諸藩人物録

諸藩
徳川統治時代(江戸時代)には大小300余の藩が存在し、それぞれの所領を統治した。鎖国により門を閉ざしていた日本は、ペリーの来航によって西洋の衝撃を受け、国防意識の高まりとナショナリズムの勃興を背景に、人々はそれぞれの立場で日本の行く末を危惧することになる。それは、尊皇-公武合体-佐幕、開国-攘夷と様々な思想を自論として、藩論として展開していった。

※ここでは、薩長土と奥羽越藩以外の諸藩志士達を紹介します。

※水戸藩人物録はこちらから。※佐賀藩人物録はこちらから。
※十津川郷人物録はこちらから。※福井藩人物録はこちらから。
※福岡藩人物録はこちらから。

あ行

朝比奈 茂吉
あさひな もきち
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安藤 直裕
あんどう なおひろ
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石坂 周造
いしざか しゅうぞう
(1832-1903)
彦根藩

清河八郎と共に幕府転覆を謀った石油産業の祖
天保3年、彦根藩士の子として生まれる。江戸で清河八郎と共に尊皇攘夷運動に参加し、虎尾の会を結成する。清河と共に、幕府を欺いて浪士組を結成。浪士組頭取の一人に就任し、京都に入った。すぐに京都から江戸へ戻るが、幕府を欺いた罪により清河八郎は斬殺され、石坂もまた5年間投獄された。慶応4年、山岡鉄舟預かりとなる。 その後赦免されて、明治4年に長野石炭油会社を設立。アメリカから輸入した綱掘り式掘削機械で相良油田などから石油を採集し成功をおさめた。


変名:石坂宗順
主な役職:浪士組頭取、長野石炭油会社社長
剣術:-
墓所:東京都台東区全生庵

宇津木 六之丞
うつき ろくのじょう
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梅田 雲浜
うめだ うんぴん
(1815-1859)
小浜藩

安政の大獄で獄死した尊皇攘夷運動の先鋒
文化12年、小浜藩藩士矢部義比の次男として生まれる。藩校順造館に学び、儒学者山口菅山から闇斎学を学ぶ。梅田家を継ぎ、大津に湖南塾を開いた。天保14年、京都へ上京して藩塾の望楠軒の講師となる。嘉永5年、藩主酒井忠義の怒りに触れて藩籍を剥奪される。嘉永6年、ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥を訴えて尊皇攘夷運動の先鋒となり、幕政を激しく批判した。安政6年の安政の大獄で摘発。京都から江戸に送られ、獄中で病死した


変名:矢部源次郎、梅田源次郎、梅田義質、梅田定明、湖南
主な役職:湖南塾主宰
剣術:-
墓所:東京都台東区海禅寺、京都市東山区安祥院、小浜市北塩屋
松源寺


大石 進
おおいし すすむ
(1797-1863)
柳川藩

江戸の剣士が恐れた九州の剣豪
寛政9年、柳川藩士大石太郎兵衛の長男として生まれる。祖父の大石種芳に新陰流及び大島流槍術を学ぶ。文政5年、神陰流の免許皆伝。中津藩長沼無双右衛門の道場を訪ね、7日間門人たちと立ち合い、8日目に無双右衛門を撃破。その後久留米に向かい、40人と立ち合って、一戦も落とさなかった。文政8年、柳川藩の剣槍師範役を拝命。長沼無双右衛門も、門人18人を連れて大石の門下に加わった。九州各地から入門者が集まるようになったが、他国の門人には剣術だけを教え、槍術は指南しなかったという。天保3年、藩から聞次役を命じられ、暮れに江戸へ出府。江戸府内の名門道場に次々と挑み、長身から繰り出される長竹刀に突き伏せられない者はいなかったといわれる。当時随一の実力といわれた男谷精一郎とも3度試合をして2勝1負。同年、帰国して60石への加増を受ける。天保10年、江戸へ再出府する。すでに種次の剣名は高く、旗本や諸藩の士が入門に詰めかけたという。文久3年、死去。


変名:大石種次、大石武楽、大石七太夫
主な役職:柳川藩剣槍師範役
剣術:大石新陰流剣術、大島流槍術
墓所:大牟田市岩本慧日寺


大高 忠兵衛
おおたか ちゅうべえ
(1723-1864)
林田藩

池田屋で新選組に捕らえられ獄死した甲冑職人
文政6年、林田藩郷士常城広介の次男として生まれる。天保8年、赤穂浪士の末裔である同藩士大高六八郎の養子となり、甲冑職人として姫路城下で具足を売った。その頃より尊攘志士らと交流し、尊皇攘夷思想に影響を受ける。嘉永元年、梅田雲浜のすすめで上京。甲冑商大鷹屋を営みながら、義兄又次郎と共に尊皇攘夷運動に奔走する。安政の大獄の際には一時京を離れたが、後に戻って潜伏し、志士達に武器や甲冑を調達している。元治元年、池田屋の会合に居合わせたところを、新選組によって捕縛され、六角牢に投獄された。獄中で病に罹り獄中で死去。


変名:常城忠兵衛
主な役職:-
剣術:-
墓所:京都市東山区安祥院、京都霊山護国神社


大高 又次郎
おおたか またじろう
(1721-1864)
林田藩

池田屋で新選組に討たれた赤穂浪士の末裔
文政4年、林田藩士大高六八郎の長男として生まれる。大高家は赤穂浪士大高忠雄の子孫で、良質の皮製具足の製作を副業としていた。甲州流軍学、西洋砲術を学び、尊皇攘夷思想の影響を受けて、安政5年に脱藩。京都の梅田雲浜邸に住み込んで、尊攘志士と交流する。安政6年、参勤の際に伏見で攘夷派公卿大原重徳と対面させる計画を持ちかけたが、藩重役の反対で計画は頓挫する。安政の大獄が勃発し、雲浜が捕縛されるとそれを追って江戸に潜伏。しかし幕府の追捕が迫ったため、江戸を脱出して京都に戻る。その後は、勤皇志士で商人の古高俊太郎の別邸を拠点に、尊皇攘夷活動を継続。元治元年、古高が新選組に捕縛された事を受け、その事後策を協議する会合に、義弟大高忠兵衛と共に参加。そこに新選組が押し入って、池田屋事件が発生する。応戦するが討ち死にした。


変名:大高勘助、大高重秋
主な役職:-
剣術:-
墓所:京都市左京区三縁寺、京都霊山護国神社



緒方 洪庵
おがた こうあん
(1810-1863)
足守藩

多くの優秀な人材を輩出した適塾の主宰
文化7年、足守藩藩士緒方瀬左衛門の三男として生まれる。文政8年、 大坂蔵屋敷留守居役となった父と共に大坂に出る。中天游、坪井信道、宇田川玄真などに蘭学を学ぶ。天保7年、 長崎へ遊学しオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学んだ。天保9年、大坂に帰り、瓦町で医業を開業する。同時に蘭学塾「適塾」を開く。適塾は、福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出した。嘉永2年、 「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を開始する。翌年、足守藩より要請があり「足守除痘館」となる。安政5年、洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認し牛痘種痘治療が免許制となる。文久2年、 幕府の度重なる要請により奥医師兼西洋医学所頭取として、江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦。文久3年、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し窒息により死去。


変名:緒方章、緒方公裁、緒方適々斎、緒方華陰
主な役職:適塾主宰
剣術:-
墓所:東京都文京区高林寺


か行

加西 忠左衛門
かさい ちゅうざえもん
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河上 彦斎
かわかみ げんさい
(1834-1872)
熊本藩

攘夷の信念を貫いた人斬り彦斎
天保5年、熊本藩士小森某の次男として生まれる。11歳で河上彦兵衛の養子となる。小柄で色白であった為、一見女性の様であったという。文久3年、熊本藩の京都警護に随行して上京。三条実美らの信任を得る。八月十八日の政変後、脱藩して長州へ移り、三条実美の警護を務める。池田屋事件の報を聞いて再び上京。開国論者の重鎮、佐久間象山を暗殺した。禁門の変では、長州藩家老国司信濃の隊に参加。長州藩が敗れると、鳥取藩邸に潜伏した。その後、長州に戻り、高杉晋作のクーデターや四境戦争に参加。四境戦争では、芸州口や、石州口を転戦。しかし、小倉口で肥後藩が長州軍と対峙したと聞き、長州軍を抜け一人熊本へ帰郷。熊本藩では脱藩の罪で投獄される。慶応4年、熊本藩の新政府への恭順を期に出獄。攘夷を捨てた薩長に反感を抱き、旧幕臣との接触を図るが失敗。帰郷し、熊本藩の飛び地である鶴崎の鶴崎兵隊長に任命され、そこで兵学校有終館を設立する。明治4年、大楽源太郎を匿った罪や、二卿事件への関与、広沢真臣暗殺の疑いで投獄され、取り調べもないまま斬首された。


変名:河上玄明、高田源兵衛
主な役職:鶴崎兵隊長
剣術:伯耆流居合術?我流?
墓所:東京都池上本門寺


河田 佐久馬
かわた さくま
(1828-1897)
鳥取藩

剣術に優れた鳥取藩尊皇攘夷派の首魁
文政11年、鳥取藩士河田介景の長男として生まれる。嘉永4年に家督を継ぎ、伏見留守居役となる。尊王攘夷思想に傾倒し、鳥取藩の尊王攘夷派の中心人物となる。文久3年には京都留守居役も兼務。長州藩の桂小五郎らと交流し、京都で尊王攘夷運動を展開する。一方、鳥取藩内の公武合体派重臣黒部権之介らと対立。河田は同藩の太田権右衛門、詫間樊六、佐善元立ら21人とともに、本圀寺に宿泊中の黒部ら公武合体派4人を殺害した。しかし、元治元年、長州藩が禁門の変後に朝敵となると、長州藩に通じたとして幽閉される。慶応2年の第二次長州征伐では、石州口で長州軍に浜田藩領が敗れると、河田は同志と共に脱藩して長州藩へ逃れる。慶応3年、朝敵であった長州藩が宥免されると、河田らも鳥取藩に帰藩。戊辰戦争では、東山道先鋒軍の鳥取藩兵参謀となり、志願農兵山国隊の隊長も兼ねる。その後、宇都宮戦争、会津戦争にも従軍する。戦後は、甲斐府判事、軍務官判事、兵部大丞、京都府大参事兼留守判官、弾正大忠、民部大丞兼福岡藩大参事、鳥取県権令、元老院議官を歴任。明治30年、死去。


変名:河田権次郎、河田祺景、河田景与、河田研田
主な役職:鳥取藩京都留守居役、山国隊隊長弾正大忠鳥取県権令、元老院議官
剣術:河田派一刀流剣術、香取神道流剣術、大石神影流剣術
墓所:東京都府中市多磨霊園

岸 静江
きし しずえ
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清河 八郎
きよかわ はちろう
(1830-1863)
庄内藩

浪士組を結成し倒幕を謀った希代の策士
天保元年、庄内藩郷士の斉藤豪寿の子として生まれる。畑田安右衛門、藤本鉄石、東条一堂、安積艮斎などに師事。また、北辰一刀流玄武館で剣を磨き免許皆伝を得る。その後、清河塾を開設。安政7年に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕の思想を強める。この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まり、清河を盟主とした虎尾の会を結成する。文久元年には罵詈雑言を浴びせてきた者を斬り捨てたため、幕府に追われる立場となる。その後、山岡鉄舟らを通して、浪士を集め将軍警護の任を与える策を、幕府に発案。幕府はこれを採用し、浪士組が結成される。文久3年、第14代将軍徳川家茂上洛の際、その前衛として、浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着後、浪士組に本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。攘夷に反対した芹沢鴨派、近藤勇派らが残留し袂を分けたが、清河は200名の手勢を得る。清河は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、幕府の刺客佐々木只三郎ら6名によって殺害される。清河の死後、幕府は浪士組を新たに「新徴組」して江戸市中取締役の庄内藩預かりとした。


変名:斉藤元司、清河旦起、清河木鶏、斉藤正明、清川八郎
主な役職:浪士取締役
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:東京都文京区伝通院

河野 四郎
こうの しろう
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小宮 民部
こみや みんぶ
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さ行


佐久間 象山
さくま しょうざん
(1811-1864)
松代藩

洋学に傾向した松代三山の一人
文化8年、松代藩士佐久間国善の長男として生まれる。天保4年に江戸へ出て佐藤一斎に師事。天保10年、私塾象山書院を開いて儒学を教える。幕府老中となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられ、天保13年に「海防八策」を献上し高い評価を受けた。これ以降、象山は西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになる。嘉永2年、日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発、更には牛痘種の導入も企図する。嘉永6年、ペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。しかし嘉永7年、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。象山も事件に連座して伝馬町に入獄。文久2年まで、松代での蟄居を余儀なくされる。元治元年、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし、攘夷派の志士達の反感を買い三条木屋町で暗殺される。


変名:佐久間修理、佐久間国忠、佐久間啓、佐久間子迪、佐久間子明
主な役職:-
剣術:墳原卜伝流武術
墓所:長野市松代町蓮乗寺


宍戸 弥四郎
ししど やしろう
(1833-1863)
刈谷藩

中山忠光を逃がすためにおとりとなった天誅組義士
天保4年、刈谷藩士宍戸弥助の六男として生まれる。嘉永6年、藩命で江戸に在番。窪田清音の門人として山鹿流兵法を学ぶ。安政6年に若くして隠居して、関東各地を歴遊する。文久3年、天皇の大和行幸に際して、土佐浪士吉村寅太郎らと天誅組を結成。五条代官所を襲撃して挙兵した。しかし、八月十八日の政変が起こって大和行幸は中止となってしまう。大義名分を失った天誅組は、幕府から追討を受ける。天誅組は、十津川郷士960名を吸収して高取城を攻撃。少数の高取藩兵の銃砲撃を受けて敗走した。やがて、幕府が派遣した諸藩の兵に追い詰められて、十津川郷士勢が脱退。主将の中山忠光らを逃すためにおとりの決死隊の一員となり、那須信吾らとともに彦根藩兵の軍勢の中に斬り込み奮戦。中山忠光らの脱出を成功させたが、彦根藩兵の一斉射撃を浴びて戦死。胴衣の中には埋葬代として、肌付き金小判十両が縫い付けてあったという。


変名:宍戸昌明、道一軒
主な役職:-
剣術:窪田派田宮流剣術
墓所:刈谷市銀座松秀寺

島村 志津摩
しまむら しずま
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た行


滝 善三郎
たき ぜんざぶろう
(1837-1868)
岡山藩

初めて外国人に切腹を見せ付けた神戸事件の当事者
天保8年、岡山藩家老日置家の家臣滝助六郎の次男として生まれる。家老日置帯刀の馬廻役を務める。明治元年、岡山藩が朝廷より摂津西宮警護を命じられたため、日置帯刀隊約2000人が岡山が出発した。兄の率いる先鋒部隊の大砲方として随行したが、三宮付近で3人の外国人水兵が行列の前を横切ろうとする。善三郎はこれを制すが、水兵には言葉が通じず強引に押し通ろうとした。善三郎はこれに攻撃を加え、負傷させる。水兵らは拳銃を取り出し応戦。米英仏軍兵と銃撃戦へ発展した。この事件を受けて諸外国公使は、新政府対して責任者の厳罰を強硬に要求。新政府は善三郎の判断の正当性を訴え助命嘆願するが、諸外国は受け入れず岡山藩も要求を受け入れ善三郎に切腹を命じた。切腹に立ち会った英国外交官ミットフォードは、その模様を本国に伝え、新聞がイラスト付きで報じたため、日本の切腹が世界に紹介される事となった。


変名:滝正信
主な役職:馬廻役
剣術:一刀流剣術、萩野流砲術
墓所:岡山市東山墓地桜ヶ丘、京都市右京区回春院

立見 鑑三郎
たつみ かんざぶろう
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伊達 宗城
だて むねなり
(1818-1892)
宇和島藩
宇和島藩の藩政改革や軍制の近代化に着手した四賢候の一人
文政元年、旗本山口直勝の子として江戸で生まれる。文政12年、伊達宗紀の養子となる。天保15年、宗紀の隠居に伴い藩主に就任。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。更に福井藩主松平春嶽、土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と称された。安政5年、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立。井伊直弼は大老強権を発動し、14代将軍を家茂とする。その後、安政の大獄により隠居謹慎を命じられる。宗城は伊達宗紀の実子宗徳を養子にして藩主の座を譲ったが、隠居の後も藩政に影響を与え続けた。文久3年には参預会議、慶応3年には四侯会議に参加し、国政に参与しているが、ともに短期間で崩壊した。慶応3年、王政復古後は新政府の議定に名を連ねる。しかし、明治元年に戊辰戦争が始まると、薩長の行動に抗議して辞任する。明治2年、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けた。明治4年には欽差全権大臣として清との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられた。しかし、その年に中央政界より引退している。明治25年、東京今戸屋敷で病没した。

変名:山口亀三郎、伊達亀三郎、伊達兵五郎
主な役職:宇和島藩主、議定、民部卿、大蔵卿、欽差全権大臣
剣術:-
墓所:東京都台東区谷中霊園、宇和島市野川等覚寺



土居 通夫
どい みちお
(1837-1917)
宇和島藩

明治・正期の大阪財界の指導者
天保8年、宇和島藩士大塚南平の六男として生まれる。慶応元年、勤皇を志して脱藩。大坂に出て、鴻池家で奉公しながら勤皇運動にかかわり、薩摩藩士田中幸助や土佐藩士後藤象二郎らと交流する。陸奥陽之助による坂本龍馬暗殺の敵討ちの際は、助太刀して新撰組を襲ったとされている。鳥羽伏見の戦いでは、宇和島藩のために糧米確保などの働き、功を認められて帰藩を許された。ほどなく大阪に出て、大阪運上所に勤務。大阪府外国事務掛、大阪府権少参事と栄進した。明治5年、司法省に出仕。兵庫裁判長、大阪上等裁判長、大阪控訴裁判長などを歴任。辞職後、鴻池家の顧問、大阪電灯会社社長に就任した。そのほか日本硝子製造、日本生命、大阪毎日新聞、明治紡績、大阪実業銀行、大阪染織、浪速電車軌道、大阪土地建物、京阪電鉄など多くの会社の重役となった。明治27年には衆院議員となり、翌年には大阪商業会議所会頭となった。以後死去するまで22年間にわたって大阪財界の指導者として活躍した。


変名:大塚万之助、大塚彦六、土肥真一、土肥真一郎、土居真一郎、後家鞘彦六
主な役職:大阪府権少参事、大阪控訴裁判長、大阪商業会議所会頭
剣術:窪田派田宮流剣術
墓所:大阪市阿倍野区阿倍野墓地

藤堂 高猷
とうどう たかゆき
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な行

長野 主膳
ながの しゅぜん
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永田 太郎兵衛
ながた たろうびょうえ
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は行

服部 半蔵
はっとり はんぞう
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林 忠崇
はやし ただたか
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福澤 諭吉
ふくざわ ゆきち
(1835-1901)
中津藩
実学の必要性を説いた明治の教育者
天保5年、中津藩士福澤百助の次男として生まれる。安政元年、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。安政2年からは、大坂へ出て緒方洪庵の適塾で学び、安政4年には、最年少で適塾の塾頭となった。安政5年、中津藩から江戸出府を命じられる。その後、三度の海外渡航で見識を磨き、慶応4年には、自身が開いていた蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念する。明治4年より「学問ノスゝメ」を発行。明治15年「時事新報」を創刊。人間の独立自尊、実学の必要性を説き、脱亜論をとなえた。明治25年には、北里柴三郎を助けて伝染病研究所を設立。明治31年、慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立。政治科も増設した。明治34年、脳溢血のため死去。

変名:福澤範、中村諭吉、明治卅弐季後之福翁
主な役職:慶應義塾主宰、東京学士会院会長
剣術:立身新流居合術
墓所:東京都港区善福寺



ま行


松田 重助
まつだ じゅうすけ
(1830-1864)
熊本藩

池田屋で新選組に討たれた肥後の攘夷志士
天保元年、熊本藩士井原某の次男として生まれる。国学者林桜園の原道館に学び、宮部鼎蔵に山鹿流軍学を学ぶ。弘化2年、藩に出仕して小役人に任命されるが、固辞して玄関番に格下げされている。後に世子の小姓に昇進。嘉永6年、脱藩して尊王攘夷運動を展開。幕府から不逞浪士として追われるが、変装や偽名などは用いず大胆な行動をとっている。文久3年の八月十八日の政変で、長州派公卿7人が長州に逃れるとそれに同行。再び京都に潜入して再起を謀る。元治元年、池田屋事件に遭遇し死亡した。


変名:井原重助、松田範義、波多野右馬助
主な役職:-
剣術:-
墓所:京都市左京区三縁寺、京都霊山護国神社

松本 了一郎
まつもと りょういちろう
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水野 忠幹
みずの ただもと
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宮部 鼎蔵
みやべ ていぞう
(1820-1864)
肥後藩

池田屋の露と消えた勤王志士の重鎮
文政3年、肥後国益城郡田代村に生まれる。医者の家庭で、叔父の宮部増美の養子となる。山鹿流軍学を学び、30歳の頃には熊本藩に召し出され、林櫻園に国学などを学ぶ。吉田松陰と知り合い、嘉永3年、東北旅行に同行する。文久元年には肥後勤皇党に参加する。文久2年には清河八郎も宮部を訪ね肥後に来ている。その後、京都で活動する。文久3年に起きた八月十八日の政変で、長州藩が京より追放されると宮部も長州藩へ去るが、元治元年には再び京都へ潜伏しており、古高俊太郎のところに寄宿する。元治元年、池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦するが自刃する。


変名:宮部鼎三、宮部増実、宮部田城
主な役職:-
剣術:-
墓所:熊本市小峰墓地、京都霊山護国神社


陸奥 宗光
むつ むねみつ
(1844-1897)
紀州藩
(亀山社中(海援隊))

龍馬の意思を継いだカミソリ外相
天保15年、紀州藩士伊達宗広の六男として生まれる。国学者であった父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになった。安政5年、江戸に出て安井息軒や水本成美に学び、坂本龍馬、桂小五郎、伊藤俊輔らと交流した。文久3年、神戸海軍操練所に入り航海術を学ぶ。その後、坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)に加わる。
坂本龍馬が暗殺されると、紀州藩士三浦休太郎を黒幕と判断し、同志と共に新撰組の守る三浦を襲撃するという事件(天満屋事件)を起こしている。維新後は外国事務局御用掛、兵庫や神奈川県等知事、大蔵省租税頭、元老院議官を歴任。明治11年には政府転覆を企図した土佐立志社事件に関与したとして5年もの期間投獄された。出獄後は欧米を歴訪し、帰国後外務省入省。明治21年には駐米全権公使に就任。明治23年、第1回衆議院選挙に当選。第1次山県内閣、第1次松方内閣の農商務大臣に就任する。第2次伊藤内閣では外務大臣に就任した。明治27年には、日英通商航海条約に調印して、領事裁判権の回復を実現する。対清強硬路線をとり日清戦争開戦へと導くが、英・露の中立化に対する交渉や、清国との講和を処理する手法はカミソリ外交と呼ばれた。


変名:伊達小次郎、陸奥陽之助
主な役職:駐米全権公使、農商務大臣、外務大臣
剣術:-
墓所:鎌倉市扇ヶ谷寿福寺


や行


横井 小楠
よこい しょうなん
(1809-1869)
熊本藩

松平春嶽に招かれ右腕となった維新十傑のひとり
文化6年熊本藩士横井時直の次男として生まれる。文政元年、藩校時習館に学び、天保8年に居寮長となった。天保10年に江戸に遊学、儒学者林?宇に学ぶ。江戸滞在中に、旗本川路聖謨や水戸藩士藤田東湖などと親交を結んでいる。天保11年、酒に酔っておこした喧嘩の処分で翌年帰国。帰国後は、長岡是容らと共に藩校の学風を批判し、勉強会を開く。その集まりが「実学党」として藩内勢力の一角となり、藩校側(学校党)と対立した。この争いは、学校党を庇護する筆頭家老松井章之と、実学党寄りの次席家老長岡是容との権力闘争に発展。第三勢力の「勤皇党」も加わり藩内抗争は膠着状態となる。天保14年、私塾「小楠堂」を開き、のちに多くの門弟を輩出する。福井藩士三寺三作もこの小楠堂に学び、小楠の名が福井藩に伝わる。嘉永5年より、福井藩に招かれて政治顧問となり、福井藩の藩政改革に着手する。さらに、政事総裁職となった春嶽の右腕として幕政改革にも関わった。維新後は、新政府に参与として出仕。明治2年、狂信的攘夷思想を持った十津川郷士ら4名に、襲撃され死去する


変名:横井時存、平時存、平四郎、北条平四郎時存、北条四郎平時存
主な役職:時習館居寮長、小楠堂主宰、参与
剣術:-
墓所:京都市左京区南禅寺天授庵


ら行


わ行

渡辺 新左衛門
わたなべ しんざえもん
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渡邉 昇
わたなべ のぼる
(1838-1913)
大村藩

近代剣道の発展に尽力した人斬り
天保9年、大村藩士渡辺巖の二男として生まれる。藩校五教館に学ぶ。安政元年、斎藤弥九郎の三男歓之助が大村藩の剣術師範役となり、藩校の剣術流儀が神道無念流に統一され、歓之助の道場微神堂で神道無念流を学び、頭角を現した。安政5年、江戸藩邸勤めになった父に従い、江戸へ出る。安井息軒の三計塾に入って桂小五郎と知り合い、桂の勧めで斎藤弥九郎の剣術道場練兵館に入門。桂と共に「練兵館の双璧」と称された。翌年に桂が帰郷すると塾頭となる。天然理心流の近藤勇とも親交を持った。大村藩に帰郷すると、尊攘派藩士達と三十七士同盟を結成。元治元年、梅沢武平とともに藩の元締役富永快左衛門を暗殺。藩校改革も進めた。京都では、長州や薩摩の志士達と交流し、数々の暗殺を請け負った。長崎で坂本龍馬と会談。薩長同盟の成立のために長州藩への働きかけを頼まれ、同盟の成立に尽力した。慶応3年、同志が藩内の佐幕派に襲撃された事件をきっかけに、強引に藩論を尊王にまとめ上げる。維新後は、盛岡県権知事、大阪府大参事、大阪府知事を歴任。明治10年、西南戦争で抜刀隊が編成されると、大阪府知事であった昇は府内で剣術道場を開いていた元新選組隊士谷万太郎を隊長に推薦した。元老院議官、参事院議官、財務部勤務を経て、会計検査院長に就任。明治20年には、欧米の金融事情を視察するため渡欧する。晩年は、幕末に斬った志士達の亡霊に苦しめられ、書生に体を揉ませなければ眠れなかったという。大正2年、死去。


変名:渡邉武常、東民、其鳳
主な役職:盛岡県権知事、大阪府知事、元老院議官、会計検査院長、大日本武徳会商議員
剣術:一刀流剣術、神道無念流剣術
墓所:東京都港区青山霊園



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