-晋作の愛した下関-  吉田

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現在の下関市域の大半は長府藩および清末藩の所領であったため、吉田は長州藩領の最西端の拠点でした。長州藩により吉田宰判が置かれ、山陽道の宿場町としても栄えました。後に、奇兵隊の駐屯地となったため、奇兵隊に関係する史跡が存在するほか、高杉晋作の墓所としても選ばれています。愛人であったうのは晋作の死後、谷梅処と名乗り一生を晋作の墓守として過ごします。現在では東行庵として梅、桜、藤、菖蒲、紅葉、楓、椿など四季折々の花々が咲き乱れ、晋作の墓所という聖地を彩っています。幕末ファン、晋作ファンならずともその美しさに心奪われます。




吉田

※地図は「Yafoo!Japan地図」をPrtScして作成しています。
当時の海岸線(管理人が推定したもの)を薄青にて表示しています。

常関寺
境内にある釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩と、十六羅漢の像が、地元の民に親しまれてきた常関寺は、小倉戦争において野戦病院に指定されました。藩医李家文厚がここを指揮し、手術などの治療を行いました。境内には、治療の甲斐なく亡くなった奇兵隊士6名の墓標があります。
場所:下関市大字吉田1062-1

笹尾道場跡
笹尾道場は文政年間に笹尾羽三郎と笹尾万次郎の兄弟が開いた道場。来嶋又兵衛や笹尾卯三郎らが大石神影流を習得しました。笹尾家は山内氏が吉田を支配していた頃からの名門で、大庄屋と代官を兼ねていました。千葉周作もここで試合をしたという記録があります。
場所:下関市大字吉田地方

法専寺
慶応3年に吉田を本営とした奇兵隊は、吉田全域を要塞化するため、吉田南部にあるこの寺に兵を駐屯させていました。境内には六体の地蔵が置かれていましたが、新政府設立に始まる廃仏思想もあってか、血気盛んな奇兵隊士たちによって首を切り落とされてしまいました。現在は首をつながれていますが、セメントのようなもので補修されたその姿は痛々しいかぎりです。境内には奇兵隊士の墓もあります。
場所:下関市吉田五区埴生
ブログ記事→法専寺 首斬り六地蔵

東行庵
慶応3年4月に高杉晋作が死去し、遺言によりこの地に葬られました。奇兵隊陣屋のあったこの吉田清水山の麓には、軍監山縣有朋の草庵「無鄰菴」が建てられていましたが、晋作に仕えていたうのに贈られて「東行庵」と名づけられました。うのは出家して谷梅処と名乗り、死ぬまでここを守り続けました。以後3代女性庵主がここを守ってきました。そのためがこの東行庵は四季折々の花の咲き乱れる美しい場所となっています。
場所:下関市大字吉田1184

吉田宰判勘場跡・御茶屋跡
吉田は長州藩領の最西端の宰判勘場として、吉田、厚狭、末益、松屋、津布田、宇津井、山野井、今浦、伊衛、山中、於福、河原、大嶺を統治区域としていました。建物や土塀が当時の名残をとどめています。御茶屋は勘場に隣接しており、公儀の役人や参勤交代途中の諸大名の宿泊所となっていました。奇兵隊は双方共に駐屯地として利用していました。
場所:下関市大字吉田

長慶寺
奇兵隊の駐屯地のひとつ。足利幕府の将軍を追放するなど近畿の覇者として、天下人であった三好長慶の子信之が西下して出家。廃寺であった香積寺を長慶寺として再興した寺。この寺の僧侶玉雲が、禁門の変に参加して戦死した記録があります。奇兵隊の吉田転陣に際して屯所となり、第一銃隊・第二銃隊が駐屯しました。
場所:下関市大字吉田1023

末富家
吉田の庄屋であった末富家の邸宅。奇兵隊が吉田に転陣すると、陣屋が完成するまでの本陣となりました。山縣も一時ここに下宿していました。高杉晋作の葬儀もここで執り行われています。
場所:下関市大字吉田1023

松林寺
奇兵隊屯所のひとつ。鳥尾小弥太率いる奇兵隊少年隊がここに駐屯しました。この鳥尾率いる少年隊といえば、法専寺の地蔵の首を切った事で知られています。当時の建物は火災により消失しました。
場所:下関市大字吉田937


奇兵隊陣屋跡
小倉戦争の終結後、この地を開墾して陣屋を設置し、約四百名が起居していたそうです。陣屋跡には石碑と並んで、奇兵隊士の像が直立しています。毅然と両腕を腰にやり、空を見上げるその姿勢は、志願兵である誇りと、新しい時代を自ら作り出そうとする情熱が感じられます。現在も当時の堤防がその名残をとどめています。
場所:下関市大字吉田




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