徳川(江戸)幕府

徳川幕府は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、1603年に征夷大将軍に任官して創設した武家政権。徳川宗家の当主が代々征夷大将軍に就任し、約三百の諸大名と主従関係を結び幕藩体制を敷いた。将軍は大名に対して朱印状を与え知行を保障し、大名は保障された知行内で許される程度の独自統治を行う。ただし、幕府と諸大名の主従関係を確認するための軍役として、参勤交代や手伝普請が架せられ、武家諸法度による法制度によって諸大名を統制した。また鎖国政策により諸外国との貿易及び日本人や外国人の入出国を禁止する。これらの制度により徳川幕府は約300年の治世が続くことになるが、幕末期には諸外国からの圧力によって、開国を迫られる。その対応を巡って幕府が非難されることになり、幕府を批判する尊王攘夷運動へと繋がっていった。


城郭



江戸城(千代田城、江城)
幕府本拠
東京都千代田区
輪郭式平山城

長禄元年、上杉持朝の家臣太田道灌が築城。天正18年、豊臣秀吉により領地を三河から関東へ移封された徳川家康が入城。その後、大規模な改築を行い徳川家の本拠となる。徳川幕府設立後も本拠として、以後200年以上にわたり中枢として機能した。明暦3年、大火により天守を含む城域の大半を焼失。以降天守は再建されていない。慶応4年、勝海舟、西郷隆盛会談により新政府に明け渡された。明治元年、明治天皇入城と同時に東京城と改められ、東幸の際の皇居と定められ、以後「宮城」「皇居」と呼ばれる。
江戸城ブログ記事→東京都千代田区 江戸城西ノ丸下(皇居外苑)
         東京都千代田区 江戸城本丸(皇居東御苑)


二条城
二条城定番
京都府京都市中京区二条
輪郭式平城
二条大路は、平安京一の大路であり、足利将軍家が屋敷を構え、また織田信長や豊臣秀吉も二条に屋敷を構えるなど、政治の中心的場所であった。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康も、京都での宿所を二条と定め、慶長8年に二条城が完成。征夷大将軍就任の祝賀を、二条城で行った。秀忠、家光の京都での在所として利用されたが、以降は将軍が上洛する事が無かったため、幕末まで歴史の表舞台から姿を消す。文久2年、14代将軍徳川家茂の上洛に備えて改修が成され、大規模な修復の末に家茂を迎えた。慶応3年、第15代将軍徳川慶喜は、二条城にて大政奉還を宣言して徳川幕府の幕が下された。
二条城ブログ記事→未訪問


駿府城
駿府城代
静岡県静岡市葵区
輪郭式平城
戦国時代、今川家や武田家に支配されていた駿府は、徳川家康の所領となり近世城郭を持った駿府城が築城される。徳川家康の関東移封に伴い一時徳川家の手から離れるが、徳川幕府の設立後、大御所となって隠居した家康の居城となった。以後、駿府藩として譜代の内藤家や親藩が城主となったが、寛永10年より幕府直轄となり、大身旗本が駿府城代として赴任。幕府崩壊後は徳川宗家が入城し、静岡藩が立藩した。
駿府城ブログ記事→未訪問


五稜郭(箱館御役所、柳野城)
箱館奉行
北海道函館市五稜郭町
稜堡式城郭

嘉永7年の日米和親条約締結による箱館開港に伴い、防衛力の強化と役所の移転のため、武田斐三郎の設計により建築される。欧米の稜堡式の築城様式を採用し、堡を星型に配置した。元治元年に竣工し、函館奉行所として機能したが、明治元年に榎本武揚率いる旧幕府軍が占拠。旧幕府軍は蝦夷共和国を樹立してその本拠地とする。明治2年、箱館戦争の終盤に新政府軍は五稜郭を包囲。降伏勧告の末に開城した。
五稜郭ブログ記事→未訪問



甲府城
甲府城代
山梨県甲府市丸の内
梯郭式平山城
武田氏の本拠地であった甲府は、江戸時代は一次期甲府藩が置かれたが、ほとんどの時期は幕府直轄領であった。甲斐国の経済的中心地として機能し、譜代藩主を甲府城代として任命した。鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組の近藤は、甲陽鎮撫隊を率いて甲府城を目指すが、板垣退助率いる新政府軍の先鋒総督府に先に入城を許してしまう。
甲府城ブログ記事→未訪問


大坂城
大坂城代

大阪府大阪市中央区
輪郭式平城
大坂夏の陣によって灰燼した大坂城は、第2代将軍徳川秀忠によって再建が始められ、3期にわたる工事を経て寛永6年に完成。幕府直轄として城主は将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かった。寛文5年には落雷によって天守を焼失し、以後は天守は再建されなかった。長州征伐では、幕府軍の本陣として機能し、大政奉還後は、二条城から第15代将軍徳川慶喜が居城としたが、鳥羽伏見の戦いでの敗戦後、江戸へ退却した。その後、新政府軍に開け渡された。
大阪城ブログ記事→大阪市中央区 大坂城


御三卿



田安徳川家 御三卿
10万石
 江戸城内田安徳川邸
第8代将軍徳川吉宗の次男徳川宗武を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有する。宗武の血は2代で途切れ、一橋から養子を貰い受けた。親藩に多くの養子を出すが、将軍家後嗣を出すことはなく、維新後に7代当主徳川家達が、徳川宗家を継ぐことになった。尾張藩13代藩主徳川慶臧や、福井藩14代藩主松平春嶽は、田安家の出身である。
田安徳川邸ブログ記事→
東京都千代田区 江戸城 御三卿屋敷跡


一橋徳川家 御三卿
10万石
 江戸城内一橋徳川邸

第8代将軍徳川吉宗のの4男徳川宗尹を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有する。初代当主宗尹の子孫の血が多くの親藩大名や御三卿に入り、18世紀以降の水戸徳川家以外の徳川・松平家はほとんど一橋家の血が入っていると言えた。一橋家は御三卿の中で唯一将軍を排出した家であった。第11代将軍徳川家斉と第15代将軍徳川慶喜が一橋家の出身である。ちなみに将軍となった慶喜は水戸徳川家出身で、一橋の血は入っていない。
一橋徳川邸ブログ記事→東京都千代田区 江戸城 御三卿屋敷跡


清水徳川家 御三卿
10万石
 江戸城内清水徳川邸

第9代将軍徳川家重の次男重好を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有する。実子のなかった初代徳川重好以来、御三家に転出した当主が相次ぎ一時的な断絶を繰り返す。幕末は20年ほど空席であったが、一橋慶喜の弟で水戸徳川家出身の徳川昭武が入る。昭武は明治維新の直前にヨーロッパへ派遣され、ナポレオン3世に謁見してパリ万国博覧会を訪問するなど欧州外交に努めた。帰国後、に水戸家の家督を継いだため、清水家は再び当主不在となった。
清水徳川邸ブログ記事→東京都千代田区 江戸城 御三卿屋敷跡


天領代官所・奉行所


○東北地方

塙代官所
塙代官
福島県東白川郡塙町(子育て地蔵尊)
磐城国白川郡等5万石の天領支配を管轄する代官所。塙は太田街道と平潟街道の交わる交通の要所であり、久慈川を使った年貢の輸送や、奥州外様大名の監視にも適していた。塙代官は発足から維新まで45名が代官を努め、特に23代代官寺西重次郎は、天明の飢饉後の復興政策を行い、名奉行として後世に伝えられている。幕末期には天狗党の田中愿蔵隊が、棚倉藩兵等に捕縛されて塙代官所に送られ処刑されている。
塙代官所ブログ記事→未訪問

浅川陣屋
塙代官(出張代官所)
福島県石川郡浅川町
元々越後高田藩の飛地であったが、陸奥国白川郡、石川郡、田村郡の一部で、度重なる災害で土地が痩せ人口が減っていた。これが藩の財政を逼迫させる原因となっていた為、藩は幕府に領地替えを嘆願。これが認められ天領となり、塙代官所がこれを支配し、出張所として浅川陣屋に代官所が置かれた。戊辰戦争が始まると浅川陣屋は、新政府軍に引き渡されている。
浅川陣屋ブログ記事→未訪問

桑折代官所
桑折代官
福島県伊達郡桑折町(旧伊達郡役所)
陸奥国伊達郡等の天領支配を管轄する代官所。桑折藩松平家の領地であったが、領内の半田銀山に有望な鉱脈が発見された事から、領地替えが行われて天領となる。半田銀山は天保年間に大量の灰吹銀を産出し、幕末期の幕府財政に大きく貢献した。
桑折陣屋ブログ記事→未訪問

○関東地方


北町奉行所
北町奉行
東京都千代田区丸の内(JR東京駅八重洲口)
南町奉行所と共に江戸の町方の司法・行政を管轄した奉行所。与力25名、同心100名程で江戸町方の治安維持、行政、防災を行った。民事訴訟については南町奉行所と月番制で訴訟の受理を行っており、月番でない月にその処理を行った。また、書物、酒、廻船、材木問屋などの商業案件は北町奉行が担当している。最後の北町奉行は石川利政が努めたが、新政府は町奉行を廃止。石川は切腹しているがその理由には諸説がある。
北町奉行所ブログ記事→東京都千代田区 北町奉行所跡


南町奉行所
南町奉行
東京都千代田区有楽町(JR有楽町駅中央口)
北町奉行所と共に江戸の町方の司法・行政を管轄した奉行所。与力25名、同心100名程で江戸町方の治安維持、行政、防災を行った。民事訴訟については北町奉行所と月番制で訴訟の受理を行っており、月番でない月にその処理を行った。また、呉服、木綿、薬種問屋などの商業案件は南町奉行が担当している。最後の南町奉行佐久間信義は、新政府軍の江藤新平、土方久元らに奉行所や諸記録の引渡しを行った。
南町奉行所ブログ記事→東京都千代田区 南町奉行所跡

浦賀奉行所
浦賀奉行
神奈川県横須賀市西浦賀(旧川間社宅)

江戸湾に入出港する船舶の監督、積荷検査、周辺地の民政等を行った奉行所。元々は下田に置かれていたが、経済の活性化に伴って浦賀に移転したもの。幕末期になって海防の重要性が指摘されるようになると、江戸湾の警備も職務に加わり、外国公使との交渉窓口の役割も果たした。
浦賀奉行所ブログ記事→未訪問

神奈川奉行所
神奈川奉行
神奈川県横浜市西区(県青少年センター)
安政6年に横浜港が開港された際に設置された奉行所で、神奈川奉行は外国奉行酒井忠行、水野忠徳、村垣範正、堀利煕、加藤則著の5名が兼務した。関税及び外務全般の業務の他、周辺天領の司法行政を行っている。また横浜における攘夷派の襲撃等に対する治安維持、横浜に駐屯する英仏駐屯軍への防御策として歩兵隊定番役及び番所附下番が組織され、近隣より徴募した兵2600人は、英国式による洋式兵制で訓練された。後に神奈川奉行所の定番役及び番所附下番が廃止された後は、これらの軍事力は別手組及び歩兵組へと移行されている。
神奈川奉行所ブログ記事→未訪問

日光奉行所
日光奉行
栃木県日光市安川町
日光東照宮の守衛、祭祀、保全及び、日光町の政務などを管轄。上野国、下野国の天領支配を管轄する奉行所。最後の日光奉行は京都見廻役であった岩田通徳が就任し、狙撃隊頭も兼ねたことから隊を率いて日光へ出陣したが、新政府からの勧告に従って日光を退却している。
日光奉行所ブログ記事→未訪問

岩鼻陣屋
関東郡代支配→関東在方掛
群馬県高崎市岩鼻町
江戸時代初期に関東代官伊奈家の世襲支配を受けていた伊奈家の改易後、関東郡代が設置された際に置かれた代官所。上野国全域と武蔵国六郡の幕府直轄地、旗本領、寺社領を支配した。慶応3年に関東在方掛が設置されると、その常駐陣屋となり上野国、下野国、武蔵国及び足尾銅山を管轄した。
岩鼻陣屋ブログ記事→未訪問

布佐代官所
関東郡代支配→関東在方掛
千葉県我孫市布佐

慶応3年、治安維持と地方支配強化の為に新たに置かれた関東在方掛の常駐陣屋。常陸国、下総国、上総国、安房国を管轄。幕府崩壊後は熊本藩兵が接収し、近隣の治安維持にあたっている。
布佐代官所ブログ記事→未訪問

○東海地方

中泉代官所
中泉代官
静岡県磐田市中泉御殿
徳川家康が武田家との戦いに備えて中泉に建設した砦を、鷹狩や静養の為の別荘としてして改築した中泉御殿の隣に代官所が設けられ、遠江や三河の天領を支配した。維新後は静岡藩の奉行所として使用され、初代の奉行として前嶋密が執政を取った。
中泉代官所ブログ記事→未訪問

韮山代官所
韮山代官
静岡県伊豆の国市韮山(江川邸)
伊豆国全域及び駿河、相模、武蔵、甲斐の一部天領を支配した代官所。代官は代々江川家が努める世襲代官で、当主は代々江川太郎左衛門を名乗った。36代太郎左衛門英龍は、海防の重要性を認識し台場や反射炉等を建設。農兵隊の編成も行っている。38代太郎左衛門英武の代に明治維新を迎え韮山県令となった。
韮山代官所ブログ記事→未訪問

駿府町奉行所
駿府町奉行
静岡県静岡市葵町
駿府の町方の司法・行政を管轄した他、駿河国内天領の支配を行った奉行所。駿府在勤であったが、駿府城代ではなく老中支配に属した。与力8名、同心60名程で駿府町方の治安維持、行政、防災を行い、駿府城代と協議のうえ、参勤交代で通過する諸大名の密察、久能山東照宮の警護を行っている。
駿府町奉行所ブログ記事→未訪問

○甲信越地方

甲府代官所
甲府代官
山梨県甲府市中央(甲府市中央保育所)
山梨郡や巨摩郡の天領を支配した代官所。甲府町方支配については甲府勤番行ったため、在方支配が主な業務で、市川代官所、石和代官所と共に甲斐の三分代官支配として、勘定奉行の配下であった。最後の甲府代官中山誠一郎は新政府から留任を命じられ、甲府代官と町奉行を兼任。甲府代官所の支配地は府中県となり、県知事として赤松孫太郎が任命された事により、その役目をとかれた。
甲府代官所ブログ記事→未訪問

市川代官所
市川代官
山梨県西八代郡市川三郷町市川大門
八代郡や巨摩郡の天領を支配した代官所。甲斐の三分代官のひとつ。安政東海地震では、支配地の迅速な救済活動を行ったとして、当時の市川代官荒井清兵衛は名代官として称えられている。天狗党の乱では、天狗党が甲州に侵入するという情報があった為、農兵を動員して備えたが、市川代官所の役人は逃げ支度に専念するという醜態をさらしてしまう。また慶応2年には管轄下の惣百姓により、当時の代官安藤伝蔵の場所替え要求が出されて翌年に安藤は解任され、石和代官所より増田安兵衛が転任し最後の市川代官となっている。
市川代官所ブログ記事→未訪問

石和代官所
石和代官
山梨県笛吹市石和町(石和南小学校)
荒川以東の東山梨郡、東八代郡、西八代郡の天領支配した代官所。甲州の博徒竹居安五郎は、新島から島抜けして故郷に舞い戻り博徒として活躍していたが、石和代官所によって捕縛されて代官所牢内で獄死している。
石和代官所ブログ記事→未訪問

谷村陣屋
石和代官(出張代官所)
山梨県都留市中央(都留簡易裁判所)
石和代官所の出張代官所で、石和代官所の管轄である都留郡の天領を担当。石和代官所支配の手代が数名が常駐していた。
谷村陣屋ブログ記事→未訪問

中之条代官所
中之条代官
長野県坂城市
坂木5千石と佐久、小県、更級、水内、高井の飛地天領の支配を担当した代官所。はじめ坂木に陣屋が設けられていたが火災で炎上したため、中之条に陣屋が設置された。明治に廃止されるまで、109年間に31代の代官が任命されている。
中之条代官所ブログ記事→未訪問

御影陣屋
中之条代官(出張陣屋)
長野県小諸市御影新田(御影用水資料館)
佐久郡天領3万石を管轄した中之条代官の出張代官所。はじめ臨時で置かれた出張代官所で、臼田や高野と移転し再び御影に置かれた。その後、出張代官所が廃止されると風聞があった際には、住民代表が江戸まで存続の嘆願に赴いている。維新後に廃止され、尾張藩の取締役所となった。
御影陣屋ブログ記事→未訪問

水原代官所→酒屋陣屋
水原代官→会津藩
新潟県阿賀野市外城町
越後国などの6〜10万石幕府天領を管轄した代官所。鎌倉時代に創られた水原城跡に代官所が設置された。管轄地の行政の他、新発田藩や村松藩などの外様大名の監視も行っている。戊辰戦争時には会津藩預かりとなり酒屋に陣屋を移転。新政府軍に対抗する越後諸藩が酒屋陣屋に集まって会議(酒屋会議)が行われたが、地元出身の小林政司率いる金革隊の攻撃によって焼き払われた。
水原代官所ブログ記事→未訪問
酒屋人やブログ記事→未訪問

出雲崎代官所
出雲崎代官
新潟県三島郡出雲崎町
越後国出雲崎7万石の幕府天領を管轄した代官所。出雲崎は佐渡からの金銀荷揚げの港として栄え、文化5年に代官所が設置された。戊辰戦争で新政府軍が進行すると、最後の代官所は諸書類を焼き捨てて新潟方面へ敗走し、新政府は陣屋に民政局を設け民意の安定を図った。
出雲崎代官所ブログ記事→未訪問

佐渡奉行所
佐渡奉行
新潟県佐渡市相川広間町
遠国奉行所のひとつで、民政を管轄する町奉行と金銀山経営を管轄する山奉行の二役が設置された。他の業務として佐渡周辺の開城警備や外国船の監視も行い、約300名の配下が配属された。維新後は役所や学校として利用されたが昭和17年に消失し、現在の建物は平成12年に再興されたもの。
奈良奉行所ブログ記事→未訪問

○北陸

高山代官所
飛騨郡代
岐阜県高山市八軒町
飛騨国全域の幕府天領支配を担当する飛騨郡代の代官所。飛騨国は豊富な木材および鉱物資源を安定確保できる領地として幕府の財政を潤わせ、その支配を担当する代官は格上の郡代に定められていた。その業務を行った高山代官所は、唯一建物の現存する幕府天領陣屋として現在も保存されている。
高山代官所ブログ記事→未訪問


本保陣屋
飛騨郡代(出張代官所)
福井県越前市本保町

越前国内の幕府天領の支配を担当し、飛騨郡代より派遣された手代数名が常駐して政務に当たった。天保の大飢饉の際は、飛騨郡代大井永昌が本保陣屋に出張して、その残状を自ら確認し、高山陣屋より救米を輸送して配布した他、私財を投げ打って飢民の救済にあたったとされ、その徳政が地元で称えられている。維新後は明治政府により本保県が置かれた。
本保代官所ブログ記事→福井県越前市 本保陣屋跡

○中部地方

笠松代官所
美濃郡代
岐阜県羽島郡笠松町
美濃国笠松に置かれた代官所で、美濃国と伊勢国桑名郡の幕府天領を支配する。美濃国には大藩が置かれず10万石以下の藩が多数乱立する地で、行政官は代官より格上の郡代が置かれた。代官所ははじめ可児郡徳野に置かれたが、交通の要所であった羽栗郡の傘町に移転し、その際に地名が傘町から笠松に改められた。維新後は笠松県庁が置かれ、廃藩置県後は岐阜県庁舎となっている。
日田代官所ブログ記事→未訪問

赤坂陣屋
中泉代官(出張代官所)
愛知県豊川市赤坂町紅里
東海道五十三次の36番目の宿場であった赤坂に設けられた中泉代官所の出張陣屋。赤坂宿は御油宿や吉田宿などと共に活気ある宿場町であり、管轄地の年貢徴収の他、宿場町での争い事などを多く取り扱った。維新後は三河県長庁舎となったが、伊那県に編入されて廃県となっている。
赤坂陣屋ブログ記事→未訪問

○近畿地方

京都東町奉行所
京都東町奉行
京都府京都市中京区西ノ京
京都所司代の指揮下で、京都西町奉行所と共に京都及びその周辺の司法・行政を管轄した奉行所。また寺社領の監督も行い、与力20名、同心50名程が配属されていた。西町奉行所と月番制で訴訟の受理を行っており、月番でない月にその処理を行う。安政の大獄の際には、職務として尊攘志士らの捕縛を行っていた為、東町奉行所与力格森孫六、同心大河原十蔵が、尊攘派による天誅事件によって殺害されている。姉小路公知暗殺事件では、容疑者として「人斬り」で名を馳せた薩摩藩士田中新兵衛を捕縛。遺留品の刀を田中に見せた際、それを奪われて自刃されてしまうという失態を犯している。
京都東町奉行所ブログ記事→未訪問

京都西町奉行所
京都西町奉行
京都府京都市中京区西ノ京
京都所司代の指揮下で、京都西町奉行所と共に京都及びその周辺の司法・行政を管轄した奉行所。また寺社領の監督も行い、与力20名、同心50名程が配属されていた。西町奉行所と月番制で訴訟の受理を行っており、月番でない月にその処理を行う。安政の大獄の際には、職務として尊攘志士らの捕縛を行っていた為、西町奉行所与力渡辺金三郎、同心上田助之丞が、尊攘派による天誅事件によって殺害されている。禁門の変によって発生した大火が、囚人達を収監した六角獄舎に及ぶ恐れがあった為、当時の西町奉行滝川具挙は囚人の処刑を決定。生野の変で捕縛された平野国臣や、天誅組の変で捕縛された水郡善之祐などが斬首された。
京都西町奉行所ブログ記事→未訪問


大阪東町奉行所
大阪東町奉行
大坂市中央区大手前 大阪合同庁舎1号館
大阪西町奉行所と共に大坂城及び摂津、河内の天領の司法・行政を管轄した奉行所。与力30名、同心50名程が配属されていた。江戸町奉行と同様に月番制で訴訟の受理を行っており、月番でない月にその処理を行う。大塩平八郎の乱は、当時の東町奉行跡部良弼が、
米の物価上昇に対して有効な対策を打ち出せなかった事が原因とされており、大塩自体は東町奉行所の与力であった。
北町奉行所ブログ記事→大阪市中央区 大坂東町奉行所跡


大阪西町奉行所
大阪西町奉行
大坂市中央区本町橋 マイドーム大阪
大阪東町奉行所と共に大坂城及び摂津、河内の天領の司法・行政を管轄した奉行所。与力30名、同心50名程が配属されていた。江戸町奉行と同様に月番制で訴訟の受理を行っており、月番でない月にその処理を行う。新撰組が起こした大阪角力事件では、近藤勇がその顛末を届け出ている。西町奉行所組与力の内山彦次郎は、被害者側の小野川部屋に同情的であり、新撰組への吟味が高圧的であった為、惨殺されて斬漢状と共に晒された。この事件の下手人は新撰組の他、尊攘志士の手によるものであるという説もある。
北町奉行所ブログ記事→大阪市中央区 大坂西町奉行所跡


伏見奉行所
伏見奉行
京都市伏見区西奉行町 市営桃稜団地
遠国奉行所のひとつで、伏見の民政や宇治、伏見、木津の諸川の船舶を取締った奉行所。与力10名、同心50名程が配属されていた。初期の奉行所は清水谷にあったが、伏見奉行古堀政一の時代に富田信濃守邸跡に移転され、伏見に似合う風雅な陣屋と庭園を造り、将軍徳川家光にその庭造りを賞賛され、5千石を加増されて大名となったという。慶応2年、潜伏する坂本龍馬を捕縛する為、寺田屋に30余名の捕方を派遣するが、龍馬に手傷を負わせたものの数名の死傷者を出して逃げられた。鳥羽伏見の戦いでは、会津藩兵や新撰組が奉行所内に布陣し、御香宮神社に布陣する薩摩藩と対峙。奉行所は砲撃によって炎上焼失した。
伏見奉行所ブログ記事→京都市伏見区 伏見奉行所跡

山田奉行所
山田奉行
三重県伊勢市御薗町
遠国奉行所のひとつで、伊勢神宮の守護・造営修理と祭礼、遷宮、門前町の支配、伊勢・志摩における訴訟、鳥羽港の警備・船舶点検などを担当。徳川幕府は敬神敬祖を旨とし、伊勢神宮の式年遷宮を最重要任務として欠かす事無く続け、それを取り仕切る山田奉行は日光奉行と同格が与えられている。
山田奉行所ブログ記事→未訪問

奈良奉行所
奈良奉行
奈良市北魚屋東町(奈良女子大学)

遠国奉行所のひとつで、興福寺・東大寺等の大寺院の監視とその門前町の支配を管轄であり南都町奉行とも呼ばれる。江戸後期の奈良奉行川路聖謨は、失われていた神武天皇陵の捜索を行い、『神武御陵考』を著して朝廷に報告。後に孝明天皇が神武天皇陵の所在地を確定する際に参考にしたとされている。
奈良奉行所ブログ記事→未訪問

多羅尾代官所
多羅尾代官
滋賀県甲賀市信楽町多羅尾
近畿圏内10万石天領の支配を代々担当した多羅尾家の代官所。徳川家康の伊賀越えで功績のあった多羅尾光俊、光太は、後に豊臣秀次の配下となったが、秀次切腹後にあおりを受けて改易となる。やがて豊臣秀吉の死去後、徳川家康が大阪で伊賀越えの際に世話になった多羅尾光俊・光太の近況を聞いて召抱えた。光太の子光好は、近畿地方の天領の代官を命じられ、多羅尾家当主は代々代官職を任じられる。
多羅尾代官所ブログ記事→未訪問



伊勢四日市陣屋
多羅尾代官(出張代官所)
三重県四日市市北町(中部西小学校)
水谷光勝が徳川家康により四日市代官に任命されて、天領を管轄していたが、後に大和郡山藩の所領となり、江戸時代後期に再び天領となった際、多羅尾代官所の管轄となり、四日市代官所は多羅尾代官所の出張所となった。維新後、度会県の支所が置かれ、後に三重県庁となる。明治9年の地租改正に伴う伊勢暴動によって焼き討ちされて建物は消失した。
伊勢四日市陣屋ブログ記事→三重県四日市市 四日市代官所跡

五条代官所
五条代官
奈良県五條市新町(五条市役所)
五条、宇陀、吉野等300ヶ村5万石の支配を管轄した代官所。天誅組の変により、代官所は消失。当時の代官である鈴木源内は天誅組に斬首されている。
五条代官所ブログ記事→未訪問

名柄代官屋敷(中村邸)
名柄村代官
奈良県御所市名柄
名柄村の代官屋敷で、吐田城主吐田越前守の末裔中村正勝が代官に任命され、以後中村家が名柄村の代官職を務めている。
名柄代官屋敷ブログ記事→未訪問

久美浜代官所
久美浜代官
京都府京丹後市久美浜町(久美浜小学校)
丹後国や但馬国等の天領7万石の支配を管轄した代官所。当初は生野代官が管轄していたが、宮津藩時代の湊宮船見番所を殿町に移して陣屋を設置したもの。以降31代の代官が支配するが、慶応4年に新政府軍に接収され、官軍出張所と改められた。
久美浜代官所ブログ記事→未訪問

生野代官所
生野代官
兵庫県朝来市生野町口銀谷(生野小学校)
生野銀山や周辺天領の支配を管轄した代官所。その支配規模は8万2000石にも達していた。幕末期には、筑前浪士平野国臣ら浪士達は七卿の一人澤宣嘉を主将に迎えて生野で挙兵。当時の生野代官川上猪太郎は出張中で、生野陣屋は無抵抗で占拠される。平野らの募兵で2000人の農兵が集まったが、幕府より豊岡藩、出石藩、姫路藩に出動要請が出され、翌日には出石藩兵900人、姫路藩兵1000人が出兵。この事態に同様した挙兵側は、主将の澤は逃走し、浪士達は騙されたと起こった農兵達に襲われ瓦解。平野は捕縛され、後に六角獄舎で斬首された。
生野代官所ブログ記事→未訪問

○中国・四国地方


倉敷代官所
倉敷代官
岡山県倉敷市本町(倉敷アイビースクェア)
備中国倉敷村に置かれた代官所で、備中国、備前国、美作国、備後国南部、讃岐国島嶼部の幕府直轄領の支配を管轄。10数人の役人が勤務し、支配地の行政及び司法にあたった他、周辺諸藩の動静監視も重要な任務とされた。慶応2年の倉敷浅尾騒動では、立石孫一郎率いる第二奇兵隊の脱走隊士らが倉敷代官所を襲撃。出張中の代官桜井久之介は難を逃れたが、長谷川仙介、小松原芳太郎などの役人9名が討死し、代官所の大部分が火災で焼失した。そのため近隣にあった郷校明倫館が、仮代官所として使用されている。
倉敷代官所ブログ記事→岡山県倉敷市 倉敷美観地区と倉敷騒動

笠岡陣屋
倉敷代官(出張代官所)
岡山県笠岡市笠岡(笠岡小学校)
福山藩水野家の改易により、領内検地が行われ15万石の石高が査定される。その後、山形藩より松平忠雅が福山に10万石で入封し、残りの5万石が天領となり、そのうちの小田郡・後月郡が笠岡代官所の支配となって、倉敷代官所の出張代官所となった。
笠岡陣屋ブログ記事→未訪問


大森代官所
大森代官
島根県大田市大森町(石見銀山資料館)
石見(大森)銀山の支配を行った代官所。鎌倉時代末期に発見されたこの銀山は、大内氏、尼子氏、毛利氏による争奪戦が行われており、江戸時代に入ると、幕府の直轄領となった。銀山奉行が中央から派遣されて開発が進み、寛永年間には銀の産出はピークに達した。しかし、次第に産出量が減少し、銀山奉行職は廃止され、大森代官が銀山を支配する事となる。その後も代官支配の下で開発が続けられたが、幕末の石州戦争の際に長州藩が侵攻。最後の代官鍋田三郎衛門は侵攻前に倉敷に逃亡し、大森代官所は消滅し、以後は長州藩が支配して維新を迎えた。
大森代官所ブログ記事→島根県大田市 大森代官所跡

上下陣屋
大森代官(出張代官所)
広島県府中市上下町
福山藩水野家の改易により、領内検地が行われ15万石の石高が査定される。その後、山形藩より松平忠雅が福山に10万石で入封し、残りの5万石が天領となり、そのうちの神石郡・甲奴郡・安那郡が上下代官所の支配となって、大森代官所の出張代官所となった。
上下陣屋ブログ記事→未訪問

○九州地方


長崎奉行所
長崎奉行
立山役所:長崎市立山(長崎歴史文化博物館)
西役所:長崎市江戸町(長崎県庁)
遠国奉行首座の長崎奉行の政務所で、天領長崎の行政や司法、会所の監督を行い、オランダとの通商や出島の唐人屋敷を所管し、輸出入品の監視や長崎港の警備、また、九州諸藩の動静探索などを行った。幕末のフェートン号事件では、むざむざと英国船の浸入を許した責任をとって長崎奉行松平康英が自刃。その後は外国船や外国人に係る諸事件が頻発して、長崎奉行所の重要度が増す事になる。しかし、幕府の権威が失墜した幕末期には、長崎でも諸藩浪士達が横行。大政奉還後、最後の長崎奉行河津祐邦は、英国船に乗って長崎を脱出し、長崎奉行所はその役割を終える事となった。
立山役所ブログ記事→長崎バスツアー 1
西役所ブログ記事→長崎県長崎市 後藤邸跡〜小曽根邸の跡〜海軍伝習所跡


日田代官所
西国筋郡代
大分県日田市丸山(月隈公園)
豊後国日田に置かれた代官所で、その支配地は全国天領のうち2番目の広さを誇った。行政官は代官より格上の郡代が置かれ、九州の外様雄藩の動静監視も行っている。代官所は、戦国大名小川光氏によって築城された丸山城三の丸に建てられた日田陣屋。最後の西国筋郡代窪田鎮勝は、後の新撰組や新徴組の母体となった浪士組の取締役であった人物で武術に優れ、郡代赴任後に英国式兵制で農兵を組織した制勝隊を編成していたが、幕府崩壊後は隊を解散して江戸に戻った。
日田代官所ブログ記事→大分県日田市 日田陣屋跡

豊高陣屋
西国筋郡代(出張代官所)
宮崎県日向市中町(幸福神社)

日向国富高周辺の天領を支配するために、日田代官所の出張所として築かれた陣屋。日田代官所支配の手代が数名が常駐していた。
豊高陣屋ブログ記事→未訪問


豊前四日市陣屋
西国筋郡代(出張代官所)
大分県宇佐市四日市
中津藩小笠原家8万石の領地であった四日市は、3代藩主小笠原長胤の悪政により没収されて天領になり、天草代官所、日田代官所の管轄とされたが、後に四日市陣屋が築かれ代官所が置かれた。明治元年、佐田秀ら花山院隊が四日市陣屋を襲いこれを占領。この騒動に長府報国隊が出張し、交渉の場で幹部達を惨殺。花山院隊の本拠である御許山も攻撃し、花山院隊を壊滅させている
豊前四日市陣屋ブログ記事→大分県宇佐市 四日市陣屋跡

天草代官所
天草代官
熊本県天草郡苓北町富岡(富岡城三の丸)
富岡藩の藩庁である富岡城の維持管理が領民の負担であると、藩主戸田忠昌が三の丸を残して、本丸、二の丸を破却して廃城したのが富岡陣屋で、後世に「戸田の破城」として賞賛されている。忠昌は天草は天領であるべきであると主張して認められ、以後、富岡陣屋に天草代官所が置かれた。
天草代官所ブログ記事→未訪問






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