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長州藩上屋敷
千代田区日比谷公園1


上海旧租界地
上海中山東一路外灘地区



長崎港
1880年代の写真

上海

文久元年、晋作は世子小姓役を命じられる。世子小姓は将来の藩主の小姓。つまり、将来の藩主の側近の地位を約束されたということである。世子毛利元徳は、藩主の実子ではなく支藩の徳山藩から養子として入った人で、晋作と同い年であった。しかし、小姓となって4ヶ月後、御番手として江戸差遣の命が下る。この人事は、江戸駐留の長州藩勤王派の画策であった。この勤王派とは、晋作の幼馴染である久坂玄瑞を筆頭に、井上聞多、伊藤俊輔ら過激派書生たちであった。彼らは、晋作を首領として担ごうと江戸へ呼んだのである。その頃、長州藩論は長井雅楽の「航海遠略策」に沿った開国論に移行しており、攘夷派達にとって由々しき事態であった。彼らは晋作を呼んで今後の方策を決定するつもりであった。江戸に着いた晋作は事情を聞き、長井雅楽を斬る事を決断する。しかしその計画は、過激派書生達の兄貴分である周布政之助や桂小五郎の耳に入り、彼らは策を案じて、晋作を幕府外国使節に加えて上海に派遣して、暗殺を断念させることにした。
文久2年、上海行きの船に乗るため長崎へ。出港が遅れたため、晋作は旅費を使って芸妓を落籍し、日常の煮炊きをさせている。いざ出発の時になり、旅費が足りず芸妓を元の抱え主に戻さざるを得なくなった。この件は、のちのちまで自責の念にかられることになる。
航海中、薩摩藩士五代才助や佐賀藩士中牟田内蔵助と談じて意気投合する。上海に到着すると、清国が英国の軍事力をもって太平天国の乱を防いでいること、英国によって再建された橋を、清国人が通橋料を英国に払って通行していることを知り驚愕する。晋作は西洋の驚異を身をもって感じた。滞在期間中、書物を多数、短銃2丁を購入。上海には2ヶ月ほど滞在し、長崎へと戻った。
長崎へ戻った晋作は、無断で蒸気船の購入に動く。が、もちろん藩は許さず購入は破談となる。
晋作は、江戸へ向かった。

文久元年3月 世子小姓役を命じられる。
文久元年7月 江戸へ。
文久元年12月 上海行きを命じられる。
文久2年1月 長崎へ。
文久2年4月 長崎出港。
文久2年5月 上海到着。
文久2年7月 帰国。蒸気船購入を計画。

晋作の世子小姓就任は、父小忠太の斡旋。江戸行きは久坂の画策。そして上海行きは周布と桂の策。すべて他人が画策したことであり、晋作が決めたことではありません。「動けば雷電のごとく」となるのは、まだ先の話です。世子小姓という将来を約束されていた状態から、久坂や井上などの過激派書生たちに呼ばれ、過激派の仲間に入ります。他藩にまで名の通った桂や久坂が、全く無名の晋作をわざわざ藩の人事に介入して江戸に呼び寄せます。彼らの晋作に対する期待のほどが伺えます。桂は過激派書生たちの兄貴分的な存在でしたが、自分自身は過激ではなく、分別のある理解者という立場だったようで、長井暗殺を阻止します。とはいえ、「長井を斬る」となっている晋作や久坂を止めるために晋作を上海にやるわけですが、晋作は上海に行けるからいいとして、久坂をどう止めたのかはわかりませんね。晋作帰国後、久坂と不仲になっていませんので、上海行きが決まったから晋作が勝手に止めたというわけではなさそうですね。
この上海の経験が、晋作のその後の行動の源になったようです。

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