福井藩人物録

福井藩(越前藩)
   32万石 越前松平家 福井城


四賢候の一人である第16代藩主松平春嶽は、由利公正、橋本左内らを登用し、洋学所の設置や軍制改革などの藩政改革を行い、公武合体派の重鎮として幕政に参与。朝廷・幕府どちらにもつかない、第三の立場で、早急かつ緩やかな改革を推し進めようとする。



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あ行


浅井 八百里
あさい やおり
(1813-1849)
福井藩
藩士への文武奨励を推進した福井藩重役
文化10年、福井藩士三寺与右衛門の子として生まれる。同藩士中根靱負は従兄にあたる。御読書御相手として、藩主に近侍。藩校正義堂句読師や側向頭取、上水掛目付を歴任して藩主松平慶永(春嶽)を補佐した。藩史である「執法全鑑」28巻を編修するなどもしている。嘉永2年、文武奨励方が置かれると文事掛に任じられ、中根と共に文武一致体制を目指すが、同年末に急死した。

変名: 浅井政昭、浅井明卿、栢庭、秋水軒、清夏堂
主な役職:御読書御相手、正義堂句読師側向頭取、上水掛目付文事掛
剣術:-
墓所:-


か行


さ行


鈴木 主税
すずき ちから
(18-18)
福井藩
福井藩天保改革の中心的な人物
文化11年、福井藩士海福正敬の次男として生まれ、福井藩士鈴木長恒の養子となる。幼少より学問を好み、藩校正義堂に学ぶ。天保7年、義父の長恒が寺社町奉行に就任。義父と共に、当時問題となっていた木田荒町の租税の改革にあたった。天保13年に家督を継ぎ、寺社町奉行に就任する。弘化2年、藩主松平慶永(春嶽)の側近として側向頭取に起用され、藩政、幕政に奔走した。橋本佐内ら有能な人材を見出し、藩内改革の中心的人物人物であったが、安政3年に病没する。

変名: 鈴木重栄、海福重栄、鈴木叔華、純淵、鑾城
主な役職:寺社町奉行側向頭取側締役
剣術:-
墓所:福井市足羽孝顕寺



た行





な行


中根 靱負
なかね ゆきえ
(1807-1877)
福井藩
公武合体政策に奔走した春嶽の側近
文化4年、福井藩士中根衆諧の長男として生まれる。藩校正義堂に学び、江戸に赴いて平田篤胤から国学を学んだ。天保9年には御用掛となり、橋本左内らとともに藩政改革に参与。嘉永6年にペリー艦隊が来航して通商を求めると、慶永に開国論を進言する。安政6年、安政の大獄によって慶永が隠居させられると失脚。その後、慶永が許されて政事総裁職になると、公武合体政策に従事する。維新後は福井で隠居し、「再夢紀事丁卯日記」や「戊辰日記」など著作活動を行った。明治10年、死去。

変名:中根栄太郎、中根雪江
主な役職:側用人
剣術:-
墓所:東京都品川区海晏寺


は行


橋本 左内
はしもと さない
(1834-1859)
福井藩
伝馬町の露と消えた春嶽の右腕
天保5年、福井藩士橋本長綱の長男として生まれる。緒方洪庵や杉田成卿に師事し、蘭方医学を学ぶ。諸国を遊学して、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流。福井藩主松平春嶽の側近として登用され藩校明道館学監心得となる。将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開。西欧の先進技術の導入や、ロシアとの提携の必要性を説いた開国論を展開した。安政6年、安政の大獄で幕府に捕縛され、頼三樹三郎と共に伝馬町で斬首となった。
変名: 橋本景岳、 橋本綱紀、 橋本伯綱、 橋本弘道
主な役職:御書院番、明道館学監心得
剣術:-
墓所:福井市左内町
善慶寺、東京都荒川区小塚原回向院



ま行

松平 春嶽
まつだいら しゅんがく
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松平 茂昭
まつだいら もちあき
(1836-1890)
福井藩
春嶽を助け従った最後の福井藩主
天保7年、糸魚川藩主松平直春の四男として生まれる。安政4年、父直春の隠居により糸魚川藩主となる。安政5年、安政の大獄で松平慶永(春嶽)が隠居謹慎処分となった事をうけ、本家筋の福井藩の家督を相続して第17代福井藩主となった。しかし、隠居した春嶽が藩政の実権を握り、茂昭は傀儡の存在であった。慶応元年の第一次長州征討では、副総督として小倉に出陣している。明治2年、版籍奉還にともない、福井藩知事に就任。明治4年の廃藩置県で免官された。明治23年、死去。

変名: 松平賞之助、松平直廉
主な役職:第7代糸魚川藩主、第17代福井藩主、征長副総督、福井藩知事
剣術:-
墓所:東京都品川区海晏寺


三寺 三作
みでら さんさく
(1821-1895)
福井藩
横井小楠の名を福井に広めた福井藩士
藩校正義堂に学び、藩主小姓となる。郷学所恵迪斎が設立されると、塾長に就任する。嘉永2年、諸国を遊学中に熊本に立ち寄り、横井小楠を訪ねてその思想に傾向する。福井藩は当時、天下の大儒を招いて学校を興す方針であったが、三寺は小楠こそ天下の大儒であると藩主に進言して、小楠召集のきっかけを作った。

変名: 大木本弥
主な役職:小姓、恵迪斎塾長
剣術:-
墓所:-


村田 巳三郎
むらた みさぶろう
(1821-1899)
福井藩
坂本龍馬との交流があった春嶽の側近
文政4年、福井藩士村田氏英の長男として生まれる。嘉永6年、江戸へ出て鉄砲隊頭取に任命された。藩主側近として幕政に関与。将軍継嗣問題にも活躍した。安政4年には熊本に赴き、横井小楠を招聘。文久2年、藩主松平春嶽がの政事総裁職に就任すると、側近として活躍する。戊辰戦争には、会津藩征討参事として参戦。戦後は、会津藩参政や大参事を勤める。その後、岐阜県令、内務大丞兼警保などを歴任。明治32年、死去。


変名: 村田氏寿、村田子慎、文峰
主な役職:鉄砲隊頭取会津藩大参事、岐阜県令、内務大丞兼警保
剣術:-
墓所:東京都台東区谷中霊園、福井市足羽孝顕寺



や行


由利 公正
ゆり きみまさ
(1829-1909)
福井藩
五箇条の御誓文の原文を作成した福井の逸材
文政12年、福井藩士三岡義知の長男として生まれる。福井藩に招かれた横井小楠の殖産興業策に触発され、財政学を学ぶ。藩主松平慶永(春嶽)に抜擢され、窮乏した藩財政を再建する。春嶽が政事総裁職に就任すると、側用人に就任して国政に奔走した。しかし、文久3年、京都への率兵計画の頓挫により、蟄居謹慎処分となる。慶応2年に藩政に復帰。翌年、土佐藩士福岡孝弟らと共に五箇条の御誓文の起草に参画する。新政府では徴士参与として、金融財政政策を担当。会計事務掛、御用金穀取締として、会計基立金募集や太政官札発行、商法司設置など積極的な政策を推進したものの、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年に辞職する。明治4年、東京府知事に就任。明治5年、岩倉使節団に随行して、欧米へ渡航。各国の自治制度、議会制度などを視察した。明治7年、板垣退助や江藤新平らと共に、政府に対して民撰議院設立建白書を提出。明治8年に元老院議官に就任する。明治27年、有隣生命保険会社の初代社長に就任。明治42年、死去。

変名: 三岡石五郎、三岡八郎、三岡義由、雲軒
主な役職:側用人徴士参与会計事務掛、御用金穀取締、内務大丞兼警保東京府知事
元老院議官、貴族院議員
有隣生命保険会社初代社長
剣術:-
墓所:東京都品川区海晏寺


ら行


わ行



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