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天狗党の乱参加者

天狗党の乱参加者

藤田東湖の子である藤田小四郎は、横浜港の即時鎖港を要求するため、筑波山で挙兵する。ただ純粋に攘夷を求め、幕府の転覆を図った訳ではなかったが、水戸藩や幕府の派閥争いに発展して賊軍となってしまう。事態を打開するために京を目指すが、道中諸藩に遮られて投降。そのほとんどが処刑・投獄されるという、幕末において最悪の虐殺事件となった。

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あ行


飯田 軍蔵

いいだ ぐんぞう
(1834-1864)
志士

天狗党軍を率いて奮戦した木戸村名主
天保12年、真壁郡木戸村の名主飯田軍吉の長男として生まれる。下妻の山本樵山、江戸の安積艮斎、水戸で加倉井砂山に学び、勤皇思想に染まる。安政7年、所用で江戸に行った際に、偶然桜田門外の変に遭遇。その惨劇を目のあたりにした。その後、私財を投げうち私塾文武館を創設。人材の育成に努める。元治元年、藤田小四郎の呼びかけに応じ、先祖代々の田畑を売って義弟、従者と共に参加する。下妻夜襲の指揮などで活躍し、天狗党を牽引するが、那珂湊の戦いで、敵弾を左膝に受けて戦線を離脱。松本嘉吉と名乗って幕軍に投降したが、見破られて投獄されが、獄中で傷が悪化して獄死した。


変名:松本嘉吉
主な役職:天狗党軍務兼風紀取締方
剣術:-
墓所:筑西市木戸52


薄井 督太郎

うすい とくたろう
(1829-1916)
志士

大正まで生きた天狗党の生き残り
文政12年、信濃飯田城下の醤油醸造業者の家に生まれる。江戸に出て、昌平坂学問所に学ぶ。京都では、頼三樹三郎に師事して尊皇攘夷思想の影響を受ける。江戸に戻り、野田笛浦や佐久間象山にも学んだ。安政6年、安政の大獄で頼三樹三郎が捕縛されると救出を計画するが、失敗して幕吏に追われる。武田耕雲斎の元に身を寄せて、水戸藩激派と行動を共にする。元治元年、筑波山挙兵に参加。しかし、西行の際に故郷が戦場になることが忍び難いという理由から、天狗党を離脱した。その際に、一橋慶喜宛の書状を託されたが、その後の動乱により、慶喜に書状が届くことはなかった。維新後、岩倉具視の知遇を得て、山形県権大参事、東京裁判所判事、名古屋裁判所長、秋田裁判所長などを歴任した。大正5年、死去。


変名:薄井龍之、薄井竜之、飛虹、小蓮
主な役職:天狗党応接方、山形県権大参事、東京裁判所判事
剣術:-
墓所:-


か行


さ行



た行

武田 耕雲斎
たけだ こううんさい
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武田 金次郎
たけだ きんじろう
水戸藩人物録へ


田中 愿蔵
たなか げんぞう
水戸藩人物録へ

田丸 稲之衛門
たまる いなのえもん
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土田 衡平
つちだ こうへい
(1836-1864)
矢島藩

稀代の策士と云われた田中隊の参謀
天保7年、矢島藩士土田又右衛門の子として生まれる。幼くして父母と死別し、親戚に身をよせた。安政元年、江戸藩邸の留守居役書記となる。その後、勤皇を志して脱藩。京都で岩倉具視と親交し、尊皇攘夷運動に邁進する。藤本鉄石などにも学んだ後、江戸へ戻って古賀茶溪に学ぶ。文久3年、天誅組の挙兵に参加。敗れて関東に身をひそめる。元治元年、藤田小四郎等が筑波山で挙兵すると、田中源蔵の要請で田中隊の参謀となる。助川の戦いで、田中隊が四散すると、同志とともに中村藩領に逃れたが、磐城仏浜で中村藩兵に捕らえられて斬刑される。


変名:赤坂貞助
主な役職:田中隊参謀
剣術:関口流柔術
墓所:-


な行


は行

藤田 小四郎
ふじた こしろう
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不動院全海

ふどういんぜんかい
(?-1864)
僧侶

「今弁慶」と云われた勤皇僧
水戸小松寺の修験僧。身高く魁偉、赤ら顔で十五人力と称され、胆力あり、薙刀をよく使い、鉄棒を振るったと云われる。水戸藩の小川郷校に出入りして、水戸藩激派と親交した。元治元年、藤田小四郎の呼びかけにより、筑波山挙兵に参加する。和田峠の戦闘では、派手な陣羽織に白鉢巻姿で高島、松本両藩と交戦。百目筒を発射しながら、騎馬で敵陣に襲い掛かる。敵兵は天狗党の大将と思い、盛んに狙い撃ちされて討ち取られた。高島藩兵の北沢与三郎は、その遺体が「今弁慶」として知られる不動院全海のものだと知り、その肉を持ち帰って味噌漬けにしてあぶって食べたという逸話がある。


変名:
主な役職:-
剣術:-
墓所:-


ま行



や行

山国 兵部
やまぐに ひょうぶ

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山田 一郎

やまだ いちろう
(1837-1865)
志士

交渉事に長けた清河浪士組の残党
天保8年、盛岡の質屋横田宇右衛門の三男として生まれる。勤皇を志して清河八郎の浪士組に参加。清河暗殺後、浪士組が庄内藩預かりの新徴組となると、隊士ら十数人を説いて脱走。水戸藩激派と行動を共にする。筑波山挙兵にあたっては、府中において金策に奔走。天狗党の軍資金調達に一役買った。弁舌に長け、交渉事を取り仕切ったが、大平山で脱退する。その後、江戸で同志4人と共に自訴。斬首された。


変名:横田博、横田一郎
主な役職:-
剣術:-
墓所:下閉伊郡山田町龍昌寺


横田 藤三郎

よこた とうざぶろう
(1847-1864)
志士

重傷を負い自刃した横田藤四郎の子
弘化4年、下野真岡の商人横田藤四郎太郎の三男として生まれる。小川郷校に学び、父や兄藤太郎らから尊皇攘夷思想の影響を受ける。医学を志し、真壁青木村の医家大和田外記の下で医術の基本を学んだ。元治元年、藤田小四郎の呼びかけにより、父と共に筑波山挙兵に参加。天狗党の西行に同行し、和田峠の戦闘で敵弾を受けて重傷を負う。これ以上同行出来ぬと悟り、父の介錯で切腹した。


変名:横田巳之助、横田元綱
主な役職:-
剣術:-
墓所:中津川市中津川横田元綱墓


横田 藤四郎

よこた とうしろう
(1821-1865)
志士

息子と共に挙兵に参加した勤王商人
文政4年、下野真岡の商人横田四郎太郎の子として生まれる。 国学者河野守弘に学び、尊皇攘夷運動に参加。長男の藤太郎は、坂下門外の変の嫌疑で捕えられ獄死している。元治元年、藤田小四郎の呼びかけにより、三男の藤三郎と共に筑波山挙兵に参加。斥候として江戸に潜行して、物資の調達や政治工作に奔走する。武田耕雲斎らが合流して天狗党が再編されると、書記頭となっている。和田峠の戦闘で息子藤三郎が戦死すると、その首を持って行軍するが、腐敗が進み中津川宿に埋葬した。天狗党の降伏後、敦賀で処刑された。


変名:横田兼綱、横田祈綱
主な役職:天狗党書記頭
剣術:-
墓所:敦賀市松島町武田耕雲斎等墓


ら行


わ行




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