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会津藩人物録

会津藩
23万石+南山御蔵入領5万5千石 松平家 会津若松城(鶴ヶ城)

会津藩は、陸奥会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県の一部を治めた藩で、上杉氏、蒲生氏、加藤氏が治め、寛永20年以降は、保科氏が入封し会津松平家を名乗る。幕末には内高40万石を突破し、南山御蔵入領5万石も預かり地として任され、徳川御三家の水戸藩より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。しかし、文久2年に第9代藩主松平容保が京都守護職となったことによって、その後の藩の悲劇が始まる。



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あ行


飯沼 貞吉
いいぬま さだきち
(1854-1931)
会津藩
(白虎士中二番隊)

一人生き残った白虎隊中二番隊士
嘉永7年、会津藩士飯沼時衛の二男として生まれる。学業、武術ともに優秀で、白虎隊編成時はまだ15歳だったが、長身だったせいもあり、嘉永6年生まれの16歳と年齢を1歳偽って申請し士中二番隊に入隊した。士中二番隊は、隊頭の日向内記とはぐれてしまうが、副隊長格の教導篠田儀三郎の指揮の下、戸ノ口原で戦闘。敗走し、負傷者を抱えながら飯盛山へと落ち延びる。飯盛山から炎に包まれた城下を見て、敵に生け捕られることを避けるべく一同は自刃。貞吉は、咽喉に脇差を突き立てたが死にきれなかった。貞吉は会津藩士の妻に見つけられ一命をとり止めた。その後、電信技師となり、明治27年には日清戦争のため、大本営付となり陸軍歩兵大尉として出征。明治38年、札幌郵便局工務課長となり、明治43年に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。昭和6年、仙台にて死去。


変名:飯沼貞雄
主な役職:札幌郵便局工務課長、仙台逓信管理局工務部長
剣術:-
墓所:会津若松市一箕町飯盛山


海老名 季昌
えびな すえまさ
(1843-1914)
会津藩

諸外国を歴訪して見聞を広めた会津藩家老
天保14年、海老名季久の嫡男として生まれる。父とともに房総半島、品川、蝦夷地等の警備の任務に同行。藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、京へ赴く。禁門の変において功を挙げ使番へ昇進。さらに大砲隊組頭へ進んだ。慶応3年、パリ万博に使節団として派遣される徳川昭武の随員として抜擢され、パリへ渡欧。欧州諸国の視察を命じられ、イギリス、プロシャ、オランダ、ロシア、その他数カ国を歴訪した。大政奉還など会津藩に危機が迫り、帰国。鳥羽伏見の戦いに参戦して負傷。会津に帰還後各地を転戦したが、会津若松城籠城戦では、家老へ就任した。開城後、藩主父子の助命嘆願書に他の家老、若年寄とともに連署した。その後、東京で明治5年まで幽閉された。明治8年、警視庁警部補となり、次いで山形県郡長となる。福島事件では民権運動の取締りを行っている。福島県一等属となり、信夫郡、北会津郡、石川郡、東白川郡の各郡長を務め、警察官としては警部、警視属に昇進している。若松町長となり、市制移行に尽力。市長に推されたが辞退したといわれる。その後も市会議員などを務めている。


変名:海老名秀次郎、海老名郡治
主な役職:大砲隊組頭、会津藩家老、警視属、若松町長
剣術:-
墓所:会津若松市法華浄光寺


大庭 恭平
おおば きょうへい
(1830-1902)
会津藩

足利三代木像臭首事件に関与した会津の密偵
天保元年、会津藩士大庭弘訓の次男として生まれる。文久2年、会津藩主松平容保が京都守護職に任じられて上洛すると、会津藩の重臣である田中玄清や野村左兵衛の密命で、浪人となって京都で活動する過激派の攘夷浪人の監視を行なう。文久3年には足利三代木像梟首事件が起こり、大庭も犯人の1人であったため捕縛されて上田藩に流罪となったが、慶応4年、戊辰戦争が始まると釈放された。大庭は古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊に加わり各地で戦功を立る。会津藩が劣勢になると仙台に赴き援軍を願い出るが断られ、同盟を結んでいた庄内藩に津藩救済を願い出る。しかし、逆に庄内藩により牢獄へ送られて越後高田に謹慎処分となった。その後、会津藩が敗れると死者の埋葬など戦後処理に尽力している。明治3年に斗南藩として再興が認められると、刑法掛として出仕。老後は北海道で隠棲生活を送った。


変名:大庭機、大庭景範、大庭松斎、一色鮎蔵
主な役職:衝鋒隊軍監、資生館校長
剣術:-
墓所:-


か行


梶原 平馬
かじわら へいま
(1842?-1889)
会津藩

奥羽越列藩同盟の結成に主導的役割を果たした会津藩家老
武田信玄麾下の内藤昌豊の流れをくむ藩内の名門内藤家に生まれる。梶原景保の養子となる。藩主松平容保が京都守護職在任中は側近として仕えた。慶応2年、家老に就任。鳥羽伏見の戦いに敗れたのち、江戸で資金、軍備の調達にあたり、桑名藩主松平定敬、越後長岡藩家老河井継之助とともに汽船で新潟に上陸し会津へ帰還した。その後会津藩において奥羽越列藩同盟の結成に主導的役割を果たしたとされる。会津戦争では会津若松城に籠城し、政務を総監。西郷頼母を追放し、頼母暗殺を大沼城之介、芦沢生太郎に命じるが、2人は実行していない。敗戦を迎え、降服式において藩主父子の助命嘆願を行う。藩主父子が鳥取藩江戸屋敷に幽閉された際は、平馬も随行。会津藩の責任者として切腹することとなった萱野権兵衛にその命を伝える役を務めた。その後斗南に移住し青森県庶務課長となったが、短期間で辞職し根室へ移住。梶原景雄と名乗った。


変名:
主な役職:会津藩家老、青森県庶務課長
剣術:−
墓所:根室市西浜町市営西浜墓地


萱野 権兵衛
かやの ごんべえ
(?-1869)
会津藩

会津戦争の責任を取って自刃した会津藩家老
会津藩家老として、藩主松平容保の側近としてその補佐役を務める。慶応4年、戊辰戦争の端緒である鳥羽伏見の戦い時には京都におり、その後は日光方面へも出撃。会津戦争時には大寺にて迎撃体制で待ち構えたが、新政府軍は南方の母成方面を進路としたために戦闘にはならず、若松城が包囲されてからは、高久に布陣して城内との連絡や補給に従事した。開城後は他の会津藩士と共に東京へ送られた。明治2年、会津戦争の責任を取って、飯野藩保科家下屋敷にて自刃。権兵衛は一刀流溝口派の伝承者であり、奥義が絶えるのを惜しんで、火箸を使って井深宅右衛門に伝授した話が知られている。


変名:萱野長修
主な役職:会津藩家老
剣術:溝口一刀流剣術
墓所:東京都港区興禅寺、会津若松市天寧寺


川崎 尚之助
かわさき しょうのすけ
(1836-1875)
会津藩

会津の軍政改革を目指した洋学者にして、山本八重の最初の夫
天保7年、出石藩の医師川崎才兵衛の子として生まれる。江戸に出て、坪井為春らに蘭学、舎密術を学び、屈指の洋学者として知られる。会津藩士山本覚馬と知己になり、その縁から会津藩藩校日新館の蘭学所において蘭学を教授し、鉄砲・弾薬の製造も指導する。慶応元年、山本覚馬の妹八重と結婚。会津戦争では、八重と共に鶴ヶ城籠城戦に参加。落城後は斗南藩に移住し、外国商人と米の取引を行う。しかし取引相手に損害を与えてしまい訴訟を起こされる。裁判中、食うや食わずの生活で体を弱め、明治8年肺炎のため死去した。


変名:-
主な役職:敢死隊隊長
剣術:-
墓所:豊岡市出石町東條32



さ行


西郷 頼母
さいごう たのも
(1830-1903)
会津藩

容保の京都守護職就任を反対した会津藩家老
文政13年、会津藩家老西郷近思の嫡男として生まれる。万延元年、家督と家老職を継いで藩主松平容保に仕える。文久2年、幕府から京都守護職就任を要請された容保に対して辞退を進言。その後も、京都守護職に対して否定的な姿勢を覆さず、禁門の変が起きる直前に上京して、藩士たちに帰国を説いて家老職を解任され、蟄居させられる。明治元年、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は、江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還。頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府側からの容保親子の斬首要求に態度を一変。やむなく頼母も白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃したが、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて白河城を失陥。会津防衛に方針転換してからは進入路に当たる峠の1つを守っていたが、他方面の母成峠を突破されたために、新政府軍には城下へ侵入されてしまう。若松城に帰参した頼母は、再び恭順を勧めたが、会津藩士の多くはなおも新政府への徹底抗戦を主張。意見の折り合わぬ頼母は、嫡男吉十郎のみを伴い城から脱出することとなった。なお、母や妻子など一族21人は頼母の登城後に自邸で自刃した。会津から落ち延びて以降は、榎本武揚と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなった。明治5年に赦免されて伊豆で私塾を開く。その後は福島県伊達郡の霊山神社で神職を務めるかたわら、戊申の役で孤児となった甥の西郷四郎を養育し彼に柔術を教えた。明治36年に会津若松で死去。


変名:西郷近悳、保科頼母、保科栖雲、保科酔月、八握髯翁
主な役職:会津藩家老
剣術:-
墓所:会津若松市北青木善龍寺


佐川 官兵衛
さがわ かんべえ
(1831-1877)
会津藩

官軍から鬼と恐れられた会津の猛将
天保2年、会津藩士佐川直道の嫡男として生まれる。文久2年、京都守護職を任じられた藩主松平容保に従って上洛し、物頭を務めたのち学校奉行に任じられた。性格は直情的だが人情に厚く、多くの会津藩士から信頼された。武勇に秀で、薩長から「鬼の官兵衛」「鬼佐川」と恐れられた。慶応4年、鳥羽伏見の戦い後は、会津に戻って越後戦線へ出陣。戦況が不利になると奥羽越列藩同盟諸藩とともに戦線を離れて会津へ帰還し、若年寄、のち家老に進んだ。精鋭約千人を率いて城外出撃の指揮官を任じられ、各地を転戦。若松城が陥落し、容保が城を明け渡すと降伏した。後は藩主や家老、若年寄とともに東京で謹慎。旧会津藩が斗南藩として再興されると、青森県三戸郡五戸町へ移住。廃藩後は警視庁に出仕し、一等大警部に任命された。明治10年に西南戦争には、警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍し、熊本県阿蘇郡において被弾を原因として戦死した。


変名:佐川勝、佐川直清
主な役職:会津藩家老、学校奉行、別選組隊長、一等大警部
剣術:溝口一刀流剣術
墓所:喜多方市岩月町長福寺、大分市大字牧大分縣護國神社


神保 内蔵助
じんぼ くらのすけ
(1816-1868)
会津藩

禁門の変等で活躍した会津藩家老
文化13年は、会津藩家老神保茂左衛門の嫡男として生まれる。文久2年、家老に就任し、藩主松平容保に仕える。元治元年の禁門の変では新撰組と協力し、天王山に立て籠もった真木保臣ら17名を自決に追い込んだ。明治元年、会津若松城下に侵攻した新政府軍を防ぐべく六日町口の守備にあたったが防ぎきれず、甲賀町口の守備にあたっていた家老田中土佐と共に自刃した。


変名:神保利孝
主な役職:会津藩家老
剣術:−
墓所:会津若松市建福寺


神保 修理
じんぼ しゅり
(1834-1868)
会津藩

主戦派によって自刃させられた容保の側近
天保5年、会津藩家老神保内蔵助の嫡男として生まれる。幼少の頃より学問に秀で容姿は閑雅であった。藩主松平容保が京都守護職を拝命したのちは、容保に随行し国事に奔走した。慶応2年、藩兵組織と教練方法を西洋化に改革すべく長崎を視察。慶応3年、大政奉還の知らせを告げ、長崎から大坂へ帰還。王政復古の大号令によって事態の収拾が不能となると、高揚する主戦論に対し不戦恭順論を将軍徳川慶喜に進言。江戸に帰り善後策を練ることを強く説く。これにより、会津藩の内部において主戦派急先鋒である佐川官兵衛らと激しく対立した。慶応4年、鳥羽伏見の戦いが勃発。軍事奉行添役として出陣。新政府軍側より錦の御旗が翻り、朝敵となることを恐れ慶喜と主君容保に恭順を進言。慶喜や、容保が大坂城を抜け出して江戸へ脱出したことで急速に戦意を喪失した幕府軍は崩壊し、新政府軍に勝利をもたらす結果となった。その後、総大将が前代未聞の戦線離脱をした要因は、将軍に恭順を進言したのが原因であると、幽閉させられ、交戦派によって切腹させられた。


変名:神保直登、神保長輝
主な役職:会津藩軍事奉行添役
剣術:−
墓所:東京都港区興禅寺



た行


田中 土佐
たなか とさ
(1834-1868)
会津藩

官軍を迎え撃ち壮絶に自刃した会津藩家老
文政3年、会津藩家老田中玄良の嫡男として生まれる。父と同じく家老として藩主松平容保に仕えた。文久2年、容保が幕府から京都守護職就任を命じられた際、同じく家老の西郷頼母と共に江戸に赴き、容保に対して京都の情勢や負担の大きさを説いて反対した。しかし京都守護職就任が決定すると、野村左兵衛らと先んじて上洛し、事前調整に努めた。会津戦争では、会津若松城下に侵攻した官軍を防ぐべく、甲賀町口で戦った。畳を銃弾を防ぐ壁にして奮戦したといわれるが負傷し、家老神保内蔵助と共に医師土屋一庵の屋敷で自刃した。


変名:田中玄清、田中大海
主な役職:会津藩家老
剣術:−
墓所:会津若松市天寧寺


手代木 勝任
てしろぎ かつとう
(1826-1904)
会津藩

会津藩降服の使者として奔走した会津藩士
文政9年、会津藩士佐々木源八の子として生まれ、伯父の手代木勝富の養子となる。会津藩が京都守護職を務めた際、公用人として京に赴任し、朝廷、幕府、諸藩との連絡調整にあたった。京の治安回復に努め、徳川慶喜から金、服地を賜った。戊辰戦争においては会津若松城に篭城。敗勢がつのる中、藩命により秋月悌次郎とともに城を脱出。米沢藩に赴き、降服の仲介を依頼した。米沢藩の協力で官軍首脳の板垣退助、伊地知正治に降服申し入れを行い会津戦争は終結した。その後、幽閉されて明治5年に赦免された。その後左院少議生となり、香川県、高知県の各権参事、岡山区長を勤め岡山市で没した。京都見廻組組頭佐々木只三郎は実弟。


変名:佐々木源太郎、手代木斎宮、手代木直右衛門
主な役職:会津藩若年寄、左院少議生、岡山区長
剣術:神道精武流剣術
墓所:岡山市中区網浜墓地


外島 機兵衛
としま きへえ
(1826-1868)
会津藩

新政府への恭順を説くが病に倒れた会津藩公用人
文政9年、
会津藩士堀藤左衛門の次男として生まれ、200石の家禄を持つ外島家の養子となった。勘定奉行助や学校奉行助、江戸留守居役など会津藩の要職を歴任。文久2年、京都守護職に就任した会津藩主松平容保に従って上洛。公卿や諸藩との交渉を担当した。慶応4年、鳥羽伏見の戦いが始まると江戸で兵糧などの調達にあたったが、会津藩が敗北すると藩兵の撤収に務めた。新政府への恭順を説き、総督府へ陳情するために江戸へ留まったが病に倒れ、広沢富次郎との会談中に死去した。


変名:-
主な役職:会津藩公用人、勘定奉行
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園




な行


は行


林 権助(安定)
はやし ごんすけ(やすさだ)
(1806-1868)
会津藩

会津藩に西洋砲術を導入させた先見の将
文化3年、会津藩士林安論の長男として生まれる。槍術、剣術に秀で、砲術にも通じた。西洋砲術が優れていることを知ると率先してこれを学び、会津藩に西洋砲術を導入することに尽くした。文久2年、大砲奉行に就任。文久3年の禁門の変では大砲隊を率いて活躍。慶応4年、鳥羽伏見の戦いに出陣するが、被弾して負傷。江戸に送られる船中で没した。


変名:林又三郎、林笈之助、林安定
主な役職:会津藩大砲奉行
剣術:一宮流居合術
墓所:会津若松市慶山大龍寺


林 権助
はやし ごんすけ
(1860-1939)
会津藩

日韓併合の立役者となった敏腕外務官僚
安政7年、会津藩士林又三郎の子として生まれる。上記同名の林権助は祖父。慶応3年、藩校日新館に入門。翌年の鳥羽伏見の戦いで祖父と父が戦死したため、林家の家督を継ぎ、会津戦争では幼い身ながら官軍と戦った。その後、藩の移封に従って斗南藩に移る。祖父と交友のあった薩摩出身の陸軍少佐児玉実文の支援を受け、東京で勉学に励む。東京帝国大学を経て、明治20年に外務省に入省。対韓対露強硬外交を推進し、日韓併合への足がかりを作った。明治43年に日韓併合が実現されると、桂太郎、小村寿太郎とともに併合の「三人男」と評価される。その後は、大使、公使を歴任。昭和9年には枢密顧問官に任ぜられた。昭和14年、枢密顧問官在任中に死去。


変名:−
主な役職:駐韓公使、駐英大使、宮内省御用係、枢密顧問官
剣術:−
墓所:東京都港区青山霊園


日向 内記
ひなた ないき
(1826-1885)
会津藩

(白虎士中二番隊)

白虎隊の悲劇を生んだ士中二番隊の隊長
文政9年、会津藩士日向三郎右衛門の長男として生まれる。会津藩軍政改革に伴い、白虎士中二番隊頭に任命された。士中隊は主君の警護役であった。新政府軍が会津国境を越えると松平容保に従って滝沢本陣に入る。戸ノ口原方面への援軍要請があったため、士中二番隊を率いて行軍。途中、隊士に夜営を命じる。日向は食料調達のために隊を離れるが、赤井谷地の湿原で道に迷い隊に合流できなくなった。隊長不在の士中二番隊は鶴ヶ城下の火災を落城と誤認し、集団自決の道を辿る。日向は鶴ヶ城にたどり着き、白虎隊の生存者で構成された、白虎士中合同隊の隊長となり、新政府軍と戦った。維新後は会津喜多方で雑業に従事した。


変名:−
主な役職:家老附組頭、砲兵隊頭、朱雀士中二番隊頭、白虎士中二番隊頭、白虎士中合同隊頭
剣術:−
墓所:喜多方市馬場満福寺


ま行


松平 容保
まつだいら かたもり
(1836-1893)
会津藩

京都守護職として京の治安を維持した悲劇の会津藩主
天保6年、美濃高須藩主松平義建の6男として生まる。弘化3年、会津藩主松平容敬の養子となる。嘉永5年、会津藩第9代藩主となる。文久2年、京都守護職を拝命。将軍家茂の上洛や公武合体の推進等で功績を上げ、孝明天皇の信任を得る。文久3年、薩摩藩と同盟して長州藩を始めとする尊王攘夷派を宮中から一掃。翌年の元治元年、蛤御門の変では長州藩兵を撃退した。
大政奉還後は将軍徳川慶喜と行動を共にし、江戸で再戦を説くが容れられず帰国。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津戦争を行い、篭城して征討軍と死闘を繰り広げるが降伏。捕われて永禁錮となる。明治5年、日光東照宮宮司となる。明治26年、東京・目黒の自宅にて肺炎のため死去。


変名:松平_之丞、松平祐堂、松平芳山
主な役職:会津藩主、京都守護職、陸軍総裁、軍事総裁職、日光東照宮宮司
剣術:-
墓所:会津若松市東山町松平家院内御廟 東京都新宿区正受院


や行


山川 大蔵
やまかわ おおくら
(1845-1898)
会津藩

賊軍でありながら貴族院議員となった会津の知将
弘化2年、会津藩家老山川重固の嫡男として生まれる。文久2年、藩主松平容保の京都守護職拝命に伴って上洛。慶応2年には幕府の使者と同行してロシアへ渡航するが、ヨーロッパ諸国を見聞して世界の大勢を知り、攘夷の非を悟る。戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いを経て、会津へと転戦し、若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力した。会津戦争の局地戦では、既に包囲された会津若松城に入城できなかったため、会津地方の伝統芸能彼岸獅子を先頭で舞わせながら入城するという離れ業を演じる。戦後は禁固謹慎に処せられ、明治3年に斗南藩大参事に就いた。廃藩置県後は青森県に出仕したが、戊辰戦争での活躍を知る谷干城の推薦により、明治4年に陸軍に出仕。明治6年には陸軍少佐として熊本鎮台に移り、佐賀の乱で活躍している。明治10年の西南戦争においても活躍したが、この際の怪我が元で左手の自由を失っている。明治13年には陸軍大佐に進級。明治18年、東京高等師範学校及びその附属学校、女子高等師範学校校長に任じられ、東京高師附属中学の校友会である「桐陰会」の会長も務めた。その後は陸軍少将に進級したが、予備役に編入される。明治23年には貴族院議員に勅選され、谷や曾我祐準とともに院内会派・懇話会を旗揚げして「貴族院三将軍」の異名をとった。


変名:山川浩、山川与七郎、山川常磐、山川重栄
主な役職:会津藩家老、斗南藩大参事、東京高等師範学校校長、貴族院議員
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


山本 覚馬
やまもと かくま
(1828-1892)
会津藩

同志社大学を設立した新島襄の協力者
文政11年、会津藩砲術指南役山本権八の長男として生まれる。藩校日新館に学び頭角を現す。江戸に出て佐久間象山の私塾に入門。文久2年、京都守護職に就任した藩主松平容保に従い京都に上る。元治元年の禁門の変では、砲兵隊を率いて参戦し勲功を挙げる。慶応4年に勃発した鳥羽伏見の戦い後も京に残り、薩摩藩に捕われて同藩邸に収容。翌年釈放された。明治3年、京都府大参事河田佐久馬の推挽により京都府庁に出仕、槇村正直の顧問として府治を指導した。その頃新島襄と知り合い、彼の学校設立計画を知り、協力を約束。維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地を学校用地として新島に譲渡。次いで新島との連名で「私学開業願」を文部省に提出、同志社英学校を設立した。明治12年、京都府会議員となり、初代議長も務める。明治18年、京都商工会議所会長に就任。明治23年に新島が他界すると、同志社臨時総長として、同志社の発展に尽力した。明治25年、死去。


変名:山本義衛、山本良晴
主な役職:会津藩軍事取調役兼大砲頭取、京都権大参事顧問、同志社臨時総長
剣術:-
墓所:京都市左京区若王子墓地

山本 八重
やまもと やえ
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横山 常守
よこやま つねもり
(1847-1868)
会津藩

将来を有望視された悲劇の若き会津藩士
弘化4年、会津藩士山川常道の子として生まれる。会津藩江戸家老横山常徳の養子となる。パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として、海老名季昌とともに選ばれ、慶応3年に渡仏。先に渡欧していた同藩の山川浩、田中茂手記と再会している。欧米諸国の視察を命じられていた横山は、イギリス、プロシャ、オランダ、ロシアなどを歴訪した。しかし、大政奉還が行われるなど、会津藩を取り巻く情況は切迫し帰国した。会津戦争では、若年寄に任じられ、白河城防衛のため編成された会津藩部隊の副総督となり、総督西郷頼母を補佐するが、被弾のため戦死した。従者が遺体を収めようとしたが、弾丸が集中し、やむなく首級のみを持ち帰ったという。


変名:横山主膳
主な役職:会津藩若年寄
剣術:-
墓所:会津若松市花見ヶ丘大窪山墓地


ら行


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