【三百諸藩の幕末の動向】東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩
【その他リストなど】幕末明治の艦艇/御三卿・幕府直轄地拠点/幕末人物 墓所訪問
【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊地町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関~唐戸)/彦島


絵堂戦役記念碑

美祢市美東町絵堂


金麗社
美祢市美東町大田


椋梨藤太の墓
萩市江向4区269 徳隣寺


長州内訌戦
決起に慎重であった奇兵隊をはじめとした諸隊は、藩への建白書の回答が無い事で開戦を決意し絵堂へ進軍。絵堂で藩政府軍と交戦して絵堂を占領する。しかし、絵堂の地形が防備に向かない為に、大田の金麗社を本陣として藩政府軍に備えた。体勢を立て直した藩政府軍は、諸隊に対して攻勢を掛けるが、諸隊らはこれを防ぎ藩政府軍は総崩れとなった。さらに諸隊の決起と勝利の報を聞いた晋作ら馬関の諸隊が合流し、諸隊軍の士気は大いに上がり、赤村に留まる萩政府軍を撃退する。晋作はさらなる追撃を主張しますが、幹部らの反対により断念。大田絵堂の戦いは諸隊の勝利で幕をおろした。
諸隊らは山口へ向い、そこを拠点として諸隊会議所を設置。晋作を統理に推挽して軍政を敷いた。一方、萩では俗論派が求心力を失い、中立派の鎮静会議員(東光寺党)が台頭。鎮静会議員は山口の晋作に使者を送り、萩の情勢、今後の改革を協議し、諸隊と鎮静会議員が同一行動を取ることが合意された。しかし帰路についた鎮静会議員の使者が、俗論派に襲われ殺害されるという事態が発生。その罪を諸隊軍に擦り付けられるのを嫌った晋作は、萩へ進軍することを決意する。萩周辺を征圧して諸隊軍は、萩城下を包囲。俗論党幹部らは逃亡した。諸隊は萩城下へ入り、晋作は野山獄に捕らえたれていた正義派藩士を開放する。椋梨藤太は岩国で捕らえられ斬首される。藩主毛利敬親は、騒乱の責任を先祖の霊に謝罪し、維新の政治を敷くことを誓った。長州藩政府は武備恭順の方針を確定し、政府人事として但馬に潜伏していた桂小五郎を見つけ出し政務座役に据え、来たるべき幕府戦に備える。
ここへ来て政変の主役であった晋作は指導者の座を降り、役を辞して洋行を志す。

元治2年1月 大田絵堂の戦い。
五卿九州行。
元治2年2月 俗論党首魁椋梨藤太が捕らえられる。
元治2年3月 正義派政権設立。武備恭順の方針に定める。
晋作洋行を志す。

晋作の挙兵に始まったクーデターは、躊躇していた諸隊の参加により、諸隊軍の勝利に終わります。これにより全藩挙げて幕府に対抗する方針が確立され、倒幕、維新への流れがスタートします。
そのクーデターの立役者たる晋作は、トップの座を惜しげもなく降り、政治を桂小五郎に任せて外国に遊学しようと志します。
一度手に入れた権力を惜しげもなく捨て去るという事は日本に限らず世界史の人物でも稀であり、あえて挙げるならば、赤シャツ隊を率いてイタリア統一に貢献しながら、統一後は潔く国王に占領地を献上して去ったガリバルディ位なものです。



                    戻る 次へ

                 高杉晋作略歴に戻る


トップページへ