奥羽越諸藩人物録

奥羽越諸藩
陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩は、新政府への恭順と、朝敵となった会津藩、庄内藩への討ち入りを求められた。奥羽越諸藩は、恭順か、同盟を組んで新政府に対抗するか、重要な選択を迫られる。

※ここでは、奥羽越諸藩士を紹介します。


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あ行


姉歯 武之進
あねは たけのしん
(1844?-1868)
仙台藩

「奥羽皆敵」に怒り世良を殺した仙台藩士
弘化元年頃、仙台藩士大河内某の子に生まれ、仙台藩士姉歯忠三郎の婿養子となる。奥羽鎮撫総督府より会津追討を命じられた仙台藩は、会津藩境に派兵。瀬上隊の軍監として、現地に赴く。会津藩は仙台藩の説得に応じて、降伏を決意。仙台藩主上杉斉憲は、東北諸藩連盟で会津藩への寛大な処置を嘆願した。しかし、奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵の「奥羽皆敵・・」という密書が仙台藩に渡り、仙台藩は新政府軍と戦うことを決意する。姉歯は瀬上主繕や福島藩士と共に、楼閣金沢屋に宿泊する世良を襲撃。捕縛して阿武隈川の河原に連行し斬首した。その後、仙台藩は奥羽列藩同盟を締結。姉歯は、白河口の戦いに出陣。て流れ弾に当たり戦死した。


変名:-
主な役職:瀬上隊軍監
剣術:-
墓所:栗原市金成瑞満寺


稲垣 茂光
いながき しげみつ
(1836-1885)
長岡藩

長岡戦争前に藩を出奔した永代家老
天保7年、長岡藩永代家老稲垣茂快の長男として生まれる。天保13年、父が急死したため家督相続。安政3年、家老首座となった。安政5年、西尾藩大給松平家から養子として招かれた世子牧野忠恭の養育係となる。しかし、忠恭は河井継之助を重用。門閥の平均化のため、稲垣家は500石に減知された。慶応4年、兵学所頭取に任命される。北越戦争では恭順・非戦を説くが、受け入れられずに出奔。江戸までたどり着いて新政府に出頭して、藩主家の助命嘆願を申し出た。終戦後は、長岡に戻り藩に帰参。様々な誹謗・中傷の中で余生を過ごした。明治18年、死去。


変名:稲垣平十郎、稲垣藤吉郎、稲垣平助、稲垣重光
主な役職:長岡藩家老首座兵学所頭取
剣術:-
墓所:長岡市稽古町長興寺


上杉 斉憲
うえすぎ なりのり
(1820-1871)
米沢藩

奥羽越列藩同盟の盟主
文政3年、米沢藩主上杉斉定の長男として生まれる。天保10年、斉定の死去に伴い家督を継ぐ。文久3年、将軍徳川家茂の京都上洛に御供して二条城警護にあたる。戊辰戦争では、会津藩の助命嘆願に努め、奥羽越列藩同盟に参加し盟主となる。仙台藩が奥州街道や常磐方面を担当したのに対し、米沢藩は越後を担当する。正室の貞姫が土佐藩主山内豊資の娘であったため、東山道先鋒総督府の幹部である谷干城らの恭順を薦める書状を受けて恭順した。それまで味方であった会津や庄内に兵を送ったため、「裏切り者」と称される。維新後、奥羽越列藩同盟の盟主であったことを咎められて、領地を14万石に削減される。明治元年、家督を長男茂憲に譲り隠居した。明治22年、死去。


変名:上杉鶴千代、上杉篤千代、上杉斉定、曦山
主な役職:12代米沢藩主
剣術:-
墓所:東京都港区興禅寺



か行


河井 継之助
かわい つぎのすけ
(1827-1868)
長岡藩

長岡藩を近代化させ新政府軍と戦った知将
文政10年、河井代右衛門秋紀の長男として生まれる。藩校崇徳館で儒学を学び、都講高野松陰の影響で陽明学に傾倒した。外様吟味役、郡奉行、町奉行兼帯、奉行格加判と出世し、その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施した。藩士の知行を100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知すると云う門閥の平均化すると共に、軍制上の中央集権を目指した改革を断行した。慶応3年、大政奉還の報せを受けると藩主牧野忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛。徳川氏を擁護する内容の建言書を提出した。慶応4年、戊辰戦争が始まると、江戸藩邸を処分し家宝などを軍資金を増やし、ガトリング砲や英国製の2000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入し、長岡へ帰還した。新政府軍が長岡に迫ると、抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出るが決裂した。これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、北越戦争へと突入した。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により当初新政府軍の大軍と互角に戦ったが、兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、長岡城を奪われる。その後、逆襲に転じて八丁沖渡沼作戦を実施し、長岡城を辛くも奪還する。奇襲作戦の最中、継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびるが、破傷風により死去した。


変名:河井秋義、河井蒼龍窟
主な役職:長岡藩上席家老
剣術:−
墓所:会津若松市門田町建福寺前小田山中腹、長岡市東神田栄涼寺


木村 銃太郎
きむら じゅうたろう
(1847-1868)
二本松藩

二本松少年隊を率いた砲術師範
弘化3年、二本松藩砲術師範木村貫治の長男として生まれる。幼少より父に砲術を学び、江戸に出て江川坦庵に師事。高島流砲術を学ぶ。帰郷して、父の砲術道場で指導にあたる。慶応4年の戊辰戦争では、門下生からなる12歳から17歳までの藩士子弟たちを率いて、城南大壇口へ出陣。二本松城下に進軍する新政府軍と戦う。この戦闘で被弾し、副隊長二階堂衛守の介錯で自刃した。


変名:-
主な役職:幼年兵世話係
剣術:高島流砲術
墓所:二本松市竹田
正慶寺


清河 八郎
きよかわ はちろう

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雲井 龍雄
くもい たつお
(1844-1871)
米沢藩

「討薩ノ檄」を起草した米沢藩の秀才
天保15年、米沢藩士中島惣右衛の次男として生まれる。上泉清次郎、曾根俊臣に師事。藩校興譲館に学び、藩主から褒章もされている。叔父である小島才助の養子となり、小島家を継ぐ。慶応元年、江戸に出て、安井息軒の三計塾に入門。後に、塾頭に選ばれる、慶応2年、藩命で帰国。藩に願い出て、探索掛を拝命。慶応3年、新政府の発足により新政府の貢士に挙げられる。慶応4年に戊辰戦争が始まると、薩摩藩の罪科を訴えた「討薩ノ檄」を起草し、奥羽越列藩同盟に提出した。米沢藩の降伏後は、謹慎処分となった。明治2年、謹慎を解かれ藩校興譲館助教となるが、辞任して上京。新政府の集議員議員に任じられる。しかし、周囲の忌避に遭い一月足らずで議員を追われた。明治3年、旧幕府方諸藩士に帰順の道を与えよと4回にわたり嘆願書を政府に提出。しかし、政府転覆の陰謀ありとみなされ、米沢藩預かりとされる。米沢藩にて謹慎ののちに東京に送還、斬首となり小塚原刑場で梟首された。


変名:中島豹吉、中島猪吉、中島権六、中島熊蔵、小島守善、小島龍三郎、瑚海侠徒
主な役職:米沢藩探索掛、興譲館助教、集議院議員
剣術:心地流剣術
墓所:米沢市城南常安寺


小林 虎三郎
こばやし とらざぶろう
(1828-1877)
長岡藩

「米百俵」で知られる長岡藩大参事
文政11年、長岡藩士小林又兵衛の三男として生まれる。幼少の頃、疱瘡により左目を失明。藩校崇徳館に学び、助教を務める俊英であった。江戸に遊学して佐久間象山の門下に入り、吉田寅次郎(松陰)と共に象山門下の「二虎」と並び称される。戊辰戦争では、新政府に対する嘆願書を作成して藩に提出。藩はこれを採用して新政府に提出する手筈をとる。しかし、江戸より河井継之助が帰郷して、嘆願書の提出に反対したため、新政府に提出される事はなかった。その後、長岡藩大参事に任命され長岡戦争を戦うが敗北。戦災によって壊滅的な打撃を受けた長岡で、国漢学校を開校させる。長岡藩の窮状を察した支藩の三根山藩が米百俵を寄贈し際は、藩士らに分配することはぜず、教育第一主義を唱えてその米百俵を売却。それを元手に書籍や校舎建設の費用にあてた。明治10年、死去。


変名:小林虎。小林炳文、寒翠、病翁
主な役職:崇徳館助教、文武総督、大参事
剣術:-
墓所:長岡市千手興国寺



さ行


酒井 玄蕃
さかい げんば
(1842-1876)
庄内藩

新政府を恐れさせた鬼玄蕃
天保13年、庄内藩家老酒井了明の長男として生まれる。幼少時より文武に秀でて、長沼流兵学も軍師秋保政右衛門に学び頭角を現す。元治元年の禁門の変がおきると、江戸長州藩邸を包囲し接収する。同年の天狗党の乱では、水戸浪士真田帆之助、岩名昌之助の二名を討取る。慶応4年の戊辰戦争では、新政府軍が清川口に侵攻すると、組持番頭として出征。そのまま天童攻めに向かい落城させる。秋田攻めには、第二大隊隊長として参加。新政府軍に対して連戦連勝し、「鬼玄蕃」と恐れられる。庄内藩降伏後は、中老として藩政に参与。明治2年には、新政府より大泉藩権大参事に任命される。明治5年、病の為に辞任して療養。明治7年、政府の密命を帯びて開拓幹事調所広丈らと共に清国に渡り内情を偵察。帰国して「直隷経略論」を纏め、黒田清隆に提出した。明治9年、労咳の為死去。


変名:酒井虎之進、酒井吉弥、酒井吉之丞、酒井了恒、脩古堂、淳古堂
主な役職:米沢藩探索掛、藩校興譲館助教、衆議院議員
剣術:新九流剣術
墓所:東京都台東区谷中霊園


酒井 忠篤
さかい ただずみ
(1853-1915)
庄内藩

若く聡明な庄内藩最後の藩主
嘉永6年、庄内藩主酒井忠発の五男として生まれる。文久2年、第10代藩主酒井忠寛が死去したため、その養子となり跡を継ぐ。文久3年、清河八郎の組織した浪士組を再編した新徴組を預けられ、江戸市中取締役に任じられる。元治元年、その功により、約2万7000石を加増されている。慶応3年、公武合体派を粛清して、藩論を佐幕派で統一。江戸を混乱させる浪士達の拠点となっていた、薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちした。戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と対戦。秋田藩、新庄藩らによる攻撃を防ぎ、連戦連勝した。しかし、同盟諸藩が次々と降伏する中、ほぼ無敗のまま降伏、謹慎を命じられる。明治2年、謹慎を解かれた。明治3年、忠篤と旧庄内藩士七十余名に薩摩に移って、西郷隆盛に学ぶ。明治4年に兵部省に出仕。明治5年、軍制研究のためにドイツに留学し、明治12年に帰国した。大正4年、死去。


変名:酒井繁之丞、蓬堂、拗鳴
主な役職:11代庄内藩主、陸軍少佐
剣術:‐
墓所:鶴岡市家中新町大徳寺



佐竹 義堯
さたけ よしたか
(1825-1884)
久保田藩

奥羽越列藩同盟をいち早く脱退した久保田藩主
文政8年、相馬中村藩主相馬益胤の三男として生まれる。嘉永2年、久保田藩の支藩岩崎藩の藩主佐竹義純の養子となり、岩崎藩の第7代藩主となった。安政4年、久保田藩主佐竹義睦が病死したのに伴い、宋家の家督を相続して第12代久保田藩主となる。慶応4年の戊辰戦争では、はじめ奥羽越列藩同盟に参加していたが、仙台藩の使者を斬ったうえ新政府側に寝返る。これにより、庄内藩、盛岡藩、仙台藩などの攻撃を受けるが、佐賀藩兵ら新政府軍の援軍を得て秋田戦争を勝利する。明治17年、死去。


変名:相馬亀三郎、相馬清三郎、相馬左近、佐竹義核、佐竹義就
主な役職:第7代岩崎藩主、第12代久保田藩主
剣術:-
墓所:秋田市泉三嶽根天徳寺


鈴木 織太郎
すずき おりたろう
(?-1874)
松前藩

松前藩でクーデターを成功させた残忍な指導者
生年不明。12代松前藩主松前崇広の異父弟。正議隊を率いて、列藩同盟を支持する佐幕派の家老や藩士らを粛清。実権を握り、新政府との交渉経験がある家老下国崇教を執政筆頭に擁立し、自らは下国東太郎、松井屯と共に近習頭となった。しかし、旧幕府軍が蝦夷地に上陸。旧幕府軍を迎え撃つが負傷し戦線を離脱。松前藩は、降伏した。維新後、粛清時の残忍な行為を咎められて、松前藩江戸藩邸の牢に入れられる。明治7年、発狂死したとされている。


変名:-
主な役職:松前藩近習頭
剣術:-
墓所:不明



た行


伊達 慶邦
だて よしくに
(1825-1874)
仙台藩

奥羽越列藩同盟の盟主
文政8年、仙台藩主伊達斉義の次男として生まれる。文政10年に斉義が死去した際、後継者としての条件を満たしていないため、叔父の伊達斉邦が中継ぎとして藩主となり、その養嗣子となる。天保12年に斉邦が死去すると、藩主に就任する。慶応4年、奥羽越列藩同盟の盟主として奥州街道や常磐方面を担当した。新政府軍に連敗し、羽越の国境に迫られると降伏。慶邦は養子の伊達宗敦と共に東京へ連行され、謹慎を申し渡される。明治7年、死去。


変名:伊達穣三郎、伊達藤次郎、伊達寿村、伊達慶寿
主な役職:13代仙台藩主
剣術:-
墓所:鶴岡市家中新町大督寺




な行


楢山 佐渡
ならやま さど
(1831-1869)
盛岡藩

盛岡藩の実権を握った主席家老
天保2年、盛岡藩家老楢山隆冀の長男として生まれる。相次ぐ一揆に苦しめられていた盛岡藩の家老となり、首謀者や仙台藩との交渉を重ね、一揆の終結に成功する。一揆騒動後に主席家老として、藩財政の建て直しはじめ制度改革を推進。慶応4年、京都御所警備のために鳥羽伏見の戦いが終わった直後の京都に赴任する。京都滞在中には、西郷隆盛や岩倉具視、桂小五郎らと接触している。帰国後、藩内の反対派を押さえて藩論を統一。奥羽列藩同盟から離脱した久保田藩を攻める。盛岡藩兵の総指揮をとって大館城を落城させ、久保田城を目指したが、最新のアームストロング砲で武装した佐賀藩兵らの援軍によって藩境まで押し返され、盛岡藩は降伏する。明治2年、報恩寺において敗戦の責任を問われて刎首される。


変名:楢山茂太、楢山五左衛門、楢山隆至、楢山隆吉
主な役職:盛岡藩主席家老
剣術:戸田一心流剣術
墓所:盛岡市北山聖寿寺


南部 利剛
なんぶ としひさ
(1827-1904)
盛岡藩

切迫した藩財政の建て直しを図った盛岡藩主
文政9年、盛岡利済の三男として生まれ、七戸藩主南部信誉の養嗣子となるが病により本家へ戻る。利済との不和により1年余で隠退を迫られた兄の利義の跡を継ぎ、嘉永2年に盛岡藩主となる。この騒動で家中は混乱し、一揆まで発生しているが、楢山佐渡や東次郎ら若く才能のある人材を用い、切迫した藩財政の建て直しなどを図って領民の信頼を得る。利済の築いた華美な新御殿や津志田の遊郭を廃止し、自身の1年間の費用を210両とし、平素は木綿を用い、油を節約するために夜食後は燭台を行灯に換えたと言われている。また北方警備の強化にも努め、守備隊を派遣する。慶応元年、藩校明義堂を拡張して作人舘と改称。洋学校日新堂を開設する際には、建材の提供や助成金で援助する。慶応4年、奥羽越列藩同盟に参加。久保田藩が官軍側へ恭順すると、これを攻撃するために出兵。盛岡藩は、久保田藩を圧倒し大館城を落としている。しかし、佐賀藩の最新式の武装兵の参加によって総撤退。盛岡藩は降伏を選択した。利剛は謹慎を命ぜられて東京へ護送され、隠居謹慎の処分を受けた。明治29年、死去。


変名:南部鉄五郎、南部謹敦
主な役職:14代盛岡藩主
剣術:-
墓所:盛岡市北山聖寿寺、東京都文京区護国寺


南部 信順
なんぶ のぶゆき
(1814-1872)
八戸藩

戊辰戦争を戦闘に参加せずに乗り切った八戸藩主
文化11年、薩摩藩主島津重豪の十四男として生まれる。天保9年、第8代八戸藩主南部信真の婿養子となり、天保13年に家督を相続する。生家の薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動」では、島津斉彬が薩摩藩主となるように幕府に呼びかけている。慶応4年に戊辰戦争が勃発すると、生家が薩摩藩であったことから、奥羽越列藩同盟の仮想敵藩として見られる。奥羽越列藩同盟には家老を立ち会わせ、一方、新政府軍側の久保田藩と密かに通じ、戦闘に参加することなく戊辰戦争を乗り切った。明治5年、死去。


変名:-
主な役職:9代八戸藩主
剣術:-
墓所:八戸市長者南宗寺


丹羽 長国
にわ ながくに
(1834-1904)
二本松藩

新政府軍に徹底抗戦した二本松藩の藩主
天保5年、二本松藩主丹羽長富の六男として生まれる。安政5年、父の隠居により、家督を継ぐ。江戸湾警備、京都警衛、天狗党の乱鎮圧などで活躍。慶応4年、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加わり、白川口の戦いなどで明治新政府軍と戦う。白河、磐城平、広野で敗戦し、二本松城も陥落。長国は米沢藩に逃れる。仙台藩の降伏と共に、二本松藩も降伏。長国は謹慎、隠居を命じられる。明治2年、謹慎を解かれ、明治35年、孫にあたる長保の死去により、家督を再び相続する。明治37年、死去。


変名:丹羽保蔵、丹羽五郎左衛門
主な役職:11代二本松藩主
剣術:-
墓所:東京都港区青山新墓地


は行


星 恂太郎
ほし しゅんたろう
(1840-1876)
仙台藩

自藩の降伏を潔しとせず函館戦争まで戦った額兵隊隊長
天保11年、仙台東照宮宮司星道栄の長男として生まれる。幼少期から武芸を好み、過激な尊王攘夷派となって開国論者として知られていた大槻磐渓の暗殺を図るが失敗。続いて仙台藩家老但木土佐の暗殺を企てるが、逆に開国の必要性を説かれ、その後大槻磐渓の話も聞き、自分の無知さを恥じて脱藩した。元治元年、江戸に出て幕臣の川勝広道や下曽根信之から洋式の銃隊編成訓練を学ぶ。横浜では米貿易商人ヴァンリードの店で使用人として働きながら、西洋軍学を学んだ。慶応4年に帰藩して、西洋流銃術指南役として大番士に取り立てられ、赤と黒のリバーシブル軍服で装備された洋式銃隊である額兵隊を組織する。戊辰戦争で仙台藩は、奥羽越列藩同盟の盟主となって新政府軍と戦う。星も額兵隊を率いて奮戦するが、仙台藩は降伏してしまう。星は降伏を潔しとせず、額兵隊を率いて蝦夷に向かい、函館共和国の歩兵頭並として箱館戦争に参加した。箱館戦争終結後、新政府軍によって捕らえられて、弘前藩に幽閉。明治2年、釈放されて開拓使大主典となり、製塩業も営んだ。明治9年、37歳の若さで死去。


変名:星忠狂、星士絹、無外、楽斎
主な役職:西洋流銃術指南役、額兵隊隊長、函館政府歩兵頭並
剣術:柳生新陰流剣術
墓所:仙台市青葉区清浄光院


ま行


牧野 忠訓
まきの ただくに
(1844-1875)
長岡藩

河井継之助にすべてを託した長岡藩主
天保15年、宮津藩主松平宗秀の四男として生まれる。安政5年、長岡藩第11代藩主牧野忠恭の養嗣子となる。慶応3年、忠恭の隠居により家督を継ぐ。忠恭の方針同様に、家老河井継之助に厚い信任を置き、藩政の全権を委任する。慶応4年、戊辰戦争が起こると、奥羽越列藩同盟と新政府の双方と距離を置きながら、公武調和の建言書を新政府に提出。河井を新政府軍に乗り込ませて停戦を求めたが、全て握りつぶされる。このために奥羽越列藩同盟に参加。圧倒的な物量を誇る新政府軍の前に長岡城は落城し、忠恭らと共に会津に逃れる。会津から仙台へ移動し、新政府軍に降伏。隠居、謹慎の処分を受け、明治2年に謹慎を解かれた。明治8年、死去。


変名:牧野五郎麿、牧野老之助、観山
主な役職:12代長岡藩主
剣術:-
墓所:長岡市東神田栄涼寺


牧野 忠恭
まきの ただゆき
(1825-1878)
長岡藩

河井継之助を重用した長岡藩主
文政7年、西尾藩主松平乗寛の三男として生まれる。嫡子のいなかった長岡藩主牧野忠雅の養子となり安政5年、家督を継いで第11代藩主となる。文久2年、京都所司代に就任するが、翌年に辞職した。文久3年、老中に就任。河井継之助を公用人として重用する。慶応元年、河井の進言に従い老中職を退く。慶応3年、養子忠訓に家督を譲って隠居した。北越戦争で長岡藩が壊滅すると、仙台に逃れる。仙台藩と共に降伏し、拘束されて謹慎の処分を受け、明治2年に謹慎を解かれた。明治11年、死去。


変名:牧野壮之助、雪堂
主な役職:11代長岡藩主
剣術:-
墓所:東京都港区済海寺


三浦 権太夫
みうら ごんだゆう
(1838-1868)
二本松藩

東軍で唯一靖国神社に合祀された二本松藩士
天保8年、二本松藩士三浦義武の長男として生まれる。藩儒の堀謙斎に学び、のち尊皇の志を抱くようになる。質実剛健、清廉潔白、忠義を重んじたと伝えられる。時勢の推移を憂慮し、上席家老丹羽丹波へ藩政刷新を説いた建白書を提出。これが重臣たちの反感を買い、二本松に送還、投獄される。翌年に蟄居処分となり、私塾を開いて子弟の教育にあたった。慶応4年に戊辰戦争が始まり、新政府軍が二本松藩領まで及ぶ頃に放免。藩命により、農兵を率いて出陣した。しかし天皇に弓引くことはできず、農兵を退去させた後に、矢尻を外した矢を放ち応戦。新政府軍の銃撃を受けて自刃した。大正7年、奥羽越列藩同盟軍中、唯一靖国神社に合祀された。


変名:三浦義彰
主な役職:農兵隊隊長
剣術:-
墓所:二本松市安達ケ原観世寺



や行


山本 帯刀
やまもと たてわき
(1845-1868)
長岡藩

降伏を良しとせず斬首された長岡藩上席家老
弘化2年、長岡藩士安田渡の長男として生まれる。8歳の時、父方の実家である上席家老山本家に跡取りがいなかったことにより、藩命で山本家の養子になる。長岡藩は、河井継之助が藩主から絶大な信頼を得て、慶応の改革を断行。河合とは終始友好的であり、改革に協力して自家の家禄の減額している。北越戦争では長岡藩の大隊長として出陣。一度落城した長岡城を奪還するなど新政府軍を苦しめたが、数に勝る新政府軍の猛攻に再度長岡城は落城する。藩主や藩兵は、仙台藩と米沢藩に逃れ、山本隊は殿を勤めた。その後、会津藩兵と合流。城外で遊撃隊として奮戦する。飯寺で新政府軍の宇都宮藩兵を挟み撃ちにする作戦に出たが、霧の中で混乱して友軍と同士討ちとなり、宇都宮藩兵に捕縛された。詫びて恭順すれば命だけは助けると新政府軍側の内旨があったが、これを拒絶。阿賀野川の河原で斬首された。山本家は明治16年に、家名再興を許可される。後の連合艦隊司令長官山本五十六は、大正5年にこの山本家に養子に入っている。


変名:山本堅三郎、山本義路、竹塘
主な役職:長岡藩家老、長岡藩軍事総督
剣術:-
墓所:長岡市稽古町長興寺


吉田 大八
よしだ だいはち
(1831-1868)
天童藩

天童を将棋の里とした若き家老
天保2年、天童藩江戸家老吉田荘左衛門の長男として生まれる。大目付、武具奉行、養正館督学などの要職を経て慶応3年に家老に昇格した。財政の逼迫した藩の救済策として、将棋駒製造を奨励。後に将棋駒の生産量は、全国一となる。慶応4年、新政府は会津藩、庄内藩の追討を東北諸藩に命じ、奥羽鎮撫総督九条道孝、副総督澤為量らを東下させた。天童藩は、織田宗家という家格を評価されて鎮撫使の先導を任じられた。名代として大八が先導役に任命され、新政府軍と共に庄内藩と交戦するが、庄内藩兵の猛攻撃を受けて天童城下は炎上してしまう。その後、奥羽越列藩同盟が結成されると天童藩もこれに参加。新政府軍に加担した大八は、米沢藩兵に捕らえられ切腹した。


変名:吉田守隆
主な役職:天童藩家老
剣術:-
墓所:天童市小路仏向寺


ら行


わ行



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