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新撰組人物録

新撰組

幕末の京都には尊王攘夷運動の過激派志士が集まり治安が悪化。従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、京都守護職を新設し、会津藩主松平容保を就任させた。その配下として活動したのが新選組である。発足時は24名であった新選組は、その最盛時には200名を超えた。

※ここでは、壬生浪士組以降の隊士を紹介します。



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あ行


青地 源太郎
あおち げんたろう
(生没年不明)
新撰組

桑名藩から加入した副長助勤
桑名藩士吉村翠山若しくは東里将監の子。同藩士沢図書の養子となり、藩要職を歴任する。慶応4年、鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に向かった江戸藩主松平定敬に従い、桑名藩の飛び地柏崎へ渡る。鯨波戦争、会津戦争を経て、仙台で新撰組に加入する。蝦夷共和国では会計頭取となる。箱館戦争では弁天台場を守った。降伏後は桑名藩に引き戻され謹慎処分。没年、墓所等は不明。


変名:沢釆女、沢吉久満、沢主水、沢良雋
主な役職:新撰組諸士調役兼監察、新撰組副長助勤
剣術:−
墓所:不明


浅野 薫
あさの かおる
(?-1867)
新撰組

沖田に斬られた副長助勤
文久3年頃の入隊とされるが詳細は不明。池田屋事件では、近藤勇の隊に属し20両をもらっている。明保野亭事件で犠牲になった浪士に弔歌を詠んでいる。しかし、慶応2年に発生した三条制札事件の際に失態を犯し、新選組を脱走して御陵衛士に加わろうとしたが伊東甲子太郎に拒絶され、屯所へ戻ろうとしたところを沖田総司に斬られた。


変名:浅野藤太郎
主な役職:新撰組諸士調役兼監察、新撰組副長助勤
剣術:−
墓所:東京都北区寿徳寺境外墓地


阿部 十郎
あべ じゅうろう
(1837-1907)
新撰組
御陵衛士

伊東と共に袂を分けた御陵衛士
天保8年、出羽の百姓阿部多郎兵衛の次男として生まれる。大坂の谷万太郎の下で剣術を学び、文久3年に壬生浪士組に加盟。大坂ぜんざい屋事件などに活躍した。新撰組では伍長や砲術師範などを勤めたが、慶応3年に伊東甲子太郎ら12名と共に御陵衛士を結成する。油小路の変の時は外出中で難を逃れ、後に事件を知らされたため薩摩藩邸に逃げ込んだ。復讐の機会を窺っていた御陵衛士残党と共に、伏見墨染で近藤勇を襲撃して負傷させる。戊辰戦争では、薩摩藩の中村半次郎配下に属し、鳥羽伏見の戦いなどに参加。後に赤報隊に加わる。戦後は、弾正台や開拓使、北海道庁に出仕した。退官後は札幌で果樹園を経営し、リンゴ栽培などを営んだ。明治40年、東京にて死去。


変名:高野十郎、阿部隆明
主な役職:新撰組伍長、新撰組砲術師範
剣術:直心流剣術
墓所:不明


新井 破魔男
あらい はまお
(1843-1868)
新撰組

齋藤一の側近として戊辰戦争を戦った隊士
天保14年、甲斐国生まれ。戊辰戦争後に新選組に入隊。局長近藤勇の側近を務め、近藤亡き後は、斎藤一の側近を務めた。白河口の戦いで負傷し、会津戦争において新政府軍の如来堂襲撃により戦死したと伝えられる。中島登の戦友絵姿にその勇姿が描かれてる。


変名:荒井浜磨男
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


蟻通勘吾
ありどおし かんご
(1839-1869)
新撰組

終始平隊士として前線で戦った古参隊士
天保10年、高松生まれ。文久3年頃、新選組に入隊。元治元年の池田屋事件の際には、井上源三郎の六番隊に所属し、報奨金17両を受け取っている。慶応3年、天満屋事件の際には原田左之助隊に属し、斎藤一、大石鍬次郎らと共に、紀州藩公用人三浦休太郎らの護衛にあたる。幕臣御取立ての際には、平士として見廻組並御雇の格を受ける。戊辰戦争では、白河口の戦いにおいて重傷を負う。その後は、土方歳三に従い蝦夷へ渡航。明治2年、箱館山で戦死した。遺体は函館の大円寺に埋葬されたとされる。新選組草創期から隊に所属した古参隊士でありながら、終始平隊士の地位であった。


変名:-
主な役職:−
剣術:−
墓所:函館市神山大圓寺


漢 一郎
あや いちろう
(1838-1868)
新撰組

会津で戦死した旗役頭取
天保9年生まれ。大阪出身。入隊年不明。近藤勇が流山で投降すると土方に従って旧幕府軍と戦う。今市から会津若松に向かった負傷の土方を護衛して島田魁、中島登らとともに大内から、会津城下七日町の清水屋に至るまで付き添った。母成峠の戦いで銃弾に撃たれ戦死する。


変名:湊一郎、柴岡剛三?
主な役職:新選組旗役頭取
剣術:−
墓所:東京都北区寿徳寺境外墓地


荒木田 左馬之助
あらきだ さまのすけ
(1838-1863)
新撰組

間者として暗殺された隊士
御倉伊勢武などと共に、長州藩士桂小五郎の命を受けて、間者として新撰組へ入隊したといわれているが、真偽は不明。文久3年に永倉新八、中村金吾らを襲撃したが失敗し、屯所内で結髪中、林信太郎らによって間者の容疑で斬殺された。芹沢鴨暗殺の日が近かった事もあって、局長暗殺の罪も被せられた。


変名:荒木田左馬之允、荒木田左馬之亮
主な役職:新撰組国事探偵方
剣術:−
墓所:東京都北区寿徳寺境外墓地


安藤 早太郎
あんどう はやたろう
(?-1864)
挙母藩
新撰組

池田屋事件で重傷を負い死亡した隊士
挙母藩出身。嘉永3年に脱藩して、知恩院一心寺に入寺。その後、壬生浪士組に入隊した。新選組結成時には、副長助勤に就任。池田屋事件では近藤勇隊に所属し、奥沢栄助や新田革左衛門と共に池田屋裏庭の防御に当たったが、逃亡を図る尊皇攘夷志士の猛攻を喰らい深手を負う。その負傷がもとで死去。後に会津藩から別段金20両を賜った。


変名:−
主な役職:新選組副長助勤
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:京都市中京区壬生寺


池田 小三郎
いけだ こさぶろう
(1842-1868)
新撰組

三条制札事件等で活躍した撃剣師範
元治元年、江戸における隊士募集に応じて入隊。同年の行軍録では、尾形俊太郎の五番組に所属している。翌慶応元年の編成で撃剣師範となった。慶応2年、三条制札事件の際には大石鍬次郎の組に所属したとされ、褒賞金として千疋を賜っている。慶応3年、幕臣への取立では、見廻組御雇の格を受けた。池田の最期には諸説あり、鳥羽伏見の戦いに参戦し、淀で戦死したと伝えられるものの、御香宮神社の東軍戦死者名簿には「正月三日、伏見に於て戦死」とある。しかし、横倉甚五郎によれば、江戸に帰還後の同年3月6日の甲州勝沼の戦いに参戦し、甲州板戸で死亡したとしている。


変名:池田小太郎
主な役職:新選組撃剣師範
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:東京都港区真浄寺


池田 七三郎
いけだ ひちさぶろう
(1849-1938)
新撰組

昭和まで生きた最後の新撰組隊士
嘉永2年、上総の商人の三男として生まれる。元治元年、江戸に出て天野精一郎の道場で剣術を学ぶ。慶応2年に新選組に入隊し、鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いに参加。その後、会津戦争に参戦。母成峠の戦いで敗れると、斎藤一らと会津に残留。松平容保が派遣した使者の説得によって、高崎藩兵士に降伏。東京護送後、1年の謹慎を経て放免となった。昭和4年、子母沢寛の取材を受け、回顧録「新選組聞書」(稗田利八翁思出話)を口述した。昭和13年、90歳で死去。その死をもって、新選組隊士は全員が死去した。


変名:稗田利八
主な役職:新選組副長助勤
剣術:小野派一刀流剣術
墓所:東京都港区真浄寺


石井 勇次郎
いしい ゆうじろう
(1846-1903)
新撰組

戊辰戦争見聞略記を著した新撰組隊士
弘化3年、桑名藩士の子として生まれる。出仕して御馬廻りを務めた。慶応3年、江戸にて直心影流剣術を修行。慶応4年、鳥羽伏見の戦い後に、大鳥圭介率いる旧幕府軍に入隊する。柏崎で桑名藩の松浦秀八率いる致人隊に所属し、鯨波戦争で負傷する。会津戦争では、桑名藩主松平定敬の脱出を護衛して、仙台へ退去。仙台で榎本武揚艦隊と合流し、土方歳三配下の新選組に入隊する。箱館戦争では、新選組の分隊差図役として活躍したが、弁天台場で降伏した。維新後は、「戊辰戦争見聞略記」を著し、明治36年に死去する。


変名:石井源次郎
主な役職:箱館新選組分隊差図役
剣術:直心影流剣術
墓所:柏崎市若葉町極楽寺


伊東 甲子太郎
いとう かしたろう
(1835-1867)
新撰組
御陵衛士

油小路にて暗殺された新選組の策士
天保6年、志筑藩士鈴木専右衛門忠明の長男として生まれる。父忠明の罪で家名断絶となり、領外へ追放される。伊東は水戸へ遊学し、水戸学を学んで勤王思想に傾倒する。元治元年、同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟。弟の鈴木三樹三郎、盟友の篠原泰之進や加納鷲雄、服部武雄、門人の内海二郎や中西昇らと上洛。参謀兼文学師範に任じられる。容姿端麗で巧みな弁舌から、伊東に対する人望は高かったと伝わる。西国を遊説した後の慶応3年、薩摩藩の動向探索と御陵警備任務の拝命の名目に新選組を離脱。同志14名と共に御陵衛士(高台寺党)を結成。慶応3年、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受ける。酔わされた伊東は、帰途にあった油小路にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺された。


変名:伊東武明、鈴木祐之、伊東大蔵、伊東誠斎。宇田兵衛
主な役職:新選組参謀兼文学師範 新撰組二番隊組頭
剣術:神道無念流剣術、北辰一刀流剣術
墓所:京都市下京区光緑寺


伊藤 鉄五郎
いとう てつごろう
(1840-1868)
新撰組

会津で戦死した隊士
天保11年、京都生まれ。元治元年に新選組に入隊する。永倉新八の二番隊に所属。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに参戦した。永倉新八が近藤勇と袂を分かって靖共隊を結成すると、これに同調せずに新撰組に残留。斉藤一と共に会津に向かい、会津戦争に参加。白河口の戦いにおいて戦死したとされる。


変名:−
主な役職:新選組伍長
剣術:−
墓所:不明


井上 源三郎
いのうえ げんざぶろう
(1829-1868)
新撰組

鳥羽伏見で戦死した六番隊組長
文政12年、八王子千人同心世話役井上藤左衛門の三男として生まれる。弘化4年頃、天然理心流の三代目宗家近藤周助に入門。佐藤彦五郎が天然理心流の出稽古用に設けた道場で土方歳三らと共に稽古に励んだ。また源三郎は近藤勇の兄弟子でもあり、彼らとはこの頃親交を深めたとされる。文久2年、浪士組に近藤、土方らと参加。文久3年に芹沢鴨一派が粛清されると副長助勤に就任。元治元年の池田屋事件では土方隊の支隊の指揮を担当。8人の浪士を捕縛する活躍を見せる。慶応元年の組織再編成では六番隊組長に任じられ、慶応3年、新選組が幕府直参に取り立てられると、副長助勤として七十俵三人扶持を与えられる。慶応4年、鳥羽伏見の戦いの最中、敵の銃弾を腹部に受けて戦死した。


変名:井上一武
主な役職:新選組六番隊組長、副長助勤
剣術:天然理心流剣術
墓所:日野市日野本町宝泉寺、京都市伏見区欣浄寺


井上 泰助
いのうえ たいすけ
(1858-1927)
新撰組

近藤の刀持ちを務めた長井上源三郎の甥
安政4年、八王子千人同心井上松五郎の次男として生まれる。叔父は新撰組六番隊組長井上源三郎。慶応3年、11歳で新選組に入隊。局長近藤勇の刀持ちを務めた。叔父・源三郎が鳥羽伏見の戦いで戦死すると、その首を持ち帰ろうとするが、重くて運ぶことができず、他の隊士に促されて近くの寺の境内に埋めたという。その後、井上家に戻って源三郎の戦死を伝えた。


変名:−
主な役職:−
剣術:天然理心流剣術
墓所:日野市日野本町宝泉寺



梅戸 勝之進
うめど かつのしん
(生没年不明)
新撰組

斎藤と共に会津で戦った隊士
慶応2年頃に新選組に入隊。慶応3年には、見廻組並御雇の格を受けている。天満屋事件では斎藤一を助けて重傷。顔に生々しい刀痕が残った。鳥羽伏見の戦いには旗役として新選組に従軍。甲州勝沼の戦い後、斎藤一らと共に会津へ赴き駕籠役を務める。その後、仙台で降伏。その後の消息は不明。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


大石 鍬次郎
おおいし くわじろう
(1838-1870)
新撰組

暗殺任務を請け負う人斬り鍬次郎
天保9年、一橋家の近習番衆大石捨次郎の長男として生まれる。事情により生家を出奔。元治元年の池田屋事件後、近藤勇が江戸に戻り隊士募集を行った際に新撰組に入隊。暗殺を主とした任務に付いたことから人斬り鍬次郎と恐れられた。慶応3年、新選組が幕臣に取り立てられると、諸士調役兼監察に任命される。油小路事件では、伊東甲子太郎を暗殺。天満屋事件では斎藤一らと共に紀州藩士三浦休太郎の護衛の任務を果たしている。慶応4年、鳥羽伏見の戦いの敗北によって新選組が江戸への撤退するとこれに従い、近藤が甲陽鎮撫隊を組織すると、先触れとなって甲州に出張。しかし、甲陽鎮撫隊が敗走すると、妻子らと江戸に潜伏。懇意だった元隊士三井丑之助に騙され捕縛される。大石は坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられ、厳しい詮議に耐え切れずに一度は「自分がやった」と証言するが、後に前言を撤回し見廻組の仕業であるとしている。明治3年、伊東甲子太郎殺害の罪で斬首された。


変名:大石守親
主な役職:新選組諸士調役兼監察
剣術:小野派一刀流剣術
墓所:東京都港区専称寺


沖田 総司
おきた そうじ
(1844?-1868)
新撰組

一番隊組長を務めた天才剣士
白河藩士沖田勝次郎の長男として生まれる。生年については天保13年又は15年の2つの説があり未確定。9歳頃、天然理心流の道場「試衛館」の内弟子となり、若くして試衛館塾頭を務める。文久3年の浪士組結成に参加して上洛。浪士組分裂後は、近藤らに従い残留。沖田は一番隊組長となる。剣豪ひしめく新選組の中で一番隊は常に重要な任務をこなした。元治元年の池田屋事件においても近藤らと共に最初に池田屋に踏み込んだ。この奮戦の最中、喀血により戦線離脱したといわれているが、翌月の禁門の変にも出動している。慶応元年、総長の山南敬助が脱走した事件では、追っ手となり山南を捕らえる。山南は沖田の介錯で切腹。慶応3年以降、体調の悪化により第一線で活躍することができなくなる。鳥羽・伏見の戦いにも参加していない。以後は幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、慶応4年に死去。


変名:沖田春政、沖田房良、沖田宗次郎
主な役職:新選組一番隊組長
剣術:天然理心流剣術
墓所:東京都港区専称寺


奥沢 栄助
おくざわ えいすけ
(?-1864)
新撰組
池田屋事件で重傷を負い死亡した隊士
池田屋事件に出動。近藤勇の隊に所属し池田屋裏庭の防御に当たったが、逃亡を図る尊皇攘夷志士の猛攻を受け重傷を負い屯所に運ばれ、後に死亡。死後、会津藩は功労金20両を奥沢に与えている。

変名:−
主な役職:伍長
剣術:−
墓所:京都市中京区壬生寺


尾関 雅次郎
おぜき まさじろう
(1844?-1892)
新撰組

箱館戦争まで戦い抜いた古参隊士
高取藩出身。尾関弥四郎の弟。文久3年頃、新選組の前身である壬生浪士組に入隊。諸士調査役兼監察に任じられる。旗役として行軍の先頭も任された。八月十八日の政変などに参加。近藤勇に反発した永倉新八、原田左之助らとともに建白書を提出している。鳥羽伏見の戦いを経て、土方歳三らと共に箱館戦争まで戦い抜いた。新政府軍の猛攻に弁天台場で降伏。明治25年、死去。


変名:尾関泉
主な役職:諸士調査役兼監察
剣術:−
墓所:奈良県高市郡光雲寺


尾関 弥四郎
おぜき やしろう
(1831-1865)
新撰組

心臓病により病死した隊士
天保2年生まれ。高取藩出身。弟に尾関雅次郎がいる。弟に遅れて新撰組に入隊。八月十八日の政変や池田屋事件にも参加したが、元々病弱で、慶応元年には、隊士募集の任務に回った。その後除隊され、同年死去した。心臓病という記述がある。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


乙部 剛之進
おとべ ごうのしん
(?-1869)
新撰組

弁天台場で戦死した土方新撰組隊士
生年不明。松山藩出身。戊辰戦争で各地を転戦し、仙台で榎本武揚艦隊と合流。土方歳三配下の新選組に入隊し蝦夷地へ渡る。箱館総攻撃により、弁天台場で戦死した。


変名:武部銀次郎
主な役職:−
剣術:−
墓所:高梁市頼久寺町頼久寺


か行


粕谷 十郎
かすや じゅうろう
(1840-1869)
新撰組

五人と斬り合い戦死した土方新撰組隊士
天保11年生まれ。幕臣。慶応4年に結成された回天隊に参加。大鳥圭介の旧幕軍とともに北関東を転戦。会津戦争を経て、新撰組に入隊している。嚮導役を勤め、寒川警備中に新政府軍に襲撃され討死した。その際、長州兵5名と斬り合って、3名を負傷させたが、額を割られて死亡したと伝わる。


変名:−
主な役職:箱館新撰組嚮導役
剣術:−
墓所:不明


葛山 武八郎
かづらやま たけはちろう
(?-1864)
新撰組

近藤に逆らい切腹した伍長
元治元年生まれ。会津藩出身。新選組加入前は虚無僧をしていたといわれる。池田屋事件の際には果敢に働き、不逞浪士取締り活動の報奨金17両を京都守護職松平容保より拝領した。局長近藤勇の家臣ではないとして、近藤の非行、増長を5箇条に纏めた建白書を組長の永倉新八、原田左之助、斉藤一、伍長の島田魁、諸士調役の尾関雅次郎らとともに綴り会津藩に提出。その後、容保の取り計らいにより近藤との和解となったが、葛山は切腹をした。これは、葛山が最後まで頑強に抗議したための憤死とも、反発への見せしめのために血の気の多く首脳陣に怖じない葛山に責任を負わせて手打ちにしたともいわれている。


変名:−
主な役職:新撰組伍長
剣術:−
墓所:京都市中京区壬生寺



加納 道之助
かのう みちのすけ
(1839-1902)
新撰組
御陵衛士

近藤を襲って負傷させた元御陵衛士
天保10年、伊豆の農民高野伴平の長男として生まれる。北辰一刀流千葉道場に入門。伊東甲子太郎に師事した。元治元年、伊東らと新選組の隊士募集に応じて上洛。翌年の組織再編で伍長となったが、慶応3年、御陵衛士の結成に参加して新選組を離脱。同年の油小路事件では難を逃れて脱出し、薩摩藩邸に保護される。その後、御陵衛士の生き残りとともに油小路事件の報復として伏見街道で近藤勇を襲撃し、負傷させた。戊辰戦争では、新政府軍に参加。下総流山で、官軍に投降した大久保大和を近藤を判別した。維新後は開拓使、農商務省などに出仕し、明治35年に東京麻布で死去。


変名:加納鷲雄、伊豆太郎、加納通広
主な役職:新撰組伍長
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:東京都港区青山霊園



河合 耆三郎
かわい きさぶろう
(1838-1866)
新撰組

失策により切腹した勘定方
天保9年、播磨の富裕な蔵元の子として生まれる。新選組には、大阪で商家に嫁いでいた妹が推薦し入隊した。勘定方として主に隊費の経理面で活躍し、池田屋事件にも参戦し褒賞金をもらっている。慶応2年、失策により切腹させられたが、詳しい切腹の理由は諸説があり、正確な理由は明らかではない。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:京都市中京区壬生寺


河合 鉄五郎
かわい てつごろう
(1846-?)
新撰組

会津で齋藤新撰組に入隊した元貫義隊士
弘化3年生まれ。国厚見郡岐阜七曲町出身。戊辰戦争が勃発し、松平兵庫頭率いる貫義隊に入隊して江戸を脱走。今市の戦いで貫義隊が瓦解すると、会津で斎藤一率いる新選組に入隊した。その後、如来堂の戦いで新撰組は離散。久米部正親らと共に敗走を続け、明治元年に銚子で新政府軍に降伏した。その後の形跡は不明。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


木内 峰太
きうち みねた
(生没年不詳)
新撰組

警察官となった新撰組隊士
文久3年入隊。元治元年池田屋事件では屋外の守備を行った。後に15両の褒賞金を得ている。同年の編成では伊東甲子太郎の二番組に所属。慶応3年の幕府召抱えでは、平同士として名がある。しかし、同年12月迄に離隊している。明治8年、京都で警察官に採用されたとされる。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


菊池 央
きくち おう(たのむ)
(1847-1868)
新撰組

白河口の戦いで大将首を挙げた隊士
弘化4年、弘前藩士の三男として生まれる。慶応3年に新選組に入隊し、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに敗退後、流山を経て会津へ向かう。白河口の戦いでは、新政府軍の大将を討つ手柄をあげたとも伝えられるが、同戦いにて戦死。


変名:菊池央五郎
主な役職:−
剣術:−
墓所:白河市大工町天恩皇徳寺


木下 巌
きのした いわお
(1846-1868)
新撰組

母成峠の戦いで戦死した隊士
弘化3年生まれ。阿波出身。元治元年、新選組に入隊。慶応2年の三条制札事件に出動した記録がある。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いを経て、母成峠の戦いで戦死した。


変名:−
主な役職:新撰組伍長、新撰組什長
剣術:−
墓所:不明


楠 小十郎
くすのき こじゅうろう
(1847?-1863)
新撰組

間者として斬られた美男五人衆の一人
長州藩士桂小五郎の命を受け、間者として入隊したとされる。若々しく目がぱっちりした色白下ぶくれの顔で、女のように優しい声をしていたといわれる。文久3年、新選組屯所の1つとして使われていた前川邸の門前でぼんやりしていたところを近藤勇より命を受けた原田左之助に背後から斬りつけられ、水菜畑まで逃れるが死亡した。新選組美男五人衆の1人。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


粂部 正親
くめべ まさちか
(1841-1910)
新撰組

陸軍士官となった隊士
天保12年生まれ。大阪出身。元治元年に新選組へ入隊。慶応4年、鳥羽伏見の戦いで負傷するが、甲州勝沼の戦いにも参戦。会津戦争では軍目付を勤めたが、如来堂で新政府軍の猛襲を受け、旧新選組は離散。久米部は敗走を続け銚子で降伏した。釈放後、明治政府に陸軍士官として出仕する。明治43年、仙台で病死した。


変名:久米部正親、猪野忠敬
主な役職:軍目付
剣術:−
墓所:白石市字中町専念寺


栗原仙之助
くりはら せんのすけ
(1847-1869)
新撰組

三好胖の従者として入隊した隊士
弘化4年、唐津藩出身。三好胖の従者として彰義隊に合流。彰義隊が敗北すると、榎本武揚の旧幕府艦隊の長鯨丸に乗船し江戸を脱出。会津に向かった。会津戦争では、三好とともに猪苗代口を防衛するが敗北。仙台まで敗走し、榎本艦隊と合流。新撰組に入隊して同行した。蝦夷渡航直後は、病気のため療養。後に番兵取締の任に就く。箱館総攻撃の際に弁天台場で討死。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:唐津市十人法蓮寺


小窪 清吉
こくぼ せいきち
(1847-1868)
新撰組

三好胖の従者として入隊した隊士
弘化4年、唐津藩士小久保弥吉の長男として生まれる。三好胖の従者として彰義隊に合流。彰義隊が敗北すると、榎本武揚の旧幕府艦隊の長鯨丸に乗船し江戸を脱出。会津に向かった。会津戦争では、三好とともに猪苗代口を防衛するが敗北。仙台まで敗走し、榎本艦隊と合流。新撰組に入隊して同行した。箱館戦争初期の峠下の戦いにて三好と共に戦死した。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明



近藤 勇
こんどう いさみ
(1834-1868)
新撰組
京都の尊皇志士達が恐れた新選組の局長
天保5年、宮川久次郎の三男として生まれる。嘉永元年、天然理心流剣術道場試衛館に入門。万延2年、天然理心流宗家四代目に襲名。文久3年、清河八郎率いる浪士組織「浪士組」へ参加し上洛する。清河は朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案する。異議を唱えた近藤や芹沢鴨ら24人は京に残留。京都守護職を務める会津藩主松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り活動を開始した。八月十八日の政変が起こると、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新撰組」の隊名を下賜される。その後、芹沢一派を粛清し、新撰組は近藤勇主導の新体制を構築する。元治元年、池田屋事件の働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜る。慶応3年、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、新選組は幕府軍艦で江戸に戻る。幕府の命を受けた近藤は、甲陽鎮撫隊として隊を再編し甲府へ出陣するが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れ敗走。下総流山で再編成を図るが、敵方に囲まれ投降。慶応4年、板橋において斬首。その首級は板橋宿外の一里塚に晒され、のち京の三条河原に梟首された。

変名:宮川勝五郎、嶋崎勝太、嶋崎勇、大久保剛、大久保大和
主な役職:新撰組局長、甲陽鎮撫隊隊長
剣術:天然理心流剣術
墓所:東京都北区JR板橋駅前、岡崎市本宿町法蔵寺、三鷹市大沢龍源寺、
会津若松市東山町天寧寺、東京都荒川区円通寺、米沢市鍛冶町高国寺


近藤 芳助
こんどう よしすけ
(1843-1922)
新撰組

大正まで生きた新撰組伍長
天保14年生まれ。近江出身。元治元年、隊士募集に応じて22歳で新選組に入隊。伍長を勤めた。鳥羽伏見の戦いで負傷したが、甲州勝沼の戦いにも参加した。会津戦争に参加し、母成峠の戦いで新選組本隊とはぐれ、靖兵隊を組織していた永倉新八と再会して、共に米沢に向かった。榎本武揚や土方歳三らの蝦夷地渡航を伝え聞いて、同じく蝦夷地へ向かおうとしていたところ、米沢城下にて新政府軍に捕まり江戸へ送られる。新政府の訊問では、新選組隊士であることは明かさずに、単に幕臣であるとした。静岡藩預かりとなった後、京都へ送られて取り調べの末、明治3年に釈放される。その後、横浜で代言士(後の弁護士)を開業。明治20年、県令議員に就任し、以後、市議会議員、県議会議員を務める。議員仲間の高橋正意に送った手紙が貴重な新選組関係史料として残った。永倉新八や斎藤一など、生き残りの新選組隊士らとも交流した。大正11年、死去。


変名:川村三郎
主な役職:新撰組伍長
剣術:天然理心流剣術
墓所:横浜市西区東福寺



さ行


斎藤 一
さいとう はじめ
(1844-1915)
新撰組

無敵の剣と云われた三番隊組長
天保15年、山口祐助の次男として生まれる。文久3年、芹沢鴨、近藤勇らが新選組の前身である壬生浪士組を結成。斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主松平容保の預かりとなる。新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢。のちに組織再編成の際には三番隊組長となり、撃剣師範も務める。新選組内部での粛清役を多く務めたとされ、御倉伊勢武、荒木田左馬之助のほか、武田観柳斎、谷三十郎らの暗殺に関与したとされる。慶応3年、伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱すると、間者として潜入。新選組に復帰する際には、御陵衛士の活動資金を盗み、金に困って逃げたように見せかける。新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した油小路事件は、斎藤が復帰の際にもたらした情報に基づいて起きたともいわれる。慶応4年、戊辰戦争に参加。近藤勇が流山で新政府軍に投降したあとは、隊士の一部を率いて会津へ向かう。斎藤ら新選組は会津戦争にも参戦。会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降した。明治7年、東京に移住。警視庁に採用される。明治10年、西南戦争に参加。戦後、麻布警察署詰外勤警部として勤務し、明治24年、退職する。大正4年、胃潰瘍で死去。床の間で結跏趺坐をして往生を遂げたと伝えられる。


変名:山口一、山口二郎、一瀬伝八、藤田五郎
主な役職:新撰組副長助勤、新撰組三番隊組長、麻布警察署詰外勤警部
剣術:聖徳太子流剣術、天然理心流剣術、山口一刀流剣術、津田一伝流剣術、関口流柔術
墓所:若松市七日町阿弥陀寺


酒井 兵庫
さかい ひょうご
(?-1865)
新撰組

脱走し沖田に斬られた隊士
摂津住吉出身。新選組に入隊後は会計方を務める。池田屋事件に参加し、15両の褒賞金を受けた。新選組行軍録では、原田左之助と山崎烝の間に名を連ねている。しかし、慶応元年に脱走。脱走の理由の諸説あり、酒井は会計方の仕事にある死体埋葬をしているうちに、恐ろしくなり脱走した説が有力とされている。のちに沖田総司らの手で斬殺されたといわれる。


変名:−
主な役職:新撰組会計方
剣術:−
墓所:不明


佐々木 蔵之助
ささき くらのすけ
(生没年不明)
新撰組

離隊し消息不明の隊士
文久3年5月頃に入隊。幕府提出上書署名者一覧に名前が見られる。八月十八日の政変に参加。元治元年の池田屋事件にも参戦。褒賞金として15両得ている。しかし、慶応元年7月迄に離隊。その後の消息は不明。


変名:佐々木蔵之丞
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


篠原 泰之進
しのはら たいのしん
(1828-1911)
新撰組

伊東と共に袂を分けた御陵衛士
文政11年、筑後の豪農篠原元助の長男として生まれる。北辰一刀流剣術や宝蔵院流槍術、良移心倒流柔術を学ぶ。桜田門外の変の影響を受け、尊王攘夷の志を抱いて水戸に滞在。大阪や京都にて尊攘志士と交わり諸国を巡る。伊東甲子太郎と交遊を深め、伊東と共に新選組に加盟し、諸士調役兼監察・柔術師範を務める。近藤勇や伊東に重用され、長州征伐後の訊問使の一人として広島に下向している。慶応3年、御陵衛士結成に伴って新選組を離脱。油小路事件後は薩摩藩邸に匿われ、伏見街道にて近藤を襲撃した。鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍の一員として戦う。その後、赤報隊に加わって投獄された後に釈放され、会津や越後で戦功を上げた。維新後は戦功により永世士族の身分、恩賞金250両、終身8人扶持を賜る。晩年はキリスト教に入信する。明治44年、死去。


変名:篠原泰輔、篠塚友平、秦河内、秦林親
主な役職:新撰組諸士調役兼監察、新撰組柔術師範
剣術:北辰一刀流剣術、宝蔵院流槍術、良移心倒流柔術
墓所:東京都港区青山霊園


島田 魁
しまだ かい
(1828-1900)
新撰組

箱館戦争まで戦い抜いた剛力隊士
文政11年、美濃の庄屋近藤伊右衛門の次男として生まれる。剣術修行に目覚め、名古屋城内の御前試合で優勝し、大垣藩の嶋田才に見初められ養子となり嶋田家を継ぐ。江戸に出て心形刀流坪内主馬道場で修行する。文久3年頃に新選組に入隊。180cm近くもある巨漢で怪力の持ち主であった。元治元年には諸士調役兼監察の能力を存分に発揮し池田屋事件の発端となる古高俊太郎捕縛に貢献。慶応3年の油小路事件にも出動。同年、御陵衛士残党による近藤勇襲撃では、近藤の護衛として同行し、馬上で狙撃された近藤の馬を走らせ命を救った。慶応4年、鳥羽伏見の戦いでは、永倉新八らと決死隊を組織し敵陣に斬り込んだ。しかし、敵の銃撃が激しく撤退。その際に、重装備の永倉が土塀を乗り越えられないのを見ると自分の持っていた銃を差し出し、永倉にこれを掴めと指示して島田は持ち前の怪力で永倉を土塀の上へ軽々と引き上げた逸話がある。その後は土方に従い箱館戦争まで戦い抜いた。蝦夷共和国の降伏後、謹慎生活を送る。その後、名古屋藩に預けられ、謹慎が解かれると京都で剣術道場を開く。明治19年、西本願寺の夜間警備員となる。明治33年、勤務先の西本願寺で倒れ死去した。


変名:島田義明
主な役職:新撰組諸士調役兼監察、守衛新選組隊長
剣術:心形刀流剣術
墓所:京都市東山区大谷祖廟


志村 武蔵
しむら たけぞう
(1833-?)
新撰組

戊辰戦争に参加した隊士
天保4年、相模の出身。慶応元年頃に新選組に入隊したとされる。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに参加。斎藤一らと共に会津戦争に参加し、如来堂の戦いで部隊は離散。東京で病死したといわれる


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


宿院 良蔵
しゅくいん りょうぞう
(1821-1868)
新撰組

橋本の戦いで戦死した隊士
文政2年生まれ。亀山藩出身。入隊時期は不明。文久3年の八月十八日の政変に参加した記述がある。元治元年の池田屋事件では、土方歳三隊に属し屋外の守備を担当。褒賞金として金15両を得ている。同年の葛山武八郎の切腹に際しては、谷三十郎と共に、頼越人となって光縁寺を訪れている。さらに同年末の組織編成では、井上源三郎の三番組に属している。慶応4年、鳥羽伏見の戦いを経て、橋本の戦いで戦死した。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:東京都北区寿徳寺境外墓地


鈴木 三樹三郎
すずき みきさぶろう
(1837-1919)
新撰組
御陵衛士

伊東と共に袂を分けた御陵衛士
天保8年、志筑藩士鈴木専右衛門忠明の二男として生まれる。同藩士寺内増右衛門の養嗣子となって寺内多聞と称し、藩の山林取締役兼御朱印番に就いたが、素行不良により離縁される。その後、三木荒次郎と称す。尊王攘夷運動に奔走すべく脱藩し、実兄の伊東甲子太郎の元に身を寄せた。元治元年、新選組の隊士募集の求めに応じ、伊東や篠原泰之進らと共に京都に赴く。目付を務めた後、九番隊組長に任命される。慶応3年、伊東らと共に新選組から分離し、御陵衛士を結成。同年、暗殺された伊東の遺体収容時、迎撃する新選組との乱闘を切り抜けて、加納鷲雄、富山弥兵衛とともに薩摩藩邸に保護される。後に東征軍の先鋒隊に合流。赤報隊では二番隊隊長を務めたが、相楽総三率いる一番隊とは袂を分かち、東海道を進軍する。相楽総三らの偽官軍事件に連座した疑惑によって入牢し、その後許され北越や会津における戦線を戦った。明治以降は、主に司法・警察関係に奉職し、鶴岡警察署長として行幸の指揮を執っている。大正8年、老衰のため死去。


変名:寺内多聞、三木荒次郎、鈴木忠良
主な役職:新撰組九番隊組長、赤報隊二番隊隊長、鶴岡警察署長
剣術:神道無念流剣術、北辰一刀流剣術
墓所:石岡市若宮東耀寺


鈴木 練三郎
すずき れんざぶろう
(1848-1868)
新撰組

近藤の側近を務めた隊士
嘉永元年、播磨出身。慶応3年に新選組に入隊。局長近藤勇の側近を務め、歩兵差図役下役になる。後に鳥羽伏見の戦いを経て会津戦争に参戦。母成峠の戦いで戦死した。


変名:−
主な役職:歩兵差図役下役
剣術:−
墓所:不明


芹沢 鴨
せりざわ かも
(1827-1863)
新撰組

近藤派に暗殺された筆頭局長
文政10年、水戸藩上席郷士芹沢貞幹の三男として生まれる。神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代も務める。文久3年、清河八郎が発案し結成された浪士組に参加。六番組小頭に任命される。浪士組は将軍の警固のため上洛。清河八郎の奸計により、攘夷の決行のため江戸帰還を宣言されると、芹沢らはこれに反対し、京都残留を申し出て脱退。残留浪士組らは会津藩に嘆願書を提出。会津藩の御預かりとなり壬生浪士組と名乗った。芹沢は筆頭局長となった。八月十八日の政変に際して御所の警備のために出動。この出動を機に会津藩は壬生浪士組に新撰組の隊名を与える。文久3年、対立する近藤一派の計略により平山五郎とともに暗殺される。事件は長州藩士の仕業とされ、芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。


変名:芹沢玄太、下村嗣司
主な役職:壬生浪士隊筆頭局長、新撰組筆頭局長
剣術:神道無念流剣術
墓所:京都市中京区壬生寺


千田 兵衛
せんだ ひょうえ
(1846-1868)
新撰組

近藤の側近を務めた隊士
弘化3年、弘前藩出身。慶応3年頃、新選組へ入隊。局長近藤勇の側近を務める。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、会津戦争に転戦。母成峠の戦いで戦死した。


変名:−
主な役職:新撰組歩兵差図役下役
剣術:−
墓所:不明



相馬 主計
そうま かずえ
(1843?-1872?)
新撰組

弁天台場にて降服した新撰組最後の隊長
笠間藩藩士船橋平八郎義方の子として生まれる。生年は天保6年とも天保14年ともいわれるが詳細は不明。慶応元年に脱藩、幕府の歩兵徴募に応じる。第二次長州征伐では三津浦に駐屯した。長州征討軍の解散後、新選組に入隊。加入時期は不明。慶応4年の鳥羽伏見の戦いの時点では既に所属している。その後、甲陽鎮撫隊では局長付組頭に就任。流山で近藤勇が新政府軍に投降すると、幕府の陸軍軍事方松濤権之丞の書状を携え、近藤の助命を求めて板橋を訪れるが、近藤は既に捕縛されており、相馬も近藤の仲間として捕縛される。近藤と共に処刑される予定だったが、一緒に捕縛されていた野村利三郎と共に処刑を免れ、笠間藩に預けられ謹慎。しかし、相馬は脱走して彰義隊に参加。春日左衛門の支配下に入る。彰義隊の瓦解後は旧幕臣と磐城方面を転戦し、仙台で新撰組の土方歳三と再会し、箱館に渡る。蝦夷共和国では主に箱館市中の取締の任にあたる。箱館戦争で土方が戦死すると、弁天台場にいた新選組隊士は相馬を隊長として恭順の書状に名前をしたため、新選組の歴史に幕を引いた。明治3年、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられて伊豆新島に流罪となる。大工の棟梁植村甚兵衛に身柄を預けられ、その場所で寺子屋を開いた。明治5年に赦免され、東京に移る。主に司法方面の勤務に就いたが、突如免官され、東京に戻った後に切腹した。相馬は妻に他言無用を厳命し、妻もそれを守り通したため、相馬の死に関する詳細は現在も不明である。


変名:相馬肇
主な役職:新撰組局長付組頭、箱館新撰組隊長
剣術:唯心一刀流、随変流抜刀術
墓所:不明



た行


武田 観柳斎
たけだ かんりゅうさい
(?-1867)
新撰組

甲州流軍学で新撰組を調練した五番隊組長
母里藩士の子として生まれる。医学生であったと伝えられる。脱藩後、江戸へ行き、長沼流軍学を修める。甲斐武田氏に因んで武田観柳斎を称した。文久3年に新選組に参加。軍学者として近藤勇に重用され、元治元年には副長助勤に抜擢される。後に五番組組長や文学師範、軍事方といった地位に就き、甲州流軍学による調練を担当。池田屋事件では古高俊太郎を捕縛した。禁門の変や明保野亭事件に参加。永倉新八や斎藤一らが近藤の専横を非難した際には仲裁を務めるなど、軍才を背景に存在感を示す。しかし新選組で洋式の調練が採用されるようになると、甲州流軍学の武田は隊内での影響力を失い、その頃から伊東甲子太郎や薩摩藩との接触を企てるなど、不穏な行動を示し始める。慶応3年、京都郊外の鴨川銭取橋にて暗殺された。


変名:−
主な役職:副長助勤、新撰組五番隊組長
剣術:−
墓所:不明


谷 三十郎
たに さんじゅうろう
(?-1866)
新撰組

祇園の石段下で頓死していた七番隊組長
松山藩士谷三治郎供行の嫡男として生まれる。藩主板倉勝静の近習役として仕えたが、安政3年、不祥事により谷家は断絶。弟万太郎と共に故郷を出奔し、大坂南堀江町にて道場を開く。新選組加盟の時期は不明。元治元年に副長助勤。慶応元年には七番組組長を務める。池田屋事件では土方隊の組に配属。慶応元年、ぜんざい屋事件で弟万太郎ら4名で大坂焼き討ち計画を未然に防いだ。大坂の豪商加賀屋四郎兵衛に対する献金要請の際は交渉役を務め、3万1500両もの大金を得ることに成功している。慶応2年、京都東山の祇園社石段下にて頓死。死因については、斎藤一や攘夷派維新志士による暗殺説、過度の飲酒による脳卒中説などがあるが、詳細は不明である。


変名:谷供国
主な役職:副長助勤、新撰組七番隊組長
剣術:直心流剣術、種田流槍術
墓所:不明


谷 万太郎
たに まんたろう
(1835-1886)
新撰組

兄と共に新撰組に入隊した大阪屯所の長
天保6年、松山藩士谷三治郎供行の二男として生まれる。幼少期より父三治郎から武術を学ぶ。安政3年頃、不祥事案により谷家は断絶となる。断絶後は、兄三十郎と共に故郷を出奔する。文久3年頃、新選組に加盟。池田屋事件では土方隊に属し、報奨金20両を賜っている。大坂でのぜんざい屋事件では、兄三十郎や阿部十郎らとともに大利鼎吉を討った。主に大坂に駐屯して大坂屯所の長を務めたものの、京都の本隊とは別行動をとることが多く、兄三十郎の死後には新選組を離脱したものと思われる。維新後は大坂で町道場を経営。西南戦争時には、大阪府知事渡辺昇の推薦によって一時は抜刀隊の隊長に抜擢された。のちに道場経営に失敗し、商家の用心棒をしながら余生を過ごした。明治19年、食道ガンのため大阪にて死去。


変名:谷万吉
主な役職:新撰組大阪屯所隊長
剣術:直心流剣術、種田流槍術
墓所:大阪市北区本伝寺


田村 銀之助
たむら ぎんのすけ
(1856-1924)
新撰組

幼年ながら箱館戦争まで新撰組に付き添った小姓
慶応3年に兄の田村一郎、田村録四郎らと共に12歳で新選組に入隊。隊士としてではなく、局長近藤勇や副長土方歳三附属の小姓として新選組に所属していたが、まもなく戊辰戦争が勃発。新選組に従い、鳥羽伏見の戦い、勝沼の戦い、会津戦争と新撰組に従った。若年だったため戦闘には参加しなかった。仙台で榎本武揚艦隊と合流し、蝦夷地へ渡った。蝦夷共和国では榎本総裁附きの小姓となる。箱館戦争中も非戦闘員として扱われ、通訳の田島応親よりフランス語を学ぶ。伊庭八郎の最後を目撃し、のちに語り継いだ。明治2年、総裁榎本武揚や陸軍奉行大鳥圭介らに五稜郭からの脱出を勧められるが、断固として拒否した。その後は明治政府に出仕し、陸軍士官として西南戦争などに参戦、開拓使も勤めた。大正13年に死去した。


変名:春日銀之助
主な役職:新撰組両長召抱人
剣術:直心流剣術、種田流槍術
墓所:東京都文京区智光寺


津田 丑五郎
つだ うしごろう
(1845-1869)
新撰組

弁天台場で戦死した隊士
弘化2年、京都出身。新撰組に加入し、戊辰戦争に参加。その功績により歩兵から士官に取り立てられたという。土方歳三らと共に蝦夷地へ渡り、箱館戦争に参戦。明治2年、新政府軍本営に夜襲攻撃し負傷。箱館総攻撃により弁天台場で戦死した。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明



藤堂 平助
とうどう へいすけ
(1844-1867)
新撰組
御陵衛士

御陵衛士として新撰組に討たれた八番隊組長
弘化元年、江戸に生まれる。試衛館以来の生え抜きで、新選組結成当時からの近藤勇の同志とされている。池田屋事件では、最初に斬り込んだ4人の内の一人。奮戦の結果、額を負傷している。事件後、近藤勇、土方歳三に次ぐ褒賞金を幕府から下賜された。元治元年、新選組は江戸にて大規模な隊士募集を行うが、藤堂はこれに先立って志願者を集るため江戸に下る。藤堂が伊東甲子太郎の道場へ入隊の勧誘に来たとの証言も残っている。慶応3年、伊東と共に御陵衛士を結成すべく新選組を離脱。新選組は御陵衛士を油小路で襲撃。近藤は藤堂を殺さずに逃がすつもりであったが、事情を知らぬ隊士三浦常三郎に斬られ、討ち死にした。


変名:藤堂宜虎
主な役職:新撰組八番隊組長
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:京都市下京区光緑寺




な行


永倉 新八
ながくら しんぱち
(1839-1915)
新撰組

信念を持って行動した二番隊組長
天保10年、松前藩江戸定府取次役長倉勘次の次男として生まれる。安政3年、剣術好きが昂じて脱藩し、剣術修行の旅に出る。その後、近藤勇の道場試衛館の食客となる。近藤らと共に浪士組に参加。新選組結成後は、二番組組長や撃剣師範を務めるなど中枢を成した。元治元年の池田屋事件では、近藤や沖田総司らと共に池田屋に突入。事件後、新選組の勇名は天下に轟く。その後、近藤に我儘な振る舞いが目立つようになると、これを遺憾とした永倉は、脱退覚悟で近藤の非行五ヶ条を会津藩主松平容保へ訴え出るなど、近藤勇、土方歳三との路線対立を見せる。油小路事件では、原田左之助らと共に御陵衛士を暗殺。慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは、決死隊を募って刀一つで突撃する豪胆さを見せた。江戸に退却後、新選組改め甲陽鎮撫隊として新政府軍と甲州勝沼にて戦うが敗れ、近藤らと袂を分かつ。その後、靖兵隊を結成し、北関東にて抗戦するが、米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還した。戦後は北海道小樽へ移る。大正4年、虫歯を原因とする骨膜炎、敗血症を発症し、小樽にて死去。


変名:長倉載之、長倉栄吉、長倉栄治、長倉新八、杉村義衛
主な役職:新撰組二番隊組長
剣術:神道無念流剣術
墓所:東京都北区寿徳寺境外墓地


長島 五郎作
ながしま ごろうさく
(1839-1915)
新撰組

箱館で戦死した隊士
嘉永5年、安房で生まれる。慶応3年以降に入隊して、局長、副長の両長召抱人になる。鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し、会津戦争後に蝦夷へ渡航する。二股口の戦いに戦功があったとされる。これに新選組は出陣していない為、土方に付属しての参戦と推測される。箱館防衛戦にて討死。


変名:−
主な役職:両長召抱人
剣術:−
墓所:−


中島 登
なかじま のぼる
(1838-1887)
新撰組

戦友を絵に残した新撰組伍長
天保9年、多摩郡の農家に長男として生まれる。幼名は峯吉。元治元年、新選組に入隊。近藤勇の命で武州・甲州・相模の地理調査などを秘密裏に行っていたといわれる。慶応3年、新選組伍長に就任。慶応4年、流山で近藤が新政府軍に投降した後、土方歳三や島田魁ら数名の新選組隊士らと共に、大鳥圭介ら旧幕府軍と合流して宇都宮の戦い、日光口の戦い、会津戦争を転戦。仙台で旧幕府艦隊と合流して蝦夷地へ渡る。箱館戦争では弁天台場第2分隊嚮導役となった。明治2年に降伏、謹慎した。明治3年、多摩に帰還する。静岡藩の開墾に尽力し、自分の田地を人々に譲渡した。明治14年、趣味で栽培していた葉蘭に偶然新種が誕生し、品評会にて「金玉廉」と名付けられて爆発的な売れ行きとなるが、馬が親株を食べてしまったため商売は終了。明治17年には「鉄砲火薬売買人」免許を取得し、中島鉄砲火薬店を開業した。明治20年、浜松にて死去。新選組関係資料として『戦友絵姿』や『中島登覚え書』などを残している。


変名:中島峯吉
主な役職:新撰組伍長、弁天台場第2分隊嚮導役
剣術:天然理心流剣術
墓所:浜松市山下町天林寺


中村 金吾
なかむら きんご
(生没年不明)
新撰組

離隊し消息不明の隊士
文久3年に入隊。幕府提出上書署名者一覧に名前を連ねている。同年の八月十八日の政変に参加。元治元年に起きた池田屋事件では土方歳三隊に所属。褒賞金15両を得ている。禁門の変にも参戦。行軍録に旗役として名を連ねる。慶応3年6月以前に離隊した。その後の消息は不明。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


新見 錦
にいみ にしき
(1836-1863)
新撰組

近藤派に詰め腹を切らされた芹沢派の局長
天保7年生まれ。文久3年、浪士組に加盟し、三番組小頭になる。新見の前歴は詳らかでないが、幹部の小頭に任じられたことから名が知られた存在であったと考えられる。同じ水戸出身で六番組小頭の芹沢鴨のかねてからの同志とされるが、芹沢との具体的な関係は不明である。新選組幹部永倉新八によると新見は乱暴が甚だしく、法令を犯して芹沢、近藤の説得にも耳を貸さなかったという。新撰組発足に伴い新見は局長(同じ局長に芹沢鴨、近藤勇)となるが、新見は悪行の数々を握られて切腹せねば法度に照らして斬首すると近藤、土方に詰め寄られ、遊蕩先の祇園新地の料亭山緒でついに切腹させられた。明治になって倒幕派尊王攘夷志士を祀るためつくられた霊山護国神社に倒幕派の敵だったはずの新選組幹部である新見が祀られていることから、切腹は単純な乱暴狼藉ではなく水戸や長州、土佐などの尊王攘夷派との親密な関係があったからではないかという説もある。


変名:新見錦山
主な役職:浪士組局長、新撰組副長
剣術:神道無念流剣術
墓所:京都市霊山護国神社、京都市中京区壬生寺(田中伊織)


新田 革左衛門
にった かくざえもん
(?-1864)
新撰組

池田屋事件で重傷を負い死亡した隊士
文久3年〜元治元年に入隊したと思われる。池田屋事件では近藤勇の隊に所属し、奥沢栄助や安藤早太郎と共に池田屋の裏口を守っていたが、浪士側の反撃で深手を負った。後に屯所で死亡した。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:京都市中京区壬生寺


野口 健司
のぐち けんじ
(1843-1864)
新撰組

詰め腹を切らされた芹沢派最後の一人
天保14年生まれ。文久3年、浪士組に参加して上洛。江戸帰還に反対して京都に残留して、壬生浪士組結成に参画する。水戸藩出身であったために水戸派の一人とされている。壬生浪士組では副長助勤となり、結成初期の幹部となった。野口は芹沢と行動を共にして、芹沢が引き起こした乱行である大坂力士の乱闘、大和屋焼き打ちに関与したと見なされている。八月十八日の政変の際にも出動している。同年、芹沢と平山は近藤派によって暗殺され平間は逃亡。暗殺事件の夜、野口は角屋に残って難を逃れている。これ以前に新見も切腹させられており、事実上水戸派は壊滅した。野口だけは粛清されず、その後も幹部の一人として隊に残留したが、突然切腹を命じられ、安藤早太郎の介錯で切腹した。切腹の原因については明らかではないが、八木源之丞の後年の証言では「ささいなことで詰め腹を切らされたのではないか」とされている。


変名:−
主な役職:新撰組副長助勤
剣術:神道無念流剣術
墓所:京都市中京区壬生寺


野村 利三郎
のむら りさぶろう
(1844-1869)
新撰組

真っ先に甲鉄艦に斬り込んだ隊士
弘化元年、美濃出身。入隊時期不明。慶応4年、五兵衛新田に屯集した新選組に野村の名前が確認できる。流山で新選組局長近藤勇が新政府軍へ出頭する際、付き添って共に新政府軍に捕縛された。その後、近藤は処刑され、野村も一緒に処刑されるはずだったが、近藤の助命嘆願により、同じく捕らえられていた相馬と共に釈放される。釈放後は相馬主計と行動を共にして彰義隊に参加。彰義隊瓦解後も、各地を転戦。榎本艦隊および土方歳三らと合流し、蝦夷地へ渡った。蝦夷共和国成立後は、土方の直属である陸軍奉行添役に就任した。明治2年、宮古湾海戦の際、回天に乗船していた野村は、真っ先に甲鉄艦に斬り込んで行ったといわれているが、撤退に間に合わずに甲鉄艦上で戦死したため、新政府軍により遺体は海に棄てられた。


変名:−
主な役職:陸軍奉行添役
剣術:−
墓所:不明


は行


原田 左之助
はらだ さのすけ
(1840-1868?)
松山藩

槍術の名手として知られる十番隊組長
天保11年生まれ。松山藩の中間であったが出奔。試衛館以来の生え抜きとして、新撰組十番隊組長となる。種田流槍術の名手として知られる。殿軍の組長として十番隊を指揮し、主だった新選組の戦闘には原田の名が必ずある。芹沢鴨一派の粛清、長州の間者楠小十郎斬殺、大阪西町奉行与力内山彦次郎暗殺、池田屋事件、禁門の変、三条制札事件、油小路事件等。一時は、坂本龍馬暗殺の下手人として疑われた。鳥羽伏見の戦い、甲陽鎮撫隊まで新撰組として戦うが、永倉新八らと共に新撰組と別れ靖兵隊結成。しかし、なぜか江戸を離れてから用を思い出したと江戸に戻って彰義隊に加入。上野戦争に参加したが負傷。その傷がもとで慶応4年に死亡したとされる。日清、日露戦争のときに松山で昔語りをする老軍人が「私は原田左之助だ」と名乗ったと、明治40年頃の新聞で報じられたが真偽は不明。


変名:原田忠一
主な役職:新撰組十番隊組長
剣術:種田流槍術
墓所:不明


林 信太郎
はやし しんたろう
(?-1868)
新撰組

戊辰戦争で戦死した隊士
文久3年頃に新選組に入隊。長州の間者の荒木田左馬之助を粛清している。池田屋事件では土方歳三の隊に配属され四国屋方面の探索をし、池田屋へ向かい近藤勇を援護した。その功により褒賞金17両を賜っている。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いの後永倉新八、原田左之助の靖兵隊に加わり北関東、会津などで転戦するが、水戸街道で久留米藩兵との戦いで討死した。


変名:−
主な役職:新撰組伍長
剣術:−
墓所:東京都北区寿徳寺境外墓地


土方 歳三
ひじかた としぞう
(1835-1869)
新撰組
信念を貫いだ鬼の副長
天保6年、土方隼人の末子として生まれる。安政6年、天然理心流剣術道場試衛館に入門。文久3年、試衛館の門下と共に、将軍徳川家茂警護のための浪士組に参加し京都へ赴く。京都守護職配下「壬生浪士組」と名乗り活動を開始。八月十八日の政変が起こると、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新撰組」の隊名を下賜される。その後、対抗する芹沢一派を粛清し、近藤勇主導の新体制を構築すると、歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持に務め、鬼の副長と称されるほど隊士たちから恐れられた。慶応3年、幕臣に取り立てられるが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、新選組とともに幕府軍艦で江戸に戻る。幕府の命を受け近藤とともに甲陽鎮撫隊として甲府へ出陣するが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れ敗走。近藤投降後は、宇都宮、会津と転戦。仙台で榎本艦隊と合流し蝦夷へ向かう。蝦夷上陸後、各地を平定し、榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国を樹立。歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼る。明治2年、新政府軍が上陸してくるとこれに応戦。新政府軍に徐々に包囲される中で降伏をよしとせず、七重浜より攻め来る新政府軍に突撃、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて絶命した。

変名:土方義豊、土方豊玉、内藤隼人
主な役職:新撰組副長、陸軍奉行並、箱館市中取締、陸海軍裁判局頭取
剣術:天然理心流剣術
墓所:日野市石田寺、東京都北区寿徳寺、東京都荒川区円通寺


平間 重助
ひらま じゅうすけ
(1824-1874)
水戸藩

粛清を回避し逐電した芹沢の片腕
文政7年、平間忠衛門の子として生まれる。文久3年、平間は妻子を芹沢家に預け、芹沢とともに浪士組に参加。入洛後、会津藩預りの壬生浪士組を結成。平間は副長助勤となる。新選組は島原の角屋で芸妓総揚の宴会を開く。芹沢や平山五郎、平間は屯所である八木家へ早めに戻る。芹沢と平山は泥酔していたが、平間は平素からあまり酒を飲まず、さほど酔ってはいなかった。八木家には芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、芹沢と平山は奥の十畳間で女と同衾し、平間は玄関口の左手の部屋で糸里と就寝した。同日未明、複数の刺客による夜襲によって芹沢と平山らは惨殺される。平間は混乱に乗じて逐電。その後、帰郷して芹沢家に事の顛末を伝え消息不明となる。明治維新後は帰郷に隠棲し、明治7年に死去した。


変名:−
主な役職:新撰組副長助勤、新選組勘定方
剣術:神道無念流剣術
墓所:不明


平山 五郎
ひらやま ごろう
(1829-1863)
水戸藩

芹沢と共に粛清された芹沢の片腕
文政12年生まれ。花火の事故で左目がつぶれて隻眼であったが、目が潰れた左側から打ち込むと猛烈に切り返し、逆に見えるはずの右側からだとわりあいに隙があったという。文久3年、清河八郎献策の浪士組に参加し、芹沢鴨の六番組に配属され上京。清河の画策によって浪士組が江戸へ帰還すると、芹沢や近藤勇らとともに京都に残留。残留浪士たちは会津藩御預りとなり壬生浪士組を結成。平山は副長助勤となる。壬生浪士組は芹沢鴨、新見錦ら水戸派と、近藤勇・土方歳三らの試衛館派に分かれ、平山は水戸派に属し芹沢と行動を共にした。ある日、芹沢が思いのままにならない芸妓小寅に腹を立て遊郭の吉田屋に乗り込む騒ぎが起きた。永倉、斎藤、土方、平山が同行して主人を脅しつけ、小寅と付添の芸妓お鹿を断髪する辱めを与えた。この際に芹沢の命令で土方が小寅の、平山がお鹿の髪を切っている。その後、芹沢の乱暴狼藉に対し朝廷から召捕りの命令が下ったことを理由に、会津藩から近藤らに芹沢の処理の密命が下る。近藤の命令を受けた土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助は、深夜、芹沢と平山の寝込みを襲い惨殺した。


変名:−
主な役職:新撰組副長助勤
剣術:神道無念流剣術
墓所:京都市中京区壬生寺


ま行


松原 忠司
まつばら ちゅうじ
(1835-1865)
新撰組
謎の死を遂げた四番隊組長
天保6年、小野藩士の子として生まれる。安政の頃に脱藩。その後は大坂で関口流柔術の道場を開いていたと言われる。文久3年、新選組の前身である壬生浪士組に入隊。八月十八日の政変では仙洞御所前、及び禁裏御所南門の警備を担当したが、その時の風貌は坊主頭に白い鉢巻を巻き、脇には大薙刀を携えるという異様なもので、今弁慶の異名を持った。元治元年の池田屋事件では土方歳三の隊に属し、戦功を挙げ報奨金15両を賜る。こうした活躍もあり、慶応元年の組織再編で四番組組長、柔術師範となる。慶応元年に死去。新選組の記録では病死とされているが、その死については諸説あるが、何らかの理由で切腹したが未遂に終わり、平隊士に降格されたという点は多くの説に共通する。松原の墓に身元不明の女性の骨が一緒に埋葬されていることがわかっており、心中事件を起こした可能性が指摘されている。

変名:−
主な役職:新撰組四番隊組長
剣術:関口流柔術
墓所:京都市下京区光緑寺


松本 捨助
まつもと すてすけ
(1845-1918)
新撰組

長男ながら新撰組に入隊した近藤道場の門人
弘化2年生まれ。土方歳三の縁戚。近藤道場で天然理心流を学び、浪士組にも参加を望むが、家族の反対で断念。その後上洛し、文久3年、壬生浪士組から名を改めた新選組に入隊を懇願するも断られている。入隊を断られたのは長男であったためと言われる。その後も入隊を諦めず親を説得し、結局、新選組に入隊したのは慶応3年になってからである。鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いにも参戦。会津戦争時に仙台で離隊して郷里に帰る。維新後、愛知県で米屋を営み、晩年は八王子で過ごした。


変名:−
主な役職:−
剣術:天然理心流剣術
墓所:東京都府中市本宿共同墓地


三浦 啓之助
みうら けいのすけ
(1848-1877)
新撰組

父の七光りで粗暴を働いた佐久間象山の息子
嘉永元年、佐久間象山子として生まれる。元治元年に父象山に随身して入洛するが、同年父は攘夷派浪士達に暗殺される。父の門弟であった山本覚馬に仇討ちを勧められ、新選組へ入隊する事になる。入隊後は局長近藤勇の側近となり、他の平隊士よりも丁重に扱われたが、次第に父譲りの傲慢さが露わになり、芦谷昇たちと共に粗暴を働くようになる。慶応2〜3年頃、芦谷と共に新選組を脱走。慶応4年、勝海舟の紹介で慶應義塾に入学。明治維新後は、佐久間象山の息子であることを利用して司法省に出仕するも、警察官と喧嘩を起こし免職となる。その後は松山県裁判所判事として松山に赴任したが、明治10年、食中毒で頓死した。


変名:佐久間恪二郎、佐久間恪
主な役職:−
剣術:−
墓所:愛媛県和気郡鷺谷共同墓地、


御倉 伊勢武
みくら いせたけ
(?-1863)
新撰組
間者として入隊し惨殺された隊士
文久3年頃、新撰組に入隊。桂小五郎の命を受け、荒木田左馬之助、越後三郎、松井竜三郎と共に入隊し、国事探偵方を務めた。屯所で結髪中、永倉新八、斎藤一、林信太郎に惨殺された。

変名:−
主な役職:新撰組国事探偵方
剣術:−
墓所:不明


三品 仲治
みしな ちゅうじ
(生没年不明)
新撰組

行方不明の新撰組隊士
入隊時期は不明。元治元年の池田屋事件では、土方歳三の隊に所属し、屋内に突入して奮戦。後に褒賞金として十七両を得ている。同年12月の編成では、松原忠司の七番隊に所属しているが、それ以後行方不明。慶応元年に脱走したという説がある。


変名:三品仲司
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


宮川 信吉
みやがわ のぶきち
(1843-1868)
新撰組

襲撃されて戦死した新撰組隊士
近藤勇の従弟。天保14年生まれ。天然理心流道場試衛館に入門して剣を学ぶ。慶応元年、土方歳三らの江戸での隊士募集の際に新選組に入隊。慶応3年の新選組幕府召抱えでは平同士として記載され、油小路事件において大石鍬次郎他2名と共に伊東殺害に関わったとされるが、紀州藩士三浦休太郎の警護任務中、海援隊と陸援隊に襲撃され戦死した。


変名:宮川頼温
主な役職:−
剣術:天然理心流剣術
墓所:京都市中京区壬生寺、東京都三鷹竜源寺


三好 胖
みよし ゆたか
(1852-1868)
唐津藩
新撰組

蝦夷で戦死した唐津藩主の子
嘉永5年、唐津藩藩主小笠原長泰の子として生まれる。慶応4年、上野山に彰義隊に唐津藩士9名とともに合流した。彰義隊が敗北すると、榎本武揚の旧幕府艦隊の長鯨丸に乗船し江戸を脱出。会津に向かった。会津戦争では、唐津藩士とともに猪苗代口を防衛するが敗北。仙台まで敗走し、榎本艦隊と合流。新撰組に入隊して同行した。箱館戦争初期の峠下の戦いにて唐津藩士10名とともに戦死した。


変名:小笠原胖之助
主な役職:新撰組差図役
剣術:四天流剣術
墓所:唐津市西寺町近松寺


や行


山崎 烝
やまざき すすむ
(1833-1868)
新撰組

新撰組の医師も務め隊士からも慕われた好人物
天保4年生まれ。大坂の医者または薬問屋の出身。文久3年末頃に新選組に入隊。元治元年頃から隊士の動向調査や情報探索の任についた。元治元年、諸士調役兼監察として島田魁らと長州藩士や尊攘過激派の探索にあたり、志士の密会所つきとめ、池田屋事件に貢献した。その後、禁門の変や第一次長州征討、第二次長州征討などの重要な戦いでも戦況の推移や状況報告に能力を発揮し、近藤勇や会津藩に正確な情報をもたらした。慶応4年の鳥羽伏見の戦いの最中、重傷を負い江戸へ撤退の際、富士山丸の船上で死去。紀州沖で水葬されたとされている。


変名:−
主な役職:新撰組諸士調役兼監察
剣術:香取流棒術
墓所:不明


山南 敬助
やまなみ けいすけ
(1833-1865)
新撰組

脱走し切腹させられた新撰組総長
天保4年生まれ。生い立ちに関しては謎が多く、仙台藩を脱藩して江戸に出たと伝わるが、仙台藩士には山南もしくは三南という苗字はない。江戸では小野派一刀流の免許皆伝となり、後に北辰一刀流千葉周作門人となる。試衛館に他流試合を挑み、相対した近藤勇に敗れる。この時、近藤の腕前や人柄に感服し近藤を慕うようになり、以後は試衛館の門人と行動を共にするようになる。文久3年、清河八郎が浪士組を組織すると、山南は近藤らとこれに参加して上洛。まもなく清河が攘夷実行を掲げて江戸に帰還すると、これに反対した芹沢鴨や近藤らは京都に残り、山南もこれに従う。この一隊が会津藩預かりとなって壬生浪士組を名乗る。山南は近藤派の土方歳三と共に副長に就任。主導権争いにより筆頭局長の芹沢と副長の新見が粛清され、新撰組は近藤派によって統一。その後の組織再編で山南は新設された総長となり、局長の近藤、副長の土方に次ぐ地位に就いた。しかしこの事件以降、後に脱走するまで、山南の名は新選組の活動記録から消えた。元治元年の池田屋事件にも山南は出動していない。同年、山南とは同門の北辰一刀流で、熱烈な尊王攘夷論者として学識も高かった伊東甲子太郎が新選組に入隊。伊東のために山南よりも上席の参謀を新設して迎えるという破格の待遇だったが、これで山南は幹部としての立場を失っていくことになる。元治2年、山南は江戸へ行くと置き手紙を残して行方をくらます。近藤は直ちに沖田総司を追っ手として差し向ける。大津で沖田に追いつかれた山南はそこで捕縛され、新選組屯所に連れ戻され切腹。介錯は山南の希望により沖田がこれを務めた。


変名:山南知信、三南三郎
主な役職:新撰組副長、新撰組総長
剣術:小野派一刀流剣術、北辰一刀流剣術、天然理心流剣術
墓所:京都市下京区光緑寺


横倉 甚五郎
よこくら じんごろう
(1834-1874)
新撰組

獄死した伊東甲子太郎暗殺の実行犯
元治元年の隊士募集に応じて新選組に入隊。慶応3年の油小路の変では大石鍬次郎らと共に伊東甲子太郎を暗殺した。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、会津戦争を経て仙台で榎本武揚艦隊と合流し、蝦夷地へ渡航。明治2年に弁天台場が降伏し、横倉は同所にて謹慎を言い渡されていたが、元京都見廻組今井信郎などと共に坂本龍馬、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられ、東京の糾問所に送検されて取り調べを受けた。明治3年獄死。


変名:−
主な役職:新撰組伍長
剣術:天然理心流剣術
墓所:東京都八王子市大法寺まや霊園


吉田 俊太郎
よしだ しゅんたろう
(1849-?)
新撰組

消息不明の新撰組隊士
嘉永2年、丹波篠山生まれ。慶応3年、新選組に入隊。局長近藤勇の側近を務める。慶応4年、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いをへて、近藤勇が新政府軍へ投降すると、斎藤一らと共に会津戦争に参戦し、如来堂の戦いで離散。久米部正親らと共に敗走を続け、明治元年、銚子で新政府軍に降伏した。その後の消息は不明。


変名:−
主な役職:−
剣術:−
墓所:不明


ら行


わ行


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