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【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊地町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関〜唐戸)/彦島

-晋作の愛した下関-

豊北町・豊浦町 / 豊田町・菊川町 / 吉母・吉見・福江 / 内日・井田・田倉 / 吉田・清末
安岡・綾羅木・延行 / 長府 / 市街(下関〜唐戸) / 彦島

豊北町・豊浦町
 平成の大合併によって下関に編入された豊北町や豊浦町は、響灘に面した自然豊かな場所です。
 海岸線は美しい白砂であり、夏には高速道路も開通していないながら、他県から多くの海水浴客がやって来ますし、角島の灯台や大橋は人気の観光スポット。江戸時代は豊北町の一部を除いてほぼ長府藩の領地となっており、各地の寺社などに藩政時代の名残を残しています。古来より近海漁が盛んで多くの漁村が点在。また難読地名で有名な特牛(こっとい)は、ブランド剣先イカ「特牛イカ」の水揚げ港となっています。
 吉田松陰の「廻浦紀略」には、松陰が萩から下関まで沿岸の防備を巡視した様子が記されており、また天誅組の変に敗れて長州に逃れた中山忠光が、長府藩に匿われて豊北各地に潜伏しており、その潜伏先の一部が現存します。その忠光が殺されたのが田耕で、現在は本宮中山神社が建立されており、若くして殺された公卿の無念を慰めています。

豊北町阿川

松陰先生登臨之碑
-松陰が北浦巡視で訪れた地-
吉田松陰は嘉永3年に北浦海岸の巡視を行っており、その際に本浦の東西の台場と今浦台場を、日和山に登って遠見したようです。この碑は松陰没後70年祭を記念して、地元有志によって建てられた石碑で、揮毫は玄洋社の総帥でもあった頭山満によるもの。
場所:下関市豊北町大字阿川(日和山の山頂部)
ブログ記事→下関市豊北町阿川 松陰先生登臨之碑


阿川毛利家関連史跡
-一門家阿川毛利家の本拠地-
阿川毛利家は、吉川元春の次男毛利元氏を祖とし、長門国豊浦郡阿川周辺を支配して阿川毛利家と呼ばれました。阿川は他藩国境に最も遠く、交通の便も良くない辺境の地でありながら、阿川毛利家は多くの家臣を抱えていました。このことから長州藩の密貿易拠点という説も。現在は屋敷跡碑や郷校跡碑の他、阿川毛利家墓所などがあります。
場所:下関市豊北町大字阿川(阿川湾南側の山麓)
ブログ記事→下関市豊北町阿川 阿川毛利家墓所

豊北町神田

附野薬師と俵石
-松陰が訪れた日本三大薬師-
松陰は北浦巡視の際にここを訪れ、珍しい俵石を見学しています。
場所:下関市豊北町大字神田3030 附野薬師東山寺
ブログ記事→
下関市豊北町神田 附野薬師と俵石


肥中港
-最新兵器を水揚げした港-
第二次長州征伐に備え、最新鋭の兵器がこの港で水揚げされています。その受取りの際に千両箱が運び込まれた庄屋の屋敷が現存しており、千両箱が積まれて床が抜け落ちてしまったという逸話も残されています。
場所:下関市大字神田
ブログ記事→
下関市豊北町神田 肥中港


神功皇后神社
-蒙古軍の使用した鉾のある神社-
三韓征伐を果たした神功皇后を祀る神社で、幕末に出土した蒙古軍の鉾があり、吉田松陰は訪問時にその鉾を見学しています。
場所:山口県下関市豊北町大字神田上1700番地
ブログ記事→
下関市豊北町神田 神功皇后神社


鬼の松跡
-かつて巨大な松が立っていた場所-
元寇の際に討ち取った蒙古兵を埋めた場所に、塚印として3本の松が植えられ、そのうち2本は枯れましたが、残った1本は「鬼の松」と呼ばれる巨木となって明治期まで立っていたという。吉田松陰は北浦巡視の際、この巨木を見ておりその事が「廻浦記略」に記載されています。この松は日清戦争の際に自ら火を発し、消失してしまったとされています。
場所:下関市豊北町大字上神田(忠魂碑の丘)
ブログ記事→
下関市豊北町神田 土井ヶ浜の鬼の松

豊北町滝部


松陰母堂生家村田家跡
-松陰の母滝子の実家跡-
松陰の母滝子の実家である村田家は、阿川毛利家の家臣でした。杉家に嫁ぐ際は大組士児玉太兵衛の養女となっています。陪臣とはいえ直参の杉家より裕福であったようで、松陰の生まれた松本村の山荘は、村田家から杉家に贈られたものでした。また、滝子の兄竹院は、鎌倉の瑞泉寺や円覚寺の住職となった後、京都の南禅寺の住職となり、孝明天皇より紫衣を下賜されています。
場所:山口県下関市豊北町大字滝部 村田記念公園
ブログ記事→下関市豊北町滝部 松陰母堂生家村田家跡


滝部八幡宮
-烈婦登波の碑がある神社-
滝部の氏神として、領主の阿川毛利家の庇護を受けていた神社で、家族を殺された被差別民の登波が、15年探し続けた仇を見事討った事を顕彰した碑があります。碑文は周布政之助に依頼されて吉田松陰が書いています。
場所:下関市豊北町大字滝部 滝部八幡宮
ブログ記事→
下関市豊北町滝部 滝部八幡宮

豊北町田耕

本宮中山神社
-中山忠光の殉難地-
長府藩に匿われて北浦を転々としていた中山忠光は、政情の変化によって庇護されるはずの長府藩の手によって殺されました。貴人には刃物は使用できない事から、暗殺者はここで忠光を絞め殺しました。その殺害現場には、忠光の霊を慰めるために社が建てられています。
場所:下関市豊北町大字田耕 本宮中山神社
ブログ記事→下関市豊北町田耕 本宮中山神社


夜討峠
-中山忠光の遺骸一時を埋めた場所-
殺された中山忠光は、一旦この場所に埋められますが、すぐに掘り返され下関に運ばれました。忠光がまとっていた血染めの衣類は、その際にここに埋められています。
場所:下関市豊北町大字田耕
ブログ記事→
下関市豊北町田耕 夜討峠
豊北町上宇賀

常光庵
-中山忠光が潜伏した寺-
中山忠光が大専寺より潜伏地としてあてがわれた僧侶の宿泊施設で、忠光はここを潜伏地としましたが、下関で攘夷戦が行われたと聞いた忠光は、百姓の馬を盗んでここを抜け出します。しかし黒井村で従者に止められてしまい、説得されて戻ってきました。従者達は忠光を隠すにはもっと山奥でないと不可能だと悟り、さらに奥の田耕へ向かいました。
場所:下関市豊北町大字北宇賀268
ブログ記事→下関市豊浦町北宇賀上畑 常光庵

豊浦町宇賀

大専寺
-中山忠光が逃避行の際に立ち寄った寺-
中山忠光は逃避行の際、宇賀本郷の大専寺に立ち寄っています。しかし見晴らしの良い景観のこの寺は潜伏地には適さないと、大専寺の別寮である常光庵に向かいました。
場所:下関市豊浦町大字宇賀本郷
ブログ記事→
下関市豊浦町宇賀本郷 大専寺

豊浦町川棚

川棚温泉
-長府藩主の奥座敷-
長府藩領唯一の温泉地であり、藩主が湯治に訪れている他、庶民にも親しまれていたという。幕末期には「一の湯」と「無田の湯」の2ヶ所の温泉があったそうです。
場所:下関市豊浦町大字川棚


三恵寺
-中山忠光が潜伏した寺-
中山忠光の潜伏地のひとつで、平安時代創建の古い寺を、川棚温泉の発見者とされる怡雲和尚が再建した寺。川棚温泉開基の寺として地元民に信仰されていました。
忠光はこの寺の観音堂の中二階に潜伏していたようです。
場所:下関市豊浦町大字川棚5000
ブログ記事→下関市豊浦町川棚 三恵寺

豊浦町室津

泊ヶ鼻台場
-松陰が巡視した台場跡-
外国船打ち払いの為に長州藩が設置した台場。吉田松陰は北浦巡視の際に、この台場を船から検分しています。
場所:下関市豊浦町大字室津下
ブログ記事→
泊ヶ鼻台場


観音院
-中山忠光が潜伏した寺-
中山忠光の潜伏地のひとつ。忠光は元治元年8月下旬にここに潜伏していました。
場所:下関市豊浦町大字室津上305
ブログ記事→下関市豊浦町室津 観音院


幕末維新と関係はありませんが、自動車のCMなどで有名な角島大橋や、
境内より響灘の絶景が望める福徳稲荷神社などもあります。


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