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下関は江戸時代を通じ、陸路では山陽道、山陰道の終着点であり、九州⇔本州の連絡口でした。また、北前船の停泊地でもあり、海路でも重要な位置をしめていました。瀬戸内海と日本海両方に面する唯一の市であり、その為に市全域に史跡が点在します。ここではそんな下関に点在する幕末・明治に関する史跡をご紹介します。




中山神社
文久3年、天誅組の変に敗れた中山忠光は、長州に逃れました。長州藩は支藩である長府藩に忠光を預けて保護します。しかし、禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐などの一連の事件によって藩内で俗論派が台頭すると、刺客の手に掛かり暗殺されます。はじめは暗殺の地である豊北町田耕に埋葬されていましたが、幕府方に死体を渡す為に、俗論派がひそかに掘り返して運びましたが、夜が明けたため人目に付くことから当地に埋葬されました。その後、長府藩は中山忠光の霊を慰めるため、この地に社殿を建てました。
場所:下関市綾羅木本町7-10-18

勝山御殿跡
下関攘夷戦に際し、長府陣屋は海に面し砲撃を受ける恐れがあったため、藩邸を内陸部に移した。わずか一年弱の突貫工事ながら勝山と四王司山の南麓に位置する谷間に築かれた戦闘要塞としての機能をもつ城郭でした。明治6年に解体されたが、現在は勝山地区公園として整備され、曲輪と石垣を生かした公園となっています。
場所:下関市田倉

本宮中山神社
中山忠光の暗殺された地に、没後100周年を機に建てられた神社です。境内には中山忠光卿辞世の碑が建てられています。本宮を少し山道に入ると中山忠光の最後の潜居地である四恩寺の跡もあります。
場所:下関市大字吉田

滝部八幡宮
文政4年、先大津宰判滝部村で、父、姉、弟の三人を、姉の前夫枯木竜之進に殺害されたことから、登波は12年間にわたって仇を追い求めて全国各地を旅し、その所在をつきとめて代官所へあだ討ちを願い出ました。結果的には藩が処刑した形式がとられましたが、登波の志を称えて、当時先大津宰判代官であった周布政之助は、登波の表彰文を吉田松陰に依頼しました。この表彰文が、滝部八幡宮の境内に建碑されています。
場所:下関市豊北町大字滝部3158

川棚温泉
800年前より発見された温泉場で、長府藩御殿湯として古くから利用されていました。名物である「瓦そば」は、西南戦争の際に熊本城を囲む薩摩軍の兵士たちが、野戦の合間に瓦を使って野草、肉などを焼いて食べたという話に参考にして、昭和36年に高瀬慎一が考案したとされています。現在、国土交通省より「毛利侯御殿湯街道」に認定されています。
場所:下関市大字吉田1062-1

清末藩邸跡
清末藩は、長州藩の支藩長府藩の支藩で、長州藩からすれば孫のような藩であるという極めて珍しい藩です。現在の清末や小月と、菊川町の大部分を領地とし、下関市街にも領地を持っていました。勤皇商人として有名な白石正一郎は、清末藩の御用商人でした。藩邸跡の碑の周辺には、陣屋の池や、家老の内藤家の表門など、清末藩の名残を残す史跡も多く見られます。
下関市清末陣屋5−10

壇ノ浦砲台跡
源平最後の合戦である壇ノ浦の戦いの地として知られている壇ノ浦は、幕末には砲台が建設され、下関攘夷戦や下関戦争の主戦場になっていた場所でもあります。現在は、源義経と平知盛の銅像と共に、長州砲のレプリカが海峡に向けて設置されています。
下関市みもすそ川町1番

前田砲台跡
長州藩が攘夷戦のために関門海峡に築いた砲台場の一つで、奇兵隊がここを担当しました。現在は、国道9号線沿いの高台に砲台跡が残っていて、土地所有者の好意により見学が可能です。「非西洋世界における近代化の先駆け」の構成資産の1つとして、世界遺産暫定一覧表に記載されています。
下関市前田1丁目

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