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グラバー邸

長崎市南山手町8番1号


金刀比羅宮
仲多度郡琴平町字川西892番地1


馬関越荷方役所跡
下関市南部町


逃亡
イギリスへの遊学の為、伊藤俊輔を伴って長崎へ向かう。長崎の英国商人トーマス・グラバーに洋行の周旋を頼むが、逆に長州の危機的状況の中、洋行するのは得策ではないと説得される。逆に、馬関を開港することを進言された晋作は、急遽馬関に戻って開港を推し進める。このことにより、長州に根強く残る攘夷派や、馬関の長府藩領から本藩領への領地替えに反対する長府藩士らに、命を狙われたため逃亡する事になる。うのとともに四国へ逃れた晋作は、琴平の侠客日柳燕石を頼った。一方、長州藩では間近に迫った幕府との戦いに備える為、晋作は桂小五郎の斡旋で帰還。用所役国政方に任命された晋作は、防衛体制の強化にあたる。この頃、高杉家を廃嫡されて育扱いとされ、藩命により谷潜蔵と改名する。

元治2年3月 イギリス遊学の為、伊藤俊輔と長崎に向かう。
下関開港を計画し、攘夷派に狙われる。
慶応元年4月 四国へ逃亡。日柳燕石を頼る。
慶応元年6月 長州へ帰還。
慶応元年9月 用所役国政方を拝命。
谷潜蔵改名。

藩の許しを得て洋行することになりますが、随行は伊藤俊輔です。留学経験もありますが、気心の知れていた伊藤を連れて行って行く事は晋作が望んだことでしょう。結局、洋行は無くなりましたが、この二人の洋行も見てみたかったという気がしますね。ハチャメチャになったことでしょう。
グラバーの説得により洋行は諦めるのですが、どういう説得をしたのでしょうか?長州の大事な時期だからなんて説得では、晋作は止められそうにない。たぶん下関を開港すれば、イギリスになんていつでも行けるなんて言ったんじゃないでしょうか?それならば「それもそうだな」と思うかも知れません。あくまで想像ですが。
下関を開港するなんて、外部からは簡単な事だと思われますが、攘夷急先鋒の長州藩ですし、実際の下関はほとんどが長府藩や清末藩の領地。命を狙われるのは当然でしょう。しかし「逃げの小五郎」よりも逃げ足の速いのが晋作ですので、いちはやく逃亡して難を逃れています。
そのうち、幕府の脅威が迫ってくると、手のひらを返して晋作を呼び戻すわけです。




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