-晋作の愛した下関-

下関駅周辺

高杉晋作像/晋作が愛した下関(彦島/下関駅周辺/唐戸/長府/吉田/その他)/晋作が生まれ育った萩/新しい政治拠点山口/その他
現在は大規模な埋め立てが行われて、彦島と”ほぼ”陸続きになっていますが、竹崎から彦島側はすべて海でした。江戸時代ここは赤間関(馬関)と呼ばれ、商業・漁業の中心地でした。交通の要衝として北前船が寄港し、大変な賑わいを見せました。勤皇の志士達のスポンサーとして有名な、白石正一郎の小倉屋は竹崎にありました。西国交通の要衝であったこの地は、江戸・大坂に並ぶ商業都市として栄え、清末藩や長府藩、そして宗家の長州藩がその利権をめぐって対抗していました。下関戦争の講和条約において、諸外国が下関の開港を要求したことも、この地の重要性を表しています。



下関駅西側
※地図は「Yafoo!Japan地図」をPrtScして作成しています。
当時の海岸線(管理人が推定したもの)を薄青にて表示しています。


白石正一郎旧宅跡
清末藩の御用商小倉屋の白石正一郎は、多くの志士達と交流し、志士達が下関を訪れる際には、白石邸に世話になることが多かったようです。西郷隆盛や坂本龍馬らも白石邸を訪れていました。そんな白石正一郎が、とことん惚れた人物が高杉晋作で、親子ほどの年齢の差があるこの若い青年に、小倉屋の屋台骨が傾くほどの援助を惜しみなく続けました。石碑が建っているあたりに、浜門(海に面した門)があったようです。
場所:下関市竹崎町3丁目8-13 中国電力下関営業所前
ブログ記事→白石正一郎旧宅跡・高杉晋作奇兵隊結成之地

關屋松兵衛旧宅跡
嘉永2年、長州藩は吉田松陰や砲術家道家龍左衛門らに「異賊御手当御内用掛」として北浦海岸防備の巡検を命じます。同年6月27日に萩を船で発した一行は、北前船の寄港地である須佐浦の巡検から取り掛かりました。7月15日から赤間関(下関)の巡検が始まり、一行の宿として伊崎の付船業(水先案内役)關谷松兵衛宅に7月20日まで滞在しています。松兵衛宅の大きな杉風呂や豪華な夕飯に、19歳の松陰は赤間関商人の意気込みと生活観に驚いたと日記に記されています。
場所:下関市伊崎町5近辺

ブログ記事→關屋松兵衛旧宅

ひょうたん井戸
高杉晋作が長府藩の刺客達から追われた際に、丸一日身を隠したと伝えられている井戸です。なぜ「ひょうたん井戸」と呼ばれているかは謎ですが、周辺の「とっくり小路」という名前に関連がありそうです。井戸の中で丸一日身を隠したので風邪をこじらせ、労咳に結びついたともいわれています。
場所:下関市伊崎町8丁目周辺
ブログ記事→ひょうたん井戸

伊崎厳島神社・鈴ヶ森稲荷神社
壇ノ浦の戦いで敗れた平家の残した厳島大明神の御神体を奉っています。關谷松兵衛宅に滞在していた吉田松陰は、ここに参拝して小瀬戸を展望。裏手の日和山に登って、身投げ岩や金毘羅山を視察しました。
場所:山口県下関市伊崎町1丁目7-23

ブログ記事→伊崎厳島神社・鈴ヶ森稲荷神社

高杉晋作終焉之地
高杉晋作は、桜山の麓の家屋に東行庵(現在の高杉東行療養之地)と名付けて療養していましたが、新地の庄屋林算九郎邸の離れ家に移りました。理由はそこが寒々しい場所だったからだとも、賑やかな新地界隈が恋しくなったともいわれます。ここでうのや望東尼、雅などに看病され、27歳の早すぎる死を迎えました。
場所:下関市新地町3番 妙蓮寺前
ブログ記事→高杉東行終焉之地
東行百四十七回忌

妙蓮寺
高杉晋作終焉之地の向かい側にある浄土真宗本願寺派の寺院。長州藩が砲術教授として招いていた長崎の砲術家中島名左衛門は、下関の防備や長州兵の訓練不足を指摘します。それに腹を立てた過激攘夷派志士らは、中島を暗殺してしまいます。その中島名左衛門の墓がこの妙蓮寺にあります。その後の外国艦隊の報復により、長州軍は惨敗。中島の指摘は正しかったようです。
場所:下関市新地町2-6
ブログ記事→妙蓮寺 中島名左衛門の墓

萩藩新地会所
新地・今浦周辺は長州(萩)藩の直轄地で、写真の場所に新地会所(今でいう営業所)がありました。当時は58坪の広い敷地だったそうです。功山寺にて挙兵した高杉晋作は、まずはこの新地会所を襲い軍資金や食料を手に入れる予定でしたが、十分な軍資金や食料は手に入らなかったそうです。
場所:下関市上新地町1丁目 厳島神社下
ブログ記事→
萩藩新地会所~高杉東行療養之地

厳島神社
高杉晋作は、小倉戦争に挑むに当たり、本神社において戦勝祈願を行いました。この神社のやぐらに吊るされているのは、釣鐘ではなく大太鼓です。この大太鼓は小倉城落城の際、余燼の中から戦利品として持ち帰り、戦勝祈願を行った嚴島神社に奉納したものです。
場所:下関市上新地町1丁目1-11
ブログ記事→長門国 厳島神社

高杉東行療養之地
労咳を患った高杉晋作は、自分の刀を売って桜山の麓の竹藪のそばの家屋で療養することにしました。その家屋を東行庵と名付けます。ここで詩文や俳句をつくって過ごしました。石碑には高杉晋作が詠んだ七言絶句が刻まれています。
場所:下関市桜山町3街区

ブログ記事→萩藩新地会所~高杉東行療養之地

桜山神社(桜山招魂場)
元治元年、攘夷戦において戦死した奇兵隊士の霊を弔うため、高杉晋作の発案によって建立されました。明治維新に散った志士たち391柱の霊標があり、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄端等の指導者から、一隊士に至るまで等しく祀られています。ここは、靖国神社や全国の護国神社の始まりといわれています。招魂場には桜が植えられ、それ以降は桜山と呼ばれるようになりました。
場所:下関市上新地町2丁目6−22
ブログ記事→桜と桜山神社桜山神社 招魂場

了圓寺
新地会所を襲った高杉晋作ら反乱軍は、この寺をしばらくの本営としました。襲撃した新地会所ではなく、高台にあるこの寺を本営としたのは防備の為であったと推測できます。本堂の柱には隊士の付けた刀傷が残っています。
場所:下関市大平町10−20

報済園
化粧品問屋藤津良蔵が、明治元年に病弱だった一人娘のために作った別荘だった場所で、現在は廃墟となっていますが「高杉先生七卿ト国事ヲ議セシ地」の石碑が残っています。※廃墟ですのであまりお勧めできません。
場所:下関市伊崎町2丁目11
ブログ記事→小門の報済園



駅東口
※地図は「Yafoo!Japan地図」をPrtScして作成しています。
当時の海岸線(管理人が推定したもの)を薄青にて表示しています。


大歳神社
源平合戦において、源義経この地に富士の小松を植えて戦勝祈願を行い、その様子を見た漁民が神祠を祀ったことが大歳神社の由来です。以来、武運長久の神として親しまれました。高杉晋作は奇兵隊旗揚げの際に、この大歳神社に軍旗を奉納します。また、白石正一郎は攘夷成就を祈請して大鳥居を奉納しています。現在も鳥居の裏側に白石正一郎の名が刻まれています。境内には、七卿潜寓之画碑も建立されています。
場所:
下関市竹崎町1丁目13-10
ブログ記事→大歳神社

東光寺
「東光寺のお薬師さんは特に目に効く」といわれています。また、市内の水産関係者や飲食店、旅館経営者らにより包丁供養会が行われています。新地の萩藩会所を襲った高杉晋作らは、はじめ了円寺に集結していたが、次第に手狭になりこの東光寺に移りそこを本陣としました。高杉晋作や伊藤俊輔もここで寝泊りしています。維新後、伊藤は帰郷のたびに当時の東光寺住職と碁を打ったそうです。
場所:下関市豊前田町1丁目1-23

つかずの灯篭・高杉晋作陶像
昭和11年に高杉晋作の銅像が建立されましたが、先の大戦の金属供出で失われました。戦争が終わって、再び戦争が起きても金属供出されないようにと、備前焼で再建されました。つかずの灯篭は、銅像建立の際に桜山神社から移設されたもので、この灯篭は長府報告隊が運ぶ時に、料亭の主人を殺してしまい、その主人の呪いで火がつかないという逸話があります。
場所:下関市豊前田町2丁目
ブログ記事→つかずの灯篭日和山公園

光明寺
光明寺本堂は戦災を免れ幕末当時の姿を現在に伝える貴重な建物です。久坂玄瑞や入江九一らが、中山忠光を盟主として有志隊を結成しました。彼らはこの光明寺を本営としたことで、光明寺党と呼ばれました。彼らは下関攘夷戦の中核となり外国商船を攻撃しました。本堂の柱には、血気盛んな志士に付けられた刀痕が残っています。
場所:下関市豊前田町1丁目1-23


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