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佐土原藩人物録

佐土原藩
   2万7000石 佐土原島津家 佐土原城
慶長8年、島津家第15代当主島津貴久の弟忠将の子である以久が、日向国の一部3万石を与えられて立藩した。その後のお家騒動で、知行が3000石減らされ、2万7000石で幕末に至る。藩主家が薩摩藩の陪臣垂水島津家の分家であるため、薩摩藩からは従属の立場にあると見なされ、支藩的な扱いとなっていたが、幕府側からは独立した藩として見られていた。


薩摩藩人物録はこちらから。※島津家一門人物録はこちらから。
あ行


池上 隼之助
いけがみ はやのすけ
(1821-1894)
佐土原藩

寺田屋事件で捕らえられた佐土原藩士
文政12年、佐土原藩士池上陳暁の子として生まれる。小納戸役経て、江戸藩邸詰となり、上原立斎や梅田雲浜らと交流して、尊皇攘夷の影響を受ける。安政5年、日米修好通商条約の締結を憤り、徳川斉昭への面会を企てるが失敗。国元に幽閉された。文久2年に脱藩し、薩摩、久留米藩士らと挙兵を計画するが、寺田屋事件で捕縛され幽閉処分となるが、翌年に許された。元治元年、病死。


変名:池上権九郎、池上陳敬、雲窟、竹泉
主な役職:小納戸役
剣術:−
墓所:不明


大村 純雄
おおむら すみお
(1851-1934)
佐土原藩

元大村藩主の婿養子となった佐土原藩主の子
嘉永4年、佐土原藩主島津忠寛の次男として生まれる。島津又十郎家の養子となるが後に生家に戻る。明治2年、薩摩藩藩費留学生として、兄の島津忠亮や弟の島津啓次郎らと米国に留学する。明治9年、旧大村藩主大村純煕の婿養子となった。明治23年、貴族院議員に選出。翌年には、養父純煕の戊辰戦争での功績により、伯爵となった。明治40年、衆議院議員の横山寅一郎と共に、大村湾水産養殖所を開設した。昭和9年、死去。


変名:島津武郎、丸岡武郎、島津久風
主な役職:式部官、貴族院議員
剣術:−
墓所:東京都港区青山霊園



か行


樺山 舎人
かばやま とねり
(1832-1912)
佐土原藩

薩英戦争の和議交渉に参加した佐土原藩家老
天保3年、佐土原藩士樺山雅楽の子として生まれる。嘉永6年、家督を継いで出仕。藩政改革に尽力したことで、家老に昇進された。文久3年、薩摩藩の重野安繹らとともに薩英戦争の和議交渉にあたる。慶応4年、佐土原隊隊長として入京。鳥羽伏見の戦いに参加した。明治2年、佐土原藩の権大参事に就任。新政府に出仕して検事や警部を努めている。明治45年、死去。


変名:樺山久舒、樺山岩記
主な役職:佐土原藩家老、砂土原隊隊長、佐土原藩権大参事、検事、警部
剣術:−
墓所:不明



さ行


島津 啓次郎
しまづ けいじろう
(1856-1877)
佐土原藩

島津一門ながら西南戦争に参加した佐土原隊隊長
安政3年、佐土原藩主島津忠寛の三男として生まれる。家老の町田家の養子となる。鹿児島や江戸に遊学し、勝海舟門下生となる。明治3年、薩摩藩藩費留学生として兄弟らと共に米国へ留学。語学、文学、数学、軍学等を学ぶ。留学中、留学資格の都合上、町田家との養子縁組を解消して島津家に復籍。明治9年に帰国した。帰国後、郷里に帰り私学校を開いた。明治10年、西南戦争が勃発すると、有志約200人と共に佐土原隊として参戦。熊本城の戦い、田原坂の戦いで奮戦するが敗北。隊と共に宮崎に撤収した。その後、単身上京して事態の打開や助命嘆願に動くが失敗。再び佐土原に戻り、西郷軍と合流。城山で戦死した。


変名:町田啓次郎
主な役職:文黌主宰、佐土原隊隊長
剣術:−
墓所:東京都渋谷区東北寺


島津 忠亮
しまづ ただあきら
(1849-1809)
佐土原藩

文事に通じ書を能くした佐土原島津家当主
嘉永2年、佐土原藩主島津忠寛の長男として生まれる。江戸の昌平坂学問所に学ぶ。明治2年、実弟の丸岡武郎、町田啓次郎と共に米国へ留学。明治12年、初代東京府赤坂区長に就任。明治21年、香蘭女学校の開校に尽力する。同年、貴族院議員に就任。明治31年、宮崎神宮の社殿造営を目的として、神武天皇御降誕大祭会を結成。明治42年、死去。


変名:島津又之進、霞峰、東洋、穆山
主な役職:東京府赤坂区長貴族院議員、神武天皇御降誕大祭会会長
剣術:−
墓所:東京都渋谷区東北寺


島津 忠寛
しまづ ただひろ
(1828-1896)
佐土原藩

宗家に追従した最後の佐土原藩主
文政11年、第10代佐土原藩主島津忠徹の三男として生まれる。天保10年、父の死去により跡を継ぐ。藩財政の再建のために、藩内産物の統制や専売制を導入し、新田開発や造林、税制改革などを行なって財政を好転させるが、藩札の発行に失敗して財政を悪化させてしまう。文久3年、薩英戦争の講和の仲介として、藩士を派遣している。戊辰戦争では、薩摩藩に従って新政府側として参戦。上野戦争や会津戦争で功績を挙げた。版籍奉還で藩知事となり、藩庁を広瀬に移して佐土原城を破却した。明治4年、廃藩置県により免官。明治29年、死去。


変名:島津又之進、島津徳次郎、島津佐嘉郎、蠖堂
主な役職:第11代佐土原藩主、佐土原藩知事
剣術:−
墓所:東京都渋谷区東北寺


た行


な行


能勢 直陳
のせ なおのぶ
(1821-1894)
佐土原藩

生麦事件、薩英戦争の事後処理に奔走した佐土原藩士
文政4年、佐土原藩士能勢明陳の子として生まれる。江戸に遊学し、小浜藩の儒者山口菅山に学ぶ。帰藩後、藩校学習館の塾頭となる。家老に就任後は、藩政改革にも参加。文久2年、薩摩藩の起こした生麦事件の事後処理に関わる。文久3年の薩英戦争では、講和の仲介としてその戦後処理に奔走した。藩庁の移転案が出た際は、その移転先の選定にも参加している。明治27年、死去。


変名:能勢二郎左衛門、能勢直信卓軒
主な役職:藩主側役、用人
剣術:−
墓所:不明


は行


平山 太郎
ひらやま たろう
(1849-1891)
佐土原藩

官庁を渡り歩いた第五高等学校二代目校長
佐土原藩の儒学者児玉平格に学び、薩摩藩の藩校造士館で弓術や漢学を習得。慶応3年、江戸へ遊学して漢学者水本樹堂に師事。その後昌平学校にも通っている。明治2年、藩命により海軍学習得のため、世子島津忠亮、大村純雄、橋口宗儀と共に渡米。ニューブランズウィックやボストンで学んだが、明治4年の廃藩置県により、佐土原藩が廃藩となる。海軍省の官費留学生に選ばれて留学を続け、明治7年に帰国。帰国後は、海軍省に出仕し、海軍中秘書に就任する。明治10年、内務省勧農課に勤務。明治11年には文部省学監事務所に勤務して、文部省顧問ダビッド・モルレーの事務を助けた。明治12年に音楽取調掛勤務、明治13年に体操伝習所主幹を務め、東京図書館長に就任。明治18年には、文部権大書記官に出仕して、訓盲唖院長を兼務した。明治19年、第三高等中学校幹事となり、明治23年には第五高等中学校長に就任する。明治24年、在任中に病死した。


変名:平山徳太郎、平山武卓、靖斎、蕉陰
主な役職:体操伝習所主幹東京図書館長、訓盲唖院長、第五高等中学校長
剣術:−
墓所:宮崎市佐土原町明神山


ま行


三浦 十郎
みうら じゅうろう
(1847-1914)
佐土原藩

日本人国際結婚第一号となった佐土原藩士
弘化3年、佐土原藩士の子として生まれる。文久3年、藩校学習館の塾頭に就任。藩庁移転を有志と共に、家老能勢直陳らに発案した。明治3年、藩命でフランスに留学。翌年にはドイツのウィルヘルム大学に入学した。在学中、クレーセンツ・ゲルストマイエルというドイツ人女性と深い仲となっている。帰国に際し二人は一旦別れるが、ゲルストマイエルは三浦を追って来邦。日本人国際結婚第一号となった。その後、陸軍省を経て大蔵省紙幣寮に勤務。明治19年に印刷局技師となった。大正3年、死去。


変名:-
主な役職:軍事総轄代理、印刷局技師
剣術:−
墓所:東京都渋谷区東北寺



や行


ら行


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