朝廷人物録

朝廷
京都御所 1万石〜3万石程度 天皇家

当時の朝廷は政治的実権を取得することなく、幕府に定められた禁中並公家諸法度により、その言動も厳しく制限されていた。しかし、幕末におこった国学思想から来る尊王運動で有力諸藩の力を得て、また、幕府の威信の低下に応じて朝廷は徐々に発言力を回復する。そして、この発言力を元に朝廷は政局に大きな影響力を持った。
あ行


姉小路 公知
あねがこうじ きんとも
(1839-1863)
公卿

開国派に転向し暗殺された長州派公卿
天保10年、公卿姉小路公前の子息として生まれる。安政5年、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。文久2年、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美とともに江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。のちに国事参政となり、三条とともに攘夷派の先鋒となったが、文久3年に深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われ自宅で卒去。


変名:-
主な役職:右近衛権少将、国事御用掛、摂海防備巡察、贈参議左近衛権中将
剣術:-
墓所:京都市上京区清浄華院


有栖川宮幟仁親王
ありすがわのみや たかひと
しんのう

(1812-1886)
一品親王
政治から距離を置いた一品親王
文化9年、有栖川宮韶仁親王の第一王子として生まれる。元治元年、息子の熾仁親王とともに国事御用掛に任命されるが、直後に禁門の変が発生。その際、熾仁親王が長州の復権と松平容保の洛外追放を訴えて御所内で周旋活動をしたことから両親王は長州との通謀疑惑をかけられ、国事御用掛を罷免された上、謹慎および蟄居を命じられた。慶応3年、明治天皇の践祚に伴い処分が解かれたが、幟仁親王はこれ以降政治的な表舞台には姿をあらわさず、打診された国事御用掛への復職も辞退している。その後、慶応3年に一品に叙せられる。幟仁親王は政治から距離を置く代わりに、慶応4年に神祇事務科総督に就任し国家神道や国学の普及に努めた。明治4年、家督を熾仁親王に譲り正式に隠居した後も、神道総裁や皇典講究所総裁などを歴任した。明治19年、前年から胃癌で闘病していた幟仁親王は危篤に陥り、その報を知った明治天皇は急ぎ大勲位に叙し菊花大綬章を授けた。同日、73歳で薨去。


変名:八穂宮
主な役職:国事御用掛、皇典講究所総裁
剣術:-
墓所:東京都文京区豊島岡墓地


有栖川宮熾仁親王
ありすがわのみや たるひと
しんのう

(1835-1895)
一品親王

東征大総督となった一品親王
天保6年、有栖川宮幟仁親王の第1王子として生まれる。和宮親子内親王と婚約していたことで知られるが、和宮との婚約は時の政治情勢により反故となる。父の幟仁親王とともに国事御用掛に任命されるが、直後に禁門の変が発生。熾仁親王は長州の復権と松平容保の洛外追放を訴えて御所内で周旋活動をしたことから親子は長州との通謀疑惑をかけられ、国事御用掛を罷免された上、謹慎および蟄居を命じられた。慶応3年、明治天皇の践祚に伴い処分が解かれた。明治天皇の信任や長州等からの人望が篤い熾仁親王は、王政復古のクーデター計画も西郷隆盛や品川弥二郎から事前に知らされる。このクーデターの成功により新政府が樹立され総裁・議定・参与の三職が新たに設けられると、熾仁親王はその最高職である総裁に就任する。戊辰戦争が勃発すると、熾仁親王は自ら東征大総督の職を志願し、勅許を得た。明治10年の西南戦争では鹿児島県逆徒征討総督に就任、西郷隆盛と対峙する皮肉な立場に立った。西南戦争における功により、陸軍大将に任命される。明治28年、逝去。


変名:歓宮
主な役職:国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事、元老院議長、
鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主
剣術:-
墓所:東京都文京区豊島岡墓地




岩倉 具視
いわくら ともみ
(1825-1883)
公卿

明治政府の重鎮となった策士公卿
文政8年、権中納言堀河康親の次男として生まれる。岩倉具慶の養子となる。安政元年孝明天皇の侍従となる。安政5年、日米修好通商条約勅許の奏請に対し阻止をはかる。公武合体派として和宮降嫁を推進、「四奸」の一人として尊皇攘夷派から非難され失脚。蟄居処分となる。慶応3年大赦により赦免。同年12月、新政府人事と慶喜の処分を求める王政復古の大号令案を奏上した。新政府においては、参与、議定、大納言、右大臣等をつとめる。明治4年、特命全権大使として使節団を伴い欧米視察。欽定憲法制定の方針を確定し、また皇族、華族の保護に力を注ぐ。明治16年、咽頭癌により死去。日本政府による最初の国葬者となった。


変名:堀河周丸、岩倉対岳、岩倉友山、
主な役職:参与、議定、大納言、右大臣
剣術:-
墓所:
東京都品川区海晏寺


正親町 公董
おおぎまち きんただ
(1839-1879)
公卿

長州藩の攘夷決行を賞賛した朝廷の勅使
天保10年、中山忠能の次男として生まれる。正親町実徳の養子となり、文久3年に国事寄人となる。長州藩が、下関で外国船砲撃を行うと、勅使として下関に下向して攘夷決行を賞賛した。しかし、八月十八日の政変で長州藩が京を追われると連座して差控処分となった。大政奉還後に許され、戊辰戦争では奥羽追討総督をつとめている。維新後は、陸軍少将となった。明治12年、死去。


変名:-
主な役職:国事寄人奥羽追討総督陸軍少将
剣術:-
墓所:京都市左京区真正極楽寺


正親町三条 実愛
おおぎまちさんじょう さねなる
(1821-1909)
公卿

倒幕の密勅を手渡した討幕派公卿
文政3年、中納言幕末正親町三条実義の次男として生まれる。幼くして父、兄をなくして正親町三条家を継ぐ。安政5年、老中堀田正睦が朝廷に対して通商条約締結の勅許を求めた際には、これに反対して廷臣八十八卿の一人として列参奏上に参加する。これにより安政の大獄に連座した。万延元年、議奏に任命されて和宮親子内親王の降嫁にかかわった。公武合体運動を支持して攘夷派の廷臣と対立して失脚する。八月十八日の政変で復職。薩摩藩に接触して討幕派公卿となり、二条斉敬、朝彦親王ら親幕派に対抗した。朝廷首脳部の更迭を求めた二十二廷臣の列参奏上を支持して、慶応2年に遠慮・閉門の処分を受けた。慶応3年、岩倉具視、中山忠能らと共に王政復古を画策。討幕の密勅を薩長両藩士に手渡した。王政復古では、新設された三職制の議定に就任。以降、内国事務総督、刑法官知事、刑部卿を歴任。明治42年、死去。「嵯峨日記」と総称される膨大な日記を残し、幕末維新史の重要な資料となっている。


変名:嵯峨実愛
主な役職:踏歌節会外弁、国事御用掛、議定、刑部卿、内国事務総督、教部卿
剣術:-
墓所:東京都文京区麟祥院


か行


和宮親子内親王
かずのみや ちかこ
ないしんのう

(1846-1877)
贈一品内親王
武家に降嫁した最初で最後の皇女
弘化3年、仁孝天皇の第八皇女として生まれる。嘉永4年、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約。文久元年、公武合体策の一環として、14代将軍徳川家茂に降嫁。御所と大奥の暮らしに戸惑いながらも、夫である家茂との仲は良好であった。慶応元年、家茂は自ら指揮を執っての長州征伐に乗り出す。しかし、家茂は大坂城で脚気衝心のため薨去。和宮は落飾し、号を静寛院宮と改めた。大政奉還後は、徳川の家命嘆願に尽力。明治2年より明治7年までの5年間、京都に在住。既に東京に移っていた明治天皇の勧めにより、かねてから用意されていた麻布市兵衛町の御殿で3年あまりを過ごす。明治10年、脚気の治療の為、箱根に静養のため滞在したが、程なく薨去した。和宮は江戸時代のみならず日本史を通じて、皇女が武家に降嫁し関東下向した唯一の例である。

変名:静寛院宮
主な役職:第14代征夷大将軍正室
剣術:-
墓所:東京都港区増上寺


北白川宮能久親王
きたしらかわのみや よしひさ
しんのう

(1847-1895)
無品親王
奥羽越列藩同盟に迎えられた幻の東武天皇
弘化4年、伏見宮邦家親王の第9王子として生まれる。安政5年、仁孝天皇の猶子となり親王宣下。慶応3年、江戸に下って上野寛永寺に入り、慈性入道親王の隠退に伴って、寛永寺貫主日光輪王寺門跡を継承した。慶応4年、鳥羽伏見の戦いののち、幕府の依頼を受けて東征大総督有栖川宮熾仁親王を訪ね、新政府に徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行う。しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は熾仁親王に一蹴された。その後、寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、その敗北により東北に逃避、仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。明治元年、仙台藩の降伏後、京都で蟄居を申し付けられる。翌年、処分を解かれる。明治3年から明治10年までドイツに留学。その後は陸軍の職務に励んだ。明治28年、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り、台湾全土平定の直前に台南にて薨去した。

変名:満宮、輪王寺宮、鎮護王院宮、公現入道親王、陸運
主な役職:獨逸学協会初代総裁、大日本農会初代総裁、第四師団長、台湾征討近衛師団長、陸軍大将
剣術:-
墓所:東京都文京区豊島岡墓地



久我 建通
こが たけみち
(1815-1903)
公卿

内裏を掌握し四奸として避難された公卿
文化12年、関白一条忠良子として生まれる。文政5年叙爵。朝幕間の調停に努め、条約勅許問題、和宮降嫁問題などに関与した。当時の内裏を掌握していたのは、摂政関白でも武家伝奏でもなくこの建通の感があったことから、俗に「権関白」と呼ばれた。「四奸」の一人として尊皇攘夷派から非難され失脚。蟄居処分となる。明治元年に赦免され、宮内省麝香間祗候や加茂社司、大教正、皇典講究所副総裁などをつとめた。明治36年9月28日、89歳で死去


変名:久我素堂
主な役職:右近衛大将、国事御用掛、宮内省麝香間祗候、加茂社司、大教正、皇典講究所副総裁
剣術:-
墓所:京都市北区大徳寺三玄院


近衛 忠煕
このえ ただひろ
(1808-1898)
公卿

篤姫の養父となった公武合体派の公卿
文化5年、近衛基前の子として生まれる。安政4年に左大臣となるが、将軍継嗣問題で一橋派に属したために安政の大獄により失脚し、落飾謹慎となる。文久2年に復帰して関白内覧を務めるが、翌年尊王攘夷派の台頭により関白職を辞す。その後も明治政府とは距離を置き、東京遷都後、ほとんどの公家が東京に移住した後も京都に居住、孫の篤麿を引き取り養育に専念した。明治天皇の度重なる要請に折れ東京に移ったのは、息子の忠房が死んだ後の明治11年のことであった。明治31年、薨去。薩摩藩と関係が深く、忠熙の正室島津興子は薩摩藩主島津斉興の娘である。また、島津斉彬の養女天璋院(篤姫)は、忠煕の養女となった後、将軍徳川家定に嫁した。


変名:−
主な役職:関白内覧
剣術:−
墓所:東京都大東区津梁院墓地


九条 尚忠
くじょう ひさただ
(1798-1871)
公卿

幕府との協調路線を推進した公武合体派公卿
寛政10年、左大臣二条治孝の子として生まれ、実兄の権大納言九条輔嗣に養育される。長期間関白職を務めた鷹司政通から同職を受け継ぐこととなる。安政5年、諸外国との通商に際して、幕府が日米修好通商条約の勅許を求めてきた時、幕府との協調路線を推進して条約許可を求めた。しかし、幕府との協調路線に反発する88人の公卿たちの猛烈な抗議活動により失敗。更に尚忠が勅許を認めようとしていたことを知った孝明天皇は立腹し、関白の内覧職権を一時停止した。その後、復職を許されるが、幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めたため、一部の尊皇攘夷過激派から糾弾されて、謹慎を命じられた。明治4年に死去。


変名:−
主な役職:関白
剣術:−
墓所:京都市東山区東福寺


九条 道孝
くじょう みちたか
(1839-1906)
公卿

幕府との協調を模索した最後の藤氏長者
天保10年、関白九条尚忠長男として生まれる。遅くにできた子であったため、父尚忠は嗣子を養子の九条幸経としていたため、幸経の養嗣子となった。元治元年に、国事御用掛。慶応3年には左大臣となっている。父尚忠と同じく幕府との協調を推進していたことから、王政復古の大号令後は参内停止処分に処せられたが、すぐに許されて、新政府軍の奥羽鎮撫総督に就任。東北地方を転戦した。維新後は、岩崎弥太郎の勧めで日本初の海上保険会社である東京海上保険会社の創設に関わる。明治39年、死去。


変名:九条道隆
主な役職:国事御用掛、左大臣、奥羽鎮撫総督、貴族院議員
剣術:−
墓所:京都市東山区東福寺


久邇宮朝彦親王
くにのみや あさひこしんのう
(1824-1991)
二品親王

八月十八日の政変で長州派公卿を排除した薩会派公卿
文政7年、伏見宮邦家親王の第四王子として生まれる。日米修好通商条約の勅許に反対し、将軍徳川家定の後継者問題では一橋派を支持したことなどから大老井伊直弼に目を付けられ、安政の大獄で隠居永蟄居を命じられる。文久2年に赦免されて復帰した親王は、国事御用掛として朝政に参画。文久3年、中川宮の宮号を名乗る。一般にはこの中川宮の名が知られている。親王は会津藩や薩摩藩と手を結び、長州派公卿と長州藩を京から排除する為、孝明天皇から内意を引き出し、八月十八日の政変を行う。長州派公卿および長州藩が朝廷から退くと、孝明天皇の信任を受ける。二度にわたる長州征伐後、幕府は将軍徳川家茂を病で失い、戦闘でも敗北した。さらに後を追うように孝明天皇が崩御し、尊攘派公卿が逐次復権する。このため、親王らは朝廷内で急速に求心力を失った。明治8年、新たに久邇宮家を創設。維新前後の経緯から新政府の中枢には入らず、また東京へ移住することもなかった。その後は伊勢神宮の祭主を務めるなどしたほか、神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始者としても知られる。明治24年、死去。


変名:成憲、尊応、尊融、獅子王院宮成憲、中川宮成憲、中川宮朝彦、賀陽宮朝彦
主な役職:国事御用掛、弾正尹
剣術:-
墓所:京都市東山区泉涌寺



孝明天皇
こうめいてんのう
(1831-1967)
天皇

外国を嫌い攘夷を望んだ幕末の天皇
天保2年、仁孝天皇の第4皇子に生まれる。弘化4年、即位する。父天皇の遺志を受けて、公家の学問所を創設し学習院と命名した。嘉永6年、ペリーが来航し幕府が独断で調印を行ったとの報告に接し譲位を表明。井伊直弼の幕政指導に不信を示し、戊午の密勅を水戸藩に伝達。 孝明天皇は攘夷の意思が強く、和宮親子内親王を徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだ。文久元年、長井雅楽の「航海遠略策」を受理。文久3年、上洛中の家茂を従えて賀茂社へ行幸。237年ぶりの行幸となった。石清水社行幸を経て、大和行幸が計画され始めるとことの成り行きに不安を抱き、8月18日の政変を承認。元治元年、再度上洛した家茂に公武一和の協力を命じた。同年、禁門の変をうけて長州追討を命じた。慶応元年、幕府の要請を受けて長州再征を許可。慶応2年、天然痘により崩御。崩御には暗殺説がある。


変名:統仁、煕宮
主な役職:天皇
剣術:-
墓所:後月輪東山陵


さ行


三条 実美
さんじょう さねとみ
(1837-1891)
公卿
(七卿)

長州藩と密接な関係を持った尊皇攘夷派公卿
天保8年京都生まれ。兄の公睦の早世により家を継いだ。安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊皇攘夷派の公家として、文久2年に勅使の1人として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促し、この年国事御用掛となった。長州と密接な関係を持ち、姉小路公知と共に尊皇攘夷激派の公卿として幕府に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画した。文久3年には、公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩・会津藩らが連動した八月十八日の政変により朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移る。長州藩に匿われるが、元治元年の第一次長州征伐に際しては、福岡藩へ預けられ3年間の幽閉生活を送った。王政復古後、新政府の議定、副総裁、右大臣、修史局総裁などを歴任。明治4年太政大臣に就任、明治18年の太政官制廃止までつとめた。内閣制度創設後は内大臣となる。明治22年の黒田内閣総辞職後、一時臨時首相も兼任した。明治24年55歳で死去。


変名:三条梨堂、三條 實美
主な役職:右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員
剣術:-
墓所:東京都文京区大塚護国寺


三条西 季知
さんじょうにし すえとも
(1811-1880)
公卿
(七卿)
歌道の宗匠となった七卿落ちの一人
文化8年、京都に生まれる。長州派公家として活躍。文久3年、公武合体派の策略により、三条実美らと長州へ下向、いわゆる七卿落ちの一人となる。やがて王政復古の大号令によって赦され、権大納言に復し帰洛。明治元年には皇太后宮権大夫となった。
明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主となった。
三条西家の当主だけあって歌道の宗匠として知られ、西四辻公業とともに明治天皇の歌道師範となった。
また、三条西家は香道の宗匠家としても知られ、季知自身も公家文化を担うこの時代の文化人の一人であった。


変名:三条西子迪、榎木藤一郎、蓬翁
主な役職:権大納言、皇太后宮権大夫、参与、大教正兼神宮祭主
剣術:-
墓所:東京都台東区谷中霊園


澤 宣嘉
さわ のぶよし
(1836-1873)
公卿
(七卿)

条約改正交渉の発端をつくった外務卿
天保6年、権中納言姉小路公遂の五男として生まれる。澤為量の娘藤子と結婚し、その婿養子となる。安政5年の日米修好通商条約締結の際は、養父と共に勅許に反対して廷臣八十八卿列参事件に関わる。以後、朝廷内において尊皇攘夷派として活動した。文久3年の八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ちする。長州へ逃れた後は各地へ潜伏し、平野国臣に擁立されて但馬国生野で挙兵するが、幕軍の威圧を受け逃走、再度長州藩に逃れる。

慶応3年の王政復古の後は、参与、九州鎮撫総督、長崎府知事などの要職を務め、明治2年に外国官知事から外務卿になり、外交に携わる。明治3年、外務卿として各国公使に対して、条約改正について条約所定の交渉期日を待って商議を開始する旨を通告し、条約改正交渉の発端をつくった。明治6年ロシア公使として着任する前に38歳の若さで病死した。このため、ロシア公使には急遽榎本武揚が着任することになった。


変名:姉小路隈麿、澤隈麿
主な役職:九州鎮撫総督、長崎府知事、外務卿
剣術:-
墓所:東京都文京区伝通院


四条 隆謌
しじょう たかうた
(1828-1898)
公卿
(七卿)

戊辰戦争を総督として戦った七卿落ちの一人
文政11年、権大納言四条隆生の三男として生まれる。攘夷派公卿として幕府に建言していたが、八月十八日の政変によって失脚。七卿落ちの一人となる。慶応3年の王政復古で討幕派が朝廷の実権を握ると京に戻って官位を復され、戊辰戦争では中国四国追討総督・大総督宮参謀・仙台追討総督・奥羽追討平潟口総督などを務めた。明治政府下では陸軍軍人として鎮台司令長官を歴任。明治24年侯爵に昇爵し、貴族院議員となる。明治31年に死去。


変名:-
主な役職:仙台追討総督、鎮台司令長官(大阪、名古屋、仙台)、元老院議官、貴族院議員
剣術:-
墓所:京都市左京区妙傳寺


昭憲皇太后
しょうけんこうたいごう
(1849-1914)
皇后

社会事業の発展や国産工業の奨励等に尽力した洋装をした初の皇后
嘉永2年、左大臣一条忠香の三女として生まれる。慶応3年、女流勤王論家若江薫子の推挙で睦仁親王の女御に治定。明治元年に皇后となる。新時代の皇后として社会事業、慈善事業の発展に貢献。欧米化政策の先頭に立って衣服の洋装化を推奨する。和歌や古典文学にも造詣が深く、3万6000首余りの短歌も残している。また、維新に倒れた者の家族に対する皇后名義での見舞金も多く出された。日露戦争前夜に坂本龍馬の夢を見たという話が広まり、国民の戦意向上に一役買ったという逸話が残される。明治45年、明治天皇が崩御すると皇太后となる。大正3年に死去。本来追号は「皇后」になるはずであったが、宮内省のミスで「皇太后」と大正天皇に上奏してしまい、そのまま御裁可されて「昭憲皇太后」として明治神宮の祭神となった。

変名:一条勝子、一条美子、富貴君、富美君、寿栄君
主な役職:皇后
剣術:-
墓所:京都市伏見区 伏見桃山東稜

た行


鷹司 輔熙
たかつかさ すけひろ
(1807-1878)
公卿

禁裏の政変に振り回された関白
文化4年、関白鷹司政通の長男として生まれる。安政5年、日米修好通商条約締結への勅許をめぐり、条約勅許不同意および将軍継嗣問題における一橋派の意見に同意。水戸藩へ勅諚を賜るように運動する。このため、井伊直弼の安政の大獄の一環で、安政6年に辞官を余儀なくされ落飾。随楽の法名を称する。桜田門外の変後もしばらく謹慎を続けたが、文久2年に宥免され、謹慎を解かれ、還俗を命じられる。国事御用掛に補任されて朝政に復帰。文久3年には関白に就任。関白在任中、八月十八日の政変が勃発。輔煕は関白の座にありながらこの政局に関与できず、また三条実美らの帰京を運動したため、関白を免ぜられた。禁門の変では、鷹司邸に久坂玄瑞や寺島忠三郎ら長州藩兵が立て篭もり、会津や薩摩、幕府軍の攻撃を受けて焼失。これにより鷹司家は長州藩と気脈を通じているとの嫌疑をかけられ、輔煕は参朝を停止され謹慎処分となる。慶応2年の孝明天皇崩御、および翌慶応3年睦仁親王の践祚に伴う大赦により赦免。新政府の議定となり、制度事務局督等に任ぜられる。明治5年に隠居。明治11年に薨去。


変名:随楽
主な役職:国事御用掛、関白、議定、制度事務督、神祇官知事、留守長官
剣術:-
墓所:京都市右京区二尊院


鷹司 政通
たかつかさ まさみち
(1789-1868)
公卿

長期にわたり関白職に君臨した名門家公卿
寛政元年、関白鷹司政熙の子として京都に生まれる。文政6年に関白に就任。天保13年には太政大臣に就任する。5年前後で関白職を辞する当時の慣例に反して安政3年に辞任するまで30年以上の長期にわたって関白の地位にあり、朝廷で大きな権力を持った。弘化3年に仁孝天皇が急逝した際には、喪を秘して政通を准摂政として事態の収拾を図った。孝明天皇の信認も厚く、関白辞任後も内覧を許され、依然として朝議に隠然たる影響力を行使した。安政3年には異例の太閤の称号を孝明天皇から贈られる。義弟の水戸藩主徳川斉昭から異国情勢についてこまめに連絡を受け、孝明天皇に報告した。当初は開国論に立って日米和親条約締結を主張したが、若手公卿の批判を受けると一転して攘夷派となる。これが幕府の怒りに触れて落飾し、出家した。明治元年、死去


変名:拙山
主な役職:関白、太政大臣、太閤
剣術:-
墓所:京都市右京区二尊院


な行


中山 忠光
なかやま ただみつ
(1845-1864)
公卿

藩内政変によって暗殺された尊皇攘夷派の急先鋒
弘化2年、権大納言中山忠能の七男として生まれる。真木保臣、吉村虎太郎ら尊王攘夷派の志士と交わって公武合体派の排斥運動の急先鋒となる。文久3年、国事寄人が新設され、これに加えられたが、ひそかに京都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名。久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。大和行幸の詔が出されると攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、吉村虎太郎らと共に大和五條の代官所を襲撃して挙兵した。しかし八月十八日の政変によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、鎮圧。忠光は大坂へ脱出し長州に逃れた。長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、元治元年の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、5人の刺客によって暗殺された。


変名:森俊斎、森秀斎、藤原忠光
主な役職:国事寄人、光明寺党党首、天誅組主将
剣術:-
墓所:下関市綾羅木中山神社


中山 忠能
なかやま ただやす
(1809-1888)
公卿

倒幕の密勅に署名した明治天皇の外祖父
文化6年、花山院流権大納言中山忠頼の次男として生まれる。天保11年に参議となる。嘉永6年、ペリーが来航して通商を求めた際には攘夷論を主張し、幕府と協調した関白九条尚忠を批判。安政5年、幕府が条約の許可を求めた際には、正親町三条実愛らと共にこれに反対した。万延元年、和宮降嫁の御用掛に任じられる。翌文久元年、和宮の江戸下向に随行。この件が原因で失脚。元治元年の禁門の変では長州藩の動きを支持し、孝明天皇の怒りを買って処罰された。慶応2年、孝明天皇が崩御すると、復帰を許される。慶応3年、中御門経之、正親町三条実愛らと討幕の密勅を作成。その後、岩倉具視らと王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。晩年は、曾孫にあたる嘉仁親王(大正天皇)の養育を担当。明治21年、死去。


変名:藤原忠能
主な役職:参議、議奏、議定、神祇伯宣教長官
剣術:-
墓所:
東京都文京区豊島岡墓地



錦小路 頼徳
にしきのこうじ よりのり
(1835-1864)
公卿
(七卿)

維新を待たずに逝った七卿落ちの一人
天保6年、唐橋在久の子として生まれる。錦小路頼易の養嗣子となり、嘉永4年に叙爵を受ける。安政5年の廷臣八十八卿列参事件に参加し、以後は尊皇攘夷派として活躍する。文久2年、公武合体派の久我建通の弾劾に加担。翌年2月、壬生基修とともに庶政刷新と攘夷貫徹を求める建言を提出して国事寄人に任じられ、孝明天皇の攘夷祈願の為の石清水八幡宮行幸に随従した。
しかし、八月十八日の政変によって失脚し、官位剥奪の処分を受ける。長州では桑原頼太郎の変名を用いて攘夷派と行動をともにするが、赤間関の砲台視察中に病に倒れ、同地で30歳の生涯を閉じた。


変名:唐橋頼徳、桑原頼太郎
主な役職:国事寄人
剣術:-
墓所:山口市赤妻町錦小路神社


二条 斉敬
にじょう なりゆき
(1716-1878)
公卿

攘夷派公卿を追放した公武合体派公卿
文化13年、左大臣二条斉信の次男として生まれる。黒船来航以来の政局にあたっては斉昭と同調し、日米修好通商条約締結の勅許も不可を唱えた。安政5年、井伊直弼の主導により、徳川慶福が14代将軍に決定すると、将軍宣下の使者として江戸へ下向。直弼との面会を望むが断られる。その後の安政の大獄で処罰の対象となるが10日間の謹慎で済んでいる。京都の地で尊王攘夷運動が高まりを見せると、公武合体派と目される。文久2年に国事御用掛に任ぜられ、三条実美や姉小路公知およびそれを支援する長州藩と対立。文久3年、八月十八日の政変を決行し、長州藩や過激派公卿の追放に成功する。同年、従一位左大臣に昇進。あわせて関白となるよう詔勅が下された。以後、孝明天皇を補佐し、長州処分問題、条約勅許問題、一橋慶喜の徳川宗家相続問題などの重要な政務を取り仕切り、親幕派公卿として活躍。慶応2年、孝明天皇崩御。慶応3年、睦仁親王が践祚すると、引きつづき摂政に任ぜられ、国政に当たる。王政復古の大号令により、天皇親政が宣言され、摂関は廃止。それに伴い斉敬も朝彦親王とともに参朝を停止された。翌年には赦されたが、その後朝政には参与することは無かった。明治2年、大宮御所御用掛、麝香間祗候を命ぜられる。明治11年に薨去。


変名:−
主な役職:関白、大宮御所御用掛、麝香間祗候
剣術:-
墓所:京都市右京区二尊院


仁和寺宮嘉彰親王
にんなじのみや よしあきら
しんのう

(1846-1903)
二品親王

皇族公務の原型を作った親王元帥
弘化3年、伏見宮邦家親王の八男として生まれる。安政5年、親王宣下を受け純仁親王を号し、仁和寺の門跡に就任。慶応3年、復飾して仁和寺宮嘉彰親王と名乗った。新政府では、議定、軍事総裁に任じられ、戊辰戦争では、奥羽征討総督として従軍した。明治3年、宮号を東伏見宮に改める。明治7年、佐賀の乱では征討総督として出征。明治10年の西南戦争にも旅団長として出征する。明治14年、功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。翌明治15年に、宮号を小松宮に改称した。皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範する。明治23年、陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任。日清戦争では征清大総督として旅順に出征。明治31年には元帥となった。明治35年、英国王エドワード7世の戴冠式に、天皇の名代として臨席した。日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作った。明治36年、死去。


変名:仁和寺宮純仁親王、東伏見嘉彰親王、小松宮彰仁親王
主な役職:奥羽征討総督、近衛師団長、参謀総長、陸軍元帥
剣術:-
墓所:東京都文京区豊島岡墓地


は行


東久世 通禧
ひがしくぜ みちとみ
(1834-1912)
公卿
(七卿)

明治初期の外交に尽力した七卿落ちの一人
天保4年、東久世通徳の子として京都に生まれる。攘夷派公卿として幕府に建言していたが、八月十八日の政変によって失脚。七卿落ちの一人となる。慶応3年の王政復古で討幕派が朝廷の実権を握ると京に戻って官位を復された。慶応4年、外国事務総督の一人となり、明治政府最初の外交問題・神戸事件の対応責任者となった。同年には横浜裁判所総督となる。

明治2年、第二代開拓長官に任命され、開拓使吏員、農工民約200人をともない、イギリスの雇船テールス号で品川を出帆。箱館に着任した明治4年、侍従長に転じる。同年、岩倉使節団に随行し、見聞を広める。その後、元老院副議長、枢密顧問官、貴族院副議長、枢密院副議長と歴任した。明治45年死去。


変名:東久世竹亭、古帆軒
主な役職:仙台追討総督、鎮台司令長官(大阪、名古屋、仙台)、元老院議官、貴族院議員
剣術:-
墓所:東京都目黒区長泉院


ま行


壬生 基修
みぶ もとおさ
(1835-1906)
公卿
(七卿)
新政府に参与として加わった七卿落ちの一人
天保6年、庭田重基の三男として生まれる。壬生道吉の養子となり、嘉永2年に昇殿。八月十八日の政変によって失脚。七卿落ちの一人となる。慶応3年の王政復古で帰京。明治後は県知事、東京府知事、元老院議官などを歴任した。明治28年、平安神宮初代宮司となる。明治39年、72歳で死去。

変名:庭田基修
主な役職:水原県知事、東京府知事、元老院議官、平安神宮初代宮司、大日本武徳会副会長
剣術:-
墓所:京都市嵯峨野二尊院


明治天皇
めいじてんのう
(1852-1912)
天皇

立憲君主制国家を確立させた近代天皇
嘉永5年、京都石薬師の中山邸にて生まれる。慶応2年、孝明天皇が崩御。慶応3年、満14歳で践祚の儀を行い皇位に就く。慶応3年、徳川慶喜が大政奉還の上奏を行い、明治天皇はこれを勅許。王政復古の大号令を発する。明治元年には五箇条の御誓文を発布。また、明治と改元して一世一元の制を定めた。京都から江戸に遷都し、江戸を東京に改めた。明治2年には版籍奉還の上表を勅許。明治4年には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。明治6年に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨をもって西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年から8年にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。明治15年、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、大元帥として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。明治22年、大日本帝国憲法を公布。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となった。その後、日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争を勝利し、明治44年には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了。明治45年、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症で崩御した。


変名:睦仁、祐宮
主な役職:天皇
剣術:-
墓所:京都市伏見区 伏見桃山陵


や行


ら行


わ行





-公家の家格-


-摂関家(五摂家、執柄家)-
近衛家、九条家、二条家、一條家、鷹司家
公家の家格の頂点に立つ5家で、大納言・右大臣・左大臣を経て、摂政・関白、太政大臣に昇任できる。

-精華家-
久我家、三条家、西園寺家、徳大寺家、花山院家、大炊御門家、今出川(菊亭)家、醍醐家、広幡家
左大臣を極官とする摂関家に次ぐ家柄。娘を皇后にできるのは、摂関家と精華家のみ。

-大臣家-
嵯峨家、三条西家、中院家
精華家の庶流から生まれた家。極官は内大臣。

-羽林家-
各大名家の家格に相当する家格。名家と同格。

-名家-
各大名家の家格に相当する家格。羽林家と同格。

-半家-
公家の中でも最下位の家格。主に源平藤橘氏以外を出自とする。




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