|
||||||
【三百諸藩の幕末の動向】東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩 【その他リストなど】幕末明治の艦艇/御三卿・幕府直轄地拠点/幕末人物 墓所訪問 【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊地町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関~唐戸)/彦島 |
前田台場跡 下関市前田町1丁目
世外井上馨候遭難之地 山口市中園町
功山寺 下関市長府川端1丁目 |
功山寺挙兵 |
|||||||||||||||||||
禁門の変により、朝廷は長州藩追討令、幕府は征長令を発する。同時に長州藩主毛利隆親、世子毛利定広は、官位剥奪された。同月、英仏蘭米の四ヵ国の連合艦隊が下関を攻撃。海岸線の各砲台か破壊されるなど、手痛い損害が出て惨敗した。
下関戦争の講和では、宍戸刑部と名乗って大紋に鳥帽子で臨みます。「魔王」のような態度で談判しますが、連合国側からの要求をほとんど受け入れていたようです。しかし、300万ドルの賠償金は、長州が外国船に発砲したのは幕府の攘夷期限の命令を実行したのだから、賠償金は幕府が支払うべきと主張。連合国側も、300万ドルの大金を長州藩がが支払えるとは思っていなかったようで、請求先を幕府に移行した方が、捕りはぐれが無いと思ったのかその主張を呑んでいます。彦島租借の件は文献に残されておらず、唯一伊藤博文の証言で知られるだけです。 保守派(俗論党)に乗っ取られた藩政を奪回する為に、晋作はクーデターを起こします。伊藤博文は後年、このクーデターにいち早く参加したことを誇りに思っているようです。 動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや。 まさに伊藤博文の言葉どおり、晋作はその短い晩年をひた走ります。 戻る 次へ 高杉晋作略歴に戻る |
||||||||||||||||||||
|
トップページへ |