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薩摩藩人物録

薩摩藩
   77万石+琉球9万石 島津家 鹿児島城(鶴丸城)
支藩:
佐土原藩5万石 島津家 佐土原城

薩摩藩は、外様大名でありながら加賀藩に次ぐ大藩である。藩政のみならず、幕政にも影響を与えるその政治力は、外様大名から将軍正室を輩出したのは薩摩藩のみであることからもその影響力が伺える。幕末初期には会津藩と手を結び、後には長州、土佐と結ぶなど政治力を持って維新の原動力となった。


※島津家一門人物録はこちらから。佐土原藩人物録はこちらから。
あ行


赤山 靭負
あかやま ゆきえ
(1823-1850)
薩摩藩

西郷隆盛が影響を受けた斉彬派中心人物
文政6年、日置島津家当主島津久風の次男として生まれる。天保12年に小納戸見習行奥小姓となり、天保15年に供目付を兼務する。弘化3年には鑓奉行に就任し、翌年名越左源太や郷田仲兵衛とともに軍役方掛となる。島津斉彬の藩主襲封を願う一派の中心的人物であったが、久光やお由羅及びその取り巻きの重臣らの暗殺を謀議したとの咎で、切腹を命ぜられた。西郷吉之助の父西郷吉兵衛は靭負の御用人をしており、靭負の介錯を依頼されている。吉兵衛は形見として血染めの肌着を貰いうけ、吉之助にその肌着を与えて最期の様子を伝えたという。


変名:島津靭負、赤山久普
主な役職:鑓奉行、軍役方掛
剣術:-
墓所:日置市日吉町日置城ノ下桂山寺跡



有馬 新七
ありま しんしち
(1825-1862)
薩摩藩

寺田屋にて憤死した薩摩の過激派攘夷志士
文政8年、薩摩藩伊集院郷の郷士坂木四郎兵衛の子として生まれるが、父が城下士有馬家の養子となったため、新七もそのまま城下士となった。 天保14年より江戸で学び、 安政4年には薩摩藩邸学問所教授に就任。尊皇攘夷派の志士達と多く交流して水戸藩とともに井伊直弼暗殺を計画するが、自藩の同意を得られず、結果的に水戸藩を裏切る形となった。 その後も過激な尊皇攘夷活動を続け、関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定し、同志達と共に寺田屋に集っていたところを、島津久光が派遣した同士らの説得を受けるがそれを拒絶。同士討ちに発展する。この際、小刀が折れて相手の道島五郎兵衛の懐に入り壁に押し付けた状態で、橋口吉之丞に自らとともに道島を刺させて絶命した。


変名:坂木新七
主な役職:-
剣術:直心影流剣術
墓所:日置市伊集院麓



有村 次左衛門
ありむら じざえもん
(1839-1860)
薩摩藩

井伊直弼を仕留めた薩摩藩唯一人の桜田十八士
天保9年、薩摩藩士有村兼善の四男として生まれる。安政5年、兄の雄助とともに江戸で尊攘活動を行い、水戸藩士らと交流を深める。安政6年、安政の大獄が始まるとそれに憤慨し、その実行者である大老井伊直弼暗殺を水戸藩士らと計画。安政7年の朝、桃の節句祝いに登城する井伊を狙って江戸城桜田門外で行列を襲撃。治左衛門は行列中央の井伊を襲い、篭より引きずり出して断首殺害した。重傷を負い、若年寄遠藤胤統の辻番所付近で力尽きて自害する。


変名:有村兼清
主な役職:-
剣術:薬丸自顕流剣術、北辰一刀流剣術
墓所:東京都港区青山霊園


有村 雄助
ありむら ゆうすけ
(1835-1860)
薩摩藩

井伊暗殺の後に捕らえられ自刃させられた烈士
天保6年、薩摩藩士有村兼善の三男として生まれる。安政5年、弟の次左衛門とともに江戸で尊攘活動を行い、水戸藩士らと交流を深める。安政6年、安政の大獄が始まるとそれに憤慨し、その実行者である大老井伊直弼の暗殺と京都、大坂での挙兵を計画する。安政7年、桜田門外の変で井伊が次左衛門や水戸浪士らに暗殺されると、それに呼応して水戸藩士金子孫二郎とともに京都に向かう。しかし、幕府によって藩士が捕らえられる事を恐れた薩摩藩では、道中の伊勢四日市で雄助らを捕縛し、薩摩に護送した。万延元年、幕府の探索が鹿児島に迫ると、藩命によって自刃させられた。


変名:有村兼武
主な役職:-
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:東京都港区青山霊園


伊地知 正治
いじち まさはる
(1828-1886)
薩摩藩

合伝流の用兵で薩軍を勝利に導いた名軍師
文政11年、薩摩藩士伊地知季平の次男として生まれる。幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。若くして藩校造士館の教授に就任。文久2年、軍奉行として島津久光の上洛に従う。戊辰戦争には軍師として活躍し、甲州勝沼の戦い、白河口の戦い、母成峠の戦いなどで新政府軍の勝利に大きく貢献した。明治3年、薩摩藩権大参事として善政を敷く。廃藩置県後、中央政府に出仕して薩摩閥の有力者となった。明治7年には、左院議長に就任し参議も兼任した。明治10年の西南戦争で、鹿児島が戦火で荒れるとその復興に尽力した。明治19年、宮中顧問官に任命されるが、その年に死去した。


変名:伊地知竜駒、伊地知竜右衛門、伊地知季靖、一柳
主な役職:造士館教授、東山道先鋒総督府参謀、薩摩藩権大参事左院議長、宮中顧問官
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:東京都港区青山霊園


大久保 利通
おおくぼ としみち
(1830-1878)
薩摩藩

近代日本の基礎を作り上げた維新三傑の一人
文政13年、薩摩藩士大久保利世の嫡男として生まれる。嘉永3年のお由羅騒動で父利世に連座して謹慎処分となる。島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年に御蔵役となる。安政4年、西郷隆盛とともに徒目付となる。安政5年の斉彬の死後は、島津久光のもとで公武合体運動を推進。やがて討幕へと転じ、薩長連合を成立させる一方、岩倉具視らと結んで慶応3年、王政復古のクーデターを敢行。版籍奉還や廃藩置県を推進し、新政府の基礎を固める。参議、大蔵卿を経て、明治4年に特命全権副使として岩倉遣外使節団に随行。帰国後、内政整備を主張し、征韓派参議を下野させるとともに、参議兼内務卿となり、政権を掌握。地租改正、殖産興業の推進など、重要施策を実行した。西南戦争に至るまでの各地の士族反乱を鎮圧するも、明治11年、不平士族に暗殺される。


変名:大久保正助、大久保利済、大久保一蔵
主な役職:御小納戸頭取、参議、大蔵卿、内務卿、宮内卿
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


大山 巌
おおやま いわお
(1842-1816)
薩摩藩

近代陸軍創世期に活躍した陸軍元帥
天保13年、薩摩藩士大山彦八綱昌の次男として生まれる。有馬新七らに影響されて過激派に属したが、文久2年の寺田屋事件では、鎮撫使に説得され投降し帰国謹慎処分となる。薩英戦争では西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣江川英龍に砲術を学ぶ。戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽伏見の戦いや会津戦争などの各地を転戦した。12ドイム臼砲や四斤山砲の改良を行い、これら大山の設計した砲は「弥助砲」と称された。明治2年、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年から6年の間、ジュネーヴに留学した。西南戦争をはじめ、相次ぐ士族の反乱を鎮圧。日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官、日露戦争においては、元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任。日本の勝利に大きく貢献した。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」とうたわれた。明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期にわたって勤め、また、参謀総長、内大臣なども歴任。元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となった。大正5年、胆嚢炎で死去。


変名:大山岩次郎、大山弥助、大山赫山、大山瑞岩、大山清海
主な役職:満州軍総司令官、陸軍大臣、陸軍参謀総長
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:那須塩原市下永田大山元帥墓所


大山 綱良
おおやま つなよし
(1825-1877)
薩摩藩

西郷軍を資金面で支えた鹿児島県令
文政8年、薩摩藩士樺山善助の子として生まれる。嘉永2年、薩摩藩士大山四郎助の婿養子となる。西郷隆盛、大久保利通らとともに精忠組に所属。島津久光の上洛に随行し、文久2年の寺田屋事件では、奈良原喜八郎らとともに過激派藩士の粛清に加わり、大山巌、西郷従道、三島通庸らの説得に成功した。戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督府の下参謀に就任。大山率いる新政府軍は庄内戦線で、連戦連敗を喫する。長州藩の大楽源太郎が反乱を起こして敗走し、再起のために日田県庁を襲った際には、討伐軍の司令官として鹿児島から派遣されながら、現地到着後に独断で軍解散を命じて木戸孝允らの怒りを買い、西郷隆盛が詫びる騒ぎとなった。新政府では廃藩置県後に鹿児島県の大参事、県令に就任。明治6年、征韓論争から発展した政変で、西郷らが新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると、私学校設立などの援助で西郷を助けた。その後、大山が県令を務める鹿児島県は新政府に租税を納めず、その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈した。明治10年に鹿児島で西郷らが挙兵した西南戦争では官金を西郷軍に提供し、西郷軍の敗北後、その罪を問われて逮捕され東京へ送還のち長崎で斬首された。


変名:樺山熊次郎、大山正圓、大山角右衛門、大山格之助
主な役職:奥羽鎮撫総督府下参謀、鹿児島県大参事、鹿児島県県令
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:鹿児島市上竜尾町南洲墓地

か行


海江田 信義
かいえだ のぶよし
(1832-1906)
薩摩藩

愚兄賢弟と嘲笑され大村暗殺の黒幕とされる人物
天保3年、薩摩藩士有村仁左衛門兼善の次男として生まれる。11歳の時島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となる。嘉永2年、お由羅騒動に巻き込まれた有村父子は一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年、新藩主島津斉彬によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之介、大久保一蔵らと「精忠組」を結成する。嘉永5年、樺山三円とともに江戸藩邸に勤め、多くの勤王家と知り合う。万延元年、三弟有村次左衛門が井伊直弼を桜田門外にて水戸浪士とともに襲撃し自害。次弟雄助が幕府に遠慮した藩の意向で自刃している。安政5年、西郷隆盛と共に僧侶月照を保護して帰国。生麦事件においてはイギリス人チャールス・リチャードソンに止めを刺している。戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀となるが、大村益次郎と対立。日頃から周囲に「大村を殺す」と言っていた事、大村殺害犯とつきあいがあった事、更に大村殺害犯の処刑に際して、弾正台から監視役として派遣された海江田が妨害した事など、大村暗殺に関与した疑いで政府の取調べを受け謹慎処分となる。その後官職に復帰し、元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官等を歴任。明治39年、75歳で死去した。


変名:有村太郎熊、有村俊斎、海江田武次
主な役職:東海道先鋒総督参謀、元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:東京都港区青山霊園


桂 久武
かつら ひさたけ
(1830-1877)
薩摩藩

薩摩藩の陰の功労者
天保元年、日置島津家12代当主島津久風の5男として生まれる。安政2年、一所持桂家の桂久徴の養子となり家督を相続。造士館演武係方等の要職を務めるが、兄で薩摩藩主席家老の島津久徴が斉彬派であったために罷免される。元治元年、大目付として藩論の統一に貢献。慶応元年には家老に昇格して、薩長同盟の提携に尽力する。明治3年、鹿児島藩権大参事に就任。明治4年には都城県参事、豊岡県権参事を歴任し、明治6年に豊岡県権令の就任を打診されるが、病を理由に断った。その後、開墾や鉱山事業に従事する。明治10年の西南戦争では高齢の為に参加しないつもりであったが、西郷隆盛の出陣を見て奮起し従軍する事となった。薩軍内では大小荷駄本部長をつとめ、薩軍敗走後も城山に篭城。城山で流れ弾に当たって戦死した。


変名:島津四郎、桂歳貞、桂歳光、桂小吉郎、桂右衛門
主な役職:造士館演武係方、薩摩藩家老、鹿児島藩権大参事、薩軍大小荷駄本部長
剣術:
墓所:鹿児島市上竜尾町 南洲墓地


日下部 伊三次
くさかべ いそうじ
(1814-1859)
水戸藩
薩摩藩

薩摩隼人の血をかきたてる幕末薩摩藩での最初の国事殉難者
文化11年、元薩摩藩士海江田訥斎連の子として生まれる。水戸藩主徳川斉昭に仕え、太田学館益習館の幹事を務める。弘化元年、幕府より斉昭が謹慎を受けた際にはその赦免運動に尽力した。安政2年、島津斉彬に目をかけられて薩摩藩に復帰。安政5年、将軍継嗣問題や条約勅許問題が起こると京都に赴き、水戸薩摩両藩に繋がりを持つ事から攘夷派の志士の中心として京都で活動する。水戸藩へ戊午の密勅が下ると、江戸の水戸藩邸へ届けた。安政の大獄がおこると、子の裕之進とともに捕縛され、伝馬町の獄に拘留される。安政5年に獄中で病死した。


変名:日下部信政、日下部翼、日下部九皐、日下部実稼、深谷佐吉、宮崎復太郎
主な役職:太田学館益習館幹事
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:東京都港区青山霊園


黒田 清隆
くろだ きよたか
(1840-1900)
薩摩藩

旧幕臣を優遇した第2代内閣総理大臣
天保11年、薩摩藩士黒田清行の長男として生まれる。文久3年の薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学ぶ。慶応2年、薩摩側の使者として長州に同盟を説き、薩長同盟に貢献する。慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩の小銃第一隊長として参戦。同年、北陸道鎮撫総督の参謀として山縣有朋とともに任命され、戊辰戦争を転戦した。箱館戦争では陸軍参謀を命じられ、新政府軍の指揮をとった。戦後は榎本武揚の助命を強く要求する。明治3年、樺太開拓次官に就任。明治4年、欧米視察。帰国後、明治7年、北海道屯田憲兵事務総理、参議兼開拓長官となる。明治7年、榎本をロシア特命全権公使に推薦して、千島樺太交換条約の交渉と締結にあたった。明治9年には朝鮮全権弁理大臣として、日朝修好条規を締結した。明治14年の明治十四年の政変では、伊藤博文らと共に大隈重信を失脚させる。明治20年、第1次伊藤内閣の農商務大臣となり、翌年に第2代内閣総理大臣となった。明治25年、第2次伊藤内閣の逓信大臣に就任。明治28年に枢密院議長となった。明治33年、脳出血で死去。


変名:黒田仲太郎、黒田了介
主な役職:北陸道鎮撫参謀、陸軍参謀、樺太開拓次官、参議、農商務大臣内閣総理大臣
剣術:示現流剣術
墓所:東京都港区青山霊園



さ行


西郷 吉二郎
さいごう きちじろう
(1833-1868)
薩摩藩

北越戦争で戦死した大西郷の弟
天保4年、薩摩藩士西郷吉兵衛の次男として生まれる。家督を継いだ兄吉之助(隆盛)が、江戸や京都で活動して家を空けることが多かったため、西郷家の家政を兄の名代として取り仕切った。兄吉之助流刑の際にも、その世話や赦免嘆願に奔走。文久2年の寺田屋事件に弟の慎吾(従道)が参加していたために、藩役職を遠慮した。慶応4年の戊辰戦争では、番兵2番隊監軍となり、北越戦線に出兵。越後国五十嵐川付近で戦死した。幼い東郷平八郎が彼に習字を習ったという記録がある。


変名:西郷金次郎、西郷隆広
主な役職:御勘定所書役、番兵2番隊監軍
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:上越市金谷山官修墓地


西郷 小兵衛
さいごう こへい
(1847-1877)
薩摩藩

西南戦争で戦死した大西郷の末弟
弘化4年、薩摩藩士西郷吉兵衛の四男として生まれる。その面影や性格は兄の隆盛に最も似ているといわれる。戊辰戦争では、3人の兄と共にこれに参加。戦後は春日潜庵に弟子入りして陽明学を学んだ。就学のために上京するが、征韓論争に敗れた兄隆盛らと共に帰郷。加世田郷の副区長に任命される。明治10年の西南戦争では、薩摩一番大隊一番小隊長として出陣。高瀬川付近の戦闘で、官軍の銃弾を受けて戦死した。薩摩の猛将逸見十郎太は親友として、その遺髪を西郷家に届けた。


変名:西郷彦吉、西郷小平、西郷隆雄、西郷隆武
主な役職:加世田郷副戸長、第一大隊第一小隊長
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:鹿児島市上竜尾町南洲墓地


西郷 隆盛
さいごう たかもり
(1826-1877)
薩摩藩

維新三傑の一人にして薩摩の英雄
文政10年、薩摩藩士西郷吉兵衛の長男として生まれる。幼少時の喧嘩の仲裁で、怪我をして刀を握れなくなり、以後は学問を志す。薩摩藩主島津斉彬に取り立てられて御庭方役となる。藤田東湖や橋本左内、武田耕雲斎らと親交し、斉彬の手足となって活動する。安政5年に斉彬が急逝し、尊皇僧月照と入水自殺を図るが、奇跡的に一命を取り留める。その後、国父島津久光と衝突し遠島させられるが、大久保利通らの嘆願により赦免される。禁門の変では薩摩軍の総大将として長州軍を撃破。その後の第1次長州征討では、緩和策を主張する。以後は、討幕へと藩論転換して、仇敵であった長州と薩長連合を結ぶ。王政復古のクーデターを成功させて鳥羽伏見の戦いに勝利すると、東征して江戸城無血開城を実現させる。新政府では参議となり、陸軍大将や近衛都督を兼務して、岩倉使節団外遊中の留守政府を主導した。明治6年、征韓論に敗れ江藤新平、板垣退助らとともに下野。鹿児島に帰って私学校を設立する。明治10年、不平士族に促されて挙兵し、西南戦争が勃発。政府軍に敗北して鹿児島の城山に立てこもるが、総攻撃を受けて自刃した。


変名:西郷隆永、西郷武雄、西郷小吉、西郷吉之介、西郷善兵衛、西郷吉兵衛、西郷吉之助、西郷南洲、西郷三助、菊池源吾、大島三右衛門、大島吉之助
主な役職:参議、陸軍元帥、陸軍大将
剣術:-
墓所:鹿児島市上竜尾町南洲墓地


西郷 従道
さいごう じゅうどう
(1843-1902)
薩摩藩

海軍の発展に貢献した小西郷
天保14年、薩摩藩士西郷吉兵衛の次男として生まれる。有村俊斎の推薦で薩摩藩主島津斉彬に出仕し、茶坊主となる。文久元年に還俗し、精忠組に加入して尊王攘夷運動に参加。文久2年、有馬新七らと共に京都に集結するが、藩から弾圧を受け謹慎処分となる。文久3年の薩英戦争では、西瓜売りを装った決死隊に志願する。慶応4年の鳥羽伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負う。明治2年、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。明治7年に陸軍中将となり、台湾に出兵する。明治10年の西南戦争では、隆盛に加担せずに政府の留守を守った。初代海軍大臣となり、山本権兵衛を抜擢して日本海軍を発展させる。明治25年、品川弥二郎とともに国民協会を設立。明治27年には海軍大将となり、明治31年に海軍軍人として初めて元帥の称号を得る。明治35年、死去。


変名:西郷竜助、西郷信吾、西郷慎吾
主な役職:文部卿、陸軍卿、農商務卿、海軍大臣、内務大臣、貴族院議員
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:東京都港区青山霊園


篠原 国幹
しのはら くにもと
(1837-1877)
薩摩藩

指揮能力を両軍から高く評価された寡黙な副司令
天保7年、薩摩藩士篠原善兵衛の長男として生まれる。藩校造士館で和漢学を修め、句読師となる。文久2年、寺田屋騒動に関わる。薩英戦争では砲台守備を担当。鳥羽伏見の戦いでは、城下三番小隊隊長として参戦。上野戦争では、黒門口攻めを担当し、勇猛さを見せつけた。明治2年、鹿児島常備隊第二大隊の隊長に就任。御警衛兵派遣の際には、第二大隊・第三大隊の一部計400名を率いて上京した。明治4年、西郷隆盛が常備隊を率いて上京した際には、その一部を率いる。その後、近衛局に出仕して近衛長官に就任。篠原の指揮する軍事演習を、観閲した明治天皇がその指揮ぶりを評価し、その演習地を「習志野」と名付けたという説もある。明治6年に征韓論争に敗れた西郷が下野すると、それに従い鹿児島へ戻る。明治7年、私学校を設立に関わり、青年子弟を養成した。明治10年、西南戦争に参加。部隊編制を担当し、一番大隊指揮長となる。熊本攻城戦では背面軍を村田新八、別府晋介らとともに指揮する。政府軍の南下が始まると、熊本城攻囲を池上四郎に任せ、六箇小隊を率いて田原に出張本営を設けた。菊池川、高瀬と転戦し、吉次峠の攻防戦で狙撃され戦死した。篠原を失った西郷軍は、復讐心から戦意を高め、政府軍を原倉まで退けた。


変名:篠原藤十郎、篠原冬一郎
主な役職:城下三番小隊隊長、鹿児島第二大隊隊長、近衛長官、一番大隊指揮長
剣術:薬丸自顕流剣術、常陸流剣術、神道無念流剣術
墓所:鹿児島市上竜尾町南洲墓地


尚泰王
しょうたいおう
(1843-1901)
琉球王国
日本と清の狭間にゆれた琉球王国最後の王
天保14年(道光23年)、第18代琉球国王尚育王の次男として生まれる。弘化5年(道光28年)、父王の死により幼少で即位する。嘉永6年(咸豊3年)、ペリー率いる米国艦隊が琉球に来航して通商を要求。翌年には琉米修好条約を締結した。さらに、仏国や蘭国とも修好条約を結んだ。明治5年(同治11年)、明治政府は尚泰王を琉球藩王に封じ華族に列する。しかし、未だ清国との冊封関係を続けていたために、明治政府は清国との絶交命令を再三要求。明治12年(光緒5年)、明治政府は軍隊を率いて首里城に入り、城の明け渡しと廃藩置県を布告する。この琉球処分により琉球藩は消滅。沖縄県が設置されると、尚泰ら琉球王家は東京に移住した。明治34年、死去。
変名:思次良金、朝憲
主な役職:19代琉球国王、琉球藩王
剣術:−
墓所:那覇市首里金城町玉陵


調所 広郷
ずしょ ひろさと
(1776-1849)
薩摩藩
密貿易で薩摩藩の財政を回復させた能臣
安永5年、薩摩藩士川崎主右衛門の子として生まれる。天明8年、薩摩藩士調所清悦の養子となる。茶道職として出仕。寛政10年に江戸へ出府し、隠居していた前藩主島津重豪にその才能を見出されて登用される。後に第10代藩主島津斉興に仕え、使番、町奉行、地頭などを歴任する。天保9年には家老に任ぜられ、改革に取り組む。また琉球を通じて清と密貿易を行い、藩財政を回復させた。その後、斉興の後継を巡る島津斉彬と島津久光による争いがお家騒動に発展すると、久光派に与する。嘉永元年、老中阿部正弘に密貿易の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死する。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺と言われる。
変名:調所恒篤、調所広郷、川崎清八、調所友治、調所笑悦、調所笑左衛門
主な役職:薩摩藩家老
剣術:−
墓所:鹿児島市池之上町福昌寺


た行


高崎 正風
たかさき まさかぜ
(1836-1912)
薩摩藩


朝廷から長州を追い落とした二条派の歌人
天保7年、薩摩藩士高崎五郎右衛門の長男として生まれる。お由羅騒動で父が切腹し、連座して奄美大島に流刑となる。嘉永5年に赦免され、京都で活動。会津藩公用方秋月悌次郎に密かに接触し、朝廷から長州藩を排除する。その功により京都留守居役に任命された。薩摩藩内で武力倒幕論が加熱すると、武力討伐に反対して平和的な大政奉還を支持。武力討幕派の西郷隆盛らと対立する。明治4年、新政府に出仕。岩倉使節団の一員として欧米諸国を視察。帰国後は、侍従番長、御歌掛、御歌係長、御歌所初代所長と宮中で出世していった。明治23年には初代國學院院長。明治28年には枢密顧問官も兼ねた。明治45年、死去。


変名:高崎左太郎、高崎伊勢、高崎豊麿、高崎左京、宝義堂
主な役職:御歌所初代所長國學院院長、枢密顧問官
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:
東京都港区青山霊園


高崎 五六
たかさき いつむ
(1836-1896)
薩摩藩


薩摩にあって武力倒幕に反対した官僚
天保7年、薩摩藩士の高崎善兵衛の長男として生まれる。安政6年、水戸藩攘夷志士らと共に井伊直弼襲撃を策謀し、関鉄之助とともに朝廷に奏聞しようとするが失敗に終わり、藩命で薩摩に帰藩する。文久2年、上京して有馬新七らが伏見寺田屋に集会するのを察知し、藩父島津久光に急告。寺田屋事件がおこる。元治元年、長州征伐に際し西郷隆盛の意を受け長州に入り、謝罪恭順を周旋。第二次長州征伐が長州藩の勝利に終わると、薩摩藩内では武力倒幕論が加熱するが、武力討伐に反対して平和的な大政奉還を支持する。維新後は、大久保利通の信任を得て、元老院議官、東京府知事等を任じられる。明治29年、死去。


変名:高崎猪太郎、高崎兵部、朝稲兵助、高崎友愛
主な役職:元老院議官、東京府知事
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:
東京都港区青山霊園


田中 新兵衛
たなか しんべえ
(1832-1863)
薩摩藩


岡田以蔵と共に恐れられた暗殺者
天保3年、島津織部家臣の子として生まれる。文久2年に上京。海江田信義や藤井良節の元に身を寄せ、今太閤とも呼ばれ京都で大きな力を振るっていた九条家の家令である島田左近を暗殺。土佐勤王党の武市瑞山と義兄弟となる。岡田以蔵らと共に、本間精一郎、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞などを暗殺したと言われる。文久3年の朔平門外の変で姉小路公知が暗殺された際に、差料と下駄が証拠となって新兵衛は会津藩士に捕縛され、京都町奉行所に送られた。そして取調べを受ける中で新兵衛は黙秘を続けていたが、一瞬の隙をついて己の差料を奪い取り自刃。後年、土佐の岡田以蔵、肥後の河上彦斎とともに「幕末の三大人斬り」と呼ばれた。


変名:田中雄平
主な役職:−
剣術:薬丸自顕流剣術?
墓所:京都市東山区東福寺即宗院


寺島 宗則
てらしま むねのり
(1832-1893)
薩摩藩


近代外交の基盤を創った日本電気通信の父
天保3年、薩摩藩士長野成宗の次男として生まれ、伯父松木宗保の養嗣子となった。弘化2年、江戸で伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学ぶ。安政2年中津藩江戸藩邸の蘭学塾に出講する。安政3年、蕃書調所教授手伝となった後、帰郷し藩主島津斉彬の侍医となったが、再度江戸へ出て蕃書調所に復帰した。文久元年、幕府の第1次遣欧使節に通訳兼医師として加わる。文久3年の薩英戦争では、拿捕された薩摩軍艦の乗組員の下船のため、五代友厚とともに捕虜となる。慶応元年、薩摩藩遣英使節団に参加し渡欧。維新後は、外交官、神奈川県知事、参与、外務大輔、外務卿を歴任する。明治2年、横浜−東京間の電信線架設工事に着手し、日本の電信事業をスタートさせる。西南戦争後の政府の財政難から税権回復を目指し、諸外国との条約改正に臨むが挫折。外務卿を辞職。その後、元老院議官、枢密院副議長、枢密顧問官などを務めた。明治26年、死去。


変名:長野徳太郎、長野藤太郎、松木弘安、寺島陶蔵
主な役職:蕃書調所教授、神奈川県知事、外務大輔、外務卿、元老院議官、枢密顧問官
剣術:-
墓所:東京都品川区海晏寺


な行


中村 半次郎
なかむら はんじろう
(1838-1877)
薩摩藩

長州藩との和解を模索した西郷の懐刀
天保9年、中村与右衛門の二男として生まれる。文久2年、島津久光に随って上京、家老・小松帯刀ら藩の重臣から重用されるようになる。長州寄りの考えを持ち、薩摩と長州の和解を策して動こうとしていたらしいことが書簡などからうかがえる。薩長同盟後は、両藩の親和のために活動し、木戸孝允、品川弥二郎などと交際を重ねた。慶応3年、ほぼ毎日のように数人で京都見回りをしていたが、公武合体派の軍学者赤松小三郎と京都市中で遭遇し、白昼堂々暗殺した。中村には「人斬り半次郎」という異名があるが、実際に明らかとなっている暗殺はこの1件だけである。また、同年10月に坂本龍馬が暗殺された際には、犯人捜しや海援隊や陸援隊との連絡などに奔走した。戊辰戦争では、東征大総督府下参謀西郷隆盛の推挙によって大総督府直属の軍監に任じられ、会津若松攻略などで活躍した。明治4年、陸軍少将に任命される。明治6年、明治六年の政変で西郷が下野すると、辞表を提出して帰郷した。明治10年、西南戦争では、四番大隊指揮長となり総司令も兼ね政府軍と戦うが、敗退して鹿児島に戻り城山に籠城した。西郷が別府の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた後、政府軍に額を打ち抜かれて戦死した


変名:中村利秋、桐野信作、桐野利秋
主な役職:大総督府軍監、陸軍少将
剣術:薬丸自顕流剣術、古示現流剣術
墓所:鹿児島市上竜尾町南洲墓地


永山 弥一郎
ながやま やいちろう
(1838-1877)
薩摩藩

壮絶な最後を遂げた西郷の影武者
天保9年、薩摩藩士永山休悦の長男として生まれる若くして勤王に奔走。文久2年、有馬新七らに従って京都に上り、挙兵に荷担して失敗したが、年少であるという理由で処罰を免れる。戊辰戦争では、城下四番小隊監軍として鳥羽伏見の戦いに参戦。その後、白河や棚倉、会津を転戦した。明治2年、鹿児島常備隊の大隊教導となる。明治4年、開拓使出仕に志願して北海道に赴く。明治8年、軍に復帰して陸軍中佐に任じられて屯田兵を率いていたが、政府が千島樺太交換条約を締結したことに憤激して、職を辞して鹿児島へ帰る。明治10年、薩軍出兵に反対の態度をとり出兵に応じなかったが、桐野利秋に説得されてこれに参加。三番大隊指揮長となる。数に勝る政府軍に対して奮戦したが、御船の戦いで砲弾の破片を浴びて足腰に重傷を負う。政府軍に囲まれた弥一郎は、近くの農家を大金を渡して買い取り、火を付け自刃した。西郷の影武者であったという話も伝わる。


変名:永山盛弘、永山万斎
主な役職:城下四番小隊監軍三番大隊指揮長
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:鹿児島市上竜尾町南洲墓地


奈良原 喜左衛門
ならはら きざえもん
(1831-1865)
薩摩藩


生麦事件で英国人に切りつけた自顕流の達人
天保2年、鹿児島城下高麗町生まれ。薬丸半左衛門に薬丸自顕流を学び達人と称され、また弓術にも長けていた。藩主島津斉彬の命で江戸で一橋慶喜擁立に奔走するも、失敗したために帰国。安政6年、精忠組に加盟し、当初は尊皇攘夷を唱えるが後に公武合体に転換する。文久2年、島津久光の卒兵上京に従い、久光の命によって有村俊斎とともに過激派の有馬新七らの説得に当たるが失敗する。さらに幕府への勅使大原重徳卿に随従する久光に従って江戸に行く。その帰国の際の生麦村で、行列を横切ったイギリス人チャールズ・リチャードソンに斬り付けた。薩英戦争では、海江田信義とともにスイカ商人に扮して敵艦を奪おうと画策するも失敗した。その後は主に京都で活動し、元治元年の禁門の変では、出水隊の隊長として活躍。しかし、慶応元年、京都二本松の薩摩藩邸で病没した。


変名:−
主な役職:出水隊物主
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:京都市東山区東福寺即宗院


は行


別府 晋介
べっぷ しんすけ
(1847-1877)
薩摩藩

西郷を介錯した生粋の軍人
弘化4年、薩摩藩士別府十郎の次男として生まれる。戊辰戦争では、城下四番小隊の分隊長として、白河、二本松、会津と連戦。明治2年、鹿児島常備隊の大隊中の小隊長となる。明治4年、上京して御親兵に編入し近衛陸軍大尉に任ぜられた。明治5年、外務大丞花房義質に随行して朝鮮を偵察。征韓論争に敗れた西郷が下野すると、それに従い鹿児島に帰る。明治8年、加治木外四郷の区長に任命される。西南戦争では、六番大隊、七番大隊の連合指揮長となって先発。後続と共に熊本城を攻囲した。山鹿や田原坂での戦闘に味方が敗れたため、鹿児島まで後進して兵1500名を新募。北上して政府軍を迎え撃つが、足に重傷を負う。薩軍は連敗を重ねて撤退を決意。鹿児島に帰り城山に立てこもる。政府軍は城山を囲み総攻撃を開始。西郷以下残存の40余名は岩崎口へ進撃するが、西郷が流れ弾で負傷する。西郷は晋介に介錯を頼み、泣く泣く西郷を介錯した。その後、突撃を敢行して戦死した。


変名:別府景長
主な役職:鹿児島常備隊小隊長、加治木外四郷区長六・七番大隊連合指揮長
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:鹿児島市上竜尾町南洲墓地


逸見 十郎太
へんみ じゅうろうた
(1849-1877)
薩摩藩

西南戦争でその名を馳せた雷撃隊大隊長
嘉永2年、薩摩藩士辺見仲直の長男として生まれる。戊辰戦争のとき、薩摩藩二番小隊長として東北戦争で活躍。維新後は鹿児島常備隊小隊長、近衛陸軍大尉となるが、明治六年政変で西郷隆盛が辞職して鹿児島へ下野すると、自身も辞職して西郷に従った。私学校でも力を尽くし、宮之城郷の区長も務めた。明治10年、西南戦争の時には、薩摩三番大隊一番小隊長として熊本城攻撃のときに活躍し、その後雷撃隊大隊長となる。勇敢な薩軍の中でも特に抜群の武勇を誇り、仲間からの信頼も厚く、弾雨の中を先頭きって突撃する辺見を見てみな勇気づけられたという。城山での最後の戦いでは、西郷の死後別府晋介と刺し違えて死んだとも、政府軍に突撃し戦死したとも伝えられる。


変名:逸見昌邦
主な役職:鹿児島常備隊小隊長、宮之城郷区長、雷撃隊大隊長
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:鹿児島市上竜尾町南洲墓地


ま行


牧志 朝忠
まきし ちょうちゅう
(1818-1862)
琉球王国

外国との交渉で薩摩藩に重宝された琉球官僚
文化15年(嘉慶23年)、尚一族末流の下級士族の子として生まれる。
学問に秀で、冊封謝恩使に随行して北京に留学。帰国後、英語を学んで異国通詞となる。外国との交渉で薩摩藩にも能力を認められ、帰国のために琉球に寄航したジョン万次郎の取調べを担当し、米国史と政治体制についての教えを受ける。ペリー艦隊が琉球に来航した際には、通詞として交渉にあたった。この琉球来航と日本への来航計画は、薩摩より幕府に報告されている。安政元年に大湾地頭、安政5年に牧志地頭に就任。薩摩藩は、琉球名義で諸外国との貿易を始める事を計画。その薩摩藩の庇護により琉球政府内で力を持ち、日帳主取に任命される。しかし、薩摩藩の政変により、欧米との貿易は打ち切られることとなった。琉球政府内の反薩摩派は、親薩摩派への報復に動きだし、選挙不正、贈収賄や公金横領、国王廃立の謀反といった容疑で、親薩摩派らが逮捕、尋問される牧志恩河事件が起こる。牧志も選挙での不正を自白し、牢獄に収監された。その後、薩摩藩は再び外国と接触し、兵器の密輸入を開始。文久2年、薩摩藩は牧志を英語教授役として徴用するため、鹿児島へ召還するが、伊平屋島沖で船から身を投げてた。反薩摩派の暗殺説も存在する。


変名:向永功、板良敷朝忠、大湾朝忠
主な役職:異国通詞、板良敷地頭、大湾地頭、牧志地頭、日帳主取
剣術:-
墓所:-


道島 五郎兵衛
みちしま ごろうひょうえ
(生年不明-1862)
薩摩藩

有馬と共に串刺しにされた薩摩藩士
生没年不明。城下士。薬丸自顕流の達人で、精忠組に加盟する。文久2年、有馬新七ら急進派の藩士が京都の寺田屋に結集すると、島津久光の命で大山綱良、奈良原繁らとともに鎮撫使に任命された。道島は交渉決裂後、真っ先に抜刀し、急進派に斬りかかった。戦闘の最中、有馬が道島の懐に入り、壁に押し付け、橋口吉之丞に有馬共々に道島を刺させて絶命した。鎮撫使側唯一の死者となった。


変名:−
主な役職:鎮撫使
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:京都市東山区東福寺


村田 岩熊
むらた いわくま
(1858-1877)
薩摩藩

民謡のモデルとも言われる村田新八の長男
安政4年、薩摩藩士村田新八の長男として生まれる。幼少の頃より優秀で、将来を嘱望されていた。維新後、アメリカに留学し米軍の海軍兵学校に通う。明治9年、故郷薩摩の風雲急を知りすぐに帰国。西南戦争に従軍する。西南戦争最大の激戦となった田原坂で勇猛果敢に戦うが戦死した。「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂 右に血刀左に手綱 馬上豊かな美少年」と歌われた民謡「田原坂」の馬上豊かな美少年のモデルであるといわれる。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:鹿児島市上竜尾町南洲墓地



村田 新八
むらた しんぱち
(1836-1877)
薩摩藩

尊皇を志し西郷に殉じた薩摩の逸材
天保7年、薩摩藩士高橋八郎の三男として生まれ、村田十蔵の養子となった。年少の頃から西郷隆盛に兄事し、尊王の志を抱いた。文久2年、寺田屋事件で、志士を扇動したという疑いから喜界島に流される。元治元年、別の島に流されていた西郷隆盛が放免されると、西郷と共に鹿児島に戻った。慶応2年から、西郷と共に薩長同盟設立に奔走する。戊辰戦争では鳥羽伏見、上野、二本松、会津若松と各地を転戦した。明治4年、岩倉使節団に参加し欧米視察に出発した。明治7年、欧米視察から帰国し、西郷隆盛が下野して帰郷したのを聞くと、辞職して鹿児島へ帰る。鹿児島に帰郷後、私学校の設立に貢献。砲隊学校、章典学校の監督となる。明治10年、西南戦争では二番大隊指揮長として各地を転戦するが、敗退し城山に立てこもる。政府軍の城山総攻撃において西郷が別府晋介の介錯で自決すると、それを見届けたあと突撃して戦死した。


変名:村田経麿、村田経満
主な役職:鹿児島常備隊砲兵隊長、宮内大丞、二番大隊指揮長
剣術:薬丸自顕流剣術
墓所:鹿児島市上竜尾町南洲墓地


村田 経芳
むらた つねよし
(1838-1921)
薩摩藩

日本軍初の国産正式小銃の開発者
天保9年、薩摩藩士村田経徳の長男として生まれる。砲術に興味を持ち、合伝流や荻野流砲術を学ぶ。
藩随一の射撃の名手となり、生活に困窮しながらも独力で銃器を研究。戊辰戦争では外城一番隊長として従軍し、鳥羽伏見の戦いから各地を転戦する。明治4年、御親兵として上京し、陸軍歩兵大尉となる。明治8年には射撃技術習得と兵器研究のため渡欧。欧州各地の射撃大会に出場し、優勝している。帰国後は、陸軍戸山学校教官として銃の改良や射的技術の向上にあたり、明治18年には最初の国産銃十三年式村田銃の開発に成功した。村田銃は日清戦争で使用され、日本勝利に大きく貢献した。その後は、陸軍省の東京砲兵工廠御用掛、貴族院議員を歴任。明治23年に陸軍少将に昇進して予備役となった。大正10年、肝臓病のため死去。


変名:村田仙次郎、村田勇右衛門
主な役職:外城一番隊長東京砲兵工廠御用掛貴族院議員
剣術:直心影流剣術、荻野流砲術
墓所:東京都台東区谷中霊園


や行

由羅
ゆら

幕末の女性人物録へ



吉井 友実
よしい ともざね
(1828-1891)
薩摩藩

精忠組の中心人物として藩政をリードした薩摩隼人
文政11年、薩摩藩士吉井友昌の長男として生まれる。島津斉彬の藩政改革のもと、大坂藩邸留守居役となり、諸藩の志士との交流を重ねて若手改革派の一人として活躍する。斉彬の死後、大久保利通ら同志40名と共に脱藩を企てたものの、藩主島津忠義の慰留をうけて大目付役に就任。のち、徒目付や御用部屋書役などを務め、西郷隆盛、大久保らと始めとする精忠組の中心人物として藩政をリードし、尊皇討幕運動を推進した。戊辰戦争の緒戦である鳥羽伏見の戦いでは、自ら兵を率いて旧幕府軍を撃退するなど多大な功績をあげる。維新後は、参与や元老院議官、工部大輔、日本鉄道社長などの要職を歴任したほか、明治4年に宮内大丞就任し以後長らく宮中で明治天皇に仕え宮内次官まで昇った。明治17年、維新の功により伯爵に叙せられる。明治24年、64歳で死去。


変名:吉井仁左衛門、吉井中介、吉井幸輔、山科兵部
主な役職:元老院議官、工部大輔、宮内大丞、宮内次官、日本鉄道社長
剣術:−
墓所:東京都港区青山霊園


ら行


わ行


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