その他の人物録

その他の人物達

幕末期には武士や公家だけでなく、あらゆる階級の人々が明治維新という革命に関わった。志士として直接尊皇攘夷運動に関わった者もいれば、援助や庇護で間接的に関わった者もいた。それは時代の大きなうねりが、すべての日本人を飲み込んでいくようであった。


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※創作上の人物こちらから  ※天狗党の乱参加者はこちらから

あ行


浅利 又七郎
あさり またひちろう
(1822-1894)
剣客

山岡鉄舟が剣を合わせられなかった「入神の剣技」
文政5年、中西派一刀流第4代中西子正の次男として生まれる。中西派一刀流浅利道場の浅利義信の養子となり、小浜藩江戸屋敷の剣術指南役と浅利道場を受け継ぐ。文久3年、山岡鉄舟と立合って、剣も合わせぬまま追い詰め打ち負かした。翌日、鉄舟は浅利道場に入門する。明治13年、鉄舟は再戦を望み対峙するが、又七郎は鉄舟の剣の実力を認め、
剣を収めて中西派一刀流の印可を授けた。その後、鉄舟の斡旋で有栖川宮家の撃剣御用係となり、威仁親王の剣術を指導している。明治27年、死去。


変名:浅利義明
主な役職:浅利道場主宰、有栖川宮家撃剣御用係
剣術:中西派一刀流剣術、小野派一刀流剣術
墓所:-


池内 大学
いけうち だいがく
(1814-1863)
儒学者

岡田以蔵に殺された攘夷派儒学者
文化11年、京都の商人の家に生まれる。
8歳のとき貫名海屋に入門し折衷学を学び、また龍野将監に医術を学ぶ。天保2年、尊超入道親王に仕え、公家子弟の教育係を務めた。天保4年、尊超入道親王に随って江戸に向かう。天保6年には水戸の徳川斉昭を訪ね、海防の重要性を説く。嘉永6年、ペリーが浦賀に来航すると、「攘夷論」を著して帝都防衛を論じる。梁川星巌・梅田雲浜・頼三樹三郎などと交流し、井伊直弼から危険人物と見なされて安政の大獄の容疑者の一人と見なされたが、大学は機先を打って自首したため、中追放という軽い処分となった。文久2年に赦免され、大阪に住む。文久3年、土佐藩主山内容堂と時事談義に及ぶが、帰宅途中に待ち伏せしていた岡田以蔵らによって斬殺された。


変名:池内奉時、池内士辰、池内陶所
主な役職:知恩院門室近侍、久邇宮家侍読
剣術:-
墓所:大坂市上本町大福寺


伊藤 助太夫
いとう すけだゆう
(1830-1872)
商人

龍馬が拠点とした本陣伊藤家の当主
大名に宿舎を提供する本陣伊藤家の当主。下関を代表する豪商であり、各藩の攘夷志士らを様々な側面から支援した。坂本龍馬との関係は深く、伊藤邸は初対面以来、龍馬の止宿先であった。邸は広く、高杉晋作が結成した奇兵隊も一時、邸内にある阿弥陀寺に本陣を移したこともある。現存する龍馬が書いた手紙のうち、助太夫宛の手紙が2番目に多いことからも龍馬との関係が深かったことが覗える。明治5年、病死。


変名:伊藤九三、自然居士、静斎、伊藤盛正
主な役職:本陣伊藤家当主
剣術:-
墓所:下関市中之町引接寺 下関市本町空月庵


入江 和作
いりえ わさく
(1833-1905)
商人

晋作を支援した下関の豪商
嘉永5年、酢の醸造業を営む奈良屋を継ぐ。尊皇の志士たちを支援した。特に高杉晋作を献身的に支援し、晋作は入江の茶屋を寓居としていた。うの(此の糸)の身請け金を用意したともいわれ、晋作が四国に亡命する際の旅費なども援助した。元治元年、晋作が功山寺にて挙兵した際には、軍資金を提供。軍事クーデター成功に貢献した。奈良屋には坂本龍馬や、勤王歌人野村東望尼も滞在した。明治38年、73歳で死去。


変名:蔵田和作
主な役職:奈良屋店主
剣術:-
墓所:下関市中之町引接寺



上野 彦馬
うえの ひこま
(1838-1904)
写真家

幕末維新の志士の肖像を撮影した写真家
天保9年、長崎の蘭学者上野俊之丞の次男として生まれる。安政5年、オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学を学ぶ。このとき、蘭書から湿板写真術を知り、大いに関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得。感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年には堀江と共同で化学解説書「舎密局必携」を執筆。同年、故郷の長崎に戻り、中島河畔で上野撮影局を開業。同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。維新後の明治7年には金星の太陽面通過の観測写真を撮影、明治10年には西南戦争の戦跡を撮影、同年に開催された第1回内国勧業博覧会では鳳紋褒賞を受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。明治37年、長崎で死去。


変名:上野季渓
主な役職:上野写真局店主
剣術:-
墓所:長崎市伊良林風頭公園


歌川 国芳
うたがわ くによし
(1798-1861)
絵師

斬新で奇想天外な画風が魅力の浮世絵師
寛政9年、京紺屋柳屋吉左衛門の子として生まれる。幼少期から絵を学び、初代歌川豊国に入門。文政10年頃に発表した「水滸伝」シリーズが評判となり、「武者絵の国芳」と称される。天保の改革により、役者絵や美人画などの浮世絵が禁止になると、その改革を批判した風刺画を描いたため、幕府から尋問、罰金などの弾圧を受けた。禁令が解かれると、歴史や伝説、物語などに題材に、奇抜なアイデアの武者絵を世に送り出して成功を収める。晩年は中風を患い、動感に乏しい作品が目立つようになった。文久元年、死去。


変名:井草芳三郎、井草孫三郎、一勇斎、朝桜楼、採芳舎
主な役職:-
剣術:-
墓所:小平市上水南町大仙寺


歌川 貞秀
うたがわ さだひで
(1807-?)
絵師

精密な描写が評価される横浜浮世絵の第一人者
文化4年生まれ。出自は不明な点が多い。初代歌川国貞に入門。始めは挿絵や美人画、芝居絵を描いていたが、次第に風景画に関心を持つようになる。安政、文久年間からは、横浜絵、開化絵と呼ばれる新しい様式の浮世絵を多く残す。幕末には、松前から九州まで自ら歩いて、「奥州一覧之図」、「肥前長崎丸山廓中の風景」、「大日本国郡名所」など、多くの鳥瞰一覧図や名所図を刊行した。明治8年の「文明開化道中袖かが見」の挿絵を描いた以降は、記録が残っておらず、没年没所は不明。


変名:橋本兼次郎、五雲亭貞秀、玉蘭斎、玉蘭主人、一玉斎、玉翁
主な役職:-
剣術:-
墓所:不明


歌川 豊国(三代目)
うたがわ とよくに
(1786-1865)
絵師

江戸の粋な美人図を描いた浮世絵師
天明6年、江戸の材木問屋亀田屋庄兵衛の子として生まれる。初代歌川豊国に入門。文化4年頃から美人画を描き始める。文化11年頃になると、師を越えた役者絵と世間で評価されるようになる。作画期が長く、その作品の量も膨大で、代表作として「浮世名異女図会」、「思事鏡写絵」、「当世美人合」、「当世美人流光好」「時世江戸鹿子」、「江戸名所百人美女」、「星の霜当世風俗」などといった美人画や、「豊国漫画図絵」等の役者絵がある。歌川広重との合作も評価が高い。元治元年、死去。


変名:歌川国貞、角田庄五郎、角田庄蔵、角田肖造五渡亭、香蝶楼、一雄斎、琴雷舎、北梅戸、
富望山人、富望庵、桃樹園、月波楼、喜翁、浮世又平、不器用又平、亀戸豊国

主な役職:-
剣術:-
墓所:東京都江東区光明寺


歌川 広重
うたがわ ひろしげ
(1797-1858)
絵師

ゴッホやモネなどにも影響を与えた浮世絵師
寛政9年、定火消同心安藤源右衛門の長男として生まれる。文化6年、父の隠居により同心職を継ぐ。文化8年、歌川豊広に入門。文政6年に祖父方の嫡子仲次郎に家督を譲って絵師に専念した。役者絵、美人画、花鳥図を経て、風景画を主に制作するようになる。天保4年、「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声を手に入れる。「東海道」や「江戸名所」をシリーズ化して多くの秀作を世に送った。安政5年、死去。


変名:安藤徳太郎、安藤鉄蔵、安藤重右衛門、安藤徳兵衛一幽斎一立斎、一遊斎
主な役職:八代洲河岸定火消同心
剣術:-
墓所:東京都足立区東岳寺


か行


狩野 一信
かのう かずのぶ
(1816-1863)
絵師

増上寺の五百羅漢図を描いた幕末の鬼才
文化13年、江戸の骨董商の次男として生まれる。幼少から絵を好んだが、兄と争い家を出奔。大山石尊の御祷師と出会いその娘と結婚し婿養子となる。義母と折合いが合わず、妻と共に江戸各地を転々としながら、看板や提灯の絵を描いて暮らすが、安政2年の大火で財産を失って増上寺の子院源興院に身を寄せる。ここで了螢上人と出会い、源興院10世となった了螢上人のために「十六羅漢図」を描く。嘉永6年、了螢上人の依頼により、「五百羅漢図」全100幅の制作を開始。しかし、完成間近の96幅で死去する。その後、「五百羅漢図」は妻や弟子の手で完成され、増上寺に納められた。


変名:辺見豊次郎、逸見一信、顕幽斎一信、
主な役職:-
剣術:-
墓所:東京都港区安蓮社


菊屋 峯吉
きくや みねきち
(1817-1868)
志士

龍馬暗殺の第一発見者
嘉永4年、京都の書店菊屋の長男として生まれる。坂本龍馬や中岡慎太郎と交友し尊皇攘夷運動に影響をうける。龍馬と慎太郎が暗殺された日は、中岡慎太郎から頼まれ薩摩藩邸へ手紙を届けに行き、帰りに龍馬や慎太郎がいる河原町の醤油商近江屋に寄った。しばらくすると龍馬が峯吉に軍鶏肉を買いに走らせた。峯吉が軍鶏肉を買いに走っている間に、龍馬と慎太郎は暗殺されてしまう。峯吉が帰ると龍馬は絶命、慎太郎は重傷であったのですぐさま白河の陸援隊屯所へ報せに走った。その後は、明治十年の西南戦争で熊本鎮台司令長官谷干城の知遇を得て会計軍夫として従軍した。


変名:鹿野安兵衛
主な役職:会計軍夫
剣術:-
墓所:京都市左京区知恩寺


日柳 燕石
くさなぎ えんせき
(1817-1868)
侠客

国事のために私財を投げ出して尽力した侠客
文化14年、加島屋惣兵衛の子として生まれる。加島屋という豪農で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、14歳頃までには「四書五経」を読破した。反面、侠気をもって知られ、21歳で父母に死別したのちに家督を相続して33歳頃まで遊?したことで、千人を超える郷党浮浪の徒の首領となり、博徒の親分としても知られた。また勤王の志が非常に厚く、天下の志士と交わり国事のために私財を投げ出して尽力した。文久の頃より長土諸藩の志士の多くを庇護していたが、慶応元年、高杉晋作を匿った罪で、4年間獄に幽せられた。慶応4年に出獄。後、朝廷に召されて征討総督仁和寺宮の日誌方として奥羽戦争に参戦。柏崎の陣中で病没した。


変名:加島屋長次郎、加島屋耕吉、日柳政章、日柳士煥、日柳柳東、日柳双龍閣。
主な役職:征討軍日誌方
剣術:-
墓所:柏崎市柏崎招魂所、琴平町榎井日柳一族墓地


黒駒 勝蔵
くろごまの かつぞう
(1832-1871)
侠客

政府に利用された甲州の博徒
天保3年、若宮名主小池嘉兵衛の次男として生まれる。安政3年、博徒の親分甲斐八代郡武井の中村甚兵衛の子分となり、その後甚兵衛の弟安五郎と共に甲州における博徒の主勢力を形成し、文久元年より慶応元年にかけて他派と確執・闘争を繰り返していた。勝蔵ら甲州博徒は富士川舟運の権益を巡り清水次郎長との対決傾向にあり、勝蔵は次郎長の勢力圏である駿河岩淵河岸や興津宿を襲撃する。文久3年には天竜川で次郎長と対陣している。その後、討幕運動に影響され一家を解散する。明治元年、赤報隊に加わり、名を池田勝馬と改め第一友軍隊配属となった。戊辰戦争時は四条隆謌に従い駿府、江戸を経て、仙台戦争に従軍する。明治3年、明治政府としては、黒駒勝蔵として行ってきた旧悪に鑑みて、功績に対し恩賞を求めてきた時の対処に困り、結局は黒駒勝蔵時代の悪事が露見したという理由で捕縛し、山梨県甲府市酒折近くの山崎処刑場で斬首された。


変名:小池勝蔵、池田勝馬
主な役職:黒駒一家組長
剣術:-
墓所:笛吹市御坂町金剛山浄龍寺


月性
げっしょう
(1817-1858)
僧侶

攘夷を叫んだ周防の海防僧
文化14年、周防国大島郡遠崎村に生まれる。15歳で漢詩文、仏教を学び、優れた詩人としての基礎を作る。また京阪、江戸、北越などに遊学し名士と交流する。萩では益田親施、福原元僴、浦元襄などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しくする。安政3年、西本願寺に招かれて上洛。梁川星厳、梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」の作者としても名高い。安政5年、42歳で病死した。


変名:実相、知円、清狂、烟渓、梧堂
主な役職:妙円寺住職
剣術:-
墓所:柳井市遠崎妙円寺


月照
げっしょう
(1813-1858)
僧侶

西郷と心中した尊皇攘夷派僧侶
文化10年、大坂の町医者の長男として生まれる。文政10年、京都の清水寺成就院に入門。天保6年、成就院の住職に就任。尊皇攘夷に傾倒し、京都の公家と関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したために、大老井伊直弼から危険人物と見なされる。安政5年から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷隆盛を頼り薩摩藩に逃れるが、薩摩藩は月照の保護を拒否する。月照は死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に入水。月照はこれで死去するが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。


変名:宗久、忍介、忍鎧、久丸
主な役職:清水寺成就院住職
剣術:-
墓所:京都市東山区清水寺、鹿児島市南林寺町南洲寺


さ行


斎藤 弥九郎
さいとう やくろう
(1798-1871)
剣客

長州や水戸の尊皇派志士が学んだ江戸三大道場の創始者
寛政10年、越中の農民斎藤新助の長男として生まれる。文化7年、油屋や薬屋の丁稚となったが、思うようにならず帰郷。文化12年、親から一分銀を渡されて江戸に出立。旗本能勢祐之丞の小者となって住み込みで働き、夜は書物を読んだ。感心した能勢の出資で、学問と武芸を学んだ。20代で神道無念流岡田道場撃剣館の師範代に昇進し、岡田の死後は、後継者岡田利貞を後見した。文政9年、29歳で独立して江戸九段坂下俎橋近くに練兵館を創立。鏡新明智流士学館、北辰一刀流玄武館と並んで後に幕末江戸三大道場と呼ばれるようになる。長州藩は神道無念流を高く評価し、藩士の多くを練兵館で学ばせた。文久3年には長州藩の依頼を受け、門人の中から十数名を選抜し、勇士組と称して長州へ派遣した。明治4年、死去。


変名:斎藤善道、斎藤篤信斎、齋藤彌九郎、齋藤篤信齋
主な役職:練兵館主宰
剣術:神道無念流剣術
墓所:東京都渋谷区福泉寺


相模屋 政五郎
さがみや まさごろう
(1807-1886)
侠客

江戸の治安を守った口入屋の大親分
文化4年、口入屋大和屋定右衛門の次男として生まれる。文政頃に同業者相模屋幸右衛門の養子となり、日本橋箔屋町で一家を構えた。弘化3年、土佐藩江戸屋敷の火消頭となる。安政2年の土佐藩邸火災で、火薬庫に引火するのを阻止。文久2年に行われた文久の改革の余波で、大名屋敷の規模縮小が行われ、雇われていた中間、小者が大量に解雇されたが、政五郎はそれらの連中を幕府陸軍に口入れしている。慶応3年、幕府より大量解雇された歩兵達が、吉原で暴れるなど大きな社会問題になっていた。そこで政五郎は、元公儀歩兵が江戸から旅に出る場合には草鞋銭を差上げると宣伝して、歩兵達を江戸から退去させた。慶応4年、鳥羽伏見の戦い後の歩兵の脱走騒動時も、事態の沈静化に協力している。明治3年、山内容堂から長年の労を労われ、山中の姓を賜る。明治19年、死去。


変名:大和屋政五郎、山中政次郎
主な役職:土佐藩江戸屋敷火消頭、相模屋親分
剣術:-
墓所:不明


相楽 総三
さがら そうぞう
(1839-1868)
志士

無実の罪を着せられた赤報隊隊長
天保10年、下総相馬郡の郷士小島兵馬の四男として生まれる。関東方面の各義勇軍に参加し、元治元年の天狗党の乱にも参戦。その後、西郷隆盛、大久保利通らと交流を持ち、慶応3年、江戸近辺の倒幕運動に加わった。慶応4年、戊辰戦争が勃発すると赤報隊を組織して東山道軍先鋒として活躍。新政府軍に年貢半減令の建白書を提出して認められたため、同令を掲げて京都から江戸を目指して進軍するが、新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は下諏訪宿で捕縛、処刑される。明治3年、下諏訪に相楽塚が建立され、長い間偽官軍の汚名を受けていたが、孫の木村亀太郎の努力により名誉が回復され、昭和3年に正五位が贈られ、翌昭和4年、靖国神社に合祀された。


変名:小島四郎左衛門将満、村上四郎、内田四郎、二荒次郎
主な役職:赤報隊隊長
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


島田 虎之助
しまだ とらのすけ
(1814-1852)
剣客
若くして病死した幕末の三剣士の一人
文化11年、中津藩士島田市郎右衛門の子として生まれる。藩の剣術師範堀十郎左衛門の道場に外也一刀流を学ぶ。16歳頃、九州一円を武者修行して名声をあげる。天保9年に江戸に出て、直心影流剣術の男谷信友の内弟子になる。剣技の上達はめざましく、一年あまりで師範免許を受け、男谷道場の師範代を勤める。その傍ら、鈴木清兵衛の道場にも通って起倒流柔術も習う。鈴木道場で勝海舟と相弟子となったことが縁となり、後に虎之助が道場を開くと、勝は虎之助に弟子入りする。天保14年、東北の武者修行の後、浅草新堀に道場を開く。道場では兄の島田小太郎が師範代となり、同時に男谷の教えを受けた。このころ、松平忠敬の出入り師範として20人扶持の俸禄を得ている。嘉永5年、39歳の若さで病没。浅草正定寺に葬られた。
変名:島田直親、島田?山
主な役職:-
剣術:外也一刀流剣術直心影流剣術起倒流柔術
墓所:東京都台東区正定寺


清水 次郎長
しみずの じろちょう
(1820-1993)
侠客

義理と人情の街道一の大親分
文政3年、船頭高木三右衛門の次男として生まれる。母方の叔父、米穀商甲田屋の主山本次郎八の養子となった。天保14年、喧嘩の果てに人を斬り甲田屋を出奔。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構える。その後、富士川舟運の権益を巡り甲州博徒と対立し、黒駒勝蔵と抗争を繰り広げる。慶応4年、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水より街道警固役を任命される。同年、旧幕府海軍副総裁榎本武揚の艦隊の咸臨丸が暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦により死亡した。その後、駿河湾に放置されていた遺体を小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないとして突っぱねたという。当時、静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は これを深く感謝し、これが機縁となり次郎長は明治において山岡・榎本と交際を持ったとされる。明治17年には「賭博犯処分規則」により逮捕され、懲罰7年過料金400円に処せられ、井宮監獄に服役する。関口隆吉やなどの尽力などにより、刑期の満了を待たずに仮釈放になった。明治26年、風邪により死去。

変名:山本長五郎
主な役職:清水一家組長
剣術:-
墓所:静岡市清水区梅蔭禅寺


白石 正一郎
しらいし しょういちろう
(1812-1980)
商人

晋作に惚れ抜いた下関の豪商
文化9年、下関の萬問屋小倉屋を営んでいた白石卯兵衛の長男として生まれる。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材、酒等を扱い、ほかに質屋も営んだ。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。鈴木重胤から国学を学び、重胤の門下生を通じ西郷隆盛が正一郎を訪ね親しくなり、文久元年には薩摩藩の御用達となった。月照、平野国臣、真木保臣らと親しかった経緯から尊皇攘夷の志に強い影響を受けて、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助した。土佐藩を脱藩した坂本龍馬等も一時、白石邸に身を寄せていた。文久3年、高杉晋作の奇兵隊結成を援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊、正一郎は奇兵隊の会計方を務め、士分に取り立てられた。しかし、あまりに援助しすぎたため、慶応元年末頃から資金が苦しくなったと言われている。明治維新後は、赤間神宮の2代目宮司となる。明治13年、69歳で死去。


変名:白石資風、白石駒吉、白石熊之助、白石橘円
主な役職:小倉屋店主、奇兵隊会計方
剣術:-
墓所:下関市赤間神宮、下関市吉田東行庵、下関市桜山神社


白真弓 肥太右衛門
しらまゆみ ひだえもん
(1829-1868)
力士

白川郷の怪力力士
文政12年、飛騨国大野郡白川郷の郡代東屋勇作の長男として生まれる。幼少より並外れて旺盛な食欲と大きな体格と怪力の持ち主であった。嘉永5年、江戸に出て浦風林右衛門の弟子になり、翌年の11月場所で初土俵を踏んだ。安政元年、ペリー艦隊に米を積むあたって何人かの力士と共に奉仕する。白真弓は一度に8俵を運んだといわれている。その後、関脇まで昇進するが、明治元年に現役のまま死去した。


変名:東屋勇吉、浦風林右衛門
主な役職:関脇
剣術:-
墓所:高山市総和町飛騨国分寺


新門 辰五郎
しんもん たつごろう
(1800-1975)
町火消・侠客

徳川慶喜を助けた「を組」の頭
寛政12年頃、江戸町人の子に生まれる。浅草十番組「を組」の頭町田仁右衛門と養子縁組し、文政7年に「を組」を継承。侠客の元締め的存在でもあった。上野大慈院別当覚王院義観の仲介で一橋慶喜と親交。娘の芳を慶喜の妾としている。元治元年、慶喜が禁裏御守衛総督に任じられ京都へ上洛すると、子分と共に上洛して二条城の警備などを行う。慶応4年の鳥羽伏見の戦いの後に、慶喜が大坂から江戸へ逃れた際には、大坂城に残されたままになっていた家康以来の金扇の大馬印を東海道を下って無事に江戸に運んだ。上野寛永寺、水戸、静岡と慶喜が移ると、それに同行し警護を務めている。清水の侠客である清水次郎長とも知縁であったと伝えられる。明治8年、死去。


変名:町田辰五郎
主な役職:浅草寺僧坊伝法院新門門番、浅草十番組を組頭領
剣術:-
墓所:東京都豊島区盛雲寺、東京都荒川区円通寺


た行


千葉 周作
ちば しゅうさく
(1793-1856)
剣客

多くの剣客を輩出した北辰一刀流玄武館の創始者
寛政5年、馬医者千葉成胤の長男として生まれる。中西派一刀流の浅利義信、一刀流中西道場の中西子正、寺田宗有などの指南を受けて腕を磨き、新たに北辰一刀流を創始した。文政5年、品川に道場(玄武館)を建て、剣術の一流を興した。玄武館の人気は絶大なものとなり、その剣技の特徴として「力の斎藤(練兵館)」、「位の桃井(士学館)」、「技の千葉(玄武館)」と言われ、この3道場は後に幕末江戸三大道場と称される。天保10年、水戸藩の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、天保12年には馬廻役として100石の扶持を受ける。弟の千葉定吉は京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称され、次男の栄次郎成之と三男の道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっている。


変名:千葉成政
主な役職:玄武館主宰、水戸藩剣術師範
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:東京都豊島区本妙寺


手塚 良仙
てづか りょうぜん
(1826-1877)
医師

蘭方医として幕末を生きた手塚治虫の祖父
文政9年、常陸府中藩蘭方医手塚光照の長男として生まれる。蘭方医学を父より学び、緒方洪庵の適塾にも入門した。安政5年、蘭方医の大槻俊斎や伊東玄朴ら82名と共同出資して、お玉が池種痘所設立。幕府歩兵屯所付医師に就任する。維新後は、大日本帝国陸軍軍医となり、西南戦争にも従軍した。従軍中、赤痢を発症。長崎陸軍病院で療養するが死去した。漫画家手塚治虫の曾祖父にあたり、治虫の漫画「陽だまりの樹」の主人公として描かれている。


変名:手塚良庵、手塚光享
主な役職:幕府歩兵屯所付医師大日本帝国陸軍軍医
剣術:-
墓所:東京都豊島区本妙寺


な行


二宮 尊徳
にのみや そんとく
(1787-1856)
農政家

600余の村を救った報徳主義の創唱者
天明7年、相模国足柄上郡栢山村の百姓利右衛門の長男として生まれる。
寛政3年、南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金次郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまう。その影響で田畑は砂礫と化し、利右衛門の田畑も流失した。両親を亡くした金次郎は伯父二宮万兵衛の家に身を寄せて農業に励むかたわら、荒地を復興させ生家の再興に成功する。生家の再興に成功すると地主経営を行いながら小田原藩にて武家奉公人としても働く。奉公先の小田原藩家老服部家で、その才を買われて服部家の財政建て直しを成功させて、小田原藩内で名前が知られるようになる。その後、下野国桜町領や、真岡代官領、日光山領の経営を行い、その手法は報徳仕法として他の範となった。安政3年下野国今市村の報徳役所にて死去。報徳仕法の手ほどきを受けた農村は600ヶ村に達していた。


変名:二宮金次郎
主な役職:小田原報徳社主宰
剣術:-
墓所:日光市今市報徳二宮神社、相馬市西山愛宕山


は行


古高 俊太郎
ふるたか しゅんたろう
(1829-1864)
商人

新選組に拷問を受け池田屋事件の発端を招いたとされる豪商
文政12年、大津代官所の手代古高周蔵の子として生まれる。父周蔵が山科毘沙門堂門跡に仕えたのに際し京都へ移住。文久元年、諸藩御用達枡屋を継ぎ枡屋喜右衛門を名乗る。古道具、馬具を扱いながら早くから宮部鼎蔵らと交流し、有栖川宮との間をつなぐなど長州間者の大元締として情報活動と武器調達にあたった。元治元年、枡屋に新選組が踏み込み捕縛される。武器弾薬を押収され、諸藩浪士との書簡や血判書が発見された。壬生屯所前川邸の蔵で局長近藤勇、副長土方歳三から直々に厳しい取調べを受け過酷な拷問の末、自白。その内容は八月十八日の政変後、京を追われた長州人らが、強風の日を選んで御所に火を放ち佐幕派公卿の中川宮を幽閉し京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうとするものだった。すでに計画実行の志士が多数上洛し潜伏しており、近々市中で同志の集会があることも判明。これを阻止したのが池田屋事件といわれている。ただし池田屋事件は古高の拷問を受けての発言以外の客観的な証拠が乏しく、捏造もしくは誇張の可能性がある。古高は六角獄舎に収容されたが、に禁門の変の際に生じた火災は京都市中を焼き尽くし獄舎近辺まで延焼。火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、他の囚人とともに斬首となった。


変名:枡屋喜右衛門、湯浅喜右衛門、古高正順
主な役職:升屋店主
剣術:-
墓所:京都霊山護国神社


浜崎 太平次
はまさき たへいじ
(1814-1863)
商人

密貿易で莫大な富を築いた指宿の豪商
文化11年、海運業を営む山木屋7代目濱崎太平次の長男として生まれる。幼少時より商才に優れ、父の死去により家を継ぐと、薩摩藩家老調所広郷の後援を得て、藩の財政再建政策の一端として密貿易を始める。琉球や支那、ジャワとの交易で莫大な利益をもたらし、幕末期の薩摩藩財政を支えた。文政10年には、指宿村二月田に湯殿を設けて藩主に献上。代々藩主の別荘として使用される。文久2年、藩が洋式銃の購入を検討すると2万両もの大金を献上。豪商としての影響力は皇室にまで及び、文久3年に大坂で客死する直前には、孝明天皇が従医を派遣している。


変名:-
主な役職:山木屋店主
剣術:-
墓所:指宿市十町湊児童公園


仏生寺 弥助
ぶっしょうじ やすけ
(1830-1863)
剣豪

練兵館の閻魔鬼神と恐れられた天才
越中国仏生寺村の百姓の子として生まれる。斉藤弥九郎の錬兵館の風呂焚きとして仕えていたが、仕事の合い間に道場を覗き見していたところを、練兵館の客分であった岡田十松利貞が見つけて剣術を教えるとすぐに上達。弱冠17歳で免許皆伝を得る。しかし、文武両道を謳う錬兵館にあって、学問はまったく上達しなかったため、天才的な剣の腕を持ちながら塾頭はおろか師範代にもなれなかった。高杉晋作も弥助と対戦しているが、まったく手も足も出なかったと話している。文久3年、長州の攘夷決行に錬兵館勇士組の一員として参加。その帰路の京都で、攘夷のために強引な金策を行ったため、長州藩の手によって殺害された。


変名:仏生寺虎正、吉村豊次郎
主な役職:-
剣術:神道無念流剣術
墓所:京都市左京区心光寺(埋葬地)


文吉
ぶんきち
(?-1862)
岡っ引き

岡田以蔵らに殺された岡っ引き
生年不明。目明し文吉、猿(ましら)の文吉とも呼ばれる。安政5年、九条家家士島田左近の指示に従って、志士の探索、捕縛に当たった。このことで尊攘派志士から恨みを買い、文久2年、岡田以蔵らに自宅から拉致され、くびり殺されて三条河原にさらされた。岡っ引きの他、高利貸しもしていたようである。


変名:-
主な役職:岡っ引
剣術:-
墓所:-


本間 精一郎
ほんま せいいちろう
(1834-1862)
志士

自らの行動が仇となって梟首された志士
天保5年、越後の商人本間辻右衛門の長男として生まれる。安政の始め頃には幕臣川路聖謨 に仕えていたが、安政の大獄を契機に志士となって活動を開始。しかし、自己の実績を過大に喧伝し、さらに酒色に溺れた生活に悪評が立っていた。そのため薩摩や土佐の志士から反感を買い、文久2年、島原遊廓からの帰途を薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵らに暗殺された。


変名:本間正高、本間至誠、不自欺斎
主な役職:-
剣術:-
墓所:不明


ま行


真木 和泉
まき いずみ
(1813-1864)
神官

天王山に散った久留米の神官
文化10年、久留米の水天宮の神職の家に生まれる。神職を継ぎ、国学や和歌などを学ぶ。水戸学に傾倒し、会沢正志斎の影響を強く受け、水戸学の継承者として位置づけられる。また、天保学と呼ばれる学派をつくる。久留米藩の藩政改革に与して失敗し、蟄居を命じられ、弟の大鳥居理兵衛の養子先である水田天満宮に寄寓する。その寓居山梔窩には筑前福岡藩士の平野国臣、清河八郎などが訪ねてきている。大久保利通らと、薩摩藩の最高権力者である島津久光を擁立しての上洛を計画し、文久2年に久光が上京すると京で活動する。寺田屋事件で幽閉され、その後は長州藩に接近する。会津藩と薩摩が結託して長州藩を追放した八月十八日の政変が起こると、7卿とともに長州へ逃れ、翌年に長州藩の同士とともに禁門の変を起こし破れたのち天王山で自害した。


変名:真木保臣、真木和泉守、紫灘
主な役職:久留米水天宮祠官
剣術:-
墓所:京都府乙訓郡大山崎町天王山


源 清麿
みなもと きよまろ
(1813-1855)
刀匠

波乱に富んだ人生を送った「四谷正宗」
文化10年、信州赤岩村の名主山浦家の次男として生まれる。兄とともに刀匠河村寿隆に刀工の技を学ぶ。武士を志し、軍学者窪田清音に師事するが、清音に刀工の腕を見込まれて道場で代稽古をする傍ら作刀に従事する。天保13年、長州藩で村田清風に招かれ、萩で2年間刀工に専念する。その後、江戸に戻り四谷北伊賀町に鍛冶場を作り定住した。作風は相州伝で刃文は互の目乱れや互の目丁子。平地に白髪筋と呼ばれる銀筋が現れるのが特徴である。嘉永7年、酒におぼれて刀を打つ事ができなくなったため、悲観して自害する。


変名:山浦正行、山浦秀寿、山浦環
主な役職:-
剣術:窪田派田宮流剣術
墓所:東京都新宿区宗福寺


三野村 利左衛門
みのむら りざえもん
(1821-1877)
商人

三井財閥の基礎を作った大番頭
文政4年、庄内藩士関口松三郎の次男として生まれる。父が同藩の木村家の養子となるが、文政10年に父は出奔。浪人となって父とともに諸国を流浪する。その後、天保10年に江戸に移り住んだ。干鰯問屋奉公を経て、小栗忠高の中間となる。弘化2年、紀ノ国屋の美野川利八の養子となって利八の名を継いだ。万延元年、旧知の小栗忠順から小判吹替の情報を事前に得て、天保小判を買占めて巨利を得る。慶応2年、三井家に幕府御用金50万両の減免交渉を頼まれ成功させる。その後、三井に勤めることとなり、三野村利左衛門と改名する。慶応4年、小栗忠順が失脚すると幕府の命運を察し、新政府への資金援助を開始するよう三井組に働きかける。小栗忠順が処刑されると、妻子のために深川に家を用意し手厚く保護。新政府が発足すると、長州閥の井上薫と手を組んで三井組に大きく貢献。明治6年、小野組と共に第一国立銀行を設立。明治7年、小野組の破綻に伴った三井組の危機で、三井組内部での権力を確立。三井の総指揮を任されることとなった。明治9年には、三井銀行を設立して、総長代理副長に就任。明治10年、死去。


変名:美野川利八
主な役職:通勤支配、三井御用所長、三井銀行総長代理副長
剣術:-
墓所:不明


桃井 春蔵
ももい しゅんぞう
(1825-1885)
剣客

品格随一といわれた鏡新明智流士学館の4代目
文政8年、沼津藩藩士田中豊秋の次男として生まれる。直心影流剣術を2年ほど学び、天保9年に江戸へ出て、鏡新明智流の道場士学館に入門。才能を師匠に見込まれ、その婿養子に取り立てられる。嘉永5年、27歳で士学館4代目桃井春蔵を継ぐ。文久2年、幕府から与力格二百俵に登用され幕臣となり、翌年には講武所剣術教授方出役に任じられる。慶応3年、遊撃隊頭取並に任じられ、将軍徳川慶喜の上洛に警護役として同行。大坂玉造臨時講武所剣術師範となる。しかし、大坂城での軍議で戊辰戦争の開戦に反対し、開戦派の幕府軍人と対立して幕府軍を離脱。幕府軍人に命を狙われることとなり、士学館の高弟数名とともに、南河内の幸雲院という寺に落ち延びる。その後、新政府からの要請で川崎東照宮境内に道場を建て、大坂の治安維持に当たる薩摩、長州、芸州の兵に撃剣を指導した。大阪府が設置されると、大坂与力と同心を中心に浪花隊を発足。浪花隊の軍監兼撃剣師範に就任したが、明治3年に浪花隊は解散した。晩年は神に仕える穏やかな生活を送ったが、刃物で襲いかかってきた強盗3人を大和川に投げ込んだり、狩猟中に誤って応神天皇陵に発砲した大阪府知事の胸ぐらをつかんで怒鳴りつけるなど、豪快な逸話も残している。明治17年、大阪府御用掛剣道指南方に任ぜられたが、明治18年、コレラを発症し死去。


変名:田中甚助、田中左右八郎、桃井直正
主な役職:志学館主宰、遊撃隊頭取並、浪花隊軍監兼撃剣師範、応神天皇陵陵掌
剣術:-
墓所:羽曳野市白鳥誉田西墓地




や行


安井 息軒
やすい そっけん
(1799-1876)
儒学者

二千名を上る逸材を輩出した三計塾主宰
寛政11年、飫肥藩士安井滄洲の次男として生まれる。学者であった父の影響を受けて学問を志し、篠崎小竹や古賀侗庵、松崎慊堂などに師事。天保9年、家族と共に江戸に移住し、私塾三計塾を開く。塾生には、桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、陸奥宗光、人見勝太郎、谷干城、雲井龍雄などがいる。塩谷宕陰、木下犀譚、芳野金陵らと親しく交流するとともに「文会」を主宰。「文会」には藤田東湖ら新進気鋭の学者らが次第に加わり、やがて時勢を論じ合う場にも変化する。明治元年、飫肥藩籍に戻り、飫肥藩江戸屋敷で塾生の教育に尽力する。明治9年、死去。


変名:安井順作、安井衡、安井仲平
主な役職:-
剣術:-
墓所:東京都文京区養源寺


山田 朝右衛門吉利
やまだ あさえもんよしとし
(1813-1884)
御様御用人

松蔭らを斬った7代目首斬り朝右衛門
文化10年、新見藩士後藤五左衛門の次男として生まれる。6代目山田朝右衛門吉昌の養女と結婚して7代目山田朝右衛門を襲名。刀の試し斬り以外にも刀剣鑑定に優れ、「遠山の金さん」のモデル遠山金四郎景元の刀も鑑定している。安政の大獄では、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らの斬首を行う。明治元年、新政府から市政裁判所附に任命じられ、翌年には山田家伝来の名刀「小竜景光」を宮内省に献上した。この刀は明治天皇の帯刀となり、戦後に東京国立博物館に移管され、国宝に指定された。明治2年に隠居し、山田朝右衛門の名を長男に継がせた。明治15年、新政府は斬首刑を廃止。山田浅右衛門家は首斬りの役目を終える。明治17年、死去。


変名:後藤五三郎、和水
主な役職:公儀御様御用、御三家御様御用、公儀腰物拝見役、市政裁判所附
剣術:山田流剣術(試刀術)
墓所:東京都新宿区勝興寺、東京都港区正源寺


山本 政五郎(大政)
やまもと まさごろう(おおまさ)
(1832-1881)
侠客

次郎長の一の子分とされた巨漢の侠客
天保3年、尾張国の廻船問屋原田某の長男生まれる。家を出奔して博徒となり、清水次郎長(山本長五郎)の清水一家に入った。同じく次郎長の子分である森の石松が、都田の吉兵衛に騙し討ちに合うと、次郎長と共に仇討を果たし、清水一家一の子分となる。荒神山の喧嘩、相撲場への殴り込みなど数々の抗争で活躍した。明治14年、死去。


変名:原田熊蔵
主な役職:-
剣術:-
墓所:静岡県有渡郡下清水村岡町 梅蔭禅寺


山本 政五郎(小政)
やまもと まさごろう(こまさ)
(1842-1874)
侠客

次郎長の子分として大政と並び証された小柄の侠客
天保12年、遠江国の魚屋吉川由蔵の次男として生まれる。清水次郎長(山本長五郎)の養子となり、居合術を持って侠客として名を馳せる。慶応元年に清水港で障害事件を起こし、6年間の逃亡生活を経て清水に戻る。明治6年に賭博容疑で逮捕され、翌年に獄中死した。


変名:吉川冬吉、山本音五郎
主な役職:-
剣術:-
墓所:静岡県有渡郡下清水村岡町 梅蔭禅寺

ら行


頼 三樹三郎
らい みきざぶろう
(1825-1859)
儒学者

安政の大獄で斬首された儒学者
文政8年、儒学者頼山陽の三男として生まれる。父や後藤松陰や篠崎小竹らに儒学を学ぶ。天保14年には、江戸に出て儒学を学んだ。その後、東北や蝦夷を遊歴し、探検家の松浦武四郎と親友になっている。嘉永2年に京都に戻り、尊王攘夷活動に邁進する。将軍後継者問題では、尊王攘夷推進と一橋慶喜擁立を求めて朝廷に働きかけたため、梅田雲浜、梁川星巌、池内大学らと共に危険人物の一人と見なされ、安政の大獄によって捕らえられ斬首された。


変名:頼醇、頼三木八
主な役職:-
剣術:-
墓所:京都市東山区長楽寺、東京都世田谷区松陰神社


冷泉 為恭
れいせん ためちか
(1823-1864)
絵師

勤王派に惨殺された大和絵の大家
文政6年、絵師狩野永泰の第三子として生まれる。京狩野に連なる絵師の家に生まれながら、大和絵復興を志し、特定の絵師に師事せず、国学者や有職学者を訪ねて有職故実を学ぶ。嘉永3年には蔵人所衆である岡田家の養嗣子となり、蔵人所衆の役に就く。嘉永6年、仏書にも通じていた為恭は、天台僧大行満願海が著した『勧発菩提心文』の挿絵を描いたことが切掛で願海と深く交流。彼の依頼で多くの仏画を描く事になる。安政2年、三条実万の斡旋により御所へ出仕し小御所北廂襖絵を描き、翌年には関白九条尚忠の直廬預となる。この頃、社会的な身分の上昇と並行して画技も成熟し、大樹寺の障壁画を始めとして多くの作品を残している。黒船来航により尊王論が巻き起こると、佐幕派の要人宅に出入りするなど、その行動に勤王派から危険視されていた。こうした日和見的・軽率な態度が、勤王の志士たちから「倒幕派の情報を漏らしているのではないか?」という疑心暗鬼を抱かせる事となる。文久2年、過激な尊攘派から命を狙われ、逃亡生活が始まる。為恭は願海のいる紀伊国粉河寺に逃れ9ヶ月潜伏。元治元年、丹波郊外の鍵屋の辻で、長州藩の大楽源太郎らによって捕縛、殺害された。


変名:狩野晋三、冷泉永恭、岡田為恭、心蓮
主な役職:蔵人所衆、直廬預
剣術:-
墓所:天理市勾田町善福寺


わ行



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