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佐幕派諸藩士人物録

佐幕派諸藩士

崩壊する幕藩体制の中、武士の頭領である征夷大将軍(幕府)に忠誠を誓う事こそ武士の道と考える諸藩の武士達もいた。また、徳川の世が永久のものだと、時代の流れを見極められない者もいる。いずれにせよ、彼らは自らの藩や幕府を守るという信念を持って改革派と対立した。



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あ行


朝比奈 茂吉
あさひな もきち
(1851-1894)
郡上藩

故郷に裏切られた凌霜隊隊長
嘉永4年、郡上藩家老朝比奈藤兵衛の長男として生まれる。大政奉還後、国許の郡上藩は新政府に恭順の意を示すが、江戸藩邸の佐幕派であった家老の父朝比奈藤兵衛は、江戸詰めの藩士からなる凌霜隊を結成させて息子の茂吉を隊長に任命。形式的に脱藩して、会津に援軍に向かう。会津戦争で凌霜隊は、白虎隊と共に日向内記の配下に編入され、西出丸の防衛にあたる。会津藩降伏後、故郷の郡上に護送され、禁固の処罰を受ける。明治3年に赦免。しかし、脱藩して賊軍となった凌霜隊士達に対して、藩は手のひらを返したような冷遇をする。居場所のない藩に見切りをつけ、父藤兵衛の実家である彦根藩重臣椋原家の養子となった。その後、犬上郡青波村村長を務め、明治27年に死去した。


変名:椋原義彦
主な役職:凌霜隊隊長、犬上郡青波村村長
剣術:-
墓所:彦根市中央町蓮花寺



安藤 直裕
あんどう なおひろ
(1821-1885)
紀州藩

大村益次郎の戦略により敗退した石州口総督
文政4年、紀州藩附家老安藤直則の次男として生まれる。文政9年に家督を相続。家老として藩主を補佐した。慶応4年の第二次長州征伐では、石州口総督を務め、藩兵1080名を率いて出陣したが、長州軍の猛攻を抑えきれずに敗退して江津まで退却する。慶応4年、新政府により自領を田辺藩として立藩することを許されるが、明治4年の廃藩置県により田辺藩は消失した。明治18年、死去。


変名:安藤裕之進、安藤帯刀、安藤飛騨守、墨堂
主な役職:紀州藩附家老、初代田辺藩主
剣術:-
墓所:岡崎市大和町妙源寺


宇津木 六之丞
うつき ろくのじょう
(1809-1862)
彦根藩

大老井伊直弼の政策に奔走した彦根藩公用人
文化6年、彦根藩士古沢六右衛門の四男として生まれる。文政4年、彦根藩士宇津木景俊の養嗣子となった。文政10年、江戸へ出府。第14代彦根藩主井伊直亮の使番取次となる。母衣役、物頭、表用人などを歴任。相州詰長期守護として警備にも当たっている。第15代藩主井伊直弼が大老に就任すると、藩の公用人となり、藩論をまとめるために奔走する。長野主膳らとともに、将軍継嗣問題や安政の大獄に活躍した。安政7年、直弼が桜田門外の変で暗殺された後も、第14代藩主井伊直憲に側役として仕えたが、藩論が尊皇攘夷に傾くと、長野らとともに斬首された。


変名:古沢留吉、宇津木景福
主な役職:彦根藩母衣役、彦根藩物頭、彦根藩表用人、彦根藩公用人、藩主側役
剣術:-
墓所:彦根市古沢町清涼寺


か行


河西 忠左衛門
かさい ちゅうざえもん
(?-1860)
彦根藩

桜田門外で井伊の輿を守るために奮戦した二刀流の剣豪
彦根藩士河西嘉平次の子として生まれる。彦根藩きっての剣豪でその名は他藩にも知られていた。安政7年、藩主井伊直弼の行列を、水戸浪士らが襲撃。供目付であった河西は、雨具、柄袋を脱して襷をかけ、両刀を抜いて井伊の輿を守った。襲撃方の稲田重蔵を切り倒して奮戦するが、前後左右より攻撃を受けて絶命する。襲撃した浪士らは、彼が生きている間は輿に近付けなかったという。


変名:河西良敬
主な役職:彦根藩御供目付
剣術:新免二刀流剣術?
墓所:東京都世田谷区豪徳寺


岸 静江
きし しずえ
(1836-1866)
浜田藩

たった一人で長州の軍勢に立ち向かった藩境守備隊長
天保7年、浜田藩士岸某の子として生まれる。藩主松平武聡の近習を勤め、慶応2年の幕長戦争の石州口の戦いでは、津和野藩との藩境である多田扇原関門を農兵6名と共に守る。大村益次郎率いる長州藩兵は、津和野藩領を通過し、多田扇原関門に迫った。岸は浜田藩領に駐屯する福山藩軍に援軍を求めるが、福山藩はこれに応じなかった。岸は部下の農兵に撤退を指示。自らは関門に仁王立ちして、長州軍の進行を阻む。長州軍は道を空けるよう迫るが、岸は頑なに拒否。岸は長州藩兵に銃撃され討ち死にした。長州軍は岸を武士の鑑として最大の敬意を表し、近隣の西禅寺の住職に頼み岸の埋葬を依頼。墓碑建立の醵金を添えた。浜田藩も忠節抜群を褒めて、弟の岸新六を末期養子として十石を加増している。


変名:岸国治
主な役職:藩主近習
剣術:大島流槍術、宝蔵院流槍術
墓所:益田市多田町


黒田 長溥
くろだ ながひろ
(1811-1887)
福岡藩

開明的であったが佐幕派藩主として藩内尊攘派を弾圧した福岡藩主
文化8年、薩摩藩主島津重豪の十三男として生まれる。文政5年、第10代福岡藩主黒田斉清の養嗣子となる。天保5年、養父の隠居により、家督を相続。近代化路線を推し進め、精練所や反射炉を建設する。また、藩士を積極的に長崎に派遣し、西洋技術を習得させた。オランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組み、医術学校の創設や種痘の実施、金鉱・炭鉱開発を推進した。嘉永3年、実家の薩摩藩島津家の相続争い(お由羅騒動)に際し、事態の収拾に求め、島津斉彬の藩主相続に貢献した。嘉永5年、幕府に対して海防に関する建白書を提出するが、黙殺されている。その主張が採用されることはなかったが、斉溥が処分を受けることもなかった。積極的な開国論者であり、慶応元年、藩内における過激な勤王志士を弾圧している。明治2年に隠居した。明治18年、旧福岡藩の藤雲館を、旧福岡藩校修猷館を福岡県立修猷館として再興。明治20年に死去した。


変名:黒田桃次郎、黒田斉溥、黒田官兵衛
主な役職:第11代藩主
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


河野 四郎
こうの しろう
(1820-1863)
小倉藩

朝陽丸事件で切腹した小倉藩郡代
文政3年、小倉藩士の子として生まれる。藩校思永館に学び、武技軍学に長じた。大目附、郡代を歴任し、家老小宮民部、島村志津摩などを補佐した。文久3年の長州藩外国船砲撃の際して、攘夷に協力しない小倉藩の藩領に長州諸隊が占領する事件がおきる。それを受けて、幕府は軍艦朝陽丸で詰問使を派遣。河野は小倉藩の正使として乗船した。幕府詰問使が下船して長州藩との交渉中、下関に停泊中の朝陽丸に、長州藩士らが乗り込みこれ占領。河野は艦上にて、同乗していた大八木三郎と共に切腹した。その後、幕府詰問使も暗殺されるが、八月十八日の政変が勃発し、一連の事件はうやむやになった。


変名:河野通棣
主な役職:思永館助教、大目附、郡代
剣術:-
墓所:-


小宮 民部
こみや みんぶ
(1823-1869)
小倉藩

小倉城自焼の責任を負って自刃した執政家老
文政6年、小倉藩士秋山光芳の次男として生まれる。藩校思永館に学び、中老小宮親泰の養子となった。嘉永6年、家老に就任する。財政経済に長けるが、同じく家老の島村志津摩と対立して藩行政から退いた。文久2年、家老に再登用される。文久3年の第一次長州征伐では、庄屋格以上の農民から農兵を募集して農兵隊を設立した。慶応2年、第二次長州征伐の小倉口の戦いにおいて、小倉藩は長州軍の領内侵入を許し、諸藩兵は戦線を離脱。小倉口総督小笠原長行も富士山丸で大阪へ去り、窮地に立たされる。藩首脳部は協議して、小倉城を自焼させて金辺峠へ撤退。藩庁を香春へ移した。小倉藩は、遊撃戦で抵抗を続けるが、多勢に無勢となり降伏する。その後、佐幕的思想が藩の方針に反したため、隠居謹慎となる。明治2年、小倉城自焼の責任を負って自刃した。


変名:秋山小三郎秋山又彦、小宮四郎左衛門、小宮親懐
主な役職:小倉藩執政家老
剣術:-
墓所:北九州市小倉南区開善寺



さ行


島村 志津摩
しまむら しずま
(1833-1878)
小倉藩

小倉城炎上後も遊撃戦で長州軍と戦った知将
天保4年、小倉藩士島村貫寵の長男として生まれる。剛果にして胆略があり、平時にあっても士卒を率いて山野に駒を進めるなど、将たるにふさわしい器量人であったと云われている。嘉永5年、家老に就任して藩政改革を行う。しかし、同藩家老小宮民部と対立して改革は挫折。文久元年に再び家老に就任するが、藩主相談役の小笠原敬次郎に失脚させられた。文久3年、品川台場警備の為に江戸へ派遣される。第一次長州征伐に際して、藩に呼び戻され、一番備士大将に任じられて藩軍の最高責任者となる。第一次長州征伐では、長府への先制攻撃を主張するが、小倉口総督小笠原長行に却下された。長州藩の上陸を許し小倉藩兵は惨敗するが、赤坂の戦いでは熊本藩兵の支援により、長州藩兵に大打撃を与える。その後、熊本藩兵の戦線離脱、小笠原長行の逃亡により、藩は小倉城を自焼させて、香春に本営を移す。島村は金辺峠に布陣して、遊撃戦を展開。長州藩兵を翻弄する。長州藩との止戦交渉では、策を講じて藩世子が人質となることを防ぐ。戦争終結後は家老に就任して、藩の再建に力を注いだ。明治2年、役を辞して京都の二崎に隠棲。炭鉱業を営むが失敗する。明治9年、死去。


変名:島村貫倫、竹渓、三橋、賁軒
主な役職:小倉藩家老、一番備士大将、香春藩執政
剣術:-
墓所:北九州市小倉北区広寿山福聚寺



た行


立見 鑑三郎
たつみ かんざぶろう
(1845-1907)
桑名藩

賊軍出身でありながら大将に登りつめた常勝の戦術家
弘化2年、桑名藩士町田伝太夫の三男として生まれる。伯父である立見場兵衛の養子となった。安政6年、桑名藩主松平定敬の小姓となる。元治元年、松平定敬の京都所司代就任に伴い京都で藩の周旋役を勤める。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、桑名藩主戦派と共に江戸へ向かう。桑名藩兵は、伝習隊や新選組と合流して宇都宮の戦いに参加。桑名藩の飛地である柏崎に謹慎中の松平定敬と合流する。立見は雷神隊の隊長に選抜され、鯨波戦争、北越戦争で新政府軍を苦しめた。中でも朝日山の攻防戦では、奇兵隊参謀時山直八を討ち取る殊勲を挙げている。その後、会津戦争にも参加。会津降伏前に、松平定敬と共に脱出し、定敬は箱館へ。立見ら桑名本隊は庄内藩と合流する。寒河江の戦いでも新政府軍を苦しめるが、庄内藩の降伏により投降する。戦後は謹慎生活を送っていたが、指揮能力を評価されて陸軍に仕官。西南戦争では、陸軍少佐として参加。日清戦争では、陸軍少将として歩兵第10旅団を率いる。日露戦争では、陸軍中将として第8師団を率いて出征。黒溝台会戦では、数倍の兵力のロシア軍との激戦を制してロシア軍を退却させた。これらの功績により、旧幕府軍出身者ながら陸軍大将に昇進する。明治40年、死去。


変名:倉田巴、立見尚文、快堂
主な役職:雷神隊隊長、陸軍大学校長事務取扱、台湾総督府軍務局長、第8師団長、陸軍大将
剣術:柳生新陰流剣術、風伝流槍術
墓所:東京都港区青山霊園


藤堂 高猷
とうどう たかゆき
(1813-1895)
津藩

鳥羽伏見の戦いでの官軍勝利の一因を作った津藩主
文化10年、津藩主藤堂高兌の長男として生まれる。天保13年、幕命により伊勢神宮の警備を務め、砲台を建築。この件から藩校有造館の校長斎藤拙堂とともに西洋式軍制改革を行った、文久3年、天誅組の変を鎮圧。元治元年には、京都守衛のため兵を送っている。佐幕派寄りの考えを持っていたが、幕政に参加していない。慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは、当初は幕府軍に与していたが、後に新政府軍に転じて新政府軍勝利の一因となっている。この寝返りは幕府側の将兵から「その行い、藩祖(高虎)に似たり」とそしられた。明治28年、死去。


変名:藤堂寿千代、藤堂和泉守、藤堂高猷、観月楼
主な役職:第11代津藩主
剣術:
墓所:東京都豊島区染井霊園




な行


長野 主膳
ながの しゅぜん
(1815-1862)
彦根藩

将軍後継問題で調停工作に奔走した井伊直弼の片腕
文化12年生まれ。伊勢国飯高郡滝ノ村の出身であるが、若い頃のことは詳しくわかっていない。天保12年、国学者として近江国坂田郡志賀谷村に私塾高尚館を開く。当時部屋住みの身分であった井伊直弼も、この高尚館を訪ねて師弟関係を結んでいる。直弼が第15代彦根藩主に就任すると、藩校弘道館国学方に取り立てられ、藩政改革に協力。直弼が幕政に参加し大老に就任すると、将軍後継問題等に関与し、南紀派が推薦する徳川慶福擁立に貢献した。安政7年、桜田門外の変で直弼が暗殺荒れた後は、第16代藩主井伊直憲から疎まれ、家老岡本半介と対立する。文久2年、井伊家が問罪されるとその責をとらされて斬首された。


変名:長野主馬、長野義言、桃之舎
主な役職:高尚館主宰、弘道館国学方
剣術:-
墓所:彦根市里根町天寧寺


永田 太郎兵衛
ながた たろうひょうえ
(?-1860)
彦根藩

桜田門外の変で闘死した彦根藩籠脇警護
第15代藩主井伊直弼の籠脇警護を担当。桜田門外の変での浪士襲撃に際して、二刀流の剣術で応戦。襲撃者に重傷を与えるが、銃撃されて闘死した。


変名:永田正備
主な役職:彦根藩主籠脇警護
剣術:新免二刀流剣術?
墓所:東京都世田谷区豪徳寺


は行


服部 半蔵
はっとり はんぞう
(1845-1886)
桑名藩

桑名藩兵を率いた忍者を祖とする服部家の当主
弘化2年、桑名藩家老服部半蔵正綏の長男として生まれる。服部家当主は代々半蔵を名乗った。慶応元年、家督を継いで家老に就任。 桑名藩主松平定敬が、京都所司代に就任すると、京都にて藩主を補佐。慶応3年には、桑名藩御軍事惣宰に就任する。 鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れ、将軍徳川慶喜が松平定敬を伴って江戸に変えると、桑名藩主戦派と共に江戸へ。桑名藩兵は、藩の飛地である柏崎に集結。軍制を立て直し、全軍を指揮する。鯨波戦争、北越戦争、会津戦争を経て、庄内で新政府軍に降伏した。その後、桑名藩大参事、第三大区長(桑名郡長)などを務める。明治19年、死去。


変名:服部正義、服部石見守
主な役職:桑名藩家老、御軍事惣宰桑名藩大参事、第三大区長
剣術:-
墓所:桑名市萱町顕本寺


林 忠崇
はやし ただたか
(1848-1941)
請西藩

自ら脱藩して徳川に忠誠を尽くした最後の大名
嘉永元年、請西藩主林忠旭の五男として生まれる。嘉永7年に父忠旭が隠居するが、兄林忠貞はすでに早世しており、自らも幼少であったため、叔父の林忠交が家督を相続する。慶応3年、忠交の死去により、幼少であった忠交の子林忠弘に代わって家督を相続した。慶応3年、大政奉還の報を受け、藩論は恭順派と抗戦派に分かれて混乱する。同年、旧幕府軍が助力を要請すると、自ら脱藩して藩士70名とともに遊撃隊に参加。藩主自らの脱藩の罪で、請西藩林家は改易処分となる。館山、箱根、伊豆、奥州などを転戦。仙台藩を頼る。徳川家存続の報を受けて、仙台藩降伏と共に投降する。にて新政府軍に降伏。江戸の唐津藩邸に幽閉された。維新後は開拓農民、東京府や大阪府の下級官吏、商家の番頭など、一介の士族として困窮した生活を送る。明治26年、旧藩士による林家の家名復興の嘆願が認められ、華族の一員となり、その後は宮内省や日光東照宮などに勤めた。昭和16年、次女ミツの経営するアパートにて死去。


変名:林昌之助
主な役職:第3代請西藩主
剣術:-
墓所:東京都港区青松寺


ま行


松本 了一郎
まつもと りょういちろう
(1822-1865)
人吉藩

藩の軍制を近代化することに尽力するが上意打ちされた人吉藩士
文政5年、人吉藩士松本某の子として生まれる。高島流の砲術を学んだ。文久2年に人吉藩の武器庫が、寅助火事で焼失したことにより、砲術の洋式化を提言して認められ、オランダ式軍制への改革を推進する。文久3年の薩英戦争で、西洋軍式の必要性を改めて悟ると、藩内尊王派を弾劾して失脚させて、藩論を佐幕派で統一する。しかし、第15代人吉藩主相良頼基を廃して、甥の武之進を擁立しようとする陰謀を企てたという噂が流れ、政敵により丑歳騒動で上意討ちされた。この陰謀の真偽は定かではない。


変名:-
主な役職:人吉藩御用人
剣術:-
墓所:-


水野 忠幹
みずの ただもと
(1838-1902)
紀州藩
新宮藩

芸州口の戦いで長州軍を恐れさせた「鬼水野」
天保9年、紀州藩附家老水野忠央の長男として生まれる。安政7年、父忠央の隠居に伴い家督を相続する。謹厳実直で度量が広く、周囲からの人望も厚かったと云われる。慶応2年の第二次長州征伐では、芸州口の幕軍先鋒を努め、長州軍の猛攻の中で、忠幹指揮の軍勢のみが佐伯郡大野村まで進撃する戦果を挙げている。幕軍の退却時には殿軍を努めて、長州軍の追撃を許さず、「鬼水野」の異名で呼ばれた。慶応4年、新政府より新宮藩として立藩が認められ、3万5000石の大名となるが、明治4年の廃藩置県により新宮藩は消滅した。明治35年、死去。


変名:渡辺半十郎、渡辺在綱、鉄砲新左、青松葉
主な役職:紀州藩附家老、初代新宮藩主
剣術:-
墓所:新宮市新宮水野家墓所


や行


ら行


わ行


渡辺 新左衛門
わたなべ しんざえもん
(1820-1868)
尾張藩

政変によって散った寡黙で剛直な青松葉
弘化2年、尾張藩家老渡辺維綱の長男として生まれる。嘉永六年のペリー来航では、築地の浜御殿に大砲を並べ、警衛隊の隊長として尾張藩士を指揮する。第15代尾張藩主徳川茂徳の信頼を得て、用人から御年寄列家老に就任。自費で仕込み銃や西洋馬具などを購入し、常に武術を修め、洋式砲術の利を悟り、私財をなげうって大砲を鋳造し、藩士に銃陣の訓練を施した。元冶元年の第一次長州征伐では、御用人千賀与八郎、加判滝川又左衛門とともに、征長総督徳川慶勝に従って、広島へ出征する。尾張藩の藩論が、勤皇、佐幕で割れた際は、佐幕派ふいご党の重鎮となり、勤皇派の田宮如雲らと対立。慶応4年、第16代藩主徳川義宜を奪い、旧幕軍に合流する計画をたてた首謀者として切腹した(青松葉事件)。


変名:渡辺半十郎、渡辺在綱、鉄砲新左、青松葉
主な役職:尾張藩家老
剣術:-
墓所:名古屋市平和公園守綱寺




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