-長州藩の新しい政治拠点 山口-

高杉晋作像/晋作が愛した下関(彦島/下関駅周辺/唐戸/長府/吉田/その他)/晋作が生まれ育った萩/新しい政治拠点山口/その他
藩庁が置かれていた萩城は、山陰の辺境の地であり、国内が割拠し守りに関しては優れていたが、防長二国を軍事的に指揮するにあたっては、不便でした。また、戦国時代ならばともかく、蒸気船の大砲が驚異となった幕末においては、海に望む萩城は防衛的にも不都合があるため、藩主毛利敬親は防長二国のほぼ中央に位置する内陸の山口の地に藩庁を移します。一国一城令を無視し、幕府に許可なく藩庁を移動したことは、上記のような利便性以外に、幕府の威光を恐れない長州藩の精神そのものでもありました。その後、山口政事堂は幕長戦争の総司令部として、四境の戦争において各軍に的確な支持を出すことになります。



山口藩庁(山口政事堂)跡
萩城から政治拠点を山口に移したとはいえ、対外的にはこの藩庁は「山口城」ではなく、「山口政事堂」、「山口屋形」とよび、幕府方を欺いていました。維新後は山口県庁としてこの場所で政治が行われています。現在は県指定の有形文化財旧山口藩庁門として、当時の表門が残されています。また、維新後の山口県庁の建物としても旧県庁舎、旧県会議事堂が残され、移りゆく歴史の流れを感じさせてくれます。
場所:山口市滝町1番1号山口県庁内

香山公園
瑠璃光寺の境内全体は香山公園と呼ばれ、国宝「五重塔」を有する山口観光スポットのメインです。公園内には、毛利家墓所(香山墓所)があり、13代毛利敬親、14代毛利元徳毛利公爵家当主毛利元昭らとその妻が眠っています。段下の石畳は「うぐいす張の石畳」と呼ばれ、手を叩くと響くことで知られている。他に、薩長同盟結成の密議を行われたといわれる枕流亭や、毛利敬親の茶室として造られ、討幕の密議が行われていたとされる露山堂も香山公園内にあります。
場所:山口市香山町7-1

錦旗製作所址
慶応3年、品川弥次郎らが京都西陣で材料を購入して山口に持ち帰り、この地にあった藩の養蚕所を錦旗製作所として、京都から連れて来た岡吉春に製作を命じました。そこで製作された錦の御旗は、幕軍を賊軍とする役割を果たし、鳥羽伏見の戦いの勝因となりました。
場所:山口市水の上町

十朋亭
文久3年、長州藩主毛利敬親は、萩城の地が防長の中心を外れており、今後の政略に不便であることから、藩の政庁を山口へ移します。この結果、藩の重役や役人たちは山口へ住居を移し、政務をとることになります。この時、山口の民家を点定して、重役、役人たちの住居としますが、十朋亭もその一つに指定されます。周布政之助がここで起居をはじめ、ついで桂小五郎・久坂玄瑞・坪井九右衛門・富永有隣・白根多助・来島又兵衛・村田蔵六・山縣有朋等の諸士が来亭、起居したと伝えられています。
場所:山口市大殿大路110番地




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井上公園
100石大組士井上五郎三郎邸のあった場所で、井上薫の誕生地です。現在は公園として整備され、広場、遊具、足湯などが設置されています。井上邸には七卿落ちで下向した三条実美が滞在しますが、井上家は手狭であったため、敷地内に離れを建てて何遠亭と名付け滞在しました。公園内には、当時三条実美が植えたとされる松の木がそびえています。他に井上薫の銅像、七卿顕彰碑、所郁太郎顕彰碑などがあります。
場所:
山口市湯田温泉2丁目5

周布町
長州攘夷派書生達に慕われた長州藩の重臣周布政之助は、元治元年の禁門の変や第一次長州征伐に際して事態の収拾に奔走しますが、次第に椋梨藤太ら反対派に実権を奪われ、この地で切腹しました。維新後、有志の手により顕彰碑が建立され、周布公園として整備されました。この顕彰碑のとなりには周布町共同墓地があり、そこに政之助は眠っています(墓標は麻田公輔)。
場所:山口市周布町

井上馨候遭難の地
元治元年、藩主の前で開かれた会議で井上聞多は恭順派と争い武備を整えて幕府に対すべきだと主張したため、湯田の自宅への帰路、この地において反対派の壮士に重傷を負わされました。しかし、偶然尋ねてきた所郁太郎の手当てにより一命をとりとめます。
場所:山口市中園町8-10-1




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