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:横浜市中区外国人墓地


Jean Marlin
じゃん まるらん
(1833-1872)
フランス軍人

旧幕府軍とともに、箱館戦争を戦ったフランス軍人
慶応3年、フランス軍事顧問団の一員として来日。フランス軍事顧問団は幕府伝習隊を調練する。戊辰戦争が勃発すると、マルランはフランス陸軍の職を辞し、幕府側で戦い続ける事を選んだ。彼はブリュネ等と共に箱館戦争に参戦し、四列士満の一隊の隊長を務めた。新政府軍の総攻撃が迫ると、フォルタンらフランス人は箱館港に停泊中のフランス船に逃れる。その後の明治3年、マルランは、フォルタン、ブッフィエと共に兵部省に雇われた。明治5年、死去。


変名:-
主な役職:フランス軍事顧問団員、列士満隊長
剣術:-
墓所:神戸市北区神戸外国人墓地




や行


ら行


Gerhard Christiaan Coenraad Pels Rijcken

へるはると らいけん

(1810-1889)
オランダ軍人

長崎海軍伝習所のスパルタ教官
安政2年、オランダ国王ウィレム三世から将軍家定に寄贈されたスームビング号艦長として来日。約2年の間、長崎海軍伝習所第1次教官として日本に雇用された。主に航海術と運用術を担当している。教え子には、勝海舟、中島三郎助、川村純義などがいる。2年間の滞在を終え、オランダに帰国。後に海軍副提督に進級し、海軍大臣も務めた。1889年、死去。


変名:-
主な役職:長崎海軍伝習所第1次教官、オランダ海軍大臣
剣術:-
墓所:-


Charles Richardson

ちゃーるず りちゃーどそん

(1834-1862)
イギリス商人

生麦事件で殺害されたイギリス商人
文久2年、観光のために来日。上海で交友のあった横浜商人ウッドソープ・クラークと再会し、クラークやウィリアム・マーシャルの案内で、ボラディル夫人を加えた4人で川崎大師へ観光に向かう。その途中の生麦村で島津久光の行列と遭遇するが、騎乗のまま行列に乗り入れたため、激昂した薩摩藩士奈良原喜左衛門に無礼打ちにされる。リチャードソンは重傷を負ったため遁走を図るが、程なく落馬し、追いかけてきた久木村利休・海江田信義に止めをさされた。イギリスはリチャードソン殺害事件に際して、代理公使ジョン・ニールを通じて薩摩藩と幕府に対して賠償金10万ポンドと、犯人の引渡しを要求するが、薩摩藩は拒否し薩英戦争を引き起こすことになる。


変名:-
主な役職:駐日本アメリカ合衆国弁理公使
剣術:-
墓所:横浜市中区横浜外国人墓地


わ行



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