毛利家一門人物録

毛利家一門

長州毛利家は、鎌倉幕府の名臣大江広元の四男大江季光を祖とする一族。毛利姓はかつての所領であった相模国愛甲郡毛利庄(現在の神奈川県厚木市周辺)に由来する。その後、安芸に土着した毛利家は、毛利元就の登場により中国の覇者となるが、関ヶ原の責任で領地を没収され、周防国、長門国の2国に減封された。



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毛利宗家(長門 周防国主)36万9000石


毛利 敬親
もうり たかちか
(1819-1871)
毛利宗家

有能な家臣を活躍させ明治維新を成し遂げるきっかけを作ったそうせい公
文政2年、永代家老福原家21代当主福原房純の養嗣子福原房昌(7代藩主毛利重就の孫)の長男として生まれる。同年に父房昌が10代藩主毛利斉煕の養子となる。文政7年、斉熙の隠居により父が毛利斉元として11代藩主に就任。天保7年、斉元の死去に伴い10代藩主斉煕の次男毛利斉広が12代藩主となるが、ほどなく病死した事により13代藩主に就任する。村田清風、周布政之助、長井雅楽ら才能あるものを登用し、藩政改革や外交政策を積極的に推進させる。文久3年、攘夷を藩是として外国船の打ち払いを開始。同年、京都で活動していた長州藩が八月十八日の政変で京を追われると、翌元治元年に藩兵を京都に派遣して禁門の変をおこす。しかし長州藩は敗れ、官位は剥奪され朝敵となってしまう。さらに四ヵ国連合艦隊が下関を砲撃し敗北。第一次長州征伐が開始されると3家老を切腹させ恭順。徹底恭順派政権が誕生するが、高杉晋作がクーデターを起こして徹底恭順派政権を打倒。武備恭順を藩是とする。慶応2年、第二次長州征伐で幕府軍が長州に攻め込むがこれを退ける。慶応4年、鳥羽伏見の戦いに勝利して上洛。明治天皇に拝謁して左近衛権中将に任ぜられる。明治2年、薩摩、土佐、肥前と連署して版籍奉還を奉請。同年隠居して家督を元徳に譲る。明治4年、死去。


変名:毛利猶之進、毛利教明、毛利慶親
主な役職:13代長州藩主
剣術:ー
墓所:山口市香山町 香山公園

毛利 都美子
もうり とみこ
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毛利 元徳
もうり もとのり
(1839-1896)
毛利宗家

藩主敬親を支えた幕末長州藩の世子
天保10年、徳山藩第8代藩主毛利広鎮の十男として生まれる。嘉永5年、長州藩第13代藩主毛利敬親に嗣子がないため、その養子となる。はじめは広封と名乗るが、数日後将軍徳川家定に拝謁を許され、偏諱を受けて定広と名乗った。元治元年、蛤御門の変の後、幕府より「定」の字を召し上げられ、広封に戻す。明治維新後に元徳と改名。明治2年、敬親の隠居で後を継ぎ、第14代長州藩藩主となる。就任後まもなく版籍奉還で藩知事となった。明治4年、廃藩置県で免官されて東京へ移り、第十五国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。明治29年、死去。


変名:毛利広封、毛利定広、毛利広封
主な役職:14代長州藩主、第十五国立銀行頭取、公爵、貴族院議員
剣術:ー
墓所:山口市香山町 香山公園

毛利 安子
もうり やすこ
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毛利宗家墓所:霊椿山大照院、護国山東光寺、香山墓所 ブログ記事→萩 東光寺枕柳亭&毛利番主の墓


□ 支藩 □


支藩長府毛利家(城主格)5万石

毛利 元周
もうり もとちか

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毛利 元敏
もうり もととし

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長府毛利家墓所:金山功山寺、法輪山覚苑寺、蓬莱山笑山寺 ブログ記事→覚苑寺高杉晋作ウォーク(長府コース)1


支藩徳山毛利家(城主格)4万石

毛利 元功
もうり もといさ

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毛利 元蕃
もうり もとみつ

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徳山毛利家墓所:般若山大成寺 ブログ記事→周南市徳山 徳山毛利家墓所


支藩清末毛利家(陣屋格)1万石

毛利 元純
もうり もとずみ

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清末毛利家墓所:高林寺 ブログ記事→清末藩2



岩国吉川家(城主)6万石

吉川 経健
きっかわ つねたけ

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吉川 経幹
きっかわ つねまさ

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吉川家墓所:盤目山洞泉寺 ブログ記事→岩国市 吉川家墓所 


□ 一門家老家 □


宍戸家(一門家老家筆頭)1万1000石

宍戸氏は藤原北家道兼流、宇都宮宗綱の子八田知家を祖とする名門で、四男家政が常陸国宍戸荘を領したことから宍戸氏を名乗った。南北朝時代には、足利尊氏に味方して安芸守に任ぜられ安芸国に土着。のちに毛利元就と結んで中国地方の覇権に協力して毛利両川に次ぐ待遇を受ける。関ヶ原後に毛利家が長門、周防に減封された際にはこれに同行。以後は一門家老筆頭として長州藩を支えた。
宍戸 刑馬
ししど ぎょうま

下関戦争の講和会議で、宍戸家の養子と偽った高杉晋作の偽名。

宍戸 備後助
ししど びんごのすけ
第一次長州征伐の際、広島に派遣された山県半蔵の偽名。のちに宍戸家の末家となり宍戸璣に改名。

宍戸 佐馬之介
ししど さまのすけ
宍戸家分家。禁門の変の責任で斬首された四参謀の一人。→長州藩人物録へ


宍戸 親基
ししど ちかもと
(1827-1886)
宍戸家

幕末長州藩の一門家老筆頭として藩主を補佐した宍戸家当主
文政10年、宍戸家23代当主宍戸元礼の長男として生まれる。安政2年、父元礼の隠居により家督を継いで24代当主となった。元治元年、下関戦争の講和会議では講和使節として派遣され、3度目の交渉時に参加した。慶応2年の幕長戦争では芸州口の小瀬川口を担当。維新後は郷校徳修館において教育活動に従事。明治19年、死去。


変名:宍戸徳基、宍戸備前
主な役職:宍戸家24代当主、長州藩家老
墓所:周南市三丘広末 貞昌寺


宍戸 元礼
ししど もとあや
(1808-1868)
宍戸家

郷校徳修館に聖廟を建てた宍戸家当主
文化5年、永代家老福原房純の次男として生まれる。天保2年、宍戸家22代当主宍戸親朝が嫡子を持たずに死去したため、宍戸家を継ぎ23代当主となる。弘化元年、二の郭警衛惣奉行に就任して長門沿岸の海防を担当。弘化3年、所領の郷校徳修館に藩校明倫館を模した聖廟を新築する。安政2年に隠居。慶応3年、死去。


変名:福原雄五郎、宍戸孫四郎、宍戸延良
主な役職:宍戸家23代当主、長州藩家老、二の郭警衛惣奉行
墓所:周南市三丘広末 貞昌寺

宍戸家墓所:久岳山貞昌寺 ブログ記事→周南市小松原 貞昌寺~宍戸家墓所 



右田毛利家(一門家老家)1万6000石

毛利元就の七男毛利元政を祖とし、周防国三丘を所領としたが、一門家老で宍戸家と領地を交換し、周防国右田(現:防府市)に移封。居館を右田に構えた事から右田毛利家と呼ばれる。一門家老中、宍戸家に次ぐ家格。

毛利 親信
もうり ちかのぶ
(1849-1885)
右田毛利家

銀行頭取となった右田毛利家当主
嘉永2年、長州藩士村上惟庸の長男として生まれる。父惟庸は右田毛利家10代毛利房顕の次男で、能島村上家の養子。叔父である右田毛利11代毛利元亮の養子となり、藩主毛利敬親より偏諱を受けて親信と名乗った。慶応3年、藩兵を率いて入京し御所を警備し、戊辰戦争にも参加した。明治3年、藩費でフランスに留学。明治7年に帰国し、明治11年、第百十国立銀行の頭取となる。明治18年、肺結核により死去。


変名:村上常太郎、毛利内匠、毛利藤内
主な役職:右田毛利家12代当主、長州藩家老、第百十国立銀行頭取
墓所:防府市下右田 右田毛利家墓所


毛利 元亮
もうり もとすけ
(1818-1887)
右田毛利家

軍港三田尻の防衛を担当した右田毛利家当主。
文政元年、吉敷毛利家12代当主毛利房謙の次男として生まれる。天保6年、右田毛利家10代毛利房顕の養子となり家督を継ぐ。弘化元年、郷校学文堂を開設し砲術家大田稲香等を教授として招いた。第一次長州征伐では、家臣で構成された大隊を率いて三田尻の防衛を担当。内訌戦後の革新派政権では、国政方引請と国用方引請を兼務した。第二次長州征伐でも、引き続き家臣の大隊で三田尻を防衛している。明治20年、死去。


変名:村上常太郎、毛利内匠、毛利藤内
主な役職:右田毛利家11代当主、長州藩家老、国政方引請、国用方引請
墓所:防府市下右田 右田毛利家墓所

右田毛利家墓所:万年山天徳寺 ブログ記事→防府市 天徳寺~右田毛利家墓所



厚狭毛利家(一門家老家)8000石

毛利元就の五男毛利元秋を祖とし、長門国厚狭を所領とする毛利家支流。厚狭郡(現:山陽小野田市)に居館を構えたことにより厚狭毛利家と呼ばれる。



毛利 元美
もうり もとよし
(1825-1885)
厚狭毛利家

俗論党政権時に加判役となった厚狭毛利家当主
文政8年、厚狭毛利家9代当主毛利房晁の子として生まれる。文政9年、父の隠居により叔父の毛利房謙、国司房長の後見を受けて家督を相続。文久3年、赤間関海防総奉行に就任するが、外国船の砲撃をためらい解任された。元治元年、椋梨藤太ら幕府恭順派政権では、加判役に就任。高杉晋作のクーテターにより革新派の政権誕生すると、職を追われ謹慎した。明治18年、死去。


変名:毛利元教
主な役職:厚狭毛利家10代当主、長州藩家老
剣術:ー
墓所:山陽小野田市郡西下津一 洞玄寺

毛利 勅子
もうり ときこ
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厚狭毛利家墓所:宝珠山洞玄寺 ブログ記事→山陽小野田市 厚狭毛利家墓所



吉敷毛利家(一門家老家)1万石

毛利元就の九男小早川秀包を祖とし、久留米城主となっていた秀包が関ヶ原後に改易され、毛利輝元より長門国阿川・滝部・殿居を与えられた。後に周防国吉敷郡(現:山口市吉敷)に領地替えとなり、吉敷毛利家と呼ばれた。

毛利 親直
もうり ちかなお
(1852-1877)
吉敷毛利家

当主の座を捨てて農籍となった吉敷毛利家当主
嘉永5年、阿川毛利家12代当主毛利房嘉の子毛利広悌(上野)の四男として生まれる。文久3年、吉敷毛利家13代当主毛利元一の養子となる。慶応2年の幕長戦争では、遊撃隊総督として芸州戦争に参戦した。慶応3年、藩命により福原芳山、河瀬安四郎らと供に英国に留学。明治3年、義父毛利元一の隠居により家督を相続して、明治に留学を終えて帰国した。明治7年、病身を理由に家督を返上し、上野五郎と改名して吉敷毛利家から離籍。吉敷毛利家は、元一が再び当主となった。明治10年、西南戦争に従軍し戦死した。


変名:毛利藤四郎、毛利幾之進、土肥又一、上野五郎
主な役職:吉敷毛利家14代当主、長州藩家老
剣術:ー
墓所:山口市吉敷佐畑天神山 吉敷招魂場


毛利 元一
もうり もとかず
(1816-1889)
吉敷毛利家

家臣の教育を奨励した吉敷毛利家当主
文化13年、吉敷毛利家12代当主毛利房謙の長男として生まれる。嘉永元年に家督相続し、留守居役、城代等の要職を歴任する。吉敷の郷校憲章館で家臣子弟の教育を推奨し、優秀な者を遊学させるなどした他、他校との交流も盛んにおこなった。明治元年、長州藩の副執政となり、翌年には大参事に任命された。明治3年に隠居して家督を養子の毛利親直に譲る。明治7年、親直が吉敷毛利家から離籍したため、再度家督を相続。明治9年に長州藩士山本信一の子重輔を養子として迎える。明治17年、再度隠居。明治22年、死去。


変名:毛利元潔、毛利元寧、毛利出雲、毛利伊予
主な役職:吉敷毛利家13代当主、長州藩家老、長州藩大参事
剣術:ー
墓所:山口市吉敷佐畑 玄済寺

吉敷毛利家墓所:黄龍山玄済寺 ブログ記事→山口市吉敷 吉敷招魂場



阿川毛利家(一門家老家)7000石

吉川元春の次男毛利元氏を祖とし、周防国玖珂郡椙杜から長門国豊浦郡阿川(現:下関市豊北町)に領地替え後に、阿川毛利家と呼ばれた。

毛利 親彦
もうり ちかひこ
(1830-1873)
阿川毛利家

孝明天皇即位式の祝賀使を務めた阿川毛利家当主
文政13年、阿川毛利家13代当主毛利熙徳の三男として生まれる。天保9年に家督を相続し、加判役として藩政に参加。弘化4年、孝明天皇の即位式の祝賀使を務める。文久3年、家督を嫡男の毛利親経に譲って隠居。元治元年、藩内の保守派が政権を取ると加判役に復帰し、幕府に対して徹底恭順の方針を取ったが、翌年に改革派への政権交代で更迭される。慶応3年、毛利親経が病で先が無かった為に再び当主となる。明治6年、死去。


変名:毛利山三郎、毛利親倫、毛利倫周、毛利主計、毛利伊勢
主な役職:阿川毛利家14・16代当主、長州藩家老
剣術:ー
墓所:萩市中津江


毛利 親経
もうり ちかつね
(1863-1867)
阿川毛利家

生まれてすぐに当主となるが短い生涯を終えた阿川毛利家当主
文久3年、阿川毛利家14代当主毛利親彦の長男として生まれる。誕生後すぐに父親彦の隠居により家督を継ぎ当主となるが、幼少の為に父が後見となった。慶応3年、病弱であったため当主の座は父親彦が再就。翌年、死去した。


変名:毛利寛
主な役職:阿川毛利家15代当主
剣術:ー
墓所:下関市豊北町大字阿川 阿川毛利氏墓所

阿川毛利家墓所:豊北町阿川 ブログ記事→阿川毛利家墓所



大野毛利家(一門家老家)8000石

吉川広家の次男毛利就頼を祖とし、周防熊毛郡(現在の山口県熊毛郡)を所領して、熊毛郡大野に居館を構えた事により大野毛利家と呼ばれた。元々石見を領した吉見氏に就頼が養子として入った家系から、家紋は「一文字三つ星」ではなく吉見氏の「丸に二つ引(引両紋)」である。

毛利 熈頼
もうり ひろより
(1803-1871)
大野毛利家

第一次長州征伐の停戦交渉を行った大野毛利家当主
享和3年、大野毛利家7代当主毛利親頼の長男として生まれる。文政7年、父親頼の添役として11代将軍徳川家斉と世子家慶に拝謁する。天保6年、父の死去により家督を相続。天保10年には、13代藩主毛利慶親の江戸城登城の伴として12代将軍家慶と世子家定に拝謁する。安政2年、相州浦賀警護総奉行に就任。元治元年、禁門の変後の処理で広島に赴き停戦交渉を行い、責任者として国司親相、益田親施、福原元の3人を切腹させ、その首級を征討総督徳川慶勝の元に持参する。明治4年、死去。


変名:毛利熊太郎、毛利隠岐、鶴翁
主な役職:大野毛利家8代当主、相州浦賀警護総奉行、長州藩家老
剣術:ー
墓所:山口県熊毛郡平生町沼 大野毛利家墓所


毛利 親詮
もうり ちかあき
(1833-1893)
大野毛利家

内乱の鎮静を藩主に建言した大野毛利家当主
天保4年、大野毛利家8代当主毛利熈頼の子として生まれる。文久2年、兵庫警衛総奉行に就任。長州内訌戦では、大谷口総奉行として防衛を務め、藩主毛利敬親に藩内の抗争の停止を建言する。改革派による新政権が成立すると城代に就任。慶応2年、幕長戦争では、周防平生の防衛にあたった。明治26年、死去。


変名:毛利少輔五郎、毛利伊賀、毛利織部、毛利将監
主な役職:大野毛利家9代当主、長州藩家老、兵庫警衛総奉行
剣術:ー
墓所:山口県熊毛郡平生町沼 大野毛利家墓所

大野毛利家墓所:海前寺跡


益田家(永代家老家 準一門)1万2000石

大内氏の傘下として石見国益田に広大な領地を有した益田家は、大内氏の衰退後は毛利元就に従う。関ヶ原後の毛利家減封で代々の所領であった益田を離れ須佐に移る。以後は永代家老として長州藩を支えた。

益田 精祥
ますだ あきよし
(1862-1917)
益田家

父の罪状により益田家を名乗れなかった益田親施の子
文久2年、益田家33代当主益田親施の子として生まれる。元治元年、父親施が禁門の変の責任を取って切腹。まだ幼児であったため、吉敷毛利家12代当主毛利房謙の九男で寄組桂家を継いでいた桂親澄が益田親祥として当主代理を務めるが、結局翌年に益田家を継ぐ事になった。その際、罪のある益田氏を名乗ることが憚られたために益田家の先祖が使っていた御神本家を名乗った。明治元年、苗字を御神本家から益田家に戻す。明治6年、益田親祥に家督を譲ってその養子となる。明治12年、再び家督を相続。明治22年、山口県社野田神社祠官となり、同年豊栄神社の御用係となる。明治33年、父親施の功績が認められ、男爵に叙され華族となる。大正6年、死去。


変名:益田精次郎、御神本精祥
主な役職:益田家34・36代当主、野田神社祠官
剣術:ー
墓所:萩市須佐町笠松山麓 益田家墓所


益田 親施
ますだ ちかのぶ
(1833-1864)
益田家

禁門の変の責任をとり切腹した三家老の一人
天保4年、長州藩永代家老益田元宣の三男として生まれる。嘉永6年、浦賀総奉行に就任。安政5年の通商条約問題では、朝廷の意思に従って攘夷を決行すべきと幕府に提言し、「朝廷に対しては忠節、幕府に対しては信義、祖先には孝道」という藩の三大原則を唱えた。尊皇攘夷の藩是決定に尽力。文久3年に上洛して孝明天皇に謁見。しかし八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、七卿と共に長州に帰国する。その後、進発軍の総大将として京都に上り天王山に布陣。禁門の変で敗れる殿軍を指揮した。長州に帰国すると保守派が藩政を掌握。第一次長州征伐が開始され、禁門の変に参加した三家老が罪に問われ、徳山藩に身柄を預けられた後、惣持院にて切腹した。


変名:益田幾三郎、益田越中、益田弾正、益田兼施、益田右衛門介、益田霜台
主な役職:益田家33代当主、長州藩家老
剣術:ー
墓所:萩市須佐町笠松山麓 益田家墓所、長門市深川湯本 大寧寺

益田家墓所:須佐笠松山 ブログ記事→須佐益田家墓所



福原家(永代家老家 準一門)1万1000石

南北朝時代より重臣として毛利家を支える。13代当主福原広俊は、関ヶ原後の毛利家減封で混乱した家中の諸問題解決に奔走し、その功績により以後福原家は準一門として永代家老を務めた。

福原
ふくはら もとたけ
(1815-1864)
福原家

禁門の変の責任をとり切腹した三家老の一人
文化12年、徳山藩主毛利広鎮の六男として生まれる。寄組士佐世親長の養子となり佐世家を継ぐ。嘉永4年、優秀で温厚、皆に慕われていた事を評価され家老となるが、本来佐世家は家老の家柄ではなかった為、安政5年に藩命で永代家老福原家の家督を継承。尊攘派の国家老として藩主毛利敬親を補佐した。文久3年、八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、京都に進発して武力による勢力回復を目指そうとする激派と、情勢を見極めようという慎重派に意見が別れたが、池田屋事件が勃発して京都進発は避けられなくなり、先鋒として400余名を率いて伏見に布陣する。後続隊の到着後に軍議を行い、京都に進軍することが決定。福原隊は伏見街道を北上し大垣藩兵と戦闘するが、撃退されて退却し顔に弾丸を受け負傷する。長州藩兵と共に国元に引き返すが、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握。幕府に恭順して藩の保全を図る方針となる。幕府征討軍の要求により国司親相・益田兼施と共に禁門の変に参加した三家老として自陣を命じられた。


変名:福原越後、福原徴之助、佐世主殿、福原翠崖
主な役職:福原家25代当主、長州藩家老
剣術:ー
墓所:宇部市小串 宗隣寺


福原 良通
ふくはら よしみち
(1847-1882)
福原家

日本人初の法廷弁護士となった福原家当主
弘化4年、寄組士粟屋親睦の次男として生まれる。文久3年永代家老福原元に子が無かったため養子となる。翌年、養父元が禁門の変の責任で自害。福原氏を名乗ることが憚られ、福原家発祥の地である鈴尾を名乗って鈴尾五郎と称した。慶応元年、干城隊の総督に任命される。慶応3年、藩命により英国のリンカーン法曹院へ留学して法律を学ぶ。明治元年に福原家の名誉が回復して福原姓に戻す。日本人として初めて法廷弁護士の資格を得て、明治7年に帰国。明治9年に司法小丞として出仕した。明治11年には大坂裁判所判事、明治14年には大審院詰となったが、翌年に病で急死した。


変名:粟屋駒之進、福原駒之進、鈴尾五郎、鈴尾親徳
主な役職:福原家26代当主、干城隊総督、司法小丞、大坂裁判所判事
剣術:ー
墓所:宇部市小串 宗隣寺

福原家墓所:松江山宗隣寺





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