-晋作の愛した下関-

彦島

高杉晋作像/晋作が愛した下関(彦島/下関駅周辺/唐戸/長府/吉田/その他)/晋作が生まれ育った萩/新しい政治拠点山口/その他
日本有数の人口の多い島で、小学校5校と中学校2校、中等教育学校1校があり、造船業や水産加工業の工場も多く見られる下関市や
北九州市のベッドタウンの一つです。
島とはいえ3つの橋で繋がり、始めて来られた方は「いつ彦島に入ったの?」と思われる方もいるそうです。
高杉晋作が下関戦争の講和条約において救った彦島ですが、残念ながら観光・史跡の類はほとんど無く、観光客はほぼ来ません。
ふぐで有名な南風泊漁港がありますが、最近では、観光でふぐといえは唐戸ですまして南風泊漁港まではあまりこないようです。
彦島地区には有名な巌流島も含まれますが、観光渡船は唐戸から出ています。
高杉晋作の師である吉田松陰が20歳の頃、海防視察に彦島に訪れたことが、「廻浦紀略」に記されます。



彦島
※地図は「Yafoo!Japan地図」をPrtScして作成しています。
当時の海岸線(管理人が推定したもの)を薄青にて表示しています。


金ノ弦岬灯台
灯台の父ブラントン設計の礁標(浅瀬等を示す標識)として、明治4年に海峡の別の場所(詳細は不明)に建設されたものです。西洋式礁標としては国内初のものです。大正9年にこの場所に移設され、灯台として利用されました。平成12年に廃灯となり、市の重文として保存されています。
場所:下関市彦島田の首町2丁目

弟子待砲台跡
弟子待という変わった町名の由来は諸説ありますが、一般には巌流島の決戦の際、佐々木小次郎の弟子が待った事に由来するとも云われます。ここに攘夷戦に備えて台場が造られました。小倉戦争の際には、幕府艦隊や対岸の大里に砲撃して、長州軍勝利に大きく貢献しました。現在も台場の一部が、崩れながらも残っています。
場所:下関市彦島弟子待町
ブログ記事→弟子待砲台跡

福浦金比羅本宮
福浦湾は小倉や北前船との交易で栄え、長府藩は航海安全を祈願し、湾の入り口の兜山に灯台や金比羅宮を建立。入港する船から初穂料を徴収し、神社維持や貧民救済に活用した為、福浦はさらに発展を続けました。吉田松陰も海防視察の際に訪れ、金比羅宮の石段を登り参拝した記録が残ります。
場所:下関市彦島福浦町
ブログ記事→福浦金比羅本宮

巌流島
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の場所として、全国的に知られる小さな島です。彦島地区の一部に含まれ、正式名称は舟島と言います。吉田松陰も視察でこの島を訪れています。また、下関滞在中の坂本龍馬は、お龍と共にこの島に渡り、花火を楽しんだという記述が残っています。
場所:下関市大字彦島字船島

ブログ記事→巌流島

竹の子島
松陰が海防視察で訪れた記録があり、小さな島ながら松陰の記録では、人家が23戸・石高が六石五斗となっています。松陰は、壱之台、弐之台、六之台を視察したとされていますので、最低でも6箇所の台場があったと推測されます。現在はその形跡は全くありませんが、漁村の風情が今も感じられる島です。
場所:下関市彦島竹の子島町
ブログ記事→竹の子島

南風泊
西山海岸から竹ノ子島まで続くこの穏やかな湾は、南風泊といいます。この名の由来は、江戸時代に活躍した北前船が、関門海峡を抜ける時、逆風の南風を避けるためにこの湾に停泊し、南風がおさまるのを待った事からそう呼ばれています。現在も六連島東錨泊地として大きな船が何隻も停泊しているのが望めます。
場所:下関市彦島西山町

ブログ記事→彦島について 2

小門(小瀬戸)
関門海峡を大門(大瀬戸)とし、彦島と下関の海峡は小門(小瀬戸)と呼ばれました。北前船のような帆船は通れませんが、彦島を迂回せずにすむ近道として、櫂で漕ぐような小舟は、こちらを通る事が多かったようです。江戸時代後半頃には、この小さな海峡に小舟を出して舟遊びをするのが風流であると人気になり、下関に来た幕末の志士達もここで舟遊びを楽しんでいます。
場所:下関市彦島海士郷町





幕末維新と関係はありませんが、観光できる場所として南風泊湾が一望できるナイスビューパークや、
世界一小さいスエズ式運河としてギネス登録された下関漁港の水門。平家の本陣だった為、
平家の史跡などがあります。地元民は彦島を親しみをこめて、
ヒコットランドやヒコットと呼ぶことがあります。


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