岩国城

岩国市横山3丁目


野山獄跡
萩市今古萩町


蛤御門
京都市上京区烏丸通下長者町上ル6


禁門の変

京都では、八月十八日の政変により、長州藩は京都から追放される。晋作は奇兵隊総督罷免後、山口で奥番頭役(世子公内用掛、世子公夫人裏年寄)を命じられていた。京都より政変の知らせが届き、今後の対応について藩内は紛糾する。この一大事に防長一丸となって対応するため、晋作は岩国領の吉川経幹に、山口に来るよう催促するための使者を命じられ岩国に赴く。しかし、吉川は痔を理由に晋作に会おうとせず、仕方なく山口に戻っている。
遊撃隊の来島又兵衛らは、京都への進発も辞さぬ強行姿勢を取っており、晋作は世子より進発派の説得に向かう。来島に親書を渡して説得を試みるが、来島は説得に応じようとはしない。説得は不可能と判断した晋作は、在京の桂や久坂、宍戸らと相談するために脱藩して上京する。京都で、桂や久坂、宍戸らに遊撃隊の状況を説明。彼らも進発には反対の意見であった。その後、山口よりの使者が世子の親書を持参して、晋作の帰郷を促した。長州へ戻った晋作は、脱藩の罪で野山獄に投獄される。
京都では、池田屋事件が勃発。吉田稔麿ら多くの志士が殺される。この事件が進発派の怒りに火をつけ、禁門の変に突入する。進発した遊撃隊をはじめとした諸隊は、京都蛤御門付近で会津、桑名藩兵と衝突。一時は中立売門を突破して御所内に侵入するが、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。来島又兵衛、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎ら、多くの人材を失う事になる。
この事件により長州藩は朝敵となり、長州征伐へと発展してゆく。

文久3年9月 奥番頭役を命じられる。
文久3年10月 使者として岩国へ赴く。
元治元年1月 来島又兵衛の説特に失敗。脱藩する。
元治元年2月 京都で桂らと会う。
元治元年3月 帰国して投獄。
元治元年6月 池田屋事件。
元治元年7月 禁門の変。

総督を罷免されたといっても、代わりに奥番頭役に任命されていますので、ある意味出世に近いです。そのころ、京を追われた長州藩は、宍戸九郎兵衛、桂小五郎、久坂玄瑞らを京都へ潜伏させて朝廷工作にあたらせています。
国元では来島又兵衛ら遊撃隊が京都へ攻め上ろうと不穏な動きを見せはじめます。来島らの暴発を阻止するため、世子毛利定広(元徳)は晋作に書状を持たせて説得に向かわせる。その際、「書状を見せても簡単に説得できないようならすぐ帰って来い」と言われていたのに、なんとか自分でどうにかしたいと、色々手を尽くしますが、来島は聞く耳持たない。そこで京に潜伏する宍戸、桂、久坂の意見を聞き、彼らが進発に反対なら思い直してくれと来島を説得し、晋作は藩の許しなく勝手に京へ向かってしまいます。

大阪藩邸で3人に会い進発反対で一致した後、宍戸が遊撃隊の説得のために帰郷。晋作は大阪に残りますが、国許で自分の取った行動が良く思われていないと小耳に挟んだ晋作は、自暴自棄の陥って、土佐の中岡慎太郎らと元凶である(と思っている)島津久光を暗殺する計画まで立てています。その後、藩主の毛利敬親と世子の毛利定広の連名の晋作の帰郷を即書状が届きます。長州藩の藩主も世子もどうにも優しい(甘い?)人物で、わざわざ使者を派遣して晋作を呼び戻しています。他の藩なら追手が来てもおかしくないでしょうね。同志らの説得もあり晋作は帰郷を決意。帰郷後、脱藩の罪で野山獄へ入ります。

晋作が野山獄で外部と遮断されている間、池田屋事件、禁門の変と長州に悲劇が訪れます。

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