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【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊地町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関〜唐戸)/彦島

-晋作の愛した下関-

豊北町・豊浦町 / 豊田町・菊川町 / 吉母・吉見・福江 / 内日・井田・田倉 / 吉田・清末
安岡・綾羅木・延行 / 長府 / 市街(下関〜唐戸) / 彦島

内日・井田・田倉

 内日地区は山々に囲まれた盆地で、豊かな水源を利用した田園地帯でした。年貢の減免を求め、5人の農民が幕府の巡見使に直訴した浮石義民事件があったのも内日の地です。内日の南側が井田で同じく田園地帯となっているほか、下関最大の墓地である中央霊園が造られています。田倉には長府藩が攘夷戦の為に藩庁を移動させた勝山御殿跡があり、公園として整備されています。

内日

内日
-長府藩領の田園地帯-
南北に伸びる山の谷間の盆地。長府藩の領地で古くからの田園地帯でした。幕府巡見使の通る巡見道でもあった為、浮石義民が直訴の為に待ち伏せを行って、見事に直訴を成功させています。
場所:下関市内日上、下関市内日中

井田

来福寺
-攘夷戦時に藩主正室らが避難した寺-
長府藩の藩庁であった長府陣屋は、海岸近くにあった為に、攘夷戦に備えて藩庁を覚苑寺へ移し、藩主正室ら女子供を来福寺に避難させています。正室らは勝山御殿の完成までの半年間、来福寺で暮らしました。
場所:下関市井田306
ブログ記事→下関市井田 来福寺~攘夷戦時の藩主正室らの避難場所

田倉

勝山御殿跡
-攘夷戦の際に急造された藩庁-
長府藩の藩庁であった長府陣屋は、海岸近くに立っており、攘夷戦では防御うえで不安がありました。長府藩は藩庁を内陸部の勝山の麓に移すこととし、半年あまりの突貫工事で勝山御殿を完成させました。これは宗家の長州藩が藩庁を山口に移すよりも早く、幕府の許可無しで藩庁を移転させています。
場所:下関市田倉
ブログ記事→下関市田倉 勝山御殿下関市田倉 勝山御殿(再訪)




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