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幕末・維新を生きた女性人物録

幕末を生きた女性達

幕末・明治の激動の時代、女性たちは時には早すぎる時の流れに翻弄され、時には志士たちを支え、時には歴史を変える事件を起こした。

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あ行


愛加那
あいかな
(1837-1902)
西郷隆盛島妻
西郷隆盛の2人の子を育てた島妻
天保8年、奄美大島豪族龍佐栄志の娘として生まれる。安政6年、幕府の捕吏から逃れるために奄美大島に潜居していた西郷隆盛の島妻となる。西郷との間に菊次郎、菊草の2人を儲ける。文久2年、薩摩藩国父島津久光の召還により、西郷は鹿児島に戻った。同年、西郷は徳之島へ遠島処分を受けたため、奄美大島から子供2人を連れて西郷に会いに行く。数日の再会の後、西郷は沖永良部島への遠島を命じられ、愛加那と2人の子供は奄美大島に戻った。明治2年に菊次郎、明治9年に菊草が西郷本家に引き取られるが、愛加那本人は島から出ることは許されずに一人残る。明治35年、死去。
変名:龍愛子、とま
主な役職:-
剣術:-
墓所:大島郡龍郷町田畑家墓地


幾島
いくしま
(1808-1870)
将軍正室付御年寄
篤姫を支えた続けた大奥御年寄
文化5年、薩摩藩士朝倉孫十郎の娘として生まれる。薩摩藩第9代藩主島津斉宣の娘郁姫の輿入れに、上臈とし遂行。嘉永3年に郁姫が死去すると、そのまま近衛家に残って郁姫の菩提を弔った。
その後、薩摩藩第11代藩主島津斉彬の養女篤姫の将軍家輿入れに伴い、大奥に入るまでの間教育係などを受け持つ。大奥へは、近衛家家士今大路孝由の養女として篤姫付御年寄として入った。薩摩藩への連絡役としても活動し、将軍継嗣問題等に重要な役目を果たしている。安政5年に篤姫の夫である将軍家定が急死した後も、天璋院となった篤姫を支えた。元治元年に体調を崩して一時期大奥を離れるが、慶応4年に大奥に戻って天璋院の使者として薩摩藩との交渉に出向き、江戸無血開城にも関与したといわれる。明治3年、死去。
変名:朝倉糸、藤田、得浄院、局
主な役職:-
剣術:-
墓所:東京都杉並区大円寺、鹿児島市唐湊唐湊墓地


幾松
いくまつ
(1843-1886)
芸妓
木戸孝允夫人
桂小五郎を支え続けた名芸妓
天保14年、若狭小浜藩士の娘として生まれる。安政3年、14歳で舞妓に出る。美しく利発で、芸事にも秀でて二代目「幾松」を襲名。笛と踊りを得意とし、瞬く間に有名な芸妓へと成長する。文久2〜3年頃、桂小五郎と出会う。以後は桂の尊皇攘夷運動を陰で支えた。文久3年、八月十八日の政変で長州藩が失脚すると、桂の身も危険に晒されたが、機転を利かせて匿うなど危機を救った。元治元年、幾松にも幕府の追求が厳しくなり、長州藩士の手助けで下関に逃れる。明治3年、木戸孝允と改めた桂小五郎と婚姻。身分差を超えた初めての正式な婚姻であったと云われる。明治10年、木戸の病死後は薙髪し「翠香院」と号した。明治19年、胃病により死去。

変名:木崎斗、木崎計、木崎計子、木戸松子、翠香院
主な役職:-
剣術:-
墓所:京都霊山護国神社


一条 美香子
いちじょう みかこ
(1835-1894)
将軍正室
徳川幕府最後の将軍の正室
天保6年、公卿今出川公久の子として生まれる。徳川慶喜の正室として関白一条忠香の娘千代が内定していたが、千代が疱瘡を患ってしまいその代役として一条家の養女となった。安政2年に慶喜の正室となる。安政5年に女子を出産するが早逝。その後、慶喜が京へ向かったために別居となる。慶喜が征夷大将軍となってからも、慶喜が江戸に戻っていないために大奥には入らなかった慶喜が江戸に戻ってからも、慶喜が謹慎状態であったため、そのまま一橋家の屋敷に住んだ。明治2年、慶喜の謹慎が解除されると共に暮らすようになるが、子宝には恵まれなかった。慶喜の側室が生んだ子を実子として育てている。明治27年、死去。
変名:延、省、省子
主な役職:将軍家御台所
剣術:-
墓所:東京都台東区 谷中霊園


一色 須賀
いっしき すが
(1838-1929)
徳川家老女
慶喜家の家政を取り仕切った老女
天保9年、旗本一色貞之助の長女として生まれる。気丈な性格で父より武芸を習っていたという。一橋家の奥女中杉浦の養女となって、女中として一橋家に努めた。安政2年に一条省子が徳川慶喜の正室になると、省子付きの女中となる。女中頭として奥向きの一切を取り仕切り、慶喜の静岡移住後も、徳川家を支え老女として徳川家の家政を取り仕切った。一説には、慶喜最初のお手付き中臈であったとされる。昭和4年、死去。

変名:みち
主な役職:徳川家老女
剣術:-
墓所:東京都台東区 谷中霊園


伊藤 梅子
いとう うめこ
(1848-1924)
芸妓
伊藤博文夫人
良妻として伊藤を支えた初代ファーストレディ
弘化5年、店屋久兵衛の長女として生まれるが、両親を亡くした為に10歳頃に木田幸助の養女となる。亀山砲台のあった亀山八幡宮境内のお亀茶屋でお茶子として働いていた時、伊藤俊輔(博文)と知り合う。その後、父の借金のカタに下関稲荷町の置屋に身売りされ、小梅と名乗り芸者見習いとなる。その後、伊藤に見受けされ妊娠。妻子のあった伊藤を離縁させて結婚する。好色であった伊藤の女性関係には一切口を出さず、自宅に遊びに来た芸妓達に、土産物を持たせるなど大人の対応をとって畏れを抱かせた。英語や和歌などを学んで教養を身につけ、良妻賢母として夫を支えた。明治42年に伊藤がハルビンで暗殺された際、動揺することなく気丈に振舞ったと伝えられる。大正13年、死去。


変名:木田梅子、小梅
主な役職:内閣総理大臣婦人
剣術:-
墓所:東京都品川区伊藤家墓所


うの
うの
(1843-1909)
芸妓
晋作が惚れ込んだ下関の芸者
天保14年生まれとされているが、出生は定かではない。文久3年頃「此の糸」の名で芸者をしていた裏町の堺屋で高杉晋作と出会い、ほどなく晋作に身請けされる。右を向けと言われれば、いつまでも右を向いているような女であったと伝えられているが、その様な性格が晋作に愛されたと云われている。元治2年、晋作は長州内訌戦後に、下関開港を計画したことから攘夷派と俗論党の両方から命を狙われた為、駆け落ちを装い四国へ逃亡。道後温泉などを訪ねている。下関に戻ると晋作は海軍総督に任命され、幕長戦争の指揮をとるが、肺結核が発症し療養生活を余儀なくされた。うのは献身的に看病するが、その甲斐なく晋作は死去する。晋作の遺言により出家し、谷梅処と名乗って墓所を守った。晋作の妻であった雅子とも交流があり、梅処が東京に出た時は高杉邸に宿泊させたり、梅処は読み書きが出来ないので雅が代書したり友好な関係を築いている。明治42年、死去。

変名:此の糸、谷梅処
主な役職:初代東行庵主
剣術:-
墓所:下関市東行庵


大浦 慶
おおうら けい
(1828-1884)
女商人
日本茶を世界に広めた女商人
文政11年、長崎の油商大浦太平次の娘として生まれる。天保14年、大浦家は大火で大損害を受ける。嘉永6年に通詞品川藤十郎と協力して、出島の蘭人に、英、米、アラビアに茶を送ることを依頼。3年後の安政3年、英国商人オールトが巨額の茶を発注する。これが日本茶輸出貿易の先駆けとなった。文久元年、米国で南北戦争が勃発し一時的に輸出は停滞するが、慶応元年の南北戦争終結後は爆発的に注文が増えた。巨万の財を手に入れた慶は、坂本龍馬、大隈重信、松方正義、陸奥宗光らと親交があったとされる。明治4年、熊本藩士遠山一也にだまされて、翌明治5年に国オールト商会から訴えられる。多額の賠償金を支払うこととなり、大浦家は没落。家財は差し押さえられた。明治17年、日本茶輸出貿易の先駆者としての功績を認められ、茶業振興功労褒賞と金20円を贈るが、その1週間後に死去した。借金は死ぬまでに完済していたとされる。
変名:-
主な役職:大浦屋店主
剣術:-
墓所:長崎市高平町曇華院跡大浦家墓地


奥村 五百子
おくむら いおこ
(1845-1907)
女志士
男装して幕末を駆け抜けた愛国婦人会の創設者
弘化2年、真宗大谷派釜山海高徳寺住職奥村了寛の娘として生まれる。幼少より男勝りの性格で、学問にも秀でていた。安政6年、唐津藩大阪屋敷に勤務する外叔父山田勘右衛門を訪ね、上方の情勢を肌で感じる。父や兄の奥村円心の影響を受けて尊王攘夷の志を持つ、文久2年、父了寛から密使を命じられ、長州藩に赴く。その際、深編笠に義経袴、朱鞘の大小という男装で旅立った。帰郷後も、対馬藩や福岡藩の勤皇派志士との連絡役を果たす。慶応2年、同宗派の福成寺住職大友法忍に嫁ぐ。明治2年、夫と死別。実家に戻り、兄円心の連絡役として働いた。そこで知り合った水戸藩出身の鯉淵彦五郎と駆け落ち同然で再婚する。一男二女を設けるが、明治20年に離婚した。離婚後、朝鮮半島に渡って、光州に実業学校を創設。朝鮮への浄土真宗布教のために渡った兄円心を助けた。北清事変後の現地視察をきっかけに女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、近衛篤麿や小笠原長生、華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設。日露戦争時には、女性の慰問や救護での参加呼びかけに努めた。明治40年、死去。
変名:奥村イオ、大友五百子、鯉淵五百子
主な役職:-
剣術:-
墓所:唐津市中町高徳寺、京都市下京区東本願寺、東京都台東区東本願寺


か行

和宮内親王
かずのみやちかこないしんのう
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楠本 イネ
くすもと いね
(1827-1903)
蘭医

波乱の人生を送った日本初の女医
文政10年、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとお滝の子として生まれる。父シーボルトは、国禁となる日本地図、日本に関するオランダ語翻訳の資料の国外持出が発覚し、イネが2歳の時に国外追放となる。イネは、シーボルト門下の宇和島藩士二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六からオランダ語を学ぶ。安政6年に再来日した父シーボルトと長崎で再会。父に蘭学を学ぶ。明治4年、異母弟にあたるシーボルト兄弟の支援で開業。福沢諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、その医学技術は高く評価された。その後、明治8年に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかった為、医院を閉鎖し長崎に帰郷。以後は産婆として開業。62歳の時、長崎の産院を閉鎖し再上京。以後は弟ハインリッヒの世話となり余生を送った。


変名:失本イネ、楠本伊篤
主な役職:宮内省御用掛
剣術:-
墓所:長崎市寺町晧台寺



さ行


斎藤 吉
さいとう きち
(1841-1890)
芸妓

周囲の偏見に苦しみ酒に溺れ自殺した唐人お吉
天保12年、船大工斎藤市兵衛の二女として生まれる。
安政4年、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが体調を崩し、ハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。妾の斡旋依頼と誤解した役人は、芸妓であった吉に白羽の矢を立てる。説得されて領事館に奉公したが、ハリスの回復に伴い3ヶ月で解雇。再び芸妓に戻ったが、外国人に奉公した事で周りから偏見の目で見られる。その後、髪結いや小料理屋などをはじめるがうまくいかず、アルコール依存症になった吉は最終的に物乞いとなり、明治23年、門栗ヶ淵に身投げした。


変名:きち、唐人お吉
主な役職:-
剣術:-
墓所:下田市宝福寺


坂本 乙女
さかもと おとめ
(1832-1879)
坂本龍馬姉

仁王様と呼ばれた坂本龍馬の姉
天保3年、土佐藩郷士坂本八平の三女として生まれる。
身長5尺8寸、体重30貫という大柄な女性であった。武芸、文芸に優れ、坂本龍馬の母親役として、書道・和歌・剣術などを教えた。安政3年、典医岡上樹庵に嫁いで一男一女を産むが、慶応3年に実家に戻る。弟の龍馬にとってはよき理解者であり、相談に乗ったり励ましたりしたという。龍馬暗殺後、お龍が坂本家に身を寄せた際には、お龍に対し親身に接したが、お龍は3ヶ月で坂本家を立ち去った。晩年は独と改名し、養子の坂本直寛と共に暮らした。明治12年、壊血病により死去。


変名:坂本留、岡上留、坂本独
主な役職:-
剣術:-
墓所:高知市山手町永福寺坂本家墓地


佐久間 順
さくま じゅん
(1836-1908)
佐久間象山夫人

父の仇を依頼した佐久間象山の娘
天保17年、旗本小普請組勝小吉の娘として生まれる。嘉永5年、兄の勝海舟の師佐久間象山に嫁ぐ。まもなく象山は、吉田松陰の密航事件に連座して松代に蟄居する。松代に当時無名であった高杉晋作が訪ねてきた際、紹介状が無いと象山は面会を断ったが、順が気を利かせて紹介状を書いてくれる人物を教えて、晋作は象山に面会できたという。8年にも及ぶ蟄居が許されると象山は上洛するが、河上彦斎に暗殺される。その後、山岡鉄舟の弟子てある村上淳五郎に象山の仇討ちを依頼、恋仲となり再婚する。後に離縁し、兄海舟の下に身を寄せる。晩年は勝家で静かに余生を送った。


変名:勝順、村上順、勝順子
主な役職:-
剣術:-
墓所:静岡市葵区蓮永寺

昭憲皇太后
しょうけんこうたいごう
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神保 雪
じんぼ ゆき
(1845?-1868)
神保修理夫人

捕虜となり自刃した神保修理の妻
会津藩士井上丘隅の二女として生まれる。会津藩家老神保内蔵助の嫡男修理に嫁ぐ。修理は藩主松平容保が京都守護職を拝命してからは、側近として随行し国事に奔走。しかし鳥羽伏見の戦いで、将軍慶喜に恭順を進言したとしてその責を問われ切腹する。会津戦争では、生家の井上家の父母姉が自刃する。雪は娘子隊に加わるが、新政府軍の捕虜となり処刑されることとなった。それを見た土佐藩士吉松速之助は酌量を求めるが、聞き入れられなかった。そこで雪は吉松に脇差を借り、見事に自刃して果てた。


変名:井上雪、神保雪子
主な役職:-
剣術:-
墓所:会津若松市建福寺


新村 信
しんむら のぶ
(1852-1905)
徳川慶喜側室

静岡移住後も慶喜に従った2人の側室のひとり
嘉永5年、旗本の家に生まれる。父は松井勘十郎若しくは、松平政隆とされているが定かではない。旗本荒井省吾の養女を経て、小姓頭取新村猛雄の養女となり、徳川慶喜の側室となった。慶喜が静岡に移住した後も慶喜に従った。同じく側室の中根幸とは、姉妹の様に仲が良く交代で慶喜に尽くした。明治38年、死去。


変名:-
主な役職:徳川慶喜側室
剣術:-
墓所:東京都台東区 谷中霊園


杉 千代
すぎ ちよ
(1832-1924)
児玉祐之夫人

叔父の切腹を介錯した杉家の長女
天保3年、長州藩士杉百合之助の長女として生まれる。天保14年、父百合之助が藩の役目で城下で暮らすことになると、母や弟妹と離れ父の身の周りの世話をする。弘化4年、長州藩士児玉祐之に嫁ぎ2男3女をもうけた。兄の吉田松陰が安政の大獄で斬首されると、次男の庫三に吉田家を継がせる。明治9年、叔父の玉木文之進が萩の乱の責任を取って、先祖の墓の前で切腹した際には介錯を勤めた。晩年は取材などに応じ、生前の松陰の人柄を伝えた。大正13年、死去。


変名:児玉千代、児玉芳子
主な役職:-
剣術:-
墓所:-


杉 寿
すぎ ひさ
(1839-1881)
楫取素彦夫人

夫を支え気丈に振舞った烈婦
天保10年、長州藩士杉百合之助の次女として生まれる。嘉永6年、小田村伊之助に嫁ぎ2児をもうけた。幕末期の動乱により、小田村伊之助が野山獄に投獄されたり、内訌戦や幕長戦争にも動じない気丈な振る舞いは、烈婦と評判になったと云われている。慶応3年、藩命により夫の伊之助が楫取素彦と改名すると、それに合わせて楫取寿子と称した。熱心な浄土真宗の信者で、維新後に参事や県令を歴任した夫を支えつつ、仏教の布教活動を行っている。日本初の生糸直輸出を実現した新井領一郎が渡米する際に、兄吉田松陰の形見の短刀を手渡した事でも知られている。明治14年、死去。


変名:小田村寿、楫取寿子、楫取久子楫取希子
主な役職:-
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


杉 文
すぎ ふみ
(1843-1921)
久坂玄瑞夫人
楫取素彦夫人

波瀾の人生を送った松蔭の妹
天保14年、長州藩士杉百合之助の四女として生まれる。兄の吉田松陰の松下村塾を手伝い、安政4年に松下村塾の門下生であった久坂玄瑞と結婚する。玄瑞は京都や江戸に遊学したり、尊皇攘夷運動で京都を拠点にていたため不在がちであったが、手紙のやり取りは欠かさなかった。元治元年、禁門の変で玄瑞は自害。姉と楫取素彦の子粂次郎を養子として久坂家を継がせる。その後、藩主毛利元徳正室の女中、藩主世子毛利元昭の守役を勤めた。明治12年に玄瑞の隠し子秀次郎が現れたため、久坂家を継がせる。明治16年、楫取素彦と再婚。群馬県令や貴族院議員を歴任した夫を支えた。大正10年、死去。


変名:杉文、久坂文、久坂美和子、楫取文、楫取美和子
主な役職:世子守役、貞宮御付
剣術:-
墓所:防府市桑山大楽寺



た行


高木 時尾
たかぎ ときお
(1846-1920)
藤田五郎夫人
会津戦争の戦死者埋葬に尽力した斎藤一の妻
弘化3年、会津藩士高木小十郎の長女として生まれる。手先が器用で字が上手く、照姫の祐筆を務める。会津戦争では、照姫に従い篭城戦に参加。男装する山本八重の髪を切ったというエピソードが残っている。会津降伏後、会津藩兵は罪人とされ、戦死者は埋葬を許されず城下に放置されていたが、後に埋葬を許される。時尾は会津藩兵の亡骸を集め埋葬に尽力し、その功績から阿弥陀寺の墓所の一角を譲り受ける。明治7年、元新撰組三番隊組長斎藤一(藤田五郎)と結婚。上仲人を松平容保、下仲人を山川浩、佐川官兵衛が努めた。大正2年、会津若松にて、会津戦争戦死者を埋葬した阿弥陀寺への寄付が募られると、若松外発起人の総代となって寄付を募った。

変名:倉沢時尾、藤田時尾
主な役職:-
剣術:-
墓所:会津若松市阿弥陀寺


高杉 雅
たかすぎ まさ
(1844-1922)
高杉晋作夫人

貞婦であり続けた晋作の妻
天保15年、長州藩士井上平右衛門の次女として生まれる。雅は萩城下で有名な評判の美人であった。安政7年、16歳で22歳の高杉晋作と結婚。雅と晋作の結婚生活は僅か六年ほどで一緒に暮らしたのは二年足らずであった。晋作の死後、高杉家は東京に移り、雅は嫡男の東一の養育につとめた。晋作の愛妾であった谷梅処とも交流があり、梅処が東京に出た時は高杉邸に宿泊させたり、梅処は読み書きが出来ないので雅が代書したりした。晋作は生前「私が死んでも再嫁せず高杉家を守ってほしい」と手紙を書き送っていたが、雅はこの言葉を守り続け再婚はせず、大正11年に77歳の生涯を閉じた。

変名:井上雅
主な役職:-
剣術:-
墓所:下関市東行庵


高須 久子
たかす ひさこ
(1818?-1886)
長州藩士息女

松蔭が獄中で育んだ淡い恋の相手
文化15年頃、長州藩士高須某の息女として生まれる。高須家は男子がいなかったために久子は婿をもらうが、夫は早死にして未亡人となる。夫に先立たれた寂しさから身分の違う者たちと交際したため、不義の罪で野山獄に投獄。安政元年に吉田松陰が野山獄に入獄すると、獄中で詩の会を介して親しくなる。翌年、松蔭が出獄して野山獄の囚人の解放を働きかけ、囚人の八割が解放されるが、久子は親族の反対で釈放されなかった。安政5年の安政の大獄で、松蔭が再び入獄し再開する。やがて松蔭は江戸に送られるが、久子は獄中で手縫いした手拭いを送って選別とした。松蔭処刑後も野山獄で過ごし、明治維新後に釈放される。釈放後も親族との関係修復は出来ず、獄中生活で体が衰えて苦労を重ねたが長寿を全うした。

変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:不明


高山 たつ
たかやま たつ
(1813-1876)
尾張藩女中

髷を結って男装した女性初の富士山登頂者
文化10年、戦国時代のキリシタン大名高山右近の直系子孫の娘として生まれる。尾張藩女中として働くが、当時女人禁制であった富士山の登頂を志す。不二道の開祖小谷三志の協力を得て、小谷のほか男性5人と女性として初の富士山登頂を成功させる。その際、地元住民や他の登山者に配慮し髷を結って男装した。これを機に小谷の弟子となり不二道に入信する。
その後の明治5年、富士山の女人禁制解除で、女性達も富士山に登ることができるようなる。明治9年、死去。
変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:不明


辰路
たつじ
(1846-1910)
芸妓
久坂の子を生んだとされる島原の芸妓
弘化3年生まれ。島原桔梗屋の芸妓である。久坂玄瑞の馴染みであったため、久坂の忘れ形見である久坂秀次郎の母ではないかといわれるが、 伏見西柳屋町の女性佐々木ヒロの子ともいわれる。また、辰路とヒロが同一人物だという説もある。明治3年、下京の豪農竹岡甚之助と結婚。3人の子を生んで育てている。 明治43年、死去。
変名:井筒タツ、辰次
主な役職:-
剣術:-
墓所:京都市下京区西七条 安阿弥寺


千葉 さな子

ちば さなこ

(18138-1896)
剣術家
龍馬と婚約していた千葉の鬼小町
天保9年、北辰一刀流千葉定吉の次女として生まれる。父に北辰一刀流剣術を学び、特に小太刀に優れた。安政3年、宇和島藩伊達家の姫君の剣術師範となる。安政5年頃、坂本龍馬と婚約するが、龍馬の土佐帰国後は疎遠となった。維新後は学習院女子部に舎監として奉職。明治7年に元鳥取藩士山口菊次郎と結婚したが、数年で離婚している。その後は独身で過ごし、家伝の灸を生業とした。晩年は甲府で暮らしたともいわれ、明治29年に死去した。
変名:千葉乙女、千葉佐奈子千葉佐那子、山口さな子
主な役職:-
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:甲府市朝日清運寺


寺田屋 登勢
てらだや とせ
(1829?-1877)
寺田屋女将

勤王の志士達を保護した寺田屋の女将
文政12年頃、大津で旅館を経営していた大本重兵衛の次女として生まれる。伏見の船宿寺田屋の6代目寺田屋伊助の妻となったが、夫は早死したため寺田屋の経営を取り仕切る。寺田屋は薩摩藩の定宿であったが、藩士同士の斬り合い事件(寺田屋事件)が発生。薩摩藩からの見舞金で即座に営業を再開すると、勤王の志士達を献身的に保護した。坂本龍馬も寺田屋の常連で、登勢にお龍を預けて養女とさせた。慶応2年には、多数の捕吏が龍馬捕縛のため寺田屋に押し入るが、お龍の機転で龍馬は難を逃れている。その後も頼ってくるものを拒まず、志士達を支援し続けた。

変名:大本登勢
主な役職:寺田屋女将
剣術:-
墓所:京都市伏見区松林院墓地


天璋院
てんしょういん
(1835-1883)
将軍正室

自らの信念を貫き、江戸城無血開城に大きな役割を果たす13代将軍正室
天保6年、今和泉島津家の当主島津忠剛の長女として生まれる。嘉永6年、従兄である薩摩藩主島津斉彬の養女となり、江戸の薩摩藩邸に入る。安政3年、右大臣近衛忠煕の養女となり、第13代将軍徳川家定の正室として輿入れする。しかし安政5年に家定が急死し、篤姫は落飾。第14代将軍徳川家茂の正室として、孝明天皇の妹和宮が降嫁したが、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いで対立したが、後に和解した。第15代将軍徳川慶喜が大政奉還し、鳥羽伏見を経て徳川存亡の危機が訪れると、和宮(静寛院宮)と共に島津家や朝廷に嘆願して徳川家の救済と慶喜の助命に尽力し、これを実現する。維新後は江戸の徳川宗家邸で暮らし、生家の島津家からは生活援助を貰わず、あくまで徳川の人間として振舞ったという。

変名:一、篤、源篤子、藤原敬子、天璋院殿従三位敬順貞静大姉
主な役職:将軍家御台所
剣術:-
墓所:東京都台東区寛永寺


な行


中沢 琴
なかざわ こと
(1840?-1927)
女流剣士
女ながらに浪士隊に参加した女流剣士
天保11年頃、利根法神流剣術の道場主中沢孫右衛門の娘として生まれる。幼いときから父に学び、薙刀では右に出る者はいなかった。文久3年、兄の中沢貞祗が清河八郎の浪士組に参加すると、男装して随行する。京都で清河八郎が攘夷の先鋒になるために江戸へ帰還すると、兄と共にこれに従う。清河暗殺後は、新徴組に参加して、長州、薩摩両藩の江戸屋敷の襲撃にも加わり、藩摩屋敷では左足のかかとを負傷した。戊辰戦争では、庄内戦争に参加している。維新後は兄と共に郷土に帰るが、自分と試合して勝ったものと嫁になるとしたが、結局負けることなく独身として過ごした。昭和2年に死去。


変名:-
主な役職:-
剣術:利根法神流剣術(薙刀、鎖鎌)
墓所:不明


中根 幸
なかね さち
(1836-1915)
徳川慶喜側室
静岡移住後も慶喜に従った2人の側室のひとり
天保7年、旗本中根芳三郎の娘として生まれる。成田新十郎の養女を経て、一橋慶喜の側室となった。慶喜が静岡に移住した後も慶喜に従う。同じく側室の新村信とは、姉妹の様に仲が良く交代で慶喜に尽くした。大正4年、死去。


変名:-
主な役職:徳川慶喜側室
剣術:-
墓所:東京都台東区 谷中霊園


中野 竹子
なかの たけこ
(1847-1868)
会津藩士息女
薙刀を手に娘子隊を率いた文武両道、才色兼備の桜花
嘉永3年、会津藩士中野平内の長女として生まれる。聡明で学問に長じ、薙刀術の名手であった。文久3年、会津藩士赤岡大助の養女となるが、赤岡の甥との縁談を嫌い離縁。慶応4年、会津に入り城下で学問や薙刀を教える。会津戦争では、松平容保の義姉照姫を護衛するため娘子隊を組織した。衝鋒隊に従軍し柳橋の付近で、新政府軍と交戦。奮闘するが、銃弾を受けて討死する。首級は農兵の手により、法界寺に埋葬された。


変名:-
主な役職:娘子隊隊長
剣術:薙刀八相小剣、一刀流剣術
墓所:河沼郡会津坂下町字光明寺


中山 美伎
なかやま みき
(1798-1887)
宗教家
天理王命を信仰する天理教の教祖
寛政10年、津藩領の庄屋前川半七の長女として生まれる。幼時より浄土宗の熱心な信者であった。文化7年、庄屋の中山善兵衛と結婚する。その後、天保9年に天啓を受けたとされている。近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うが、次第に教えに従う人の数が増え、また各地に出向いて布教を行う。他のの寺社より疎まれて迫害を受けるが、慶応3年、京都神祇管領吉田家から布教認可を得る。しかし、明治維新後は吉田家の公認は無効となった。明治18年、神道の傘下の「神道天理教会」として認可される。明治20年に逝去。死後は側近達が教団を運営し、現在の天理教となる。

変名:-
主な役職:天理教教祖
剣術:-
墓所:天理市豊田山麓



楢崎 龍
ならさき りょう
(1841-1906)
芸妓
坂本龍馬夫人
西村松兵衛夫人
龍馬が惚れたおもしろき女
天保12年、医師・楢崎将作の長女として京都に生まれる。文久2年に父が病死すると、残された家族はたちまち困窮するようになった。龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、坂本龍馬とは元治元年頃に出会っている。慶応2年、龍馬は寺田屋に投宿。入浴中の龍は窓外に捕吏がいることに気付き、とっさに二階に駆け上がり龍馬に通報。龍の機転により、龍馬は負傷しつつも辛うじて脱出。その後、龍馬の負傷療養のため鹿児島周辺の温泉を二人で巡り、この旅行が日本初の新婚旅行とされた。同年から下関に滞在。慶応3年、龍馬は京都・近江屋で暗殺され、悲報を下関で聞くことになる。慶応4年、お龍は龍馬の未亡人として土佐の坂本家に送り届けられるが、坂本家での生活は長くは続かず、3ヵ月ほどで立ち去ることになる。明治8年に西村松兵衛と再婚し西村ツルと改名、横須賀で暮らす。明治39年、66歳で死去。


変名:坂本龍、西村ツル
主な役職:-
剣術:-
墓所:横須賀市大津信楽寺、京都霊山護国神社


南部 郁子
なんぶ いくこ
(1853-1908)
華頂宮博経親王妃
賊軍の汚名返上を託された南部の姫君
天嘉永6年、盛岡藩藩主南部利剛の長女としてに生まれる。墨書に優れ、南部駒で遠出するなど活発な姫であった。13歳で盛岡藩下屋敷に移り、雅楽の教育を受けて笙や篳篥の妙手となった。また琴や鼓も嗜んだ。戊辰戦争では、盛岡藩は奥羽越列藩同盟に加盟し、官軍と戦い賊軍の汚名を着せられる。父は隠居し、藩も白石に減転封された。この状況を打開するために宮家との婚姻が計画され、明治7年に、華頂宮博経親王と結婚した。この結婚は賊名を託った旧藩士達の大きな心の支えとなった。しかし3年後、博経親王は他界。博経親王との間に生まれた博厚親王も9歳で夭折した。郁子は南部家には戻らず、伏見宮家から養子を迎えて華頂宮を守った。。


変名:南部郁、華頂宮郁子
主な役職:-
剣術:-
墓所:東京都文京区豊島岡墓地


野村 望東尼
のむら もとに
(1806-1867)
野村新三郎夫人
勤皇の志士を匿った女流歌人
文化3年、福岡藩士浦野重右衛門の娘として生まれる。文政12年、福岡藩士野村新三郎清貫と結婚。歌人大隈言道に入門し、歌集向陵集を執筆。安政6年に夫が亡くなり、剃髪して受戒、望東尼と名乗る。文久元年、上京し多難の国事を目のあたりにして、憂国の情を抱くようになる。その後、自分の山荘に勤皇の士を匿い、密会の場所を提供した。彼女に便宜を図って貰った志士には、勤王僧月照、長州藩士高杉晋作、熊本藩士入江八千兵衛、対馬藩士平田大江、福岡藩士平野国臣、中村円太、月形洗蔵、早川養敬などがいる。慶応元年、福岡藩の勤王党弾圧「乙丑の獄」により、姫島の獄舎に幽閉。翌慶応2年に、高杉晋作の指揮により姫島から救出され、下関の豪商白石正一郎宅に匿われた。慶応3年、高杉晋作を臨終を看取り、辞世の下の句を作成。その後、三田尻で、晋作の後を追うように死去した。

変名:浦野モト、野村モト、招月望東禅尼
主な役職:-
剣術:-
墓所:防府市三田尻
桑山南麓


は行


平井 加尾
ひらい かお
(1838-1909)
西山志澄夫人
代議士の妻となった龍馬の初恋の人
天保9年、土佐藩上士平井直澄の息女として生まれる。安政6年、土佐藩主山内容堂の妹友姫が三条公睦に嫁ぐ際に御付役として上洛。文久2年まで三条家に仕えた。京都では、兄が加盟する土佐勤皇党の世話や手助けをし、坂本龍馬とも親しかった。一説には龍馬の初恋の相手ともいわれている。慶応2年、西山志澄を婿に迎えて平井家を継がせる。明治11年には夫婦で西山姓に復し、娘に平井家を再興させている。代議士の夫を支え、夫の志澄は衆議院に6回当選し、第一次大隈内閣では警視総監に任じられた。明治42年、死去。

変名:西山加尾
主な役職:友姫御付役
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


広岡 浅子
ひろおか あさこ
(1849-1919)
実業家
実業家として女性教育・キリスト教の布教に尽力した女丈夫
嘉永2年、小石川三井家6代当主三井高益の四女として生まれる。大坂の豪商第8代加島屋広岡久右衛門の次男広岡信五郎と結婚。簿記や算術などを独学する。維新後に家運の傾いた加島屋を救うため業務に参加。筑豊の潤野炭鉱を買収する。明治21年、加島銀行を設立。明治35年には、大同生命の創業に参画する。明治29年、梅花女学校の校長成瀬仁蔵の訪問を受け、成瀬の説く女子高等教育機関設立の考えに共鳴し、明治34年に日本女子大学校を設立する。明治37年、事業を女婿の広岡恵三に譲り、社会貢献事業に専念。愛国婦人会の中心的人物として活動する。明治44年に、受洗を受け日本のキリスト教布教に尽力。大正8年、死去。

変名:三井照、三井浅、九転十起生
主な役職:大阪YWCA創立準備委員長
剣術:-
墓所:-


ま行


松尾 多勢子
まつお たせこ
(1811-1894)
女志士

宮中と志士たちを繋ぐ女流勤王志士
文化8年、信濃国伊那郡山本村に生まれる。伴野村の名主松尾淳斎に嫁ぐ。家業の傍ら和歌や国学を学び、勤王論に傾倒。文久2年、子を育て終わり隠居の身となって上洛し、和歌を用いて宮中に出入りし、宮中と志士達のパイプラインとなった。翌年、足利三代木像梟首事件に関与したとして京都を追われて長州藩に逃れる。その後、伊那郡に戻って天誅組や水戸天狗党の伊那地方における支援者として活動。明治元年、再度上洛して岩倉具視に仕えて新政府関係者との連絡調整役として活躍する。翌年、伊那郡に戻って、農業や養蚕に勤しみながら晩年を過ごした。

変名:-
主な役職:-
剣術:-
墓所:下伊那郡慈恩院東裏松尾家墓地内


松平 照子
まつだいら てるこ
(1833-1884)
中津藩主正室

鶴ヶ城篭城戦で女性達を指揮した容保の義姉
天保3年、飯野藩主保科正丕の娘として生まれる。会津藩主第8代藩主松平容敬は子宝に恵まれず、次期藩主の正室にするべく照姫を養女とする。しかし容敬に実子の敏姫が生まれ、次期藩主(容保)の正室は敏姫と決まった。
照姫は嘉永3年に豊前中津藩主奥平昌服に嫁ぐが、安政元年に離縁。江戸の会津藩邸に移った。鳥羽伏見の戦いの後、会津藩の江戸総引揚げで鶴ヶ城に入る。鶴ヶ城籠城戦では、城内の婦女子の総指揮にあたった。会津藩降伏後は、生家である飯野藩のに庇護され、東京で暮らす。明治17年、東京で死去。

変名:保科照、奥平照、照桂院
主な役職:中津藩8代藩主正室
剣術:-
墓所:会津若松市東山町松平家院内御廟 東京都新宿区正受院


陸奥 亮子

むつ りょうこ
(1856-1900)
芸妓
陸奥宗光夫人
社交界の華と呼ばれた美貌の貴婦人
安政3年、旗本金田蔀の長女として生まれる。
新橋で芸妓になり、妻に先立たれた陸奥宗光に見初められて、後妻となる。明治19年、社交界デビューした亮子は、戸田極子とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれた。明治21年、駐米公使となった宗光とともに渡米。その美貌や話術によって、ワシントン社交界でも華やかな存在となる。明治30年、宗光が肺結核のため死去すると剃髪し出家した。

変名:金田亮、小鈴、小兼
主な役職:-
剣術:-
墓所:鎌倉市扇ヶ谷寿福寺


毛利 勅子
もうり ときこ
(1819-1879)
厚狭毛利家正室

女子教育に力を注いだ家老の妻
文政2年、徳山藩8代藩主毛利広鎮の七女として生まれる。厚狭毛利家当主毛利元美に嫁ぐ。明治維新後、船木区長兼重慎一と女子教育の重要性を県に訴え、明治6年に厚狭郡船木村に「船木女児小学」を設立し、校長に就任。自ら教壇に立って熱心に指導した。明治11年、教壇で倒れ翌年に死去。船木女児小学は、徳基学舎と改められ、徳基高等女学校、県立厚狭高等女学校、県立厚狭女子高等学校と改称を経て、県立厚狭高等学校として現在に至る。


変名:毛利絢子、琴窓
主な役職:厚狭毛利家正室、船木女児小学校長
墓所:山陽小野田市郡西下津一洞玄寺


毛利 都美子
もうり とみこ
(1833-1913)
長州藩主正室

銃後の守りとしてそうせい候を支えた正室
天保4年、長州藩12代藩主毛利斉広の長女として生まれる。天保7年、父斉広の死により、養子で第11代藩主毛利斉元の子慶親が13代藩主となり、斉広の生前の意向により慶親の正室となる予定であったが、かぞえ5歳と幼少だったため、その十年後に正室となった。子供に恵まれず、長府藩より銀姫を養女に迎え、徳山藩より広封(定広)を養子に迎え、二人を結婚させて広封を世子とした。文久2年に大名妻子の国許居住を許可されたため、翌年に長州に入った。明治2年に夫敬親が隠居し2年後に死去。仏門に入り妙好と称した。大正2年、死去。


変名:都美姫、妙好
主な役職:長州藩主正室
墓所:山口市香山公園


毛利 安子
もうり やすこ
(1843-1925)
長州藩主正室

夫人教育などに貢献した最後の長州藩主正室
天保14年、長府藩主毛利元運の二女として生まれる。嘉永4年、長州藩主毛利慶親の養女となる。安政5年に同じく慶親の養子となっていた徳山藩主毛利広鎮の十男広封(定広)と結婚した。文久2年に大名妻子の国許居住を許可されたため、翌年に長州に入る。文久2年に大名妻子の国許居住を許可されたため、翌年に長州に入った。元治2年に第1子の長男興丸(元昭)を出産。明治2年、敬親の隠居により夫元徳が長州藩主となるが、まもなく版籍奉還で知藩事となった。明治4年、廃藩置県で元徳が免官され、華族となり東京へ移る。その後は婦人教育や慈善活動に積極的に参加し、明治23年より大日本婦人教育協会会長を務め、日本赤十字社にも参加。文化財の保護にも尽力した。大正14年、死去。


変名:銀姫
主な役職:長州藩主正室、大日本婦人教育協会会長
墓所:山口市香山公園




や行


梁川 紅蘭

やながわ こうらん
(1804-1879)
漢詩家
梁川星巌夫人

夫の身代わりに捕らえられた女流漢詩家
文化元年、美濃の郷士稲津長好の次女として生まれる。14歳で又従兄妹の梁川星巌が開いた塾「梨花村草舎」で漢詩を学ぶ。文政3年に星巌と結婚。しかし、結婚後すぐに星巌は旅に出て、3年間帰ってこなかった。その後、帰ってきた星巌と全国を周遊した。星巌は、梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰、橋本左内らと交流があり、安政の大獄の捕縛対象者であったが、その直前にコレラで死亡する。その身代わりとして紅蘭は捕らえられ、尋問を受ける。翌安政6年に釈放。その後、星巌の遺稿を出版、晩年は京都で私塾を開いた。明治12年、死去。


変名:梁川景婉、梁川芝香、梁川玉書、梁川月華、梁川紅鸞、張紅蘭、張氏紅蘭
主な役職:-
剣術:-
墓所:京都市左京区天授庵


山川 捨松

やまかわ すてまつ
(1860-1919)
大山巌夫人

仇敵の嫁ぎ鹿鳴館の貴婦人と呼ばれた会津藩家老の娘
安政7年、会津藩国家老山川尚江重固の末娘として生まれる。兄には山川大蔵(浩)や山川健次郎がいる。鶴ヶ城篭城戦では
負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝う。会津降伏後、山川家は斗南藩に移住。明治4年、岩倉使節団に随行する留学生の募集に合格して渡米。ヴァッサー大学やコネチカット看護婦養成学校で学習した。明治15年に帰国。大山巌に見初められて結婚し、大山の後妻となった。仇敵の薩摩との結婚には家族一同猛反対があったが、最終的には了承を得ている。鹿鳴館では、アメリカ仕込みの社交ダンスと、当時の女性にしては長身のスタイルで注目を集め、「鹿鳴館の貴婦人」とうたわれた。日本初のチャリティバザー鹿鳴館慈善会を開き、その資金で有志共立病院看護婦教育所を設立した。明治33年には、津田梅子の女子英学塾設立に支援し、女子教育の発展に大きな役割を果たす。大正8年、スペイン風邪により死去。


変名:山川さき、山川咲子、大山捨松
主な役職:愛国婦人会理事、赤十字篤志看護会理事
剣術:-
墓所:那須塩原市下永田1丁目


山城 ミヨ

やましろ みよ
(?-1868)
女軍夫

靖国神社に合祀された女性第1号の祭神
大館の商人佐藤久右エ門の子として生まれる。幼い頃から活発で、手踊りがうまかった。 比内の煙草屋山城八右衛門の妻となり子も設けた。秋田戦争が始まると、久保田藩より軍夫の徴用があり、既に他界した八右衛門の代わりに男装して戦場に赴く。炊事と物資運搬の役目に励むが、兵糧の輸送に大館の二井田街道を通行中、川反の間道から進んできた敵方の弾に当って戦死した。戦後、ミヨは靖国神社に合祀され、女性第1号の祭神となっている。


変名:佐藤ミヨ
主な役職:-
剣術:-
墓所:-


山本 八重

やまもと やえ
(1845-1932)
川崎尚之助夫人
新島襄夫人

砲術に長けた幕末のジャンヌダルク
弘化2年、会津藩の砲術師範であった山本権八の子として生まれる。鳥羽伏見の戦いで弟が戦死。戊辰戦争時には断髪して男装し、家芸であった砲術を以て藩に奉仕。白虎隊等の会津藩兵に小銃の扱いを教えた。若松城籠城戦で自らもスペンサー銃を持って奮戦したが、会津藩主松平容保は降伏。 この戦いで父権八も戦死している。明治4年、薩摩藩兵の捕虜となり斬首されたと伝えられていた兄の山本覚馬を頼って上洛。翌年、兄の推薦により京都女紅場の舎監兼教師となる。この時期、兄の元に出入りしていた新島襄と知り合う。明治9年に結婚。新島襄の同志社英学校設立に貢献した。明治23年、新島襄は病気のため急逝。その後の同志社を支えた門人たちとそりが合わず、同志社と次第に疎遠となる。以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献。日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となる。その功績により昭和7年、京都の自邸にて死去。


変名:川崎八重、新島八重、新島八重子
主な役職:−
剣術:-
墓所:
京都市左京区同志社墓地


由羅
ゆら
(1795-1866)
薩摩藩主側室

お由羅騒動と呼ばれる薩摩藩お家騒動の元凶
寛政7年、町人の娘として生まれる。薩摩藩邸で奉公していた際に、斉興に見初められ側室となる。参勤交代の度に江戸と薩摩に由羅を連れて行くほど、斉興の寵愛は深かったともいわれている。斉興の三女智姫、5男久光、7男唯七郎の3子を生む。文政7年に斉興の正室弥姫が死去すると、正室同様の待遇を受ける。その後、息子久光の藩主就任を謀り、長兄斉彬廃嫡を目した事から「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動を巻き起こしたが、騒動の鎮圧後に罰を受けることはなかった。斉彬急死後に孫忠義が藩主に就任したところも見届け、慶応2年に死去。


変名:遊羅
主な役職:薩摩藩主側室
剣術:-
墓所:鹿児島市池之上町福昌寺跡


ら行


わ行



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