【三百諸藩の幕末の動向】東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩
【その他リストなど】幕末明治の艦艇/御三卿・幕府直轄地拠点/幕末人物 墓所訪問
【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊川町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関〜唐戸)/彦島

十津川郷人物録

十津川郷

十津川村は南大和の村で、神武天皇東征のとき道案内に立った八咫烏を信仰対象とします。古くからこの地域の住民は朝廷に仕え、壬申の乱や平治の乱にも出兵し、その戦功によりたびたび税減免措置を受けていた。また、米の取れない山地のために室町時代から江戸時代にかけて年貢が赦免され、住民は郷士を名乗ることを許されていた。郷士は純粋な勤皇思想を持ち、特異とも言える独立独歩の精神を備えていた。山中の村のため近代化には乗り遅れたが、古来よりの武道には長けていた者が多かったと言われている。


※諸藩人物録へ戻る。    ※水戸藩人物録はこちらから。
※佐賀藩人物録はこちらから。
※福井藩人物録はこちらから。
※福岡藩人物録はこちらから。

あ行


上平 主税
うえひら ちから
(1824-1868)
十津川郷士

流刑にされた十津川郷の総代
文政7年、十津川郷野尻に生まれる。松岡梅軒に医術を学び、また京都において国学を修める。嘉永6年、郷中総代として五條代官へ一郷挙げての奉公を建白書にして提出。安政元年、ロシア艦が大阪湾に入るのを聞き、十津川郷士をともない打ち払いを謀るが、ロシア艦が港外に去ったため実行に至らなかった。
安政5年に上京、諸国の志士と交わる。文久3年、天誅組の変に際しては、急ぎ帰郷し収拾に努めた。明治2年、横井小楠要殺事件で首謀者と見なされ、伊豆新島に終身流刑となった。流刑中医業を生かし種痘をするなど、多くの島民や流人の命を救い、恩人と尊敬された。明治12年に特赦を受けて帰郷。玉置神社の詞官となった。


変名:-
主な役職:郷中総代玉置神社詞官
剣術:-
墓所:吉野郡十津川村玉置神社


か行


さ行



た行


玉置 高良
たまき たかよし
(1837-1889)
十津川郷士

十津川の発展に尽くした郡長
天保8年、十津川郷士玉置銀之助の長男として生まれる。文久3年、十津川郷士は京都御所警衛の任に従事するが、高良は私財二千両余を郷士達の滞在費にあてた。元治元年、郷校文武館が設立。文武館詰助役となる。次いで郷中総代となり郷務の整理に当たる。明治5年、玉置神社祠官に就任。明治13年には、宇智吉野郡長に任ぜられた。明治22年、田戸街道の開通式に臨み、帰途宇宮原の旅館に宿泊したが、十津川大水害に遭遇。家屋と共に十津川に押し流された。


変名:-
主な役職:文武館詰助役、郷中総代、玉置神社祠官、宇智吉野郡長
剣術:-
墓所:吉野郡十津川村


玉置 義正
たまき よしまさ
(1832-1916)
十津川郷士

十津川郷士達に学問を教えた無欲向学の師
天保3年、玉置歌之助の長男として生まれる。幼少のときに病気で足が不自由となった。家が貧困となるが、働きながら勉学に励む。嘉永5年、近隣の弟子を集め自宅に家塾を開塾。塾生は年々増え、教えを受けた塾は、300余人に達する。また、地方の人々の争いごとや家内の不和など、その解決の為に不眠不休、昼夜を問わず、寝食を忘れて解決に努力したとされている。大正5年、死去。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:吉野郡十津川村


玉堀 為之進
たまほり ためのしん
(1810-1863)
十津川郷士

天誅組の先陣の犠牲となった林村の庄屋
文化7年、林村の庄屋の子として生まれる。温厚な人柄で、言語さわやか、背高く中肉、上品な人で、筆跡も見事であり、上組の牛耳を執り、第一級の人物であったとされている。文久3年、天誅組の変起こり十津川郷はこの挙兵に参加を求められる。郷士の多数はこれに参加したが、玉堀は上田主殿と共に天誅組指導者らに会い、挙兵の大義について議論する。しかし、天誅組側と意見合わず不参加を表明。天誅組は、玉堀・上田両名を賊奸として斬殺する。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:吉野郡十津川村




な行


中井 庄五郎
なかい しょうごろう
(1847-1868)
十津川郷士

天満屋事件に倒れた十津川の剣豪
弘化4年、十津川郷士中井秀助の三男として生まれる。文久3年、十津川郷士上平主税に連れられて上京し、十津川郷士による御所警衛に参加。慶応元年、一旦十津川に戻るが、剣術教授の為に十津川に来ていた土佐藩士那須盛馬に剣術の腕を認められ、再び上京する。慶応2年、長州藩士品川弥二郎に依頼され、新選組の村岡伊助を暗殺。同年、寺田屋で坂本龍馬と時勢を論じ、龍馬に惚れ込んだ。慶応3年、龍馬が暗殺されると、海援隊士陸奥陽之助は、紀州藩公用人三浦休太郎の犯行と断定。仇を討つことを決定する。中井はこの討ち入りに参加。三浦は新撰組に守られ天満屋に泊まっていたが、中井らはそこに討ち入り奮戦したが、新撰組に返り討ちにあい斬らえた。


変名:中井義高
主な役職:-
剣術:田宮流抜刀術
墓所:京都霊山護国神社


沼田 龍
ぬまた りゅう
(1827-1879)
十津川郷士

十津川に洋式練兵を導入した郷士
文政10年、十津川郷字宮原村に生まれる。安政5年、上平主税、深瀬繁理等と京都に上り、諸国の勤王の志士と交わる。安政6年、新宮湊口銀問題について、上平主税、佐古源左衛門外数名と共に材木方総代となり五條代官へ請願。文久3年、京都御所警衛のため上京する。同時期に天誅組の変起こり、十津川郷士の多くはこれに参加するが、天誅組が逆賊となったため、急遽帰郷し、善後策を講じる。慶応3年、十津川郷士の洋式練兵を断行。訓練を受けた十津川郷士は、御親兵として武勲を輝かせた。明治2年、堺県権大属に任ぜられた。明治12年、死去。


変名:沼田京蔵、沼田恭三、沼田民部
主な役職:堺県権大属
剣術:-
墓所:堺市中之町正法寺


野崎 主計
のざき かずえ
(1824-1863)
十津川郷士

天誅組に参加した責任を取り自害した郷士
文政7年、十津川郷士野崎利七郎の長男として生まれる。資性鋭敏、学問を好み雄弁の才があったという。若年のころ病で13年間立つ事が出来ず、読書で世情に通じた。安政元年に同志らと共に京都に上り、梅田雲浜を始め多くの志士と交わる。文久3年、天誅組が十津川に援兵を求めた際、同志と共に参加。しかし、八月十八日の政変により、天誅組が賊徒となり離脱。十津川郷士が天誅組に参加した事の責任を取り自刃した。


変名:野崎正盛
主な役職:-
剣術:-
墓所:吉野郡十津川村


は行


深瀬 繁理
ふかせ しげり
(1826-1863)
十津川郷士

天誅組に参加した十津川郷士の名代
文政9年、深瀬幸右衛門の次男として生まれる。嘉永3年、諸国を巡り、梅田雲浜を始め諸藩の志士と交わり、勤皇運動に参加した。文久3年、同志と共に朝延に十津川郷の由緒書を提出。天誅組が挙兵すると、野崎主計と共に郷士を率いて各地に転戦した。しかし、八月十八日の政変により、天誅組が賊徒となり十津川郷士達は離脱。伴林光平や中山忠光らの逃走に尽力するが、津藩兵に探知され白川河原にて斬首された。


変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:吉野郡十津川村川津



ま行



や行


ら行


わ行



トップページへ