土蔵相模

品川区北品川1-22


御殿山
品川区北品川4-7



松蔭神社
世田谷区若林4-35-1

尊皇攘夷運動

文久2年、江戸在勤学習院用掛を命じられ、晋作は江戸に向かう。途中、晋作は京都に滞在していた藩主毛利敬親に、上海渡航について報告。その際、藩主より小袴を拝領されている。江戸の藩邸で、晋作は藩上層部に攘夷を説くが、受け入れられず脱藩する。桂小五郎らの説得により帰藩するが、今度は藩の書生達を集めて横浜の外国公使を暗殺する計画を立てた。計画に賛同したのは、山尾傭三、長嶺内蔵太、大和弥八郎、井上聞多らである。晋作の盟友久坂玄瑞は、はじめ反対していたが説得されて参加する。しかし、計画は未遂に終わることになる。計画の賛同者を増やすため、土佐勤皇党武市半平太に協力を求めるが、そのことで土佐の山内容堂から世子毛利元徳に知れることとなり、彼らは謹慎処分となった。晋作は諦めずに次の行動を起こす。計画に賛同してくれた同志達と「御楯組」を結成。ほどなく謹慎を許されると、御殿山に建設中の英国領事館を焼討ちする。英国領事館は見事に燃えて天下を驚かせた。その後、焼討ちに参加した同志達の大半は江戸を離れたが、晋作は残った同志達と吉田松陰の墓の改葬を計画する。文久3年正月5日、晋作は陣笠に陣羽織の騎馬姿で、同志達と松蔭の埋められている小塚原に向かい、松蔭の遺骨を堀だした。世田谷若谷の毛利家別荘地に埋葬するのだが、途中の寛永寺前の三枚橋で、将軍しか渡れない御成橋を渡って番人と悶着をおこす。幕府はこの件について不問であったが、長州藩は晋作をこのまま江戸に置く訳には行かず、晋作に帰国を命じた。

文久2年8月 京都にて藩主に謁見。
文久2年9月 江戸へ。
文久2年11月 外国公使暗殺を計画するが発覚して謹慎。御楯組結成。
文久2年12月 英国公使館を焼打ち。
文久3年1月 小塚原の松陰遺骨を掘り出し、世田谷若谷に改葬。

普通であれば、上海で西洋列強の軍事力を見せ付けられれば「開国」に目が行くのですが、晋作は激しく「攘夷」に走ります。上層部に受け入れられずに脱藩し、同志を集めて外国公使暗殺や領事館焼討ちを計画し、過激派の首領としてリーダーシップを発揮します。また、恩師吉田松陰の改葬時には、白昼堂々これを行って、将軍しか渡れない御成橋を番人の制止を押し切って渡り、幕府に対する挑戦的な行動をとる。
「動けば雷電のごとく・・」上海から帰った晋作は、今までの鬱憤を晴らすかの如く行動します。


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